サラボナを出航して十日が経ち、サラボナ湾の探索を終えたリュカたちだったが、怪しいと思われる場所はなかった。
仕方なく西ルラフェン海の探索に切り替えるため、帆船は北に針路を向けたが、レイチェルが申し訳なさそうに言った。
「リュカ様、だめです。この先は左右狭まった断崖を利用した水道と呼ばれる細い水路になっており、水門によって航行が不可能となっております。これを開放せぬ限り、西ルラフェン海に抜けることは出来ません」
「何とか、なりませんか」
リュカとピエールが海図を見ながら訊ねる。
「山奥の温泉村の住人ならば、水門を開いてくれるはずですが」
「ならばその村へ立ち寄りましょう」
言うが早いか、船は水門の前を旋回し、南に進める。五分ほど経たないうちに、ちょうどよい砂浜が見えた。レイチェルはさすが手慣れた動きで錨を下ろし、船を停泊させる。空を仰げば太陽はやや西に。昼過ぎであった。
「村まではここから道沿いにだいたい三時ほど歩けば到着するはずです。私は船の管理をせねばいけないので、申し訳ございません。リュカ様たちだけで、お願いします」
レイチェルが頭を下げる。
「ああ、私一人で大丈夫です。みんな、後は頼むぜ」
と、リュカは仲間のモンスターたちを船に残すと、レイチェルに言われたとおりに山道を上っていった。
そして、周囲が橙色の光に染まりかけてきた頃、森が切り開かれ、畑らしいものが見えてきた。遠くには建物も見える。
「村だっ」
思わず、駆けだしていた。温泉独特の硫黄の匂いが、不思議と心地よい。
「温泉かぁ……」
自分の使命や仲間たちを思えば、温泉のことなど考える余地はないのだが、そうは言うものの、激戦の日々を重ね、過酷な旅を続けていると、身体が本能的に休息を欲する。この硫黄の匂いがその欲望を煽った。
「せっかく来たんだ。みんなには内証で……」
さすがのリュカも身体の欲する事には逆らえない。
「んー水門け? ほだら、ダンカンさんちの管轄だっぺよ」
近くで出会った村人に尋ねると、そう答えが返ってきた。水門を管理している家は北の小高い丘にあるという。リュカは逸る足取りでそこへ向かっていた。一刻も早く水門を開けてもらって温泉に浸かるのだ。
その途中、小道の脇に小さな墓場があった。
石の十字架の墓標は四,五体横一列に並んでいる。墓場と呼ぶには語弊がある、とても粗末なものであった。
その一番左端の墓標に向かって、一心に祈りを捧げている、ひとりの金色の髪の少女が、リュカの目に留まった。
「…………」
後ろ姿ではあったが、リュカはなぜか胸がどきりとした。何か懐かしい雰囲気が漂っている。はるか昔に……。
「あ、あの……」
無意識のうちに声をかけていた。しかし、かすかに祈りの呟きが聞こえるだけで、リュカには気がつかない様子であった。仕方がない。祈りの邪魔をするわけには行かない。
そこから歩いて十分とかからないうちに、ダンカンの家はあった。高床式の木造の家。リュカは段を昇り、玄関の前に立つ。
「ごめんください。すみません」
返事はない。扉を叩く。もう一度声を上げ、扉を叩く。しかし、返事はない。
「誰もいないのかな……」
リュカがドアノブに手をかけると、それはあっさりと開いた。何と鍵はかかっていない。
「どうしよう……」
リュカは少しの間、考え込んだ。しかし、選択肢は一つである。いかに貧乏だろうと、留守の家に入り込むほど人間落ちてはいない。リュカは玄関の脇で家人の帰宅を待った。
…………
「……は、眠ってしまったか」
リュカがわずかな微睡みから覚めたとき、目の前は影が差していた。いや、影ではない。人が一瞬、影に見えたのだろう。
リュカは瞼を擦ると、ゆっくりと顔を上げた。
「リュ……カ?」
三つ編みに結われた長く、繊細で見事な金色の髪が黄昏の残光に光り輝く。色白で細く手折れそうな身体、長い素脚。
墓標に一身に祈りを捧げていた美少女が、リュカの顔に触れんばかりにその美しく可憐な容を近づけ、大きく澄んだ青色の瞳をぱちぱちさせてリュカの瞳を見つめている。すっと伸びた鼻梁、いい香りの吐息が、リュカの唇をくすぐる。
「…………あいたっ!」
顔を真っ赤にしたリュカは、思わず後ろに退こうとして後頭部をぶつける。その姿に、美少女はくすくすと可憐に笑う。
「あ……その声。やっぱり、リュカね。リュカでしょう? ほら、私よ。ビアンカ」
嬉しそうに、少女はそう名乗った。
「ビアンカ……?」
リュカは気を取り直してビアンカのつぶらな瞳を見つめながら、記憶の糸を辿った。
遠い昔……。
そうだ、ビアンカ。
ああ、僕がまだ父の手に引かれながら旅をしていたとき、一緒にお化け退治とやらをさせられた、あのビアンカか。
「ビアンカッ!?」
いきなりリュカは立ち上がり、彼女の両肩を掴んで揺さぶる。勢いよく揺すられ、ビアンカは軽いめまいを起こしてしまった。
「ちょ、ちょっとリュカ、やめてよ」
「あ、ご、ごめん」
慌てて手を離す。ビアンカは一瞬眉をひそめたが、すぐに輝くばかりの笑顔に戻り、細い指をリュカの頬に重ねる。
そして、愛おしさと切なさが入り交じった瞳で彼を見つめ、やや震える声で囁いた。
「リュカ……こんなに大きくなって……一瞬、誰か分からなかったわ」
まるで母親のような素振りだ。
「昔は私より背が低かったのに、今は私の方があなたの胸くらいしかないね」
そう言いながら彼女は背伸びをする。だが、どんなにつま先を踏ん張っても、少女の脳天ははリュカの肩に届かない。
「それに……とっても逞しくなったわ」
と、リュカの腕を優しく撫でる。その指の絹のような肌触りにくすぐったさを必死で我慢する。
「ビアンカだって、とっても綺麗になったよ。……僕だって、君が一瞬、誰だか判らなかった」
「ホント? 私、綺麗になった?」
嬉しそうに、ビアンカはリュカの瞳を見つめる。
「ああ、本当だよ」
すると彼女は、ひしとリュカの背中に腕を回して抱きつくと、こつんと額をリュカの厚く広い胸板に押し当てた。
紅潮した顔を隠す仕種。
「リュカ、中に入って。お父さんもいるから」
しばらくリュカの胸で顔の火照りをさましたビアンカが、そっと身体を離してから言った。
「え、ダンカンさん居るのか?」
「ごめんなさい。返事、なかったでしょう。……実はお母さんが亡くなってからお父さん、気落ちのせいか病気になっちゃって……。ここ三年の間、ずっと寝たり起きたりのくり返しなの……」
ビアンカの表情が曇る。
「おかみさんが……」
ビアンカが一心に祈りを捧げていた墓標は、彼女の母親マルガリータのものだったのか。
わき上がってこよう悲しみを、賢明に笑顔で繕うとしている健気な彼女を見ているうちに、リュカの心に複雑な想いが過ぎった。言葉として出せそうであった。
しかし、心が彼を奮い立たせなかった。それどころか、彼女に対し、淡い罪悪感すら覚えてしまう。
「大変……だったんだな」
思いとは別に、何ともあっさりとした簡単な言葉が、リュカの口から発せられる。ビアンカは寂しそうに微笑んで首を横に振ると、元気な声で言った。
「中、入って。お夕飯、一緒に食べましょう」
リュカは小さく頷くと、ビアンカに続いた。
「おお、リュカか」
「お懐かしゅうございます、おじさん」
車のついた椅子に座りながら、ビアンカの父・ダンカンが食卓へ姿を見せた。
しかし、そのやつれようは、とても四十代前半には見えない。髪は多くの白をたたえ、肌は病的にどす黒く、皺がとても痛々しい。
十年ほど前、父とともに会ったときにはとても若々しく、肥り気味の体にも健康さがあった。
それが今はどうであろう。とても痩せこけ、まるで六十過ぎの老人ではないか。
「本当に久しぶりだなあ、リュカ。今までどこに行っていたのだ。それに、パパスはいかがした。一緒じゃあないのか?」
「父は……」
リュカはダンカン父娘に、あの悲劇から脱出までの長い、長い経緯を語った。
「そうか……その様なことがあったとは……。リュカ、よくぞ今まで……」
「リュカ……」
ダンカンが力無く涙する。ビアンカは涙を怺えてリュカを見つめている。
――――私たちは君たちの消息が途絶えたと知ったとき、本当に信じられなかった。
ある者は魔物に殺されたのだと言い、ある者は何処かの国に仕官したとも言う。
……それから間もなく、マルガリータは気落ちがもとで急逝した。そして私もとうとう病に倒れてしまった……。
アルカパの宿を人手に渡し、ここの温泉村に居を得、移住をしたのは、マルガリータが死んでから半年後のこと。
本当に、本当にビアンカには苦労をかけてしまった……。
「お父さん……」
リュカはビアンカやダンカンに声をかけてやることが出来なかった。自分には何もできないことが判っていたからだ。
「……ところでリュカ、この村にはどんな用事で来たの?」
しんみりとした話題を変えようと、ビアンカが問う。
リュカは彼女と再会してから、水門のことを切り出すきっかけを掴みかねていたが、ようやく話をすることが出来た。サラボナの街での経緯を……。
「…………そう…………結婚を…………」
ビアンカの言葉が詰まる。
彼女の肩は小さく震えていた。もし、今リュカがこの場から離れようものなら、堰を切ったように泣き出すだろうとばかりに、張りつめた雰囲気がある。
リュカは慚愧の思いに駆られ、項垂れる。
わずかの沈黙の後、ビアンカはいつものように明るい調子に戻り、言った。
「わかったわ。水門を開けてあげる。……でも、その代わり、私も水の指環を探すの、手伝う」
リュカは愕然となった。その瞳は明らかに拒否の色にじむ。
しかし、だめと言っても無駄だろうという事は、幼い頃から彼女の性格を知っているリュカ自身がよく判っていた。
「すまない……」
リュカの口から返ったのは、謝罪の言葉だった。
それは、どんな罪を犯しての謝罪だったのか、リュカ自身判らない。ただ、無意識にビアンカに対して言わずにはいられなかった言葉であった。
「すまない……」
リュカの瞳をまっすぐ見つめていた、ビアンカの青く澄んだつぶらな瞳がしっとりと潤んでくる。そして、胸の奥から突き上げてくる切なさを押さえつけながら、寂しそうに微笑み、小さく首を横に振った。