第十二話 鮑三娘、護蜀の詛縛放ち劉淵に惑い 晋王の宴に北狄の酋領、大いに相伴す

  劉禅が語る成都降伏劇の顚末は、鮑三娘がそれまで身を以て味わってきた辛酸よりも悲しい現実であった。
「ヒドイよ……それって、あんましじゃん――――そんなんで、皆が納と……」
 その時、星彩が鮑三娘の言葉を遮った。
「一番苦しいのは、劉禅様です。あなたはずっと葭萌関にいて劉禅様を知らないから、簡単に責められる――――。蜀を去って行った人たちと同じ……」
「星彩、よすんだ」
 劉禅が毅然と窘めようとする。星彩が辛そうに劉禅を見て、睫を伏せる。
「三娘。私は逃げも隠れもしない。いつでも、そなたに斬られよう。……ゆえに」
「…………」
「少しだけ、私に時間を与えて欲しい。私に試す猶予を与えて欲しい」
「試す……猶予?」
 劉禅と瞳を交わす鮑三娘。怪訝な眼差しの彼女が、その一瞬に、思わず身体を強張らせた。劉禅の瞳の奥深くに燻る光を、鮑三娘も感じ取ったのだ。
(な、なんなのこのカンジ……)
 猫が威嚇のために背中を怒らせる感覚。しかし、鮑三娘の瞳に映る劉禅は、凡庸とした柔弱の表情。それがかえって毒気を抜く。
 その時だった。

「元気なお姉さんの負けだね」

 耳障りなほどの明るい声に鮑三娘はむっとなり、声のある方を振り返る。そして、芒を片手に弄ぶ見慣れぬ少年の姿に一瞬、唖然となった。
「……誰?」
「劉元海殿か、よくおいでになった……」
 劉禅が満面の微笑みで劉淵を向く。
「三娘。匈奴の劉淵殿よ」
「りゅうえん……?」
 星彩の紹介に、鮑三娘は怪訝な眼差しを向けながら首を傾げる。
「いちおう、匈奴の劉豹の息子、劉淵です」
 苦笑を浮かべながら自己紹介をする劉淵。鮑三娘はジト目でこの少年を見る。
「ハァ? いちおーって何よ。アンタ、言葉おかしくない?」
 鮑三娘の突っ込みに劉淵は笑う。
「誰の子だって良いじゃないですか。仮に盗賊や奴婢の子だろうと、私は私です」
 小馬鹿にしたような言葉に、鮑三娘は眉を顰めて劉淵を睨む。
「あたし、アンタのことなんか知らないし」
「私も、元気なお姉さんのことは知りません」
 そう切り返してニィと笑う劉淵に、鮑三娘は鼻腔を広げて怒った。
「べ…ベツに知ってもらわなくてもいいし!」
 その表情や仕草を劉淵は興味津々と見回し、ふと手に持っていた芒をくるくると回してみせる。
「?」
 怪訝そうに眉を顰める鮑三娘、何をしようとしているのか、予感が当たりそうな気配。そして何を思ったのか、徐に劉淵は芒の穂先を鮑三娘の鼻先に宛がった。
「!」
 鮑三娘はバッと穂先を振り払い、白い歯をむき出しにして遂に激昂する。
「な、何すんのよアンタ!」
 すると劉淵は高らかに笑い、頭を掻いて謝した。
「やっぱりそうだ。猫か。猫のようなお姉さんだ!」
「なッ……こ、こいつ――――!」
 劉淵が放つ不思議な“気”に、鮑三娘は呑み込まれたように言葉が出てこなかった。
 その様子を見ていた劉禅は長閑な表情で微笑み、星彩も少しだけ相好を綻ばせた。
「元海殿、そなたもどうか」
 劉禅が問いかける。
「何か、あったんですか?」
「司馬昭殿が晋王に陞進するそうだ。祝筵のお招きがあってな、星彩とともに行こうと思っていたところなんだ」
「へぇ……司馬昭――――様が、晋王にですか」
 薄く笑顔を浮かべながら、劉淵は鼻頭を軽く人差し指で掻いた。
「それがどうかしたの?」
 劉淵のその反応に、思わず星彩が訊ねると、劉淵は淡々として返した。
「んー……ただ、何か今頃? って思っただけです」
「?」
「いえいえ。気にしないで下さい、あははは」
 誤魔化すように、劉淵は笑う。その傍らで、鮑三娘が呟いた。
「変なヤツ」
「それで、どうだろう。そなたも相伴に与らないか」
 劉禅の言葉に、劉淵は嬉しそうに笑って頷いた。
「はい。喜んで」

 祝筵に出るからには星彩は肩当てや胸当を外し、淡い緑色の服や、美しい脚線を強調する黒い脚布はそのままに、凜とした色気を放つ美少女そのもの。劉禅も冕冠は外し、諸侯の冠に蜀緑の官衣。魏臣としての地位を示す。
 鮑三娘は羅憲の名代という肩書きで劉禅に同行することになった。こう見えて、鮑三娘も魏蜀の攻防に駒を並べたことのある女将だ。司馬昭や王元姫も顔と名前くらいは知っているはず。
「飲み過ぎては大変だよ、お姉さん」
 劉淵がそう言って笑うと、鮑三娘はムキになって反論する。
「アンタにいちいち心配されたくないし!」
「別に心配はしてないけどねー」
「こ……この……!」
 劉淵が持つ泰然とした雰囲気に、鮑三娘は否応にも呑み込まれてしまう。永遠の伴侶・関索とは全く違う、対の雰囲気だ。
(こいつ、嫌い……)
 鮑三娘が苦手意識を抱いたのは諸葛亮以来ではなかっただろうか。関索はなかなか鈍感でやきもきさせられることも多かったが、この劉淵というガキは確信犯だ。無視を決め込もう。そう、自分に言い聞かせると、ひとつため息を呑み込んで歩を進めた。

 司馬昭邸には晋王陞進を慶賀するために、魏臣の多くが続々と入って行く。劉禅や星彩は、初めて洛陽に連れられた時に見かけた、見覚えのある文武諸官が司馬昭に阿るために我先にと沓先を競う。
「…………ッ」
 星彩が一瞬、眉を顰めて歩を止めるが、劉禅が星彩の手をそっと握ると、星彩は厳しい表情をすっと潜めた。
(ふ~ん……)
 その様子に、鮑三娘は心の中で投げやりに感嘆する。
 宴席にはずらりと料理や酒肴が並べられて、絢爛豪華な文武百官・女官らが居並び、司馬昭の権勢を誇示していた。
「へぇ、さすがは晋王様ってところかぁ」
 劉淵は感嘆し、諸官を見回す。
「……? どうかしたの、劉淵殿」
 星彩がきょろきょろしていた劉淵の視線が止まったことに気づき、訊ねる。
「拓跋の沙漠(シャマク)に、慕容(もゆう)の渉帰(ショウギ)、それに……へぇ。段石篪(だんしゃくち)までいる」
「……異民族の酋領たちね」
「お姉さん、それ言うなら俺もそうなんだけど」
「あ……そうね。ごめんなさい」
 劉淵がわざと不満そうに言うと、星彩は惻然として謝る。
「あはは。それは冗談だけど、俺から見れば随分お偉方が打ち揃ってるなぁって」
「皮肉?」
 星彩の一言に、劉淵はほくそ笑む。
「皮肉……でしょうか。もし、そうだとすれば……朝廷に対してでしょうね」
「?」
「あははは。何でもありません」
 星彩が珍しく興味を向けたのだが、劉淵ははぐらかした。

 宴席へと向かう劉禅の姿を、諸臣と立ち話をしていた王元姫が一瞥に見つけ、ぱっと晴れやかな笑顔を浮かべて諸臣との会話を打ち切って駆けつける。
「劉公嗣殿! 来てくれたのですね」
 元姫らしい、静かだが喜びに満ちた声色。思わず、手を取ってしまうかのような勢いで、劉公嗣のそばに駆け寄ったのだ。
 元姫の様子を一瞥し、僅かに形のきれいな眉を顰める星彩。一方、劉禅は恭しく拝礼をする。
「司馬昭殿の晴れの日ですから。ご招待いただき、ありがとうございます」
 儀礼に則ったいち諸侯としての挨拶に、元姫は一瞬、寂しげに睫を落とすが、すぐに気を取り直す。
「子上殿も楽しみにしていたみたい。あなたと杯を酌み交わすこと」
「はははは。私など無聊をお慰めすることは出来ませんのに」
 劉禅の言葉に、元姫はそこはかとなく寂しそうに微笑む。
「迷惑……だったかしら」
「はい?」
「考えてみれば、あなたの国を滅ぼしておいて、その張本人が今、魏の最高実力者。もともとやる気のない人が、やっとその気になって、晋王になる……。公嗣殿にとっては、複雑でしょうね――――」
 両手を細い膝に合わせ、やや俯き加減に元姫が言う。気丈で美しい司馬昭の伴侶が、とても小さく見える。
「元姫殿もお人が悪い。どうやら、この私を試しておられるのか」
「ため……そ、そんなことはない!」
 思わず劉禅を睨視し、語気を強める元姫。劉禅は泰然として、柔和な眼差しを返しながら、答える。
「ならば、この劉禅を今少し、信じてみて下さいませんか」
「公嗣……どの?」
「私は司馬昭殿だからこそ、降ることが出来たのです。元姫殿、司馬昭殿の晋王陞進は、心から喜ぶべきことです」
「あ……ありがとう――――うれしい」
 元姫が顔色を隠すように斜に傾げる。
 その二人の様子に、星彩はきゅっと唇を噛んだかと思うと、凛とした声を張り上げた。
「劉禅様、そろそろ御席に」
 きんと響く声に、場にいた諸臣が思わず声の主を振り返る。顰め顔ながらも美しい少女の姿に、どよめく。
(ほう……王元姫殿に勝るとも劣らぬ美姫が)
(安楽公の内室かのう。気の強そうなところとか、王元姫殿によう似とるわ)
 興味本位で、皆星彩に視線を向ける。初見の魏臣たちの眼差しを一斉に受けることに星彩は臆することはなかったが、劉禅がすっと王元姫から離れて、星彩に向いて微笑んだ。
「今、行く」
 そして元姫に向きながら、言った。
「宴の時にでも、また」
「そうね。ありがとう、公嗣殿」
 元姫もすっと身を翻した。
「星彩、どうしたのだ。顔が怖いぞ?」
「知りません!」
 静かに怒気溢れる星彩に、劉禅はただ戸惑う。それでも、星彩は劉禅を指定の席に着座するのを待ち、自らも後に着座した。

 元姫が話の腰を折ってしまった諸臣の一人のところに行こうとしたとき、そこに司馬昭が姿を見せていたことに驚いた。
「し、子上殿!」
「よぉ、元姫」
 いつもの、軽薄そうな返事が返ってくる。
「いつからいたの? そろそろ呼びに行こうと思っていたの」
「え……あァ、まあたった今……かな」
 昭の返事に元姫はため息もそこそこに返す。
「主役はあなたよ。来たのなら早く諸侯に顔を見せないと」
「あぁ。わーってるって。今から出るから、怖い顔すんなって」
「今日は大事な日よ。ふざけないで」
 元姫の言葉の槍につつかれ、昭も惚けをやめた。
「北狄の長が多いな。お前が呼んだのか」
「私にはそんな権威はない」
 すると昭がため息をつく。
「じゃ、賈充か衛瓘あたりが呼んだのかよ。余計なことしやがるな」
「子上殿。夷狄を甘く見ちゃだめよ。南には孫呉。蜀は無くなったとはいえ、北は治外法権。子上殿の威光も、届きにくいわね」
「それは分かってるけどな。伐ってどうなる連中じゃねえし、あんま相手したくないわ」
「だから、今のうちに意向を示せってことなんじゃないかしら」
「御威光ねえ。ハハッ」
「…………」
 自嘲気味に笑う昭に元姫は沈黙する。
「――――そういや、劉公嗣も来ているようだな」
「彼は喜んでくれているわ、子上殿の晋王陞進を」
「そうか。……ま、お前が言ってんなら、間違いはないだろうぜ」
 昭が笑顔でそう答えると、呆れたように元姫がまた言葉を返す。
「私以上に子上殿が一番、公嗣殿を信じているくせに」
「ま、違いないわな」
 欠伸をしながら、同時に笑い声も伸びる。
「またそのあくび! 子上殿、シャキッとしないと、お仕置きよ」
「あわわわ。わかってるって。めんどくせえけどな。そうも言ってられねーしな」
 元姫の表情が和らぐ。
「頑張って、晋王」
「あはは、祝筵にどんだけ気合いを入れるんだかしんねえけど、ま、ちょちょいと……な!」
 昭は人差し指で空に穴を数カ所開けると、白い歯を覗かせて笑い、筵席へと向かった。