とある春の夕暮れ…。
……きゃうん、きゃうん……
純白の厚い毛皮に身を包んだ愛らしいプードルが若者の側へと駆け歩み、彼の周囲をぐるぐると回る。
「何と可愛らしい……ん? 手綱が切れているのか……」
ターバンを頭に巻き、擦り切れたマントを羽織り、大きな鋼剣を背負った筋骨隆々の若者が、片膝をつき、汚い手袋を脱ぎ、男のくせにやけにすらりとした綺麗な手でプードルの小さな頭を、少し乱暴にごしごしと撫でながらにこりと微笑む。
細い眉毛、わずかに切れ上がった二重の瞼。心和むような優しく、深い碧の瞳。
ちょうど良く伸びた鼻梁に、煤けてはいるが、きりりと引き締まった唇。細めだが力強そうな双腕。両脚に刻まれし無数の傷痕は、まさに波乱怒濤の旅を続けていた証拠である。
この美青年、年頃十七,八か。名をリュカと言う。
「おまえのご主人は、どこにおられるかな?」
刹那。
「…リリアン……リリアンどこ? どこにいるの?」
リュカの目の届く路地の向こうに、一人の見映えする美少女が、焦燥の体で現れた。
「きゃうん、きゃうん」
プードルの甲高い吠えに、美少女ははっとなってリュカの方に振り返った。
「リ……リリアンッ!」
少女は鈴の音のような透き通った声を上げ、その可憐な容をぱっと輝かせ、胸元で柔らかく握りしめた白い拳を前後に振りながら小走りに駆け寄ってくる。水色のドレスが普段着なのか。相当裕福な良家の令嬢らしいとリュカは思った。
「お、どうやらおまえのご主人がお出でになったらしいぞ」
リュカはそう言って微笑み、リリアンと呼ばれたプードルを撫でる手を離すと、すくと立ち上がり、俯いていた顔をゆっくりと上げた。
その瞬間、彼の目は、少女に釘付けになった。
「す、すみませんっ――――リリアンッたら、だめじゃないの!」
愛犬を抱き上げた彼女は、ずっと声を張り上げていたのか、わずかながらかすれ気味の小さな声で叱る。
そして、そのままぺこりとリュカに向かって頭を下げた。
「も……申し訳ありませんっ、私のペットが失礼を……」
彼女は恐る恐ると顔を上げた。
そして、リュカを見た途端に、彼女は電撃でも喰らったかのように、その胸に衝撃が奔り、瞬く間に薄紅色に染まる白い頬に気づかないまま、彼を見つめた。が、彼の視線が真っ直ぐ自分に注がれているのを知ると、恥じらうように慌てて瞳を逸らした。
「あ……も、申し遅れました。私、フローラと申します」
茫然と彼女に見とれていたリュカは、彼女の声で呼び起こされたかのように、はっと我に返る。
「こ、これは失礼を。私はリュカ。故あって先ほど当地に立ち寄った旅の者にございます」
「そ、そうでございましたか。それはようおいで下さりました。ならば是非、私の家にお越し下さりませ。何もないところですが、リリアンを押さえて下さったお礼に……」
「はあ。ご厚意、ありがとうございます。……しかしこの身、長旅のためにほこりにまみれ、衣服も擦り切れ、粗末な食事ゆえ実のところあまり力が残ってないんです。とりあえずは宿に逗留し、この身を清めたく思います」
「そう……ですか。残念です……」
彼女はその美しい容を少し悲しげに曇らせて俯く。リュカは半ば戸惑いながら再び口を開いた。
「あ……あの。もしよろしければ、宿屋まで道案内をしてはもらえませんでしょうか。なにぶん、当地は初めてなもので……ははっ」
「あっ――――はいっ!」
彼女は再び笑みを取り戻し、頬を染めながらこくんと頷いた。彼女に抱かれていたリリアンが苦しげにきゃうんと小さく吠えると、彼女は愛犬をゆっくりと地面に下ろした。リリアンはさぞや嬉しそうにリュカの周りをくるくるとはしゃぎ廻る。
「リリアンが私以外の人になつくなんて……初めてですわ」
リュカと並んで歩きながら、彼女は言った。
「何か好ましい匂いでもしたのでしょうか?」
リュカはリリアンを謝って踏みつけないように、気を配りながら歩いている。
「いいえ。その様なことはありませんわ。リリアンは大好物の山鳥の肉でさえ、私以外の人からはもらおうとしないのですもの」
「それは、それは光栄なこと。私は『認められた』と、言うことでしょうか」
リュカは穏やかに微笑んだ。
「リュカさんって、お優しい方なのでしょうね……。私も……あなたとなら……」
彼女は繊細で白い両手を上気した頬に当てて呟いた。
「……え? 何かおっしゃいましたか?」
「い……いいえっ! 何でもありませんわ」
急に心臓がどきどきして、彼女は真っ赤になって俯いた。
約二十分ほど路地を西に向かって歩いて行き、北側に伸びる狭い通路を歩いて行くと、宿屋『晴月亭』にたどり着いた。
途中、すれ違う人々はリュカとフローラを不思議そうな眼差しで見回していたが、別段気にはならなかった。
「ありがとうございました。おかげで助かりました」
リュカが彼女に向かって丁寧に頭を下げる。
「そんな……お礼を申さねばならないのは私の方ですわ。リ…リリアンを押さえて下さいまして、ありがとうございました。また……お会いできれば嬉しゅうございます……。あっ、そうだわ。リュカさん、ぜひ明日、私の家に……」
リュカと向き合っていたフローラは、ぽっと頬を染め、わずかに彼から瞳を逸らした。その時、宿屋のドアが開き、体格の良い三十代前半の男が現れた。
「おう、これはフローラさんじゃあないか。こんなところで会うなんて珍しい。何の……ん?」
男はリュカの方に視線が行くと、電源を切ったように口が止まった。
「……そ、それじゃあリュカさん。ま、また」
フローラはリュカとその男に軽く会釈をすると、小走りに去っていった。リリアンもきゃんきゃんと吠えながら、主人の後を追ってゆく。残ったリュカ、しばらくの間フローラの後ろ姿に見とれていた。
先ほどの男に案内されて、リュカは宿屋の隣にある比較的大きな酒場へと入った。
店内の中央に円形のカウンターがあり、四方の壁際にテーブルが並ぶ。混んだ店内はタバコの煙が充満し、独特の熱気が鼻を突く。
リュカはよくこうした酔っ払いたちに絡まれる。以前立ち寄った港町の酒場女から言われたことは、自分は人を小馬鹿にしたようなクールな雰囲気を持っているのだという。リュカ自身は決してそんなことはないのだが、印象がそうというのだから仕方がない。
酒場女は最後にこう、付け加えていた。
『そこが、女の子たちの心をつかむんだけどね』
しかし、どうやら今日は運が良いらしい。いつものように、いちいち因縁を付けてくる柄の悪い男たちはいなかった。柄が悪いどころか、逆になれなれしく挨拶をしてきたり、空のグラスを差し出してきたりする。
「俺の名はロジェル。あの宿を営んでいるもんだ。おめェさん、旅のもんだよな?」
男がそう名乗った。彼に勧められてカウンターの方に腰掛ける。
「はい。私はリュカと申します。サンタローズ出身の旅の者です」
「そうか。ところでリュカさんよ、あんたこの街に何用で来たんだい?」
リュカの言葉を受け流し、ロジェルはやや突き刺すような口調で訊ねてきた。
「……何用ってほどのことではない……と言えば言葉が悪くなりますが、ポートセルミに停泊しています帆船を拝借したく、太守ルドマン様に相談に参りました。……それだけですが?」
リュカがそう答えると、場は一瞬のどよめきの後、しんとなった。どうやら、他客たちは二人の会話に聞く耳を立てているらしい。
「……本当に、それだけの用事なのか?」
ロジェルがまじまじとリュカの目をのぞき込む。
「ええ。他には特に何も……」
その途端、静まり返っていた場が再びざわめきを取り戻した。リュカに集中されていた視線が、一気に分散して行くのがわかる。
リュカは彼らの異常なまでの反応に訳が分からず、何事かとロジェルに訊ねた。
「あんた、うちの宿の前でフローラさんと親しげに話していただろ?」
ロジェルが囁くように言った。
「それが、何か? 私はただ、宿屋への道筋を案内していただいただけですが?」
こともなげに答えるリュカに、ロジェルはさながら長い時間を掛けて創り上げた精密な細工を、完成間近になって誤って壊してしまったような顔をした。
「あちゃ――――あんた、知らないようだが、何を隠そうあの方こそ、七年もの長い修道院生活から卒業され、こたびめでたくもご帰還あそばされたルドマン様のご息女、フローラさんなんだ」
「ええっ!」
リュカは思わず目を見開いて大声を上げた。一瞬、場の視線が再び自分に向けられたが、すぐに元に戻る。
『そうか。どことなく気品あふれる女性だった』
「その様子じゃあ、あんた何もしらねえみてえだから教えてやるよ」
「ちょっとロジェルの旦那。見ず知らずの旅人に余計なこと吹き込まないで下さいよ」
グラスを磨いていたバーテンが、諭すように言う。
「別にいいじゃねえか。この街に滞在すりゃあいずれわかることだしよ。――――それに男、今は煤けているが、男の俺から見ても絶対いい男だぜ。何せ、目が綺麗だもんな。目が」
ロジェルが哄笑しながら、リュカの肩に回していた手で背中をバンバンと叩き、間を置かずにリュカのグラスに容赦なくラム酒を注ぎ込む。そして、話上戸の彼は、半ば呂律の回らなくなってきた口調で、話を続けた。
――――実はな、フローラさんの父上ルドマンは、娘に婿を取らせて、その婿養子に家督を譲って隠居したいと願っているそうだ。あの方もそろそろ歳だしな。子供といやぁ、フローラさんただ一人……。
でだ、いいか?
あの家は伝説の英雄・トルネコの末裔という、由緒ある家柄だ。その七十三代目当主となる男は……あの女神の化身フローラさんの伴侶となる男は、そこら辺のひ弱な欲たかりのへっぽこではなく、無欲かつ智慧と勇気を兼ね備えた、男の鑑となる奴じゃなきゃならねえっ! と、ご当主ルドマンは仰せられてな。それで、明日の昼までの期限で、我ぞと思う“婿さま候補”を募集しているのだ。
リュカはそれを聞いて愕然となった。
そうか、彼女が別れ際に明日、ぜひ私の家にと言ったのは、もしかすると……。
「ちょっと待って下さいよ」
突然、リュカの背後から背の高い色白の痩身な美青年が、強引にリュカとロジェルの間に割り込んできた。
背中まで伸びていよう金色の髪を後ろで束ね、少したれ気味の二重まぶたが印象的な青い瞳の下は酒気を帯びて赤い。
細い手につかんでいたグラスに残っていたアルコール度の強い透明な酒を一気のみした後、げっぷを一つ、空になったグラスを乱暴にカウンターに置く。
「おお、アンディじゃねえか」
ロジェルが珍しそうにその優男を見る。
「いかにも! 僕はアンディ……レーベ。アンディと呼んでくれ」
「どうしたんだよアンディ、荒れてるじゃねえか」
「ひっく――――そりゃ荒れもするさロジェルさんよ。んー……なぁ、あんた。リュカっつったよなぁ?」
アンディはふらつく腕をなれなれしくリュカの肩に回す。
「ええ」
絡む奴はやはりいたかと思いつつ、素っ気なく頷くリュカ。
「あんたも行くのか? 明日、ルドマン邸に」
そう問う彼の表情は、リュカがノーと答えるのを期待しているのが見え見えだった。
「はい、伺わせていただきます。私はルドマン様に謁見を乞うために当地を訪れた者。理由は何を問うや明日、ルドマン邸に行きます」
リュカの歯切れのいい言葉に、アンディは不快そうに舌打ちをしてリュカの肩から腕を離し、ボトルを取って自分のグラスに注ぎ込むと、それをぐっと呷った。
「いいか、覚えておけ。フローラは僕のもんだ。誰にも渡さん。ましてやどこの誰とも知らないお前なんかに、フローラを奪われてたまるかっ!」
アンディがわめいているのをよそに、リュカの脳裏にフローラのことが過ぎる。
花も羞じらわん美少女。明日、ぜひ私の家に……。ある意味、男を誘う言葉である。汚れを知らぬ深窓の令嬢が、頬を微かに染めながら恥ずかしげに言うと、不思議な愛おしさがこみ上げてくるようだ。
そんな彼女と一緒にいたわずかな時間のことを思い、リュカは不覚にも短い間茫然としてしまった。
「……いっ……おいっ! おいリュカ、聞いてるのかッ!」
アンディがリュカの頬を軽く撲つ。我に返ったリュカは、赤く晴れた頬をおさえながら、苦笑する。
「ちっ…………こいつ、聞いちゃいねえ。あーあ、面白くねえ。マスター、水割りだ。水割りをくれっ!」
リュカに無視されたと勘違いしたアンディが、バーテンにグラスを突きつけて怒鳴る。
「もう、お止しなさい。親爺さんに怒られますよ」
バーテンはグラスを受け取ると、そのまま流し台にそれを置いた。
「ケッ、親爺が怖くて酒が飲めるかってんだ。それとも何か? ここにゃあ、僕に飲ませる酒はないってのか?」
アンディはふらつく足で立ち上がり、バーテンの胸ぐらにつかみかかる。
「よして下さいよ。かなり酔ってますよ」
バーテンがさっと避けたために体勢を崩したアンディは、崩れるように椅子に落ちる。
「ケッ、こんなケチな店、二度と来てやるかッ! ひっく」
その様子を見ていたロジェルはすくと立ち上がり、アンディの肩に両手を乗せて軽く揉んだ。
「まあまあアンディ、そう荒れるなって。あっちで一緒に飲もうや、な?」
とりあえずはここからアンディを離した方がいい。暴れてガラス類を割り始めたりすればしゃれにならない。ロジェルはリュカに囁いた。
(悪い。リュカさんよ、とりあえず宿に戻っていてくれ。俺はこの男を家に帰してから戻る)
(わかりました)
リュカは頷き、すくと立ち上がる。
「うーん……フローラ……」
ロジェルがうつろな目で譫言のようにぶつぶつと声を漏らしながらカウンターに突っ伏しているアンディを軽々と背負って、カウンターを外したのを確認すると、リュカは精算を求めた。
「お代はロジェルの旦那からいただいております」
リュカはロジェルの方に向き、礼をすると店を出た。外はすっかりと暗くなり、空には星が輝いている。
それにしても冷える。ぶるっと一つ身震いをすると、早足で晴月亭へ駆け込んだ。