第十三話 司馬昭、将来を想いて安楽公に伴侶を委ね 王良夫、賢姉の情誼を悉く危ぶむ

 宴と言っても、格別な趣向があるわけでもない。司馬昭の晋王陞進は、既定路線として群臣誰もが皆、その時期の遅速を図っていたに過ぎなかった。
 盛り上がりもそこそこに、よく開かれる筵席のような空気となり、華やかな演出もない。
 魏臣は権力委譲を意識してか司馬一族に阿る側近らへの接近を図るなど、昭への祝賀などは二の次という様相があからさまである。
 そういう空気を、当の昭も元姫も見通していたので、儀礼的な部分は簡素に済ませた。
 諸侯からの酌を受けながら、時折微笑み合う安楽公劉禅を諸侯の席からじっと睨視する若者がいた。
 河南尹・王恂、字を良夫。王元姫の実弟である。 ※河南尹…首都洛陽を統括する東京都知事のような地位。
 彼は蜀滅亡後に司馬昭亭で催された宴で、劉禅が暗愚をさらけ出し諸侯の失笑を浴びたことを報告された際に、ただ一人怪訝な様相で聞いていた。
(安楽公が暗愚だと……)
 王恂は劉禅を信用仕切れないでいた。
 まがいなりにも劉備や諸葛亮が死して、三十年近くも蜀を維持し続けてこられた皇帝が、満座から嘲笑を浴びる屈辱を受けても堪えるどころか、笑って受け流すなどと、どう考えても正気の沙汰とは思えなかったからである。
 そして、何よりも王恂が苛立ちを隠せなかったのが、実姉の元姫がそんな劉禅に格別とも言える思い入れをしていることにあった。
 司馬昭を始めとする司馬一族に対しては冷静な思考をもって接する元姫の長所が、劉禅には発揮されないように見えたのである。
 王恂は姉の元に銚釐を提げ、膝を寄せる。
「姉上、一献」
「恂。ありがとう。忙しそうね」
 弟に向ける微笑みは、やはり昭に向けるものとは違う、肉親そのものである。
「私の仕事などは詮無い事です。それよりも今後は、社稷を一手に担うべき晋王として、子上殿もますます姉上を必要となさるでしょう」
「何を言うの恂。それは私じゃなく、あなたたち臣が子上殿を支えなければならないこと。私が出しゃばっても、何の意味も無い」
 恂から受けた杯を一口嘗め、冷静に語る元姫。恂は御意とばかりに大きく頷いてみせた。
「さすがは姉上です。この国のあるべき姿をよくご存じのようだ」
 すると元姫は怪訝な表情で、らしいことを改まって言う恂を見る。
「どうしたの恂。何かあった?」
 元姫がじっと恂の顔を見つめている。人の心、人の本質を見抜くことが出来る元姫には、あまり見つめられたくはないと思っている臣僚は少なくないという。類い希な美貌を持つ元姫だったが、対峙はよろしくないと思っているというのならば、ずいぶん情けない話ではある。
 しかし、恂はそういう意味では実弟の強みもあって、互いに器量は知り尽くしているという安心感はあった。
「司馬家が社稷を支えるならば、一族が結束をして皇帝陛下をお守り致すことが肝要です。藩屏を用いるに、崩れた巌は必要ありません」
「……回りくどい言い方ね。はっきり言ったらどうなの?」
 元姫の美しい眉が逆立った。恂は怯まず、続ける。
「では、申し上げます姉上。姉上はここ最近、安楽公を殊の外お気に掛けておられる様子。何故でございましょう」
 すると、元姫は予想にはしていたとは言え、あまりにも短絡的な直球の質問に思わず声を上げて笑ってしまった。
 よほど元姫の笑い声が珍しいことなのか、群臣が一斉に元姫に振り返る。
 その様子に、元姫はこほんと声を出して咳をしたふりをすると、構わずに恂に向かって言った。
「あなたは劉禅殿を買いかぶっているのかしら」
「何と言われます、姉上」
「子上殿が成都に入った時、なぜ亡国の主である劉禅殿を助けたのか、あなたは子上殿の考えが分からないの?」
「蜀の人心慰撫。安楽公を助命しなければ、永安の羅令則、建寧の霍紹先、南夷の爨能らは悉く帰順をなしえなかったと聞き及びます」
「……それだけ?」
「は?」
 元姫は呆れたようにため息をつくと、言った。
「永安、建寧、南蛮……ともすれば日南、九真……どんなに遠く離れた反対勢力も、子上殿が本気を出せば皆、敵じゃない。自分の器量を計れなければ、鍾会殿や鄧艾殿のように自滅するだけ。あなたも知っているでしょう。諸葛誕殿を」
「それは……そうですが。しかし、しかし姉上!」
 元姫は二の句を遮った。
「恂。子上殿が劉禅殿を客分として遇しているのは、情や政の計算があってのことじゃない」
「…………」
 元姫が群臣に囲まれ戸惑い、眉を潜めながらも献杯を受ける星彩と微笑みながら掛け合っている劉禅を、目を細めながら見つめた。

「子上殿は、公嗣殿に……きっと――――」

 聞き取れない程の小声になっていた。恂は劉禅を見つめる姉の様子に、苛立ちを憶える。
「姉上は、子上殿の伴侶なのです。お忘れではございますまい」
「恂――――どうしたの、いったい」
 弟の苛立ちを理解できない元姫。
「どうしたもこうしたもありませんぞ姉上。姉上が安楽公を見る目は、まるで――――」
 それ以上の言葉を、恂は悍しく、また考えたくもなかったのか口に出なかった。
 しかしそこでようやく、元姫は恂が何を言いたかったのか気づいたようで、更に笑った。今度は声を抑えるように、口許を隠し、顰めっ面の弟を見る。
「何が言いたかったのかって思えば、バカなことを考えていたのね、恂。……私が、劉禅殿に――――? 冗談でも止して。私は子上殿を生涯、支えてゆくって誓っているのよ――――そう、子上殿が造る、戦のない世の中を、共に……ね」
 切々と神妙に語る元姫に対し、恂は毒気を抜かれてしまった気がしてそれ以上、言葉が出てこなかった。
 王恂は知っている。元姫がどれほどに司馬昭を思慕しているかということを。
『尻に敷いている』と言う人間もいる。だが、昭を想い慕い、支え合っているからこそ、数々の至難を乗り越えてここまで来た。昭一人では無理だった。勿論、元姫でも無理だ。
 互いの絆、想い、それが“愛”などという陳腐な一文字では表現しきれない程の、互いの存在。疑うべくもないものだった。
 しかし、それが気がかりだ。
 昭は劉禅を自分と似ている。といって助け、金蘭の契りを結んだ。何よりも王恂の杞憂たるのは、元姫が劉禅を司馬昭に重ねてしまう時があるのではないかと言うことだった。
 蜀漢が滅び、劉禅の牙は削がれたが、司馬昭が劉禅と親しくなると言うことは、必然的に元姫とも親密になると言うことである。
 姉ほどの洞察力が無い王恂だったが、何となくそれが嫌な感じがしてならなかったのだ。だから、王恂はどうしても、劉禅のことを好きにはなれそうもないと確信していたのである。

「あぁ、私はどうやら酔ったようだ。少し、風に当たってくることにしよう」
 劉禅がゆっくりと腰を上げると、星彩がさっと杯を置き、劉禅を見上げる。
「劉禅様、私も共に……」
「いや。星彩はもう少し、皆皆様につき合ってあげなさい。今日はめでたい日だ。そなたもたまには、愛想を振りまいても良いだろう」
 そう言って笑う劉禅に、星彩は何か反論をしようとしたが、その言葉を盾に取った臣僚たちが献杯を次々に勧めてくるので、結局星彩は、その席から離れることは出来なかった。
 筵席から見える中庭。
 司馬昭が佇み、そよ風を受けていた。
「酔い醒ましですか、晋王」
 劉禅が話しかけると、司馬昭は欠伸をかきながら、背伸びをする。
「劉公嗣もだろ? って、おいおい、その“晋王”ってのはやめてくれよ、背中が痒くなるぜ」
 苦笑を浮かべる昭。
「では、お言葉に甘えて……。なるほど。あなたは今や、お父上や兄上の縁に凭れていた頃の司馬昭殿ではないのですね」
「何言うかと思ったら、藪から棒に」
「晋王に陞進され、とても良い顔つきになられたようだ」
 劉禅がそう言うと、司馬昭ははにかむ。
「よせって。何も変わっちゃいないさ。……ま、でもその頼りにしていた父上や兄上がいなくなっちまったんじゃ、嫌でもやる気出さなきゃダメなのかなぁってサ。それだけのことよ」
「王元姫殿も喜んでおられるでしょう」
 その名前を聞いた瞬間、一瞬昭の表情が素に戻った。すぐに満面の笑顔に戻って言う。
「そうなのかどうか分かんねーんだけどさ、最近元姫のヤツ、眉毛こんなんにして睨みつけたり、お仕置きよ! なんて口癖のようにあまり言わなくなったんだよなあ」
 両手の人差し指で両方の眉毛をつり上げてみせる昭に、劉禅はくすくすと笑う。
「司馬昭殿がしっかりなさっているからでしょう」
「そうなのかねえ。よくわかんね、アイツのことは」
 そう言って背中を劉禅に向け、空を見上げる。再び、欠伸をする。
「おや、眠いようですね」
「おー。最近よく欠伸ばっかり出るんだ。眠いってあんま感じないんだけどな」
「司馬昭殿のなまけ虫が騒いでいるのでしょうか」
「ハハッ、言えてるが、劉公嗣には言われたくねえぞー」
「道理ですね」
 笑い合う二人。
 それから、二人の間には少しの間沈黙が流れる。筵席から絶え間なく聞こえてくる談笑。劉禅が振り返ると、星彩、そして王元姫が膝を合わせて臣僚と語り合っているように見える。仏頂面の星彩に元姫も、酒肴の雰囲気には絆されるように思えた。かたや鮑三娘と劉淵は、少し離れた席で奇妙な盛り上がり方を見せている。
 やがて、昭と劉禅の間の沈黙を破ったのは、真っ直ぐに空を見上げていた昭であった。
「劉公嗣」
「はい」
 劉禅が昭の背中に視線を移す。
「俺は、お前のことが気に入っている。――――いや、好きだって言ってもいい」
「それは困った……。私はそのような趣味など……」
 劉禅の反応に、昭は思わず振り返り、大慌てで否定する。
「ば、バカやろ! そういう意味じゃねえ。マジ、アセったじゃねえか」
「分かってますよ、司馬昭殿」
 劉禅の泰然とする微笑みに、昭は呆れたようにため息をつく。
「まったく……掴めないよ、お前ってさ」
「何と言っても、古今に類無き暗愚ですから」
「……そういうところサ。――――だから、お前にだけは言えることがあるってもんだ」
「面倒なのは勘弁して下さい」
「その面倒な話かもしれんねえ。まあ、聞いてくれよ」
「聞き流し程度には」
「上等」
 すると司馬昭はゆっくりと劉禅と並び立ち、おもむろに呟いた。
「その……元姫――――の、コトなんだけどさ」
「元姫殿……ですか」
「ああ」
 躊躇い気味に、昭が話す。
「もし俺に何かがあったら……アイツのこと頼めるのは、劉公嗣。お前しかいなくてさ」
「何かとは……? 司馬昭殿、まさか政を擲ち、安息国にでも発たれるおつもりか」
「はははっ。そう出来るんならすぐにでも発ちてえよ。……違うって。茶化しんてんじゃねえ。結構、マジだぜ、劉公嗣」
「…………」

 ――――アイツは、父上や兄上に期待を掛けられて、俺みたいなグータラのお目付役なんて押しつけられて今まで気張ってきた。
 それでも、お前や姜維が背負ってきた蜀と戦っていた間は、アイツはアイツらしく、俺は俺なりに上手くやってきたつもりだ。
 お前が自分の器量を知って降服し、鍾会の馬鹿野郎の暴走を止めてから、俺もアイツも、正直肩肘張ってたものがすっと抜けた感じがするんだ。
 アイツが敵だったお前を警戒しつつも、段々と心打ち解けていってる。アイツが心を許してゆくことなんて、天地がひっくり返ってもありえねえと思ってたんだがな。……俺に心を開いているかどうかは分からないところがあるんだが、少なくても劉公嗣、お前にはとげが無く接していることは分かっているつもりだよ。

「元姫殿が心を開いている。ですが、あなたには遠く及びませんよ」
 劉禅が言う。
「だからだよ、劉公嗣。紛いなりにも、治天を預かる立場に立った以上、俺に対する風当たりも段違いに大きくなる。いつ、どうなるか分からねえ身だ。だから、頼めるのは親友だと思っているお前なんだよ」
 劉禅は更に苦笑する。
「弱りましたね……。他人の伴侶を養う甲斐性はこの劉禅、持ち合わせてはおらぬのですが」
「元姫の話し相手になってやってくれるだけでいいんだよ」
「私はいずれ、安楽県に引っ込むつもりですが」
「何だったら、そのまま安楽県に連れて行っても良いぞ」
「はは。それでは駆け落ちだ」
 笑い合う。
「……安世殿、大猷殿や司馬亮殿など、あなたのご兄弟もありましょうに」
「そいつらで良いなら、苦労はしねえよ。元姫のヤツが……な」
 昭と劉禅が筵席の元姫の方を振り向く。すると、元姫と目が合ったのか、彼女が慌てて顔をそらした。それを見て、昭と劉禅が顔を見合わせ、笑った。
(何よりも……らしいことさせてやれなかった、アイツのためにも……劉公嗣、お前の力はこれからも必要なんだ……)
 昭はくつくつと穏和に笑う劉禅の横顔に目を細めていた。
「私に出来うることがあれば、お力になりましょう、司馬昭殿」
 劉禅がしっかりとした口調で、そう答えたことに昭は相づちを打った。劉禅から返ってくる答えを、知っていたからに思えたのである。