第3話 思慕

 リュカは少し話がしたいというフローラに導かれて彼女の部屋へ入った。
 ぱたんと扉が閉まると、リュカに振り向いたフローラの瞳が、熱く潤んでいたのだ。
「フ、フローラさん……」
「ん……」
 一室とはいえ立派な暖炉がある、普通の家の居間のような部屋。立ちすくんでいるかのように身じろぎしない漆黒の礼装に身を包んだ青年の首に、フローラは白くか細い腕を巻き付けて、微かな声を上げている。
 リュカはフローラと唇を重ねていた。積極的に、激しく唇を押しつけてくるのは、何とフローラの方からだった。
 まるでそれが本能であるかのように、フローラはリュカの口の中に暖かな舌を差し込む。無意識にリュカも反応し、お互いの甘酸っぱい唾液を堪能する。
「はぁ……ん……」
 ちゅっちゅっと音を立てながら何度も唇を離し、押しつける。そのたびにフローラの瞳が恍惚の色に染まって行くのがわかった。
 リュカの首に巻き付けていた片腕を、徐々に下げて行く。
 だが、厚い生地の上からだと、リュカの体躯を感じることは不可能だった。もどかしげに背中を撫で、肌を欲した白魚の手は、リュカの頬や首筋に這う。
 なすがままのリュカ。こういうことに興味がないわけではないのだが、あまりに突然なことだったので身動きがとれない。
「ごめんなさい……」
 ふと、フローラが言葉を漏らした。
「ごめんなさい……許して……こんな私を……」
 それはまるで熱病に冒された少女の譫言のようだった。何かに取り憑かれたかのように、リュカが知るフローラとはまるで別人と違う。彼女は再びリュカの唇を貪り始める。

(きっと、来て下さるものと信じておりました……)
 唇の抱擁を交わした後、フローラは突然正気に戻ったかのように、恥ずかしげに囁き、真っ赤になって俯く。
(ご当主、ルドマン様に面会しなければなりませんでしたし、それに……何よりも……)
(何よりも……?)
(何よりも……あなたに……)
(…………)
 今度はリュカが赤くなる。フローラが思わずリュカを見上げ、その美しい瞳を見つめた。
(…………)
 リュカも宝石のように澄んだ彼女の瞳を見つめた。互いの瞳の奥を探るかのように、二人は見つめ合っていた。
 沈黙。時が止まる。やがて……
(リュカさん……こちらへ……)
(え……?)

 両親がいる。だが、それすら忘れてしまうかと思うほど、フローラの情熱はリュカへと注ぎ込まれていた。
 さすがに衣服は捨てられない。いつ、父や母が部屋に来るかも知れない。
 将来を誓い合った男女でもない者同士が交わす口づけはもとより、婚前交渉などと言うのは背徳を極めた、破廉恥な行いであると、修道院生活で言われ続けてきた。フローラも、心の中で疚しいことをしている自分を嫌らしく思っていた。
 しかし、リュカと出逢った直後から、何故か身体の芯から突き上げてくる熱い想いは、自分でも抑えきることが出来なくなっていた。
 七年もの、いわば禁欲生活から解放された直後に、リュカのような男性と出逢ったのだ。あふる若さを、どうして抑えることが出来ようか。
 だが、今はこうして激しい口づけをかわすことしかできない。
 リュカもおぼろげながら彼女の思いを感じたか、次第に自分からも積極的に唇や舌、そして両手を使ってその華奢な身体をまさぐり始めた。背中から腰への素晴らしい曲線をたどり、片腕を背中に回しながら、もう片方の手で、聖女のような胸のふくらみに触れる。
「ん……はぁ……」
 ぴくんと一瞬、身体を強張らせ、声を押し殺すフローラ。だめだ。これ以上は危険に等しい。

 ……ラ……ローラッ! フローラッ!

 邸内に響く声が、かろうじてリュカとフローラの理性を守った。ぱっと身を離す二人。わずかにはだけたドレスを正すフローラ、狩衣の襟を整えるリュカ。ひとときも離れなかった唇がひりひりと痛む。
「お、お父様の声だわ……」
 慌てるフローラ。
「まずい……」
 ルドマンの声は一度遠ざかる。どうやらまだ部屋まで捜索の手は伸びていないのだろう。声が聞こえなくなったのを見計らって、二人はそっと部屋を出、大広間へと戻った。
「フローラッ!」
 やがて、大広間の左奥の扉が開き、ルドマンが慌てて駆け込んできた。
「フローラ、そなた、いったいここで何を……ん?」
 ルドマンがリュカの姿を見て言葉を切った。
「そなた、さきほど集まった者たちの最後列でアンディと一緒に居った者だな」
 覚えていた。やはりロジェルの言ったことは正解だったと、リュカは改めてロジェルに感謝した。そして、ゆっくりと跪き、軽く会釈する。
「これは、ごあいさつが遅れまして申し訳ございません。私、サンタローズより参りし旅の者にて、リュカと申す者でございます。このたびはサラボナ太守ルドマン様に、おりいっての嘆願これありて、何の前触れもなく今日、こうして押し掛けたるご無礼、なにとぞご容赦いただきたく、平にお願い申し上げます」
 リュカの態度に、ルドマンはことのほか好感を覚えたのは言うまでもない。
「そは何と丁寧なるご挨拶よ。わしはこの家の主、ルドマンです。まずはお立ちあれ。伏したままでは話も出来ぬ」
「はっ」
 リュカはゆっくりと立ち上がり、顔を上げる。
 ルドマンは少し厳しい表情でしばらくリュカを見ていたが、やがて顔がほころび、優しい笑顔が満面に浮かんだ。
「なるほど。良い若者だ。そうか、君がリュカ君か。昨夜、フローラがしきりに君のことを話していたよ。家の犬を押さえてくれたそうだね。礼を申しますぞ」
「お、お礼だなんてとんでもございません。こちらこそ、フローラさんには宿屋までの道を案内していただきました。お礼を申さねばならないのは、私の方です」
 ぺこりとリュカが頭を下げる。一瞬過ぎる、先ほどの光景。
「はっはっはっは。謙虚なところも気に入った。……どうかね、リュカ君。お茶でも飲んでゆかんかね」
「はっ!?」
 思わぬ展開にリュカは戸惑った。程なく、ルドマンの手がぱんと鳴った。
「よし、決まった。……フローラ、リュカ君を応接間にご案内しろ」
「はいっ!」
 上機嫌でルドマンはその場を去る。再び、二人になるリュカとフローラ。
「ごめんなさい……」
 そっと、フローラが呟いた。その白い頬に朱が差している。
「…………」
 過ぎる小さな情事。
「父は少し強引なところがあって……。リュカさん、大切な用事があるのでしょう?」
 落ちにもならない。
「あははは。何だ、そのことですか。大丈夫。ルドマンさんは幸い僕に対して嫌悪感は抱いていないみたいだし、ゆっくりとお話をすることが出来て、僕も嬉しいですよ」
 リュカは微笑んだ。そんな彼を見てから、彼女はうつむき、呟いた。
(リュカさん……あなたはいかが思っているのでしょう……父の話のことを……)
「ん? 何か……」
「い、いいえ何も……」
 また、胸が痛む。

「ほう。伝説の勇者を捜す旅を。そのために、ポートセルミの我が帆船一隻を所望と申すか」
 ルドマンが静かに言う。リュカは、幼い頃から大神殿を脱走した今までの経緯を大雑把に語った。出来事がありすぎて、すべてを語ると日が暮れてしまいそうだった。
 リュカの持つ雰囲気の理由をおぼろげながら知ったルドマンは、リュカがその旅の間ずっと期待しているだろう事をゆっくりと話した。
「実はな、リュカ君。我が家が伝える家宝と呼ぶに値する骨董は四百を超す。そなたが持参する天空の劔は、古代災禍時代に大魔王を討ち滅ぼした天空の勇者より、家祖トルネコが拝領したものの一つ。劔はその後、流れ流れて今、そなたの手にあるが、もう一つ、天空の盾と呼ばれるものが我が家に伝承されておる」
「な、何とっ!」
 リュカは驚愕した。天空四武具の一つがここにあったとは。
「そなたが伝説の勇者を捜すために、天空四武具を求めていることは先ほどの話でようわかった。出来ることならば、私としても天空の盾をそなたに託したい。されど、七十二代もの間、歴代当主たちが今日のような災禍に備えて親身に守り通してきた随一の家宝。さも簡単に手放すわけには行かぬのだ」
 申し訳なさそうに言う。
「お父様……そんな……」
 フローラが抗議するように父の袖を掴む。その白く細い手を、ルドマンはなだめるように軽く叩く。リュカは黙って俯いている。
「しかし、絶対に渡さないとは、申してはおらぬ」
「えっ……!」
 ルドマンは口許に笑みを浮かべていた。
「父祖伝来の家宝を託すのだ。そなたにも、それなりの覚悟と決断をしていただかなくてはならない」
「…………」
 ルドマンの意味深な言葉に、少し戸惑っていたリュカだったが、やがてその意味を悟ると、はっと顔を上げてルドマンを見つめた。ルドマンはにやりと笑い頷く。フローラはきょとんとしてリュカと父を交互に見つめている。
 一瞬、フローラと目が合ったリュカは顔を赤くしたが、すぐに元の凛々しい表情に戻る。そして、毅然と言った。
「もとよりそのつもりです。この身を賭し、ルドマン様のご期待に沿わん」
 狩衣の裾がふわりと宙に舞った。リュカの拳が決意に満ちて卓を打つ。リュカのきりりとした表情から発散される気迫に、ルドマンは満足げに頷き、フローラもようやく意味が分かったのか、そっぽうを向いて真っ赤になった容を隠すように俯いた。