第十七話 星彩、桃園故地に亡国の衆怨を礼奠し 慕容忱曦、大いに張翼徳の偉功を称える

幽州・涿郡范陽

 幽州に入る辺りから、黄土から吹き下ろしてくる風が頬に冷たくなってきた。
「ねえ星彩~、安楽県ってまだなのォ?」
 星彩の隣に並びながら、いい加減馬に跨がることに飽きた様子の鮑三娘。
「明日中には着くと思う。もう少し辛坊して」
「うぅ~……何にもなさ過ぎて暇すぎて腰が痛くなってきたんですケド」
 はあとため息をつく星彩。
「今から馬を返して洛陽に戻る? 止めはしないけど」
「えぇー! ここから一人で帰れって、それヒドくない?」
 不満たらたらに眉を顰めながら、星彩の横顔を見る三娘。
「あなた、何をしに来たの?」
 三娘に振り向くこともせず、冷然と質問をぶつける星彩。
「だからぁ、あのまま洛陽でずっと腐っているよりはマシかなぁと思ったんだけど」
「物見遊山じゃない。…その気なら、邪魔よ」
「もォ、ここまで来たのにひどいなぁ」
「ふぅ……」
 呆れ果てた星彩が、そのまま手綱を引く。
「あ、待ってよ~星彩!」
 何だかんだと、星彩の後をついて行くしかない三娘。

「今日はあの宿で休みましょう」
 鄙びた宿を指差し、星彩が言うや否や馬を下りる。三娘は一人で勝手に采配する星彩に不満やるせない感じであった。
 それでも、星彩が指定した所は一応この近辺で一番立派な宿である。敢えてそれは言わず、三娘の文句が尽きるのを待った。
「ねーねー星彩、ひとつ訊いてもいい?」
「何かしら」
 またつまらないことを言い出すのではないかと思い、半ば投げやりに返事をする。
「安楽県の視察なんて、必要なくない? どうせいつかは来るんだし! だから、星彩が個人的に何かあるのかなーって、ちょっと気になったからさ」
 その質問に、星彩は身を止めた。凛とした厳しい視線が三娘に向く。
「な、なに? あたし、何か悪いこと言った?」
 豺狼に狙われた猫のように肩を竦ませ怯える三娘。
「いいえ。あなたにしては、感が良いって思ったから」
「え――――ほ、ホント? やりィ! 褒められた……って、なんかそんな気がしないんですけど!」
殆ど笑顔を見せない星彩、かたや煙たくなるほどに気持ちが汪溢する三娘。一見、合いそうもない二人のように思われたが、蜀漢時代から何だかんだと馬が合う様子だ。関銀屏と共にとても仲の良い姉妹のようだと、族弟の夏侯覇や、諸葛瞻などからはよく揶揄われたりしたものである。
「明日はちょっとだけ、寄り道したい。つき合う? 三娘」
「えぇ!? 星彩から誘うなんて珍しい-! って、言ってもあたしが期待してるところじゃ……ないとか――――」
 一瞬だけ嬉しさのあまりに声を上擦らせる三娘だったが、星彩のことだ、歓楽とまではいかずとも、気張らないような場所に行くとは思わず、気が抜けてしまった。
「気が進まないのなら、無理強いはしないけど」
「行くよーもー、意地悪だし」
 唇を尖らかす三娘に、星彩は少しだけ目を細めた。

 范陽の町の外れ。家屋の数も疏らで寂寥たる光景だ。
「何かチョー寂しいんですけどー」
 三娘の不満も的を射ていた。確かに、星彩が足を止めた場所を見回せば、目ぼしい建物もなく、また人影もない。あるのはただ一条の北からの乾いた風。さすがに三娘でなくても同じ事を思うだろう。
 かつては人もそれなりに屯していた衢跡のようにも見えた。荒涼とした風が通り抜ける、土色の景色。
 三娘の隠そうにも隠しきれないしかめっ面を尻目に、星彩の歩は進む。
 やがて、二人の視界に枯木の牆が見えてきた。心なしか、星彩の歩みが速くなる。
「……あ……!」
 その枝先に指を添えて顔を近づけた星彩が思わず、感嘆の声を上げた。
「なになに、どーしたの?」
 星彩の反応に三娘も興味を寄せる。星彩と同じく、付け睫毛を屡叩かせながら枝先に顔を近づける。
 そして、驚いたように目を瞠った。

「……わぁ、つぼみ!」

 それは、濃淡様々な淡紅色の早春の芽吹き。感慨深げにそれを見廻す星彩に、三娘は訊ねる。
「この木って、確か――――」
 星彩は頷いて言った。
「桃よ。……先帝劉備様、関羽殿…………そして、父上――――。三人が結義を果たした、美しい桃園が、この場所……」
 心なしか、星彩の瞳が潤み、輝いているように見えた。
「お義父さんの……そう、なんだ――――ここが……」
 人とは都合の良いものだ。親しく、愛おしい人にまつわる場所と判ると、寂寞とした景色も仙境へと変わる。今年も花開くであろう蕾を、三娘もまた、愛おしそうに見つめる。
 想い人・関索。その父、関羽。関平・関興・関銀屏兄妹。義兄弟・劉備、張飛と繋がってゆく愛おしさの系統。瞼を閉じ、遙かな昔の光景を想像する。
 星彩はかつて、父からその思い出話を良く聞かされていた。だから、自分の想像の範囲で、情景が浮かぶ様に思えた。
 一方、鮑三娘はただ、星彩に倣って瞑想するだけである。そこはかとなき雰囲気を感じるだけであった。

 やがて、一瞬の風の流れの変化に星彩が反応した。反射的に身構え、踵に力を込める。
 振り返ると、そこには見慣れぬ胡服を纏った、青年の姿。星彩らの姿に、驚く様子も見せず、会釈をする。
「遠来の客人とは珍しい」
 相手から話しかけてきた。そこはかとなく真面目さを思わせる口調。あまり長くはない黒髪を後ろで束ねながら、“不意の来訪者”である星彩らを見る。
「あなたは……? 北人のようだが」
 星彩の言葉に、青年は瞼で頷く。
「昌黎棘城の慕容忱曦(シンギ)と言います」
「昌黎……というと、遼西……慕容――――鮮卑族……?」
 星彩の呟きに、青年は微笑み混じりに頷いた。
「こんなところで、また北人に遇うなんて……」
「また?」
 三娘が口を挟んだ。
「劉淵殿のこと」
「あー、あの生意気な奴ね!」
「劉淵……? もしや、フンヌの劉公子を知っているのですか」
 忱曦が声を上げると、三娘が身を乗り出して言う。
「知ってるも何も、あたし達のところにいるし!」
「ならば、あなたたちは――――」
 忱曦が訝しみを向ける。三娘は失言したかと思い狼狽の様相を向けたが、星彩が落ち着いた様子で受け答えをする。
「私は星彩。安楽公・劉禅様の家臣よ」
「えーっと……あたしは鮑三娘」
 星彩が迷わず名乗ったので、三娘も続いた。二人の名前を聞いた忱曦は、取りわけ嬉しそうに表情を綻ばせる。
「蜀帝の等儕とは……これも天の導きか」
 忱曦の言葉に、三娘が大きく嘆息する。
「天の導きって――――何か大袈裟だし!」
「慕容の宗族――――あなたは何者?」
 星彩が眉を顰めると、忱曦は苦笑した。
「怪しくはありません。遼西に張翼徳公の名は聞こえているのですよ」
「遼西に――――?」
「ここは、張翼徳公が結義を果たすまでは肉屋を営んでいた地。良く遼西にも足を運んでいたと聞き及びます」
 忱曦の話に星彩は驚く。
「ここが……? 父上の――――!」
「父上……とは、あなたは……」
「燕人・張飛は私の父よ」
 星彩が忱曦を見て、毅然と名乗る。
「何と……! ならばあなたは――――」
 それは、思いもかけぬ場所で知る、亡父・張飛の面影。

 慕容忱曦は語る。
 “――――一族の祖・莫護跋(マッゴバ)は遼西から烏桓河の辺に至るまで威を奮い、東瀛から安息まで商権を持つ長でした。
 西は公孫度の暴威を躱し、袁尚に屈せず、司馬仲達に拠り……、東は高麗・百済を遇いながら一族の繁栄を培ってきたのです。
 若かりし時、莫護跋は一人意気がって中原に出、黄巾の焦土に地を這う民を相手に商いをしようとした。勿論、真っ当な商売など出来ようはずもありません。
 漢は衰えたことによって弱き者は死に絶え、強き者も殺し合う乱世の兆し。莫護跋にとっては、好機に映ったのでしょう。

 当然、莫護跋の行動は破れた――――。

 彼は黄巾の残党や、飢えた民らによって財物を奪われ、路頭に放られたのです。
 そこがここ、范陽の地……だったとか"

 星彩が忱曦の話に聞き入る。三娘もまた、ちょこんと座る猫のように、忱曦を見ていた。

 “いよいよ行き倒れとなり、北人の見果てぬ夢も尽きる時が来たと思ったそうです。
 その時でした――――。当時、范陽の富豪であった張翼徳公が莫護跋を救って下さったのは……。

『小僧、おめぇどこのもんだい。ここいらのもんじゃあねぇな』
 莫護跋が遼西白狼水の民と名乗ると、張公は大笑して言われた。
『おぉ、おめぇ遼西のもんかい! てこたぁ俺と同じ、燕人だな、燕人!』

 燕と言えばかつて、中原から遼河の辺に至るまで支配した群雄の国。
 張公はまるで昔からの友のように莫護跋に接し、彼の身の上を聞いて、惜しげも無く家財の多くを彼に下さったと言います。
 北人に理財の才なく、この御恩に報いる術を知りません。……莫護跋は叩頭して張公に言ったそうです。
 すると張公はこう返された。
『見返りなんざ求めてねぇさ。俺は困っている奴を放っておけなかった。ただそれだけよ。……でもまぁ、義を果たすって意味なら、こんな条件でどうだ?』
 真剣な表情の莫護跋に対して、張公は飄然とした様子で、こう続けたそうです。

『いつかおめぇが、この腐った世を正すために立ち上がる時が来たら、その時は“燕人"の旗を掲げて天下に躍り出てくれ』

 それが本気なのか、冗談だったのか。今となっては識る術もない。”

 忱曦は言った。
「一族の皇子が生まれたならば名も考えている。一族に、張将軍の如き勇士に肖りたいと思い、“廆”と。そして、燕人の国、“燕”であると……」
「カイ……?」
 三娘が首を傾げた。
「慕容廆――――家の中に強き者……。良い名前ね」
 星彩が小さく、“カイ”と呟く。
「きっと……強い人間になると思う」
「張翼徳公の娘にお墨付きを頂きました」
 忱曦が拝礼する。

 桃園結義は遠く遼西にも聞こえていた。商人時代の張飛と交誼を持っていた莫護跋が張飛たちのこの記念日を言い伝え、独自にはるばる范陽に至り祭奠を催してきたのだという。
「星彩殿。あなたもまた、お父上の事を偲ばれて……?」
 忱曦が訊ねると、星彩はひとつだけ小さなため息をつき、言った。
「ここに来たのは、劉禅様の命で向かう途中で寄っただけ。……でも、私一人の意思として……一度は目にしておきたかった。父や――――劉備様、関羽殿の目指した、仁の世の原点を……」
 多分、それは期待や望郷の喜びに寄せる胸の駆り立てなどというものではなかっただろう。
 その逞しくも細い双肩に課せられた皆の想いと未来への希望という、重圧と使命感が、どんなものだったのか、その発祥をただ、目の当たりにしたかっただけなのかも知れない。

「私は、蜀が好きですよ」
 忱曦の言葉に、星彩ははっとなる。
「袁尚、公孫淵は非道に身を滅ぼしました。生き残るために、莫護跋は魏に阿り、高麗の盾となり、自治を保ったのです。……そんな中にあっても、張翼徳公の夢であった仁の世の建設を、願っていた
「蜀は夢がありました。見果てぬ夢とは思いつつも、莫護跋も皆も、蜀と思いを同じくしていた」
 夢という言葉を随分と久し振りに聞いたような気がした。甘ちょろくて、それでもやはりその言葉に響きに、心の奥が反応する。
「ありがとう……。でも、それならばごめんなさい……。蜀は……もう――――」
 すると、忱曦は微笑んで返す。
「なあに。我らの想いは一族と共にあります。単于渉帰。そして、いずれ生まれ来る廆へと伝わってゆくことでしょう」

 桃園結義の地で聞きし、狄人の見果てぬ“夢”
 それが果たして、劉備や諸葛亮・張飛らが夢見た“仁の世”と同じなのかどうかは星彩には解らなかった。
 だが、静かながらも滔々と語るこの慕容の王子に、星彩はそこはかとなき懐かしさのようなものを感じた。
 関平や関興、関索、銀屏、張苞らと剣の稽古をしながら、彼らなりに蜀の未来を志望し語り合った時。

(…………みんな…………)

 心の風景に映る、友。
 過去を振り返るなんて、自分らしくは無かった。
 ただ、忱曦の微笑みを見つめていると、否応にも“良かった時”にフラッシュバックする。
 忱曦が語る、いつか彼の一族を継ぐまだ生まれぬ“慕容廆”が、関平や自分のような仲間に恵まれて仁の世を目指すのだろうか。そして、誰かがその使命を背負って、ただ直向きに主君に尽くすのだろうか。

「……どうかしましたか、星彩殿」
「星彩?」
 気がつけば、星彩の凛とした瞳から、一粒の涙が零れ落ちていた。驚いて星彩を見ている忱曦と三娘。
「あ…………」
 自分でも驚き、星彩は人差し指で両の眦を拭う。
 じっと様子を窺う忱曦と三娘に、すうと息を整えた星彩が、言った。
「この桃園の跡で、蜀の衆怨を慰めたい……協力してくれる?」
「蜀の……それってすっごく良くない!?」
 思わぬ妙案に、三娘が歓喜した。
「良いことだと思います。細やかなことしか出来ませんが、やりましょう」
 忱曦も快く同意した。

 桃園に、果物・饅頭・木の実などを献饌し、星彩・鮑三娘・慕容忱曦は静かに祈りを捧げた。それはきっと、劉・関・張の三兄弟が誓い合った時と同じ空の色、同じ風、同じ鳥の囀りだったのかどうかは解らなかった。
 哀しい訳では無い。張飛が繋いだ、遼遠なる慕容鮮卑に託す夢の一つ。
 三娘が瞼を上げると、星彩はまだ祈りを捧げていた。凛とした端正なる美貌には、何故か、希望のような力が込められているように思えた。