主人ロジェルの妻アンが用意していた熱い湯に真っ先に飛び込む。そこには仲間のスライム族のスラリン、スライムナイトのピエール、イエティのイエッタが待機していた。
「うわっ、お前たちいたのか。びっくりしたぜ」
「お邪魔しておりまする」
ピエールがぺこりと頭を下げる。
「きっもちいいねー!」
ぱしゃぱしゃとお湯の上を飛び跳ねるスラリン。
「き…きもちいいぞ」
普段は熱いものが苦手なイエッタも、顔を赤くして首まで浸かっている。
「そうか、そんなに気持ちいいか。よぉしっ!」
身体の隅々の垢を洗い落としたリュカが、ドボンと音を立てて湯に入る。
ざざざざ……湯があふれて湯船から滝のように流れ落ちる。
「ぷっはぁっ! 気持ちいいーー!」
久々の熱い湯に、頭のてっぺんまで潜り、ざばっと顔を出したリュカが、両手を顔に当てて裏声を張り上げる。
「あははは。リュカ、何か面白い」
スラリンがリュカの肩にちょこんと乗る。
「お風呂というのが、こんなにも気持ちのいいものだったとは」
ピエールが微笑む。
「やっぱり落ち着くよな、風呂って言うのは」
リュカが両手を広げて再び顔を潜らす。
「の……のぼせた」
イエッタが両目に渦巻きを描きながら真っ赤な顔にだらしなく伸びた舌を漂わせながらぷかぷか浮いている。
「アハハハ。イエッタ、お前は早くあがれ。死んでしまうぞ」
モンスター使いと仲間たち。何ともほのぼのとした光景ではないか。笑い合いながら湯に浸かっていると、長旅でたまりにたまった疲れも、一気に溶けてしまうような気がした。
苦難の旅の中で、一番安心する時間。いつまでもこうしていたいが、そう言うわけにもいくまい。ずっとこうしていると、そう、逆上せてしまうのだ。
翌朝、リュカの部屋にロジェルが両手に何かを抱えながら姿を見せた。
「リュカ君、おはよう」
「あ、おはようございますロジェルさん。昨日は色々と……」
リュカは着替えにかかるところだったらしい。
「あーん、ちょっと待った」
「はい?」
「あんた、これからルドマン邸に行くんだろ?」
「ええ。すぐにでも行きたいと思います」
ロジェルは頷くと、手に抱えたものをリュカに手渡した。
「ならば、これを着て行くんだ」
「これは……?」
不思議そうにリュカはそれを受け取り、いったん寝台に置いた。黒い衣服が、丁寧に折り畳まれている。
「俺の家に先祖代々伝えられている、“カリギヌ”と“タテエボシ”という服だ」
「かりぎぬ? たてえぼし?」
リュカは初めて見る異国の礼装を興味深げに眺めていた。
「今日、ルドマン邸に集まる連中はありきたりの礼装をしている。ひときわ目立つためにはより抜きんでた礼装しなくちゃあな。おーい、アン!」
「あいよっ!」
廊下を小走りに駆けてくる音がして、ロジェルの妻、若女将のアンが、微笑みながらリュカの部屋に入ってきた。なかなかの美人である。
「リュカさんにこいつを着せてやってくれ」
「狩衣だね。あいよ」
リュカは二人の親切さに思わず涙ぐんでしまった。
「ロジェルさん、女将さん。なぜ、私のような流れ者に、ここまでして下さるのですか」
リュカの問いにロジェルもアンもぷっと笑った。
「リュカさんよ。俺たちはあんたが気に入った。なぜだか、あんたの目を見ていると気分が安らぐようなんだ。今まであんたのような旅人は来たことがない。そんなあんたを見ていると、親切にしたくなって来るんだ」
「ルドマンさんだって、あなたを見ればただ者じゃないってことわかるわ。だから格好つけることはないんだけど……あの白薔薇のフローラさんもいることだし……」
「今日はフローラさんの“婿さま候補募集”最終日だしな。大勢の野郎たちがルドマン邸に行く。少しは抜きんでた格好をしてかねえと」
「はいっ!」
リュカは深々とお辞儀をした。ロジェルがリュカの肩をぽんと叩く。
それから三〇分後、見事な姿のリュカが、化粧台の前に立っていた。
整われた髪は、首のところで結ばれ、真っ直ぐ背中まで垂れ、リュカの胴ほどはあるだろう見事な漆黒の立烏帽子を戴き、容は丁寧に無精髭が剃られ、軽く化粧されて、元々美貌なのをさらに引き立てる。切れ長の双眸がとても凛々しく、煤けて土色であった唇は、薄紅色の淡い光沢を放ち、逞しさと不思議な気品に満ちあふれていた。
二重に着たシルクの内衣に漆黒の袍・指貫と呼ばれる袴が、リュカの雰囲気を大きく変える。
武骨者のイメージはそこからは微塵も感じられず、さながら雅なる王朝貴族の貴公子風情とでも言うのだろうか。
「お―――――――――う。リュカ、見違えるようじゃねえかっ! いやぁ、大したもんだなぁ、おい。なんつっても、着付けが最高だな」
ロジェルが感嘆の声を上げる。リュカが少し照れて俯く。
「当たり前だよ。あたしの着付けだよ」
アンが自慢げに胸を張る。
「いやっ、さすがは俺のカミさんだ。着付けの天才だぁ!」
「いやだよ、お前さん……」
腕組みをしながらウンウンと頷くロジェルの背中を、アンは顔を真っ赤にしてパンと叩く。
「あははは。よーし、それじゃ行こうか」
「はい」
ロジェルの用意した幌馬車に乗り、舗道を西に約一〇分。郊外の欅並木を通り過ぎると、一際大きな豪邸が見えてきた。
鉄の柵越しに見えるのは、青煉瓦造りの屋根と壁が南北に長く、薄桜樹が庭に数本、陽光を浴びて淡い桃色に輝く。
さらに池があるのだろう。人工の噴水が豊かに水をたたえている。鳥の囀りがさんざめき、晴日和、ここに見る。
「あの屋敷がルドマン邸だ。正門前まで送る。その後は近くの喫茶駅で暇を潰しているから、話が終わったら来てくれ」
「何から何まで、お世話をかけます。このご恩は、一生忘れるものではありません」
リュカが頭を下げると、ロジェルは照れたように笑った。
「何を水くせえことをっ――――堅苦しい礼なんか抜きっ、さ、着いたぜ。頑張れよ」
「はい」
リュカは幌馬車から降りた。降りる途中で指貫の裾を踏みつけて転倒しそうになり、リュカとロジェルは苦笑いをする。
ルドマン邸の門前にはすでに黒山の人だかりとなっていた。美しいフローラと、家祖トルネコ公より七十二代積み重ねられてきた莫大な財産を手に入れんと欲する男たちの集団であった。
その中で、リュカの目を引いたのが、一番後ろに突っ立っている若く、背の高い金髪の青年であった。アンディである。
「アンディさん」
リュカが話しかける。アンディは仏頂面で振り返るが、リュカの顔を見た途端、ぱっと笑顔を見せた。
「やあ、リュカさんじゃあないですか。昨日はどうも」
「こちらこそ」
「やはりあなたも来ましたか。何と、狩衣烏帽子とは。これはまた異国の高貴な出で立ちで」
「ロジェルさんからお借りしたものなんです」
「へえ。ロジェルさんはよほどあなたが気に入ったみたいですね。旅人に着せる礼装まで用意するなんて」
「はい、私もとても感謝しております」
アンディはにこりと微笑むと、人だかりを指さした。
「リュカさん、見てくれ、この連中を。こいつらのほとんどは、ルドマン家の莫大な財とフローラの美しい身体だけを欲する、悪しき輩なんだ」
「……」
リュカが見回す。
なるほど、たちのいい連中は少なかった。だらしなく目を垂れ下げ、口をねじ曲げた男たちの中には、肥満体の悪徳商人風の中年男。顔中傷だらけのちんぴら風の若造。見るからに暗そうな、変質者風の男。
「でも、中にはまともな人間もいるようですね」
アンディが指さす方々には、金髪で背の高い、細面の壮士。
此方は太古、キングレオという国が存在したとき、父の仇敵を求めて旅をしていた美人姉妹を庇護し、後に幼少の皇太子を擁立し王朝を再建させ、『光神』の称号を得たアンディス・ディアス摂政卿の末裔ルキナス。ルラフェンの大公を務め、東洋史にその名を光神成綱と伝える人物。
背中まで伸びた亜麻色の髪、細く切れ長の目と、青い瞳、男の割には細い首筋が印象的な美青年は、遠くテルバトール王国の二位近衛将軍を世襲する名門サーク公爵家の嫡男、リアル。
ちょっと太めだが、がっちりとした体格がとても強そうで、人が良さそうな御仁は、ラインハット近衛府左軍校尉ディックル。何とエンドール王室の末裔と伝わる、オクラルベリー太守フェルイン家の嫡男エランまでいる。
「そうそうたるメンバーですよこれは。この中から一人を選べと言われても……」
アンディがため息をつく。全く、一般の妙齢な女性たちからすれば皆、垂涎の玉の輿である。リュカはよく判っていないようだったが、瞳をぱちぱちさせている。
「ま、僕は負けませんよ。この人たちにも、あなたにもね」
アンディがリュカを見てにっと笑う。
「それにしても、こんなにお偉い人達を門前で待たせるなんて、ルドマンという方はよほど権威がおありのようですね」
「そうなんだけど、ルドマンさんはとても清廉潔白な御仁として有名でしてね。身分の上下にかかわらず、用事があるときは自分から赴き、用事のある者は自分から来い。賄賂の類は一切贈らず贈られず――――と、常日頃から言っているのです。良くできた人だと、街の人達も尊敬しているのですよ」
「なるほど……」
リュカが感心したとき、門が開いた。そして玄関の扉が開き、使用人らしい中年の女性が姿を見せた。
「ルドマン様、大広間にてお待ちしております。さあ、どうぞ中へ」
使用人に案内されて、男たちは互いに話をしながらぞろぞろと中へ入って行く。
リュカとアンディは、最後、集団とは一線を画して中へ入った。リュカの出で立ちは妙に目立つ。
大広間は容易に五百人は収容できるくらいに広く、高い天井に吊り下げられたシャンデリアがとても大きく、これが縦に三連となっている。
ステンドグラスから射し込む光は、赤や青、黄、緑云々に輝き、上部がアーチ型の格子窓はとても情緒がある。
段差が三つあり、その最上段の壇に、初老の男性がいた。白が混じった頭髪、同じように口許を覆う髭、恰幅の良い体躯。威厳と渋さを兼備した雰囲気を漂わせている。この方こそが英雄トルネコより数えて七十七代の末裔、そして第七十二代当主・ルドマンその人であった。
「皆の者、よくぞ参られた。私がルドマンである」
低く、だがよく通る声でルドマンは口を開いた。
――――こたび私は、娘フローラが齢十七を迎えるにあたり、七年余にわたる修道院より還俗させ、その婿養子たるを決めんが為。
また、それと伴い、家祖以来七十二代護り培われてきた家財ならびに当主の座を譲り、この身の引退を表明するが為。
ゆえに婿たるに相応しき名士を募り、そして今ここに、諸君が馳せ参じてきたのである。
拍手が一斉に鳴り起こった。
「我が娘、フローラの婿たらんと欲するならば、当然の事知識にあふれ、私欲なく、勇気と希望を抱く者。そして、何よりもフローラを心から愛する者でなくてはつとまらぬ。……されば、今ここにフローラの婿たらんがための条件を一つ、提起しよう。その前に、自信なき者は立ち去らん」
たった一つの条件で良いと知った大広間はどよめいた。四つや五つの難問を覚悟の上で参上した者がほとんどである。しかし、この時点でそそくさと大広間を出て行く者が出始めた。門前で見た、『怪しい連中』たちである。奴らは気むずかしい事が嫌いだ。『条件』と聞いただけで諦めたのだろう。靴音が再び鳴りやみ、静寂が戻ったことを確かめると、ルドマンは再び口を開いた。
「その条件とは、この大陸の何処かにあるという秘宝『炎・水の指環(リング)』を揃えることである」
条件が提示された瞬間、再びどよめきが起こった。
「二つの指環を以て結婚指環となし、その者を婿と認めん」
その場の様子を、二階側の内側通路から伺っていた少女がいた。フローラである。
彼女は、アンディの存在には気づいていたが、それよりも漆黒の異国礼装姿の凛々しい若者に視線を奪われていた。
「……! リュカさん?」
彼女は驚いて階段を駆け下り、柱の陰からそっと覗く。そして、その青年に目の神経を集中させた。
「!」
青年の顔が判明した瞬間、彼女の胸は甘く、強くしめつけられた。
昨日、腕から放れた愛犬を優しく受け止めてくれた、ボサボサ髪の、埃まみれの青年。優しい微笑みでリリアンを愛おしんでくれた、瞳の美しい素敵な男性。
その男性が見違えるようだった。髪を整え、高い烏帽子をかぶり、ひげを剃り、無骨で荒々しい体躯も、狩衣でとても華奢で気品と優雅に満ちている。
見とれて行くうちに彼女の白雪のような頬が桜色に上気してくる。抑え切れそうもない胸の高鳴りを、それでも鎮めようとするかのように、両手を胸に押し当てる。切なげなため息が何度も出る。
「いかがかな、残った諸君よ。この条件、果たせるか」
ルドマンが一同を見回す。皆、無言でただじっとルドマンを見つめている。ルドマンは白い歯を覗かせた。
「ならば健闘を祈る。……以上」
すくりと立ち上がり、ルドマンは退出していった。
それからしばらくのどよめきの後、残った男たちは、ぽつり、ぽつりと退散し始める。
「……ふう。いや、これはまた大変な条件を突きつけられたものですな、ルキナス殿」
リアルが長い髪を撫でながら首を横に振る。ルキナスが大きなため息をついて頷く。
「指環の在処が解らなければ、探しようがありませんな」
ディックルが憮然と立ち去る。エランもまた、フンと鼻を鳴らすと、無言でマントを翻して去っていった。
結局、大広間に残ったのは、リュカとアンディの二人だけとなった。
「炎の指環と水の指環か」
リュカが呟く。
「炎の在処は知っている。だが、あなたに教えるわけには行かない。あなたは僕のライバル。炎の指環は僕が必ず見つける」
アンディがリュカに挑戦的な眼差しを向けていた。リュカは苦笑し、ふと視線を柱の方に移した。
その時、柱の陰から、淡水色のドレスを着た美しい少女が、姿を見せた。
「フ……フローラさん!」
リュカの表情が明るくなる。アンディが愕然としてリュカと同じ方向に視線を移した。
(フローラ……)
急にアンディの顔が曇る。
「リュカさん……やっぱりリュカさんだわ」
嬉しそうにリュカの側へ駆け寄る。
「来て下さったのですね……ああ、嬉しゅうございます」
愛しいものを鑑賞するように、礼装のリュカを間近に見回す。
「まさか……あなたがルドマン様のご令嬢だったとは……」
「黙っていてごめんなさい。本当は昨日、お話ししようと思っていたのですが……」
「ちょっと待った!」
二人の親しげなやりとりに我慢できなくなったアンディが、割り込んでくる。
「アンディ、こんにちは」
フローラが微笑む。
「や、やあフローラ。お取り込み中申し訳ないんだけど、昨日って、どういうこと? リュカと君って知り合いだったの?」
「あ、ああ。昨日、僕がこの街に来たときに偶然フローラさんに会って。宿屋までの道を教えてもらったんだよ」
「そ、そうよアンディ。昨日の夕方、リリアンが逃げてね。町外れまで駆けていたのを彼が押さえてくれたの。ね?」
「ええ」
リュカもフローラも妙にアンディに対してよそよそしい態度をとる。
自分の知らない間に、好きな女性が他の男と知り合っていたと言うこと自体が大問題に値するのに、この様なよそよそした態度を見せられると、不安は千倍にも膨れ上がってくるものだ。アンディは胸がちくちくと痛むのを感じて、落ち着かなくなってきた。
「そ、そうかい。はは……。あ、そうだ。僕用事があったんだ……先、帰るぜ」
アンディは引きつるような苦笑いを浮かべると、走り抜けるようにルドマン邸を出ていった。その場にいるのが辛かったのだろうか。二人の落ち着いたような表情が胸に痛かった。
あの場を離れることがアンディ自身にとってどれほど危険なことなのか、自分でもわかっていた。だが、離れなければ、ますます自分を苦しめる事になるのではないかと思った。
(なんなんだ、あの二人の雰囲気は……まるで僕を忌んでいるかのような……ははっ、考え過ぎか……)
見えないところでは自分に都合のいいように想像できる分、楽だった。
自宅に小走りに向かいながら、アンディは自分にそう、言い聞かせていた。しかし、心の中に立ちこめる灰色の靄に、アンディは焦燥に自分を見失って行く気がしてならなかった。