第十話 司馬昭、魏帝の説得を承けて晋王に陞進し 王元姫、安楽公を招き祝宴を設ける
夜が明けた頃、洛陽城に一隊を率いた人物が戻ってきた。晋公・司馬昭である。疲れたように馬上で大きな欠伸をしながら、手綱を持ちながら背伸びをする。
「昭兄、少し無理をし過ぎですね」
「そんなこたねーよ倫。俺はいつでも適当だ、ぜ?」
いつものように淡淡と戯けて白い歯を見せて笑顔を向けた相手は、昭の末弟の司馬倫、字を子彝といった。
「そうですか? 私にはお顔の色が優れているようには見えませんが」
「気遣い嬉しいぜ。炎と同い年の弟に言われると、何かてれちまうな」
下馬し部下に馬を預け、昭と倫が宮城の正門を通る。並びながら、ゆっくりと階を踏む。
「昭兄。若輩の私から見ても天下の帰趨は明らかです。魏文(曹丕)を倣うべきではありませんか」
倫の言葉に昭は足を止め、左手で後頭部を掻きながら、右手で倫の頭をくしゃくしゃにした。嫌そうに目を細め、昭を見る倫。
「倫。お前も父上の子なら、ようく解っているだろ。自分の器を量れない者の末路がどういうものなのか」
「しかし昭兄。あなたは十二分に……」
倫が凄むと、昭は飄然とした様子で首を横に振り、くしゃくしゃにした倫の髪をそのまま手櫛で梳く。
「倫。お前もちゃんと自分の器、量るんだ。例え司馬一族であっても、甘くはないぜ」
「私は師兄、昭兄には敵いませんよ。……でも、炎殿が乗る輦の車輪程度には……と」
「そうか。ならば倫はもっと勉強しろよ。めんどくせぇのにも限度ってのがある。書物を読みたくない-!じゃ、ダメすぎるぜ」
「厳しいなぁ。文字は超苦手ですって」
「頑張れ」
仲睦まじい歳の離れた兄弟だった。
宮殿・中庭
「陛下、晋公が汝南より帰着なされました」
宦官が報せてくると、中庭の池で魚の餌やりをしていた曹奐が目配せをする。
昭がゆっくりと敷石を踏む音を立てながら、曹奐の許に歩み寄る。両手を合わせ、拝礼をした。
「晋公か。ご苦労であったな」
「陛下にはご機嫌麗しゅう……」
「辞令はよいぞ晋公」
曹奐はただ、魚に餌を与え続けている。
「諸葛靚の翻意はままならなかったかな」
曹奐の呟きに、昭は“めんどくさそう”に長いため息を漏らす。曹奐はふっと笑みを浮かべてすくと立ち上がり、残っていた餌を大きく振りまいた。水面を大きくばたつかせながら、投げられた餌を取り合う巨体の魚たち。
「して、決意はついたのか」
「決意とは?」
「魏の社稷をそなたが受け継ぐことだよ。それ以外に、朕に用など無いだろう」
曹奐がさらりと言う。
「はぁ――――面倒ですね。ですから陛下、私にはその気は無いんですって」
「そなたにはなくても、賈公閭や荀公曾、裴季彦らがうるさくてね。朕も、いい加減にやる気がなくって来たわ。ははは、元々ないやる気が、これ以上にないくらいにね」
自嘲する皇帝に、昭は呆れ気味に溜息をつく。
「陛下は、孫呉を伐つまでは魏の命脈を保ちたいとは思わないのですか?」
「晋公はどう思う」
曹奐が振り向いた。冕冠の糸縄越しに、諦念とも、達観ともとれる眼差しで昭を真っ直ぐ見る。
「先帝彦士殿を弑逆し、器を超えた望みを抱き、混沌を齎そうとした魏の臣を粛清していったそなたは、諸人から簒位の心ありと陰口を言われ、絶え間なき労苦を甘んじ続けている。いっそうのこと、魏の社稷を捨て、そなたの手で三国の統一を為してみたらどうか。……いや、むしろそれがそなたに課せられた使命ではないのかい?」
「陛下は……全く、変わったお方だ。自分から皇位を捨てようと必死におなりとは」
「事実……までを言ったまでだ。他意は無いよ。朕は早く無官に戻って、どこか静かな田舎で野菜作りでもして暮らしたいよ」
「まだ弱冠ですってのに、隠棲を望まれますか」
「ああ。私は宮中の美食は性に合わないのだよ。父燕王の手料理の方が食が進むようだ」
「曹宇殿が手料理ですか」
昭が驚いて声を上げると、曹奐は謐謐と笑う。
「晋公のことも招けば良かったな。美味かったものだ」
曹宇はだいぶ前に他界している。高貴郷公が討たれ、急遽鄴から連れてこられるまで、曹奐と司馬昭は面識すらなかったのだ。
しばらく池を泳ぐ魚たちを眺めていた。傀儡の皇帝と権臣司馬昭。和気藹々と君臣の好誼を交わす間柄ではない。話すことはすぐに尽きる。
「晋公。あまりここにいると、臣らが訝しむぞ」
「はぁ――――――――そうですねぇ。めんどくせ……じゃないか、厄介ですね」
司馬昭に傾倒している魏の多くの臣下が、魏帝と接し親しくする昭の姿を快く思わないだろう。それを良く解っているのは、曹奐自身であったのだ。
「晋公。蜀を伐ち、羅憲・霍弋・爨能らが下り益梁は鎮撫された。朕の願い、すべからく聞き届けよ」
「陛下。禅譲のことはご容赦を」
昭が拝跪して曹奐の勧奨を断る。
「晋公……武皇帝を倣うか。朕に恥をかかすか」
曹奐の声が不機嫌となる。昭は首を振りながら言う。
「陛下のご聖慮、四海に響くものです。ですが今は……いえ。この司馬昭、その任に能いませぬゆえ……」
何をそんなに禅譲を拒むのか、曹奐には理解が出来なかった。失望のため息もそこそこに、曹奐は思慮を巡らせた。
傀儡の皇帝を憐愍して禅譲を受けないと言うことではないだろう。曹奐は理解していた。司馬昭がそうであってもいずれ、司馬一族の誰かが、玉璽を奪うだろう。だったら、いっそうのこと、この男に渡した方がマシである。しかし、司馬昭は曹操を真似ているように思えた。息子の司馬炎か司馬攸か、或いは彼の実弟・司馬幹か。曹奐はいずれくるその時を焦らされるのが歯痒くさえ思っていた。
「……わかった。だが晋公、民心を想い王位を受けなさい。それくらいは、いいだろう」
「晋王……ですか」
さも嫌そうな口調で反芻する昭。
「そなたも魏臣であるというのなら、ひとつくらいは朕の顔を立てよ。する事と言ったら、これくらいしかないのだから」
そう言って自嘲する曹奐に、昭は重ねて固辞する理由が思い浮かばなかった。
「わかりました。そこまで陛下が仰せなら……」
「おおそうか。承けてくれるか。さすがは司馬子上だ。これで朕の面目も立つ」
嬉々として声を躍らす曹奐を、昭は目を細めて見た。
「ご自分で国を追い込みながら、そのように楽しげだなんて、本当に変わったお方だ」
すると曹奐は笑って答えた。
「漢朝四百年の社稷に比べれば、曹奐の罪は微々たるものよ。ゆえにな晋公、早く祖宗の墓守を朕にさせてくれ。曹奐の願いはそれだけだからな」
「…………」
そして曹奐は司馬昭と午餐をともにした。曹奐が言ったように、形だけの皇帝とはいえ、皇帝料理は確かに臣民の饗とは段違いであった。そして、それを眉を顰めながら苦笑を浮かべながら食す皇帝の姿を、昭はじっと見つめていた。
「お戻りなさいませ、ご主君」
家令が退出してきた昭を出迎える。
「おう。ご苦労さん。……元姫はいるかい?」
「はい。ご主君のご帰還を首を長くしてお待ちに」
「あははははっ」
家令の言葉を冗談とばかりに一笑に付した昭が、懐から木札を取り出し家令に預けながら、部屋へと向かった。
「よう、帰ったぜ、元姫」
部屋の扉をくぐると、いつものように机に向かい、庶務をこなしていた元姫がゆっくりと振り返る。
昭の姿に、安堵の色を浮かべて微笑んだ。
「お帰りなさい、子上殿」
「おう。……なんか、久しぶり――――って感じだな」
「本当ね。……でも、仕方がないから。子上殿はなくてはならない人。そのくらいは、分かっているつもり」
言いながら、元姫は席を立ち、腕を回して昭の肩から外套を外す。
そして、その隙を突いて、昭が腕を伸ばし、元姫の背中を抱きしめた。外套を握りしめたまま、元姫の動きが止まる。
「…………」
「あれ、今日はやめろ! って言わないんだ」
不意の抱擁をいつも咎め立てる元姫が、今日に限って素直に昭の抱擁を受け入れている。拍子抜けされた昭が思わず尋ねた。
抵抗する素振りもなく、なすがままに昭のたくましい腕に包まれている元姫の表情は寂しそうな微笑みを湛えている。
「言わないわ。だって……私は子上殿の――――」
気丈な活眼の美姫が、うっすらと頬を染めているのを、昭は見る。金色の前髪で表情を隠そうとしているが、色白の美しい顔を隠しおおせるはずがない。
昭がぐいと顔を近づけると、元姫も反応して顔を上げる。そして、求め合うように唇を重ねた。
刹那も永い時のように思える。鼓動が高鳴るかと思いきや、安堵感からなのか、平常の心拍。
「…………」
「…………」
そっと離れる二人。元姫がこつんと額を昭の胸板に当てる。
「しおらしいな、元姫」
「……疲れているだけ。私が何もしてこなかったら、こんなことする暇なんてないの」
ため息混じりでも、きちんと皮肉は忘れない。昭は苦笑した。
「元姫」
「……なに? 愚痴はやめてよね」
「ちげーって! あのな。俺……晋王になるわ」
その言葉に、元姫は思わず身を乗り上げて瞠目した。
「晋王……子上殿、それは本当なの?」
「ああ。陛下が何度も言うからな。めんどくせえけど、承けることにしたぜ」
昭が経緯を語ると、元姫は疲れた表情を忘れたかのように笑顔になって昭を見つめた。
「まためんど……いいえ、それでもいい。子上殿が……やっとその気に――――」
元姫の特段嬉々とした様子を、昭はかえって訝しんでしまう。
「なんだよー。久しぶりに会ったときよりも嬉しいのか、そんな話が」
不満そうな声に、元姫はさらりと返す。
「当たり前でしょ。それがお父上、そして子元殿があなたに託した責任……なのよ。それがようやく……」
元姫が感慨深げにそう言うと、昭は懈そうにため息をつく。
「まーた、それか。あぁ、やっぱめんどくせぇ。そんなに父上や兄上を引き合いに出されてもなぁ……」
「子上殿は――――もっとあるべき地位に……もっと責任のある立場にいてもおかしくない。その実力があるのよ。……やっと、その気になってくれたのよね?」
「ってか、二人っきりの時くらいは、そんな話して欲しくないんだ――――けど…ね」
諦めたかのように、昭は身を離し、背伸びをしながら欠伸をする。
「ごめん……なさい子上殿――――でも、それだけは分かって。あなたは……」
「はいはい。おまえの言いたいことはわーってるって。だから、承けたんだよ」
昭が背中を元姫に向けたままそう言って微笑んだ。
「子上殿……」
やはり、それを聞くと嬉しくなる。
「ふわあぁぁ」
しかし何とも説得力のない欠伸だ。
「ここずっと、何度も欠伸が出るんだぜ? やる気ないわけじゃないからな。勘違いすんなよ、元姫」
一応念を押す昭。くすくすと笑いながら、元姫が言った。
「分かってる、それくらい。子上殿は疲れているから、眠いのね。……無理はしないでいいから、少し寝てきたら? 多分、あまり寝てないでしょう」
「ああ。全くそのとぉり! 諸葛靚のヤロウの強情ぷっりにはやきもきしっ放しだぜ。あーもーめんどくせぇ」
乾いた笑いをしながら投げやりに答える昭。
「ふふっ。分かったから。明日はゆっくり子上殿の話を聞いてあげるから、今日はもう休んで、ね?」
「うーん……でもよぉ。久しぶりに元姫に会ったってのに、もう寝ちまうのもなぁ」
愛しい伴侶を片腕に抱き寄せながら、水入らずで過ごしたい気が、昭の足を重くさせた。
そんな昭の気持ちを、元姫は戸惑いながらもやはりとても嬉しく感じていた。
「私はずっとここにいるわ。……それに、晋王になるのなら、しばらく子上殿も都にいるでしょう?」
「まぁ……な。そういうことになるんかね」
「……そうだ、いいことを思いついたわ、子上殿」
突然、嬉々として手を叩き、声を上げる元姫に驚く昭。
「お、おう。何だよ藪から棒に」
「子上殿はゆっくり睡眠を取って、明日の宵に劉公嗣殿を呼ばれて宴を開くのはどうかしら」
「劉公嗣を?」
「あなたの晋王陞進を祝うための宴よ。公嗣殿もきっと喜ばれるはず」
元姫の口から劉禅の名前が出たことを意外と感じながらも、昭は言った。
「そう言えば、あのとき以来、劉公嗣ともしばらく会ってないなぁ。……そうだな。元姫、それいい案だわ。劉公嗣を呼ぼうぜ」
屈託のない笑顔で、昭は承諾した。
「……ほんじゃ、まァ湯浴みしてから寝るわ。お前もそこそこにしておけよー。じゃーなー」
欠伸をしながら昭は部屋を出て行く。上辺の雰囲気から緊張感を覚えない昭の姿にいつものように苦笑をする元姫。姿が見えなくなり、静けさが戻ると、真顔になり、再びそこはかとない寂しさの色を滲ませた。
(公嗣殿……子上殿のお力になってくれるのは――――)
元姫は司馬昭名で劉禅亭に家令を使わした。晋王陞進の祝宴を司馬邸で行う旨を記した。
「喜んで、伺候させていただきます」
劉禅は快諾した。家令が去った後、星彩が呟く。
「司馬昭殿が、晋王に……」
「……星彩も、参ろうか」
「はい。どこまでも、劉禅様のお側に……」
「うむ!」
劉禅が瞳の奥に燻る光を隠すように瞼を下ろし、微笑みながら大きくうなずいた。