第十六話 王元姫、赤心を推して劉禅の腹中に置き 安楽公を辞し、魏後晋天の参朝を冀う
元姫は自分の心に不甲斐なさを感じていた。気がつけば、無意識のうちにため息ばかりが出てしまう。
(何だよ元姫。最近ため息ばっかだな、お前)
昭が苦笑気味に元姫の顔をのぞき込む。昭の眼差しに元姫は慌てていつもの凛とした表情を繕った。
(そ、そうかしら……。ん――――だとしたら、きっと子上殿のせいね)
そう言っていつもははぐらかしてきた。だが、今日に限って、昭は嘆かず驚かず、優しく爽やかな表情で元姫を見つめてくる。
(ど……どうしたの?)
いつもと様子が違う昭に戸惑う元姫。
(いつもさ、俺の代わりに雑用こなしてくれて助かってるぜ、元姫。お前がいれば、ずっと安心だよな!)
(なに? 改まってそんなこと言われると……なんか、変な感じね)
(そうか? たまには元姫のことも褒めねーと、後が怖ぇからな)
(も? って、どう言う事子上殿。それに、後が怖いって……別にそんなことで怒ったりしない)
(はははーっ、そーですかー)
眉を逆立てる元姫の怒気を察知し、そそくさと退散してゆく昭。
(ふぅ……ったく。子上殿ったら……)
気がつけば、劉禅亭の門前に辿り着いていた。冗談ではなく本当に、最近憂鬱な妄想を見るようになった。自分の事ながら、意識をするとその恥ずかしさに、思わず赤面をしてしまう。
そんな元姫の様子を傍目から見れば、劉禅安楽公亭の門前で、顔を赤らめている晋王の伴侶たるやという誤解が生じそうだった。慌てて両頬に手を当て、熱さを冷ます。
「王元姫です。安楽公は、いらっしゃるかしら」
居間に通された元姫は思わず目を瞠った。従僕が丁度家財の片付けを終えて擦れ違いに部屋を出て行くところであった。元姫に深く拝礼し、さっと流れるように居なくなった。
「え……何? 片付け……なんて」
その時、元姫の後ろから沓の音がしたかと思った同時に、その横をすり抜け、前に現れた。劉禅である。
「これは元姫殿、ご機嫌よろしゅうに」
「公嗣殿こそ。……それより、何か立て込んでいるようですが――――」
それとなく、訊ねる。劉禅は微笑みながら答える。
「はい。幽州へ赴く準備を進めています」
「幽州へ? ……ですか?」
驚く元姫。
「何を驚いておられる。私は幽州安楽県公。永らく洛陽にありましたが、いつまでも任地に行かぬとなれば示しが付きますまい。頃合いゆえ、準備が出来たならば行こうかと……」
劉禅の言葉に、元姫は思わず声を張り上げてしまう。
「な、なにもそんなに慌てなくても……良いんじゃ、ないかしら」
心の一点に染みる“何か”が、怯えに似た声色を作っていた。
「ほう」
劉禅が感嘆して元姫を見つめる。
「その……ほら、子上殿が晋王に昇進したばかり――――色々と、朝政も人手が足りないような気がするから」
表情を崩さないことに必死で、元姫が言い訳を取り繕おうとするのを、劉禅は気づかぬ振りをする。
「でもなあ……私は司馬昭殿の処決裁断で安楽県公となった身。職務怠慢だと廷臣達に陰口を言われるのは些か気分が悪い」
困り果てたかのように、劉禅がわざと声を詰まらす。すると、元姫はすかさず切り返した。
「筵席で“蜀が懐かしくない”と言って笑いものになっても平気だった人の言葉とは思えない」
きっと、元姫の鋭い瞳が劉禅を捉える。
「あの時は……それは本心ゆえですから」
「…………」
元姫は困惑の劉禅の表情をしばらく見つめ、ふと睫を下ろした。
「ところで公嗣殿、星彩殿は……?」
「ああ。星彩は安楽県へ行っております」
「幽州へ……?」
「私の“終の栖”を一度、下見してきたいと申して」
「そう……。あ、もう一人……じゃじゃ馬のような……えーっと」
「はい。鮑三娘も共に……」
劉禅が答えると、元姫は苦笑を浮かべて首肯いた。
「そ、そうなの? それじゃあ、今ここにいるのは……」
「私だけですね。いやあ、久し振りに羽を伸ばしていますよ」
「…………あ、そう――――なるわよね。お邪魔……だったかしら」
元姫の視線の意味を、受け流すように微笑む劉禅。
「お邪魔だと思われるのならば、此処にはおいでになりますまい」
元姫は言葉を飲みこんで頬を染め、俯いてしまった。
「さあ、どうぞ」
劉禅は恭しく、元姫を招き入れた。
「あ、私が致します――――」
厨で自ら酒を温める劉禅に気遣い、元姫が代わろうとする。
「貴女と差し向かって、お茶は似合いませんから。これは私の好意です。どうぞ、お気遣いなきよう」
そう言って劉禅はやんわりと断った。
劉禅亭に押しかけ、星彩らがいないことに内心ほっとし、劉禅自ら温めた酒肴に与る。元姫は何故か、身が震える感覚がした。
「司馬亭ではいつもここに子上殿が座って、今の公嗣殿の役割が私なのよね――――。なんか、こそばゆい」
席に座りながら、まるで家僕のように銚釐や軽食を載せた器を手に運んでくる、元・蜀漢皇帝を見る元姫。
「私はこうして人をもてなす方が性に合っていますから」
「あら。ならば公嗣殿には今からでも鴻臚になってもらおうかしら」
元姫の言葉に、劉禅は柔和に、しかし即座にこう答えた。
「埒もありません」
「……そう。即答なのね……」
元姫はため息をついた。
「そう……そのようなことが」
劉禅の話に声を抑えて笑う元姫。都度、感じるその美貌に差す翳。
二、三度ほど、劉禅は厨に行き、銚釐に酒を注ぎ足した。元姫は酔いが回ると、妙に饒舌になる。声の調子が疳高くなる、という訳ではないが、まるで静寂や沈黙を忌むかのように、話したがる。
その合間の沈黙で劉禅は言った。
「貴女らしくない、寂しさに満ちた表情だ」
「……!」
多弁も詮無きことだった。待っていた劉禅のそのひと言で、あっさりと元姫の心奥を貫かれてしまう。
「な……なに……を――――」
瞼を屡叩かせながら、瞳が泳ぐ元姫。
「私が初めて見た貴女の瞳は、凛として――――万象を俯瞰する深き金色です。鍾会を危ぶみ、社稷の行く末を降鑒されるかのような……」
劉禅の言葉に、元姫の胸奥がかあと熱くなる。
「こ……公嗣殿ッ、よ……酔っているのかしら。少し、飲み過ぎたよ――――」
元姫が銚釐を抜き取ろうとした時、劉禅がその蓋を上から押さえる。
銅製の銚釐を挟んで、劉禅と元姫が視線を合わせ、不可抗力に見つめ合った。
劉禅の瞳が、深く静謐さを湛えていた。深く青く燻る炎が、今の元姫には見えない。ただ、劉禅の穏やかな微笑みに、意思とは関係なく吸い込まれてしまいそうな感覚に囚われてしまう。
「呉帝や丁奉、陸抗が江南にある――――鬱にもなるでしょ」
思いついたことを言って、柔らかな視線の束縛を解き、瞳を背ける元姫。
「貴女は孫呉よりも、遼東の慕容渉帰、遼西の拓跋力微、河西の禿髪樹機能、果ては高麗の高然弗を警戒されているでしょう」
「どうして……そんなことは――――」
「今の孫呉に較べれば、遙かに彼らの方が脅威ではないですか」
「…………」
元姫はふうと息をついて空返事をする。
「貴女は、そのようなことを考えてはいないと思うが」
劉禅の言葉に、元姫は肩から力が抜け、睫を落とした。
「私、やっぱり……あなたのこと――――苦手だわ」
すとんと椅子に凭れる元姫。豊満な胸が跳ねた。
「孫呉は時を経ずに司馬昭殿に帰服することを、貴女は分かっておられましょう。……今更、何を苦悩されているのか……」
劉禅の柔和な口調に、棘があるように感じた。
「公嗣殿は、分かっているのですか」
その問いに、劉禅は半ば自嘲気味に笑いながら返す。
「中原に名を馳せた活眼の美姫にしては、他愛のない悩みであるような気がしましてね」
「そ……それはっ!」
怒りを込めた視線を劉禅に向けようとした元姫だったが、その深い瞳に呑み込まれてしまう。
「……貴女も、やはり人の親と言うことでしょうか」
ずきんと突き刺さる劉禅の言葉。
「安世殿か、大猷殿か……」
はぁと、大きなため息をつく元姫。
「私ともあろう者が――――分かり易すぎかしら。ほんと、焼きが回ったものね」
「何を仰る。貴女の凛とした美しさは、寸分も変わっていない」
「公嗣殿も、急にお世辞が下手になった」
茶化す元姫。
「何をそんなに迷われるのか。貴女の心には誰がおられる」
劉禅が元姫の盃に銚釐を傾けながら、訊ねる。
「それは……」
「さしずめ、大猷殿でしょう」
回り諄くない劉禅の言葉に、元姫は絶句する。
「安世殿に比すれば、大猷殿はまさに社稷を統べる聡明さを備えておられるようだ。元姫殿のご炯眼です」
「嫌みなんて言われ慣れているけど、公嗣殿に言われるのは、少し傷つくわね」
「暗愚なりに、思ったことです。詮無きこととして、お聞き洩らしを」
劉禅が笑うと、元姫は切なげにため息をつき、首を振る。
「でも、公嗣殿の言う通り。……本当、自分でも分かるくらい、つまらない事に思いが囚われている」
「あなたも、人の子――――と言うことなのでしょう」
「人の子……ね。今まで、意識したこともなかったわ」
「司馬昭殿は時機に大陸を戡定されましょう。貴女もそろそろ緊張を解き、お心安らかにされてみてはどうでしょう」
「……そんなに、気張っているかしら」
「ええ。この私が気を遣ってしまいそうなほどに、貴女は肩肘を張っておられるようだ」
元姫は思った。暗愚を気取ったこの青年は、やはり昭と似ている。そして、昭と同じ目線で自分を見ている。だから、彼と話していると不思議なほどに心に入る力がほぐれて行く。昭に寄せる感情とは違うが、元姫にとって次第に、劉禅という存在が大きくなって行くことを、自分でも気づいていた。
「本当……公嗣殿、お願い――――」
その時だった。
「ご主君ッ!」
使令・李三の声が響く。
「ん、どうしたのだ。騒々しいぞ」
眉を顰める劉禅、そして元姫の視線も自然に使令の方に向く。
そして、李三は息をひとつ呑み込むと、声を落ち着かせるように言った。
「……晋王が――――お倒れに……なったとのこと」
からん……
元姫の指から、盃がこぼれ落ちた。