第十一話 永安より旧臣能く洛陽に到来し 劉禅と遇い亡国の怨嗟を告ぐ
――――洛陽西門
長い布ですっぽりと頭を覆い、身体も爪先まで厚い衣にすっぽりと覆いし、さながら長い旅路を経てきた西域・月人の装い。
容貌が見えぬ出で立ちに、門兵は訝しみ制止する。
「何者ぞ」
するとその全身覆面は徐に懐に手を差し入れ、ごそごそと竹簡を取り出し、無造作に門兵に突きつけた。
門兵は怪訝そうに何度もその覆面と竹簡に視線を交錯させ、そこに記されている文字を追う。
「永安白帝城の羅将軍の使者か」
門兵の警戒が緩むのと同時に、覆面はさっさと竹簡を寄越せとばかりにぐいと手を突き出す。
「失礼致しました。どうぞ」
竹簡を丁重に差し出すと、覆面は横から掠うように奪い、つんけんとした様相でさっさと街の中へと入って行ってしまった。
「白帝城?」
もう一人の門兵が訊ねると、竹簡を確認した門兵が言う。
「元・蜀の将軍で巴東太守の羅憲殿のことだよ」
「ああ! 思い出したわ」
「何だろうな。東呉でも攻めてきたのかなぁ」
「どうなろうが、俺たちはここを守るのがお役目さ」
「まァ、だな」
全身覆面はつかつかと今にも空に飛び立たんとばかりに歩調を弾ませながら、貴族街への方へと行く。すれ違う往来は皆、その異様な出で立ちに振り返らないものはいなかった。しかし、その歩調が嬉々としたものではなく、鬼気としたものであるように感じた。
覆面は周囲に目もくれずまるで当初から目的地がそこにあったかのように歩を進め、ぴたりと足を揃えて屹立したかと思うと、踵をひねり、向きを変えた。そこは、安楽公・劉禅亭であった。
覆面は眼光鋭く安楽公亭を見回すと、外套を翻し戛然と入り口へと向かった。
「お待ちを」
使令がその不審人物を呼び止める。すると、覆面はぴたりと足を止め、その使令をまじまじと見た。
そして、徐に目元に指を引っかけ、顔を覆う布をゆっくりと下げた。容貌が露わになった。
その瞬間、使令は驚いた表情を向けた。
「李三、あんたも生きていたみたいだね」
若い少女の声。
そしてそれは、嬉しさと、そうでもないと言った感情が交錯した口調。
「ほ……ほうさ――――!」
言いかけて、少女の掌が李三と呼ばれた司令の口を覆う。
「いるんでしょ?」
「は、はい! あぁ、ご主君も星彩殿もきっとお喜びに……」
感涙にむせぶ李三の言葉に、少女は冷たく突き放すような声で返した。
「……ノーテンキにね」
「は?」
思いがけない言葉に驚いて瞠る李三の目の前からは既に少女の姿は無かった。
魏に封ぜられた安楽県公としての職務は一応ある。
皇帝として成都にあった頃。宮廷の絢爛豪華な生活と、多くの廷臣・宦官女官らに囲まれていた至上の日々とは全く違う。それは、全てを統べ、国の行く先を直に決断する皇帝の地位からすれば、言葉では表現出来ないほど想像を絶する雑務なのだが、劉禅は小さな文机に向かい、楽しそうに公務をこなす。
星彩も、傍らにいて書物に目を通している。
「今日は早めに済ませて参ろう」
「はい、劉禅様」
まったりとした微笑みを交わす二人の耳に、戛戛とけたたましく廊下の石畳を打つ沓音。
「何事でしょうか」
咄嗟に星彩が扉を睨みながら膝を立て、得手の柄を握る。劉禅は気になりながらも、黙黙と職務をこなしている。
劉禅が筆を止めた、その時だった。
バタン――――!
大きな音を立てて扉が開いたと同時に、星彩の得手が空を一閃、弧を描く。そして、扉からは銀の線が大蛇の喚きのような音を上げながら劉禅めがけて迸る。星彩の一閃がなければ、それは劉禅に突き刺さっていただろう。
ガキンという甲高い金属音とともに、銀の線は扉の向こうに収束する。
「チッ」
明らかなる人の舌打ちが部屋に響き、劉禅と星彩を愕然とさせた。
「何者……!」
身構えた星彩が、怒気を露わにして叫ぶ。劉禅もようやく筆を置き、顔を上げた。
「…………?」
劉禅は扉の向こうの人影に向かって微笑みを向ける。動じている気配はなかった。
「へぇー、最低のヘタレヤローになったって思ってたけど、ニブってないんだー。意外ー」
嫌みたらたらの明朗な少女の口調。
「その声……あなた――――」
瞬間、星彩が反応した。驚きと、喜びの比率が高い表情。
目だけを露わにした全身覆面の人物。手には旋刃盤と呼ばれる鎖の糸が巻かれた武器。それを携えしは二人とも見慣れた、蜀漢女傑。星彩と、そして月英と並び賞された女将軍。
「生きていたか、鮑三娘…………よかった――――」
劉禅が心から安堵のため息をつく。裏表のない劉禅の表情を見た覆面の少女は、苛立つように腕を乱暴に振りあげ、旋刃盤を放り、全身を纏う布を毟り取るように剝ぎ取った。生地が裂ける音が、痛々しく響き渡る。
そして、全てを覆う布地を捨てた後に現れた美少女。茶色の髪、豊かな胸元を覆うだけの上着、長い脚を惜しげも無く晒す、短い下裾着。流れるような草色の襟巻きをなびかせ、翠緑の付け睫毛に、多色の組紐で誂えた円盤の髪飾りがとても印象深い。これぞ誰なん、鮑家荘の鮑員外の娘にて、関羽の息子、関索の伴侶・鮑三娘であった。
「…………」
鮑三娘は涙を怺えるように顔を真っ赤にし、唇を戦慄かせて劉禅を睨視していた。その表情から伝わる思いは、幾ばくだろうか。
南中にて関索が死んだ。
あれほど想い、慕っていた無二の伴侶が遠い異境の地から帰らなかった。
(いつか、関索と二人きりでサ、象に乗って南の地を旅したいなー)
無邪気にはしゃぎ、関索に向き、関索と共に培ってきた純情な愛に何よりの幸福を感じてきた鮑三娘の想いは、とうに儚くした。
それでも、彼女は泣かなかった。葭萌関にあって関索の想いを受け継ぎ、姜維・星彩らとともに蜀漢が目指した仁の世の実現だけに奔走してきた。戦場にあって、関索のそばにいた。旋刃盤を揮い敵を一束に薙ぎ払えば、関索が微笑んでくれていた。
だが、その蜀漢も斜陽の時を迎えた。
漢中を失し、夏侯覇が討ち死にした蜀軍は支柱を失った建造物のようにがらがらと倒壊していった。
葭萌関にも司馬昭の参謀・鍾会が迫り、彼女も得手を揮って戦った。
しかし、時の流れか多勢に無勢か。魏軍の矢弾が雨嵐となって葭萌関に降り注ぎ、蜀軍は壊滅。鮑三娘も瀕死の重傷を負ってしまった。
葭萌関陥落の日、意識のない鮑三娘は、部下であり義姉妹でもある王桃・王悦姉妹によって夜陰に紛れ、密かに巴東の永安白帝城に逃れた。奇しくもそこは、先帝・昭烈帝劉備が崩殂した地でもある。
城将の羅憲は名将の誉れ高く、蜀漢滅亡の直後に火事場泥棒を図った呉帝孫休の軍を耐えに耐えた。
羅憲は鮑三娘を手厚く迎え、城の奥で治療に専念させた。
鮑三娘を葭萌関から救った王姉妹は、羅憲に従い、持久戦やゲリラ戦を指揮。孫休の軍と戦って討ち死にした。関索に続いて、鮑三娘はまたも親愛なる身内同然の友を失ったのだ。
「あんたが……、あんたがもっと……、もっと、しっかりしていれば!!」
旧主・蜀の元皇帝に向かって、鮑三娘は叫んだ。
それでも、鮑三娘は泣かなかった。人目を憚っても、一人の時でも、彼女は泣かなかった。大怪我で動けない身をもどかしく思いながら、堪えた。
(あはは……関索と同じだ、アタシ。やっぱ、運命ってカンジ)
境遇を関索と重ねた。それが何よりも心の支えだったからだ。
蜀臣として、劉禅を恨むまいと思った。暗愚の汚名に隠れて本気を出さない主君は、きっと何か思いがあってのことなのだろうと、そう信じてきた。信じなければ、やっていられないと思ったからだ。
だから、司馬昭の知遇を得ていると知った時、鮑三娘は怒った。皆の死は一体何だったのか。誰もが、劉禅のために戦い、散ったはずでは無かったのかと。
劉禅を憎しみの目で睨む。だが、瞋恚の中に、やはり旧主への敬慕が残照としてあった。
関索が関羽、そして関平の遺志を受け継いで仕えてきた、紛いなりにも劉家の当主である。
「私は、そなたに討たれるべき罪を背負っている」
鮑三娘の目を真っ直ぐに見つめて、劉禅が言った。
「劉禅様――――!」
星彩の声を制止し、劉禅が続ける。
「蜀将の怨念は、そなたの許に集ったのか」
「は?」
劉禅の言葉に、眉を顰める鮑三娘。
「私を討つというのならば、それで良い。いつでも、首を刎ねよ」
「なにソレ。アタシを脅してるつもり? はっきり言っちゃうけど、アタシ、そんなんでビビんないよ?」
「分かっている。……そなたが、いつでも気を抜かず、全霊で忠義を全うしている事は」
その言葉に、鮑三娘はさらに苛立ちを覚える。
「いい覚悟じゃん。だったら“元”臣下として、主君の望みを叶えてあげるよ!」
旋刃盤を振り上げる鮑三娘。その様子に本気を感じた星彩が得手を構え上げ、思わず叫んだ。
「やめなさい三娘!」
鮑三娘の腕がぴたりと止まる。
「劉禅様は斬らせない」
星彩もまた、本気の眼差しを向ける。
「へぇ……星彩、あんたそいつのこと恨んでないんだ。意外だね」
失笑する鮑三娘。
「可笑しな事を言うわね、あなた。私が何故、劉禅様を恨まなければならない」
「アタシが言っちゃってもいいの、それ」
「私は劉禅様を守り、劉禅様の思いを支えるためにここにいる。成都が陥ちた時、私を救って下さった、劉禅様のために」
「ふーん……アタシはそうじゃ無いと思うけど? まあ別にいいケドさ」
何を思ったのか、鮑三娘は構えていた旋刃盤をゆっくりと下ろした。
「そんな目したあんたと本気でやり合ったら、お互いに命いくつあっても足りないよ」
「矛を収めてくれるのか、鮑三娘」
劉禅が言うと、鮑三娘はきっと劉禅を睨みつけていった。
「フンッ……言い訳くらいは聞いてあげるってカンジ?」
劉禅はにこりと微笑んだ。
「それで結構……」