第十八話 王元姫、晋王の鼾睡に涅槃の境地を活眼し 魏元帝、明鏡掲げ太平楽土の大業を司馬昭に托す

「晋王が仆れたと……」
 中庭の池で魚に餌を与えていた魏帝・曹奐が、宦官の報告を聞いた瞬間、餌の袋を落とし、みるみると顔から血の気が引いていった。
「晋王邸に向かうぞ!」
 自ら冕冠を毟り取り、宦官に投げつける曹奐。居ても立っても居られなかったのか、曹奐はそのまま、供の用意も後に足早に司馬亭へと向かった。

司馬昭亭

「陛下が――――」
 張節が司馬亭の使令に曹奐来訪を知らせようとしたのを、当の曹奐が止める。
「晋王は無事か」
 袞冕を着けていない人物の登場に、使令は一瞬戸惑った様子だった。
「曹奐だ、通してくれ」
 そう名乗った途端、使令は大慌てで平伏し、額を地にこすりつけた。振り返ることもせず、曹奐は足を速めて昭が病臥する部屋へと向かう。
 昭の寝室の前に立つ衛兵を除けて曹奐が飛び込むと、寝台に上体を起こしている昭の姿があった。それと同時に、皇帝と気づかない衛兵が怒声を上げながら武器を構える。
「……るな」
「狼狽えるな!」
 昭の声を増幅したように、張節の声が響く。どよめく衛兵に、昭は右手でゆっくりと払う仕草をした。すると、波が引くように衛兵は下がってゆく。
「張節、そなたもだ」
「御意」
 曹奐の命を受けて、張節は昭を一瞥した後、寝室から出て行った。
 いきなり、静まり返る晋王の寝所。しばらく、曹奐と昭は無言で見合った。互いに、やはり思いを致す、形ばかりの主従。
 そして、先に言葉を発したのは曹奐だった。
「晋王、仆れられるのが少し早くないか」
 すると、昭は微かに笑い、嗄れた声で答える。
「思ったよりも早く、私の身に天罰が下されたようです」
 冗談めいた言葉に、曹奐はやや憮然とする。
「埒も無い。この曹奐が晋王の不幸を望んでいるとでも思っているのか」
「陛下でなくても、臣民にはなおおりましょう」
「故に、そなたも早く肩の荷を下ろせ。曹魏の賊臣などという詆譏をいつまで甘んじる。この曹奐が望んでいることだ。誰の譏りも受けさせぬ」
 すると、昭は再び力なく笑う。
「本当に陛下はおかしな方だ。奸賊に心を開かれ、自ら駆け付かれるとは」
「この期に及んでなお曹魏の奸臣を気取るか、晋王」
「司馬昭の心、路傍人皆知る」
 昭はゆっくりと呟く。
「司馬昭は魏を簒奪する逆賊。市井の臣は子供でも皆知っていることだ。朝廷には司馬一族を抑える者は誰もいない。皇帝陛下が地に下るのは已むなし」
 すると曹奐は言う。
「それくらいでなければ、天下を治められないだろう。時代は曹魏を超えた。晋王、社稷臣民が望むのは、そなたである」
「随分と荷が重いことを仰せだ」
「誰かが悪名を負わねばならぬ。……晋王は簒奪、この曹奐は天下の笑いものであるとな」
 自嘲気味の魏帝に、昭もまた、自嘲する。
「成すべきことを成して、残るのは世間の非難とは、皮肉なものですね」
「功罪の評価は遐代に委ねるべきだろう。私もそなたも、後は突き進むのみだな」
 曹奐が嗤う。だが、その嗤笑には裏が無い本音であると言うことが、昭には分かった。
「元姫と同じ事を仰る。陛下にも、敵いませんよ……」

 薬湯を煎じた湯呑みを昭に差し出しながら、曹奐が言う。
「今にして思えば、曹魏の歴史もまた酒肴の笑い種かも知れぬな」
「そうだとするならば、我ら司馬一族はなお笑い種でしょう」
 禅問答、と言えば語弊がある。
 ただ、曹魏の幕引きを命題と位置付ける曹奐と、新しい御代を拓かんとする司馬昭の見据える先は、同じような気がした。
 それは山陽公・劉協や、劉禅の顰みに倣うという訳でも無い。曹魏は孫呉を残しているものの、蜀漢を降した勝者である。
 曹叡の暴政に始まり、曹芳が天命に逆らい、曹髦は抗して賈充に弑せられた。国家としては時代の勝者だったが、曹氏の役割は時代の変遷と共に確実に終わりを告げていたのである。
 早く時代が望む英傑に至上の位を継がせること。曹奐はそれを成し遂げることで、青史に名を残すことを求めていたと言える。
 曹奐にとって、司馬昭の余命を案じているつもりもない。ただ、果たすべき役割を果たせぬままに終わるのを、衷心より案じていたのだ。

「安世でよろしいか、晋王」
 飲み干した湯呑みを受け取りながら、曹奐が呟いた。
「……」
 一瞬、逡巡する昭。
「社稷を統べる者に、逡巡は禁忌ぞ」
 曹奐の苦笑に昭は乾いた笑いを返す。

 眠気が昭を襲う。曹奐との終の会話もそろそろ幕を下ろす時が来たようだ。
「晋王」
「はい」
 互いに顔を見合わす、二人の“王”
「……民を頼むぞ」
「御意……」
 多くを語らなくても良かった。辿り着く先は民の綏撫。旧きを識り、新しきへ渡すことを決めた魏帝・曹奐。そして、父・司馬懿から兄・司馬師へと伝えられ、やっと己が天命を悟り覚悟を決めた司馬昭。
 権臣の思惑が蠢動する宮中にあって、魏晋の英傑だけは事の本質を見抜いていたと言えるのかも知れない。

 曹奐が司馬昭亭の門を出ると、ちょうどプラチナブロンドの長い髪を風にそよがせ、凛々とした金色の瞳を真っ直ぐに見開いた王元姫が、微かに切らした呼吸を整えるように立ち竦んでいた。
「元姫か」
 曹奐が声を掛けると、元姫はそれが魏帝と気付き、颯然と拝跪した。
「これは陛下。このようなところへお出ましとは、驚きました」
「驚くこともあるまい。この曹奐がここにいることで、もう言わずとも良いだろう」
「陛下……」
「引き留めはせぬ。早く行きなさい」
「…………」
 一礼をすると、元姫が立ち上がる。そして曹奐とすれ違う瞬間に、曹奐が言った。
「そなたなら、賢明な決断が出来よう。社稷を頼む」
「――――!」
 驚いて振り向いたとき、曹奐はもう視界から遠離っていた。

 いつも何気なく通っていた中庭、廊下。壁柱に下げられた蝋燭。
(こんな所に、キズが……)
 そのままならば一生、気付かなかった柱や壁の小さな瑕。その場所から見る空や、植え込みの構図。その全てが、元姫の瞳には新鮮に映る。
 洛内にあってはいつも治世を廻る敵味方の蠢動があって心休まらず、周りを見回す暇などなかった。
 いつも喧噪で跫音が絶えない邸も、今日は閑かだ。
 使令の案内を断っていつものように向かう。
(子上殿! 何やってるの?)
 職務をさぼる昭を叱りつける。それが挨拶代わりのようなもの。
 今日は随分と遠く感じる。頭の中で昭の名前を呼ぶのも怖い。近づくにつれてそう、怖くなる。
 それでも、元姫はやはり“活眼の美姫”と渾名されるほどだった。独りの時でも、そして今なお、その矜恃を保とうとしていた。
 昭の部屋の前に立つ。静寂に包まれた、廊下。今日は大人しく執務に励んでいるのだろうか。などと思いたい気持ちが先走る。

 扉に手を掛ける元姫。
「あれ……?」
 今日は妙に扉が重い。気持ちは落ち着かせているはずなのに、腕に力が入らない。それでも気丈に力を込めると、胸の奥につんとした刺激が落ちてゆく。
 扉を開き、最初に見る執務の机。整然とされた竹簡と筆墨。人が使った形跡が無い。
 元姫が踏み入ると、跫音と風音だけが響く。
「…………」
 その部屋の奥が寝所だ。昭と元姫が同衾する部屋。何よりも、政や監視の役目から外れ、互いにかけがえのない伴侶として見つめ合うことが出来た、唯一の空間。
 その部屋に向かうのを一瞬、躊躇った訳では無い。でも、何故か足が竦んだ。
 元姫は責任感が強い。昭に対しては私的感情に比例しながら、司馬懿や張春華、司馬師や羊徽瑜らに受け継がれた使命感が先行していた。だからこそ、胸の痞えがあった。
 簾を潜り、元姫は寝所に入った。
 そして、一定の覚悟と僅かな不安が交錯する眼差しを、寝台に向けた。

「……子上――――殿――――」

 元姫はその瞬間、思わず安堵に満ちた声で、昭の字を呼んでいた。不思議なほどに元姫の心の痞えが抜けてゆく感じがした。

 昭は寝台に姿勢正しく横臥し、小さな鼾をしながら、眠っていたのである。元姫の声にも起きず、眠っていた。
“良かった。仆れたって聞いたけど、大丈夫みたいね”
 元姫の脳裏に、そう言う台詞は浮かんでこなかった。柔らかな、微笑みを浮かべる寸前の表情のまま、元姫はそこに立ち尽くして、昭の寝顔をじっと見つめていた。
 元姫にとって、昭の寝顔を見た瞬間に、その得も言われぬ不安が取り払われた時、悟ったこと。
 虚心坦懐、という言葉が正しいかどうかは分からない。しかし、元姫にとってその半生を、心身共にしてきた永の伴侶・司馬昭のこの姿を目の当たりにして、自分でも不思議なくらいに冷静で、取り乱さないことに驚いていた。
「器の大きさに戸惑い、司馬懿殿、子元殿から受け継いだ天命と業を背負ってきた子上殿……。なのにほら、幸せそうに眠っている――――」
 思わず、元姫がそう呟いた。

 その昔、劉玄徳は隆中の草廬に諸葛亮を訪れた時、午睡の亮を起こさず、庭先で目覚めるまで立ち続けていたという。
 元姫が昭の寝顔をそこで見つめ続けているのは、どこか通じているものがあったように思えた。
 陽も暮れゆき、朱い空に紺が混じる頃。昭の睫が揺れ、ゆっくりと瞼が開いた。
 それを見て、元姫は何も言わずに昭の枕元へと歩を進めた。