第十五話 劉元海、河西の梟雄を晋王に寸衷し 司馬昭、激務が困じ第宅に病仆す
河南尹・王恂の召喚を、劉淵は飄然と構えながら官庁へと向かった。冗談や憶測などではなく、それが彼にとっては決して損にはならない事であると感じていた。
星彩から宛がわれた官服を纏い、河南尹の執務室に凝立する。正直、不慣れな格好だ。
(胡服の方がやっぱ性に合うなぁ)
ポリポリと頭を掻く劉淵。そして間もなく、石畳を打つ沓音が響き、執務室の扉が開いた。同時に、さっと拝礼をする劉淵。
「河南尹閣下にはご機嫌麗しく――――。劉淵、お召しにより参じました」
「……らしくない額衝きだ。安楽公の手前では、かくあるまいが」
足を止めず、座机に手を掛けながら王恂が劉淵を一瞥する。その瞬間、劉淵は肩の力を抜いた。
「……なーるほど。さすがは王元姫さんの弟君――――ってところですか」
劉淵が半ばつまらなさそうにため息をつく。そして王恂もまた、嫌な物でも目の当たりにしたような様相で劉淵を見据えながら着座する。
「して、国都の治安を預かる晋王の義弟殿が、胡北の一豎子を呼びつけてなんです。無聊を慰める価値もないでしょうに」
面倒臭そうに劉淵がそう言うと、王恂は笑いもせずじっと劉淵を見据えていた。
「安楽公の暇つぶしの相手をしているのは、疲れないのか」
「あはは。劉公嗣様もだいぶ暇を持て余しているようですよ? 中原のことには興味が無く、目下、草原に思いを馳せているようですがね」
「安楽公が草原に思いを……? 北に逃れるつもりだと」
劉淵は笑って答える。
「逃れるつもりもなにも、劉公嗣様の封地は辺陲そのものではないですか」
「……故にだ。一応、言っておこうと思ってな」
「一応? あの方のことについて、私にですか。一体、何のことでしょう」
劉淵が柔らかに食い下がる。王恂は警戒した表情で言葉を紡ぐ。
「……亡国の主とはいえ、安楽公は蜀漢の皇帝だった方だ。窮したとはいえ我が魏に降り、列侯に甘んじているだけとは思えない。北狄と結託し、何かしらを冀うかも知れないだろう」
その言葉に、劉淵は一瞬疑うような眼差しで王恂を凝視すると、突然、声を大きくして笑った。
「これは――――怜悧で大局を見定めることが出来る活眼の美姫・王元姫様の弟君とは思えぬお言葉ですね。まさか、本心から言われてはいませんよね」
「……だとすれば、どうか」
王恂は劉淵をじっと見る。
しばらく、視線を合わせた。瞳の奥から互いの心底を推し量る、と言った様子ではない。と、いうよりも劉淵自身がそういうことが苦手であった。
「ははははっ、埒もありませんよ。劉公嗣様にも、我が匈(フン)も。中原の勢威に逆らうべき意図も“器”もありませんて。なははは」
「…………」
戯けたように笑う劉淵を、王恂は笑いもせずに見据える。その瞳の色は、姉にそっくりだ。
「さすがは左賢王劉豹の子だ。問うても無駄と言うことか」
「ですからー、そういうことじゃなくってですね」
呆れ気味にため息をつく劉淵。すると王恂は手をかざして横に振る。
「もう良い。考えてみれば、安楽公のことを貴公に訊ねるは筋違いというものだった。それに、私はただの地方官。大理でもないからな」
王恂の言葉に、劉淵はにやりとして言った。
「んー、閣下は公務と言うよりも、弟君として姉上を案じているようですねぇ」
「何を言うんだ。そんなことはない」
否定する王恂に、さほど突っ込むこともないと感じたのか、劉淵は一つ小さなため息をつく。
「ま。確かに、王元姫様はキレイなお姉さんです。てか、キレイカワイイっていうんですかね」
戯けてそう言う劉淵に、王恂はむっとする。
「無礼な事を。姉上をからかうと、いかにそちといえ許さんぞ」
眉を顰めた王恂の表情を、劉淵は何か獲物を捉えたかのように熱い視線で追う。
「おおー、そう言う表情元姫様にそっくりです。さすがは姉弟ですねえ」
「……姉弟か――――。なればこそ、解らぬものだな」
「…………」
「安楽公が入洛してからというもの……、姉上は――――」
言いかけて、王恂は言葉を詰まらせた。息を大きく吸い、しばらく止まった。
笑みを含んだため息に、やや自嘲が混じったように感じた。
「……王元姫様は、晋王の伴侶。劉公嗣様の伴侶は星彩様。何の事はありません、それだけでしょう」
劉淵の言葉に、王恂はただ小さなため息をつくしか出来ない。
「そちの言う通りだな。‥‥言う通りでありたいものだ」
結局、王恂は劉淵を呼んだ本来の理由である、洛陽での北方民の自治に関する案件を伝えて終わった。劉猛の代理として劉淵があったからである。
「元海」
河南府からの退出際、劉淵とすれ違った背の高い長髪の青年が、劉淵を呼び止めた。振り向くと、劉淵はにこりと拝礼をする。
「シャマク。久しぶりですね――――」
「晋王の祝筵では見かけたのですがね」
「ああ、やっぱりなぁ」
鮮卑拓跋部の酋長・拓跋力微(たくばつ・りきみ)の王子、沙漠(シャマク)。早くから魏に入朝し、中原文化の薫陶を受けてきた、拓跋氏期待の美青年である。
「おめえさんも王良夫殿に呼ばれたのですか」
「まぁ、そんなところです」
河南府から退出した二人は北方民がよく集う酒家に寄った。ここでは駱駝の乳から醸造した乳酒などを提供してくれる。肉饅頭を頬張りながら、匈奴と鮮卑の“王子”がこうして談笑するのも、魏武帝・曹操が布いた北方民族政策の賜物だろう。
「魏は遠からず晋王に帰するのでしょうか」
沙漠の言葉に劉淵は小さく笑う。
「誰の御代になろうと、我ら北の民の心は不変でしょうね」
「馬や駱駝を養い、自由気ままに商いが出来るのならば、ですか」
「黙ってさえいれば、そんな気風が続いていたでしょうに」
劉淵の言葉に、沙漠は思わず目を見開き、見つめる。
「私の義母が、北の民に夢をもたらしたんですよ」
「蔡文姫……殿ですか」
沙漠もその名を知っている。蛮族と蔑まれ続けた匈奴・鮮卑族に中原の風雅を伝えた才女。中原とのロマンスの伝説を今に残す王嬙。そして、時が流れて蔡琰。
「蔡文姫殿も、戦場を駆け回られたと聞きます」
「義母の得手、箜篌・真朱轟は単于のもとにありますがね」
「どう思われておられましたか、元海」
「どう……って?」
「蔡文姫殿のことを」
劉淵はその質問に、少し瞳を伏せて思案した。
「あの方は、嫋やかで美しい人でした。……父劉豹のことを、常に想っていた」
「お好きだったのですか」
「義母だからね。……悪い人じゃなかったよ」
「そうでしたか」
沙漠が乳酒を飲み干す。
「だが……義母がもたらした中原の思いは、良いこと尽くめでとは言えない」
「それは――――どういうことでしょう」
「はぐらかすな、シャマク。おめえさんもよく知っているはずだろう」
「…………」
劉淵は苦笑気味に頭を掻き、ため息をつく。
「禿髪のゴロツキ! あれは爆弾じゃないすか?」
「あぁ、樹機能ですか……ふぅ」
困った、という表情で苦笑する沙漠。
「確かに。樹機能は気性が激しく、危険です。……ですが――――決して無謀無能ではありません」
「シャマク、私が言っているのわからないかなぁ?」
「ん?」
「樹機能が馬鹿とか、身の程知らずとか。そういうことを言ってんじゃないって」
「そうなのですか。すまない……」
困ったような表情をする沙漠に劉淵は言った。
「軻比能大人を、忘れてはいないでしょう」
「力微は諫止した。軻比能には夢があったと言われていましたが」
沙漠の訥々とした声に、劉淵は言う。
「北の民の大望を、漢人に依るなんてねえ。なんか、あんまし意味がないっていうか……」
「意味が、無いですか」
「……拓跋にはあるかい」
すると、沙漠はしばらく沈黙し、一度劉淵を瞥してから笑った。
「私は魏の禄を食んでおりますので――――」
「……そうかい」
それ以上は突っ込まない。
「司馬懿は魏蜀を凡愚として蔑み、燕を憎悪しました。己が器量を知らず大乱を起こすことを許せなかった」
「まさに。無辜の民を傷つけるだけ。燕の自壊は言うまでもなく、軻比能大人は時節を誤ったのでしょう」
沙漠が言う。
「司馬子元は天に順った。晋王司馬子上もそうか。曹孟徳公が積み上げていった中原を汲み取る器量があったが、さあシャマク。ならどうだい、司馬安世は。司馬大猷は……どうさね」
劉淵が銚釐に残っていた最後の乳酒を、沙漠の杯に注ぐ。
それを口に運びかけ、沙漠は美しく伸びた長い睫をそっと伏せた。そして、柳が風にそよぐような声で、言った。
「王元姫様は――――本当に、お美しい方です……」
唐突な言葉だった。劉淵は愕然として沙漠を見る。
「私が洛陽に入朝した頃は、司馬昭様も怠惰で、よく元姫様に怒鳴られていまして……私も傍目ながら、やり込められる司馬昭様に惻隠の情を起こしたものです」
「…………」
「王元姫様は、その怜悧で清冽な美しさで常に近づきがたい雰囲気を湛えていましたが、その実情にもろくて、私のような北狄の民にも優しく接してくださいます。他愛の無い一言、二言に、微笑んでもくれます」
「シャマク――――」
「ですが王元姫様は最近、ことに微笑みが少なくなった。……あの微笑むと、厚い雲間から見える青空のような美しい微笑みが……見られなくなった」
「シャマク……おめえさん――――」
沙漠はすうっと深く息を吸い込むと、顔を綻ばせて劉淵を向いた。
「元海。私は魏……いや、晋王に厚恩があります。樹機能はいざ知らず、この拓跋沙漠は魏に従いたい」
「……賢明だなァ。拓跋の選択は正しいぜ、きっと」
「ふふっ……力微の父上はそんな私のことを嫌っているようですけどね」
「拓跋が割れているのかい。難儀なこって」
「割れてはいないと――――思いたいですがね」
「まあ。匈の僕が口出すことじゃあないっすがね。おめえさんはひいき目なしで鮮卑の大人だよ」
「元海は相変わらず、口達者のようですね。全く……」
半分飲んだ乳酒を、劉淵に差し出した。劉淵もそれを受けて飲み干した。
劉淵は司馬昭の第宅を訪れた。
「晋王はまだお戻りに……」
対応した下女の言葉に、劉淵は答える。
「多分、重要なことだから待たせてもらっていいかなぁ」
とは言いながら、のほほんとした劉淵の態度に、下女は大いに戸惑った。
日が沈んで大分経った。音もなくひっそりとした晋王の第宅の広間で、劉淵は思わず居眠りをしかけた。いや、実は少し眠ってしまっていたのかも知れない。
下女の声掛りで目が覚めると、口の端に伸びていた涎をごしごしと袖で拭く。
「いけね、いけね。ああ、晋王はお戻りか」
「はい。お食事の前に、劉元海様とお会いになられるそうですので、どうぞこちらへ……」
(食事済ませてからでも良いのに……そこんところはきっちりしてんのな)
などと劉淵は笑いながら、下女の後についていった。
別室に司馬昭はいた。坐卓に二人分の酒肴を用意し、劉淵の来訪を待っていた様子だった。
「ヨォ、劉元海」
明朗に響く声。だが、劉淵はすぐに気がついた。その声に、言いようのない疲労の色が濃く滲み出ているということに。
「ご機嫌麗しゅう、晋王殿下」
「よせ。カタッ苦しい挨拶は止めてくれよ」
「ハハッ、助かります」
「まぁ、座ってくれ。一杯やろうぜ」
「では。遠慮無く……」
坐卓の対面に腰を下ろし、司馬昭の酌を受ける劉淵。
「安楽公・劉公嗣様にも分け隔てなく、ざっくばらんに」
「元姫には大目玉食らっちまうけどな」
燻製を齧りながら、にやりと笑う昭。
「その王元姫様は……?」
「いっつもベッタリだとさすがに臣僚の連中からも呆れられっからなぁ。たまにはひとりで羽目外して来いって言ったわ」
「お一人で、ですか」
「あいつは劉公嗣や星彩とも仲が良いから、劉亭にでも行ってんだろ」
「……そう、ですか」
ふと、劉淵の脳裏に沙漠の顔が浮かんだ。
「……ところでよォ。珍しいじゃん。お前が俺のところに来るなんて。てか、初めてでなれなれしい? なーんてな」
「匈は魏に入貢していますから、全然構わないと思いますよ」
「そうだけどよ。そんな肩肘張らなくていいからな。俺は父上や兄上とは違うんだからさ」
「はい。判っています」
劉淵が笑って杯を呷る。
「何だ、どっかで飲んできたのか」
「拓跋のシャマクのところへ寄ってきてました」
「おう、そうだったんだ。シャマクな」
「あの男は、北の民とは思えないくらいまじめな奴ですから」
「だなー。俺もそう思ってたぜ。あの落ち着きよう、元姫の奴もよく言うんだぜ。“子上殿もシャマク殿を少しは見習いなさい!”ってな。はぁ、めんどくせったらありゃしねぇ」
「あはははは」
劉淵は談笑しながらも、昭の顔色を見ていた。明らかに血の気が失せている。
「子上様、少し疲れていませんか」
「んー……そりゃあな。毎日毎日こんなん働いたことなんてなかったからなぁ」
「あちゃ……ならばさっさと用事を済ませて劉淵、退散を」
「ああ、別に良いって。……それより、その用事ってのを先に言ってしまってくれよ。それから、ゆっくり飲もうぜ」
昭の言葉に、劉淵は頷いた。居住まいを正して、言う。
「禿髪鮮卑の大人・樹機能のことなんですが……」
「――――樹機能。あぁ、知ってるわ。呂奉先に似ているっていう禿髪の酋長だろ」
「はい。……その樹機能は鮮卑の中でも特に気性の激しい荒くれ者。私たち北の民の間でもあまり関わりたくはない男です。お気に留めておくようにと……」
劉淵の言葉に、昭は含み笑いを浮かべながら言う。
「何だよ、公孫淵みたく反乱でも起こしそうだとか?」
「何というか、動向の掴めない御仁ですから……」
「はぁ……。自分の器を量れない奴が、狄人にもいるのか。こりゃあ、厄介だな」
昭が額を押さえて嘆息する。
「父上は燕王を僭称した公孫淵を討ったとき、狄人にも言ったはずだ。慎ましやかに、北の民は馬羊を養えと。そうすりゃ、俺たちは徳と恩恵で応える。過ぎた夢の末路を見ただろうって」
「尤もですが、子上様……河西を侮ってはなりません。鼠も大群となれば人を噛み殺すものです。鮮卑の底力は馬寿成、韓文約の比ではありません」
劉淵の言葉に、昭は大笑する。
「おいおい劉元海、禿髪樹機能を鼠呼ばわりかい。ひっでぇなぁ」
「子上様――――!」
「ああ、わかったよ。冗談だ。……おおよ。せっかくの匈奴の王子様のご忠告だ。聞いておくことにするぜ」
ふと見せる真面目な表情。この時の司馬昭は、元姫が求める本気の表情なのだ。
「……って、話ってそれだけかい」
「……ええ、まあ」
「ンだよぉ、もしかしてシャマクともそんな話してたんか。はぁー全く、劉元海もシャマクも忠誠心の篤いことで――――俺はうれしいよ」
呆れたように嘆息しながら、銚釐を持ち上げる昭。
「おろ、酒が切れたな。おーい、誰かいるか―!」
声を張り上げる昭。下女の返事が聞こえる。
そして、昭は重そうに腰を上げ、立ち上がる。
「酒……持って――――」
その瞬間だった。
つんのめり、銚釐が空に舞った。
いつもと同じ、爽やかな笑顔を浮かべたままだった。
「――――――――!」
劉淵の叫び声が、昭の耳には遠かった。