第8話 フローラの嫉妬

「さあ、着いたわよリュカ。張り切って探しましょっ!」
 滝壺の洞窟に降り立つと、ビアンカは何事もなかったように笑顔を振りまく。彼女も、リュカも昨夜のことは一切触れようとはしなかった。
(昨夜はどちらに?)
 ピエールの質問にもビアンカは
(夜空が綺麗だったから、時を忘れて見入っていたの。あ、もしかして何か大事な用事でもあったのかしら。ああ、ごめんね)
 と、答えた。
(そうでしたか)
 ピエールは澄まし顔で納得した様子だ。
「わぁ――――見てリュカ、すごくきれい……」
 洞窟の中は、滝のトンネル・滝の壁・水の迷路だった。ルラムーン草を育んだ北大河の澄んだ水、そして岩間から差し込む太陽の光が水のプリズムを通じて七色に照らし、さながら殺伐とした現実世界の中に、天界への門へ通じる回廊かくありとばかりに、幻想的な世界を創り上げていた。
 少女のように瞳を輝かせてはしゃぐビアンカ。「あぶないよ」と、スラリンに窘められるほど、その絶景は彼女を童心に帰す。
「あまり見取れているわけにもいかない。早く水の指環を見つけてサラボナに帰らないと……」
 リュカの口からは、そんな彼女を冷たく突き放すような言葉。
「あっ、ごめんリュカ。そうだね。早く見つけてあげないと、フローラさんとルドマンさんに悪いよね……」
 乾いた笑い。
 そして、魔物を薙ぎ払うベギラマの呪文を操りながらリュカを援護し、数時後、最深部の祭壇に安置されているそれを発見した。
「きれいな指輪――――」
 リュカが見つめるサファイアにビアンカが触れようとした時だった。リュカがそれを避けるように手を引き、さっさと木箱にしまい込んでしまったのである。
「…………」
 行き場を失ったビアンカの手のひら。瞬間、哀しそうな表情を浮かべ、広げた手を握りしめ拳を作り腕の力を抜いた。拳はとすっと膝に落ちる。
「ふふふっ、ごめんリュカ。ちょっと珍しかったらつい…………」
「い、いや。僕こそゴメン……」
 ひどいと思いつつ、リュカはビアンカを突っぱねていた。
「は、早く帰らないとね……」
 何かがかみ合わない会話。いつもは陽気なスラリンも、そんな雰囲気を感じて言葉少なであった。水の指環を手に入れて、ルドマンの条件は満たし、フローラとの結婚は目前という吉事であるはずだったのに。
 リュカは逃げるようにリレミトを唱えて洞窟を抜けると、覚えたとはいえ、あまり好きでないルーラの呪文を使って、サラボナの町に近い海岸へと、帆船を移動させた。
 長い時間をかけて旅をした道が、この呪文で一瞬のうちに行き来できるのだ。便利な呪文だったが、彼にとっては何か好かない呪文だった。そして余程のことがない限り、リュカは使うまいと心に決めていたのだ。
「本当、便利――――」
 一瞬で広がる見慣れたサラボナ湾の光景に、何も知らないビアンカが、初めて見たルーラの呪文の効果に驚嘆する。
「ビアンカ」
 リュカが水を差すような口調で、彼女の名を呼んだ。
「なぁに、リュカ」
 切なくなるほどに蒼く澄んだ大きな瞳が、リュカに向く。
「君は……これからどうする気?」
「え……? どうするって…………」
 リュカの言葉を反芻したビアンカは、彼は自分がこのまま山奥の村に戻っていって欲しいと願っているのではないかと憶測し、表情が翳った。
 自分はもう用済みだ。このまま、リュカの望む通りに帰ってしまえば、彼は何の気兼ねもなく、フローラという女性と幸せな結婚を迎えることが出来る。
 リュカの幸せこそが……幼なじみであり、『お姉ちゃん』としての、自分の望み――――。
 そう、笑いながら「じゃあね、リュカ。フローラさんとお幸せに――――」と言って、手を振りながら別れればいい。それが一番良いことなのだ。

「私も――――結婚の準備、手伝わせて」

 リュカは愕然となった。そして、ビアンカ自身も自分が言った言葉に驚いていた。
「あなたのお姉さんとして、弟の晴舞台を山奥の村で黙って見ているわけにはいかないでしょ?」
「ビアンカ……君は自分が何を言って……」
 リュカは焦っていた。今、ルドマンとフローラに彼女を引き合わせればどうなるのか。勘繰りを入れられることよりも、身体を重ね合った事が露見するのが恐かった。
「……大丈夫」
 何の根拠もなく、ビアンカはそう呟いた。
「大丈夫だから……お願い、リュカ」
 呆れを通り越して、もはや何も言えなかった。

「お戻りなさいませ、リュカ様」
 使用人の女性が恭しく拝礼する。リュカも拝礼を返す。
「ご主人様にお取り次ぎを致しますので、客間にてお待ち下さい――――」
 と、使用人の女性が視線をずらしてビアンカを怪訝そうに一瞥すると、気にする間もなく、二人をちょっとした教会の礼拝堂のような食堂兼客間に通した。
「ね、リュカ。話には聞いていたけど、すごく立派なお屋敷じゃない」
「うん……」
 ビアンカの言葉に適当な相槌を打つリュカ。
 それから彼女は何を無邪気に感激しているのか、いちいち細かいことを発見し、リュカに語りかける。それはまるで、一時の沈黙を怖がるかのようにも感じた。
「悪い……少し静かにしていてくれないかな」
 リュカの一言が少女の胸に鋭く突き刺さり、一瞬にして静けさを戻した。
「ゴメン……リュカ……」
「…………」
 今にも泣き出してしまいそうなか弱い声。切ない眼差しを彼に向けるが、非情にも彼は視線を合わせようとしなかった。そして、彼は意外な言葉をビアンカに投げかけた。
「悪いけど、いったん扉の外に出ていてくれないか。僕が呼ぶまで待っていてくれると助かる」
「えっ――――――――」
 茫然とリュカを見つめる美しい瞳に、驚きと哀しみが入り交じる。
「……………………」
 無言のリュカの背中は、ビアンカに物言わせぬ圧力を感じさせた。
「そうよね。いきなり見ず知らずの私がここにいちゃまずいわよね。うん……わかったわ」
 明るさを装い、ビアンカは追われるようにリュカの側を離れ、廊下の扉の外に出ていった。
「…………」
 力無く扉に寄りかかりながら、ビアンカの胸に、じんと切ない痛みがこみ上げて来た。瞼がじわりと熱くなる。
 そのまま立ち去れば良かったのかも知れなかった。だが、何故かビアンカの足はそこから動かない。何かが引き留めているように、足は石のように動かなかった。

 やがて奥の扉が開き、太守ルドマンが姿を見せた。
「おおリュカ君、戻ったか。待っていたぞ。無事の帰還、何よりじゃ」
 半ば足早にリュカの元へ歩み寄るルドマン。そして、少し遅れてフローラが姿を見せた。扉の前でリュカの姿を見つけると、足を止め、頬を染めて恥じらう。リュカはフローラと視線を合わせると、わずかに瞼を伏せて挨拶を送った。
「遅くなり申し訳ございません。水の指環、確かにお持ち致しました」
 リュカが木箱を差し出す。
「おお、これぞまさしく伝承に聞く水の指環。……むう……」
 突然、ルドマンが険しい表情を浮かべ唸る。思わず目を見開くリュカ。
 しばらくの間、水の指環を見つめていたルドマン。やがてリュカを突き刺すように睨みつけたかと思うと、突然満面の笑みをたたえた。
「炎の指環を得た時、私はそなたを並の者とは思わなんだが、今こうしてまことに二つの指環を手に入れようとは……のう、フローラ」
「…………はい…………」
 遠目にも判るほどに真っ白な頬をピンク色に染め、切なげにリュカを見つめるフローラ。もどかしげに声が震えている。
「リュカ君」
「はっ――――」
 恭しく、ルドマンに対し拝礼するリュカ。
「二つの指環は別とし、私は君のことが心底気に入り申した。君には是非にでも、フローラの婿となって頂きたい。このルドマン、両手を伏してお願い申す」
 と、ルドマンは本当に床に両手を置き、リュカに拝礼した。
「あ、太守何をされますか。お手をお上げ下さい」
 慌ててルドマンの手を取るリュカ。顔を上げたルドマンは心底満足そうに笑顔を浮かべていた。フローラに視線を向けると、彼女はあまりの恥ずかしさからか、その容を隠す仕草。上品という言葉ではあまりある。
「太守、フローラさん。こたびの探索に当たり、協力してくれた方をお連れ致しております。是非、お会いして頂きたく……」
「おお、左様か。それは会わずにはいられまい。通されよ」
「はい。――――ビアンカ、入ってきて」
 リュカの掛け声に間を置くこと数秒。遠慮がちに扉が開き、ビアンカが顔を伏せ、両手を前に合わせたままゆっくりと歩いてきた。
 その瞬間、ルドマンはもとより、フローラまでもが驚き、そして一瞬唖然となった。現れたのが、見目麗しき金色のお下げ髪が似合う美少女。二人の予想を大きく反した人物だったからだ。
「僕の幼なじみで、アルカパ出身の――――」
 リュカを制して、ビアンカが名乗り出た。
「初めまして、ビアンカと申します。このたびは、リュカがフローラ様との縁談のために、水の指環を探す旅をしていると聞き、及ばずながら協力させて頂きました。非礼とは思いましたが、リュカとフローラ様とのご結婚、私も何かお手伝い出来ることないかと思い、まかり越しました」
 ぎこちなかった。慣れない丁寧語は、途切れ途切れ。いわゆる、かみまくりだった。
「おお、そうであったか。……しかしリュカ君、君にかような美しき幼なじみがいようとはの。言ってくれぬとは人が悪いな、ははははっ」
 ルドマンの笑顔はほんのわずかに引きつっていた。フローラはリュカに向けている恋慕に溢れた眼差しを一転させてビアンカを見つめる。
「あっ、あの……誤解ですっ。わ……私は……」
 視線定まらず舌がからまりうまく言葉が出ないビアンカ。ルドマンは乾いた笑いを漏らした。
「ビアンカさんとやら、遠慮せずとも良い。普段通りに振る舞って下され。そのほうが私たちも助かる」
「あ、あの……私のこともフローラと呼んで下さいませ」
 二人の気遣いに、ビアンカは気持ちの枷がいくらか外れた気がした。そして、水の指環の探索のために手を貸した理由を簡単に話す。勿論、その間にリュカと関係を持ってしまったことは言えようはずもない。
「そうか。それはビアンカ殿にお手数をおかけ申したな。私も短慮であったやも知れぬ。相済まなかった」
 ルドマンが笑いながら言った。
 やがて、当初は硬かったビアンカも、ルドマンの気さくな人柄に絆されて次第に打ち解けていった。
 だが、リュカは心底笑顔を浮かべることはなく、フローラもまた、愛想笑いにすら陰りが浮かんでいた。
「ビアンカ殿、いかがかな。今宵は我が家にて夕餉などを。フローラも同世代の貴女とならば話も弾むであろう」
「え……で、でも……」
 ビアンカは終始、リュカのことを気にしている様子だった。リュカを見ると、彼はひとつ小さく頷いた。
「……はい。じゃあ、お言葉に甘えて……」

 当然のように、その日の晩餐はいつになく賑わいを見せていた。リュカが見事に炎と水の指環を手に帰還。
 眼鏡に適う活躍に、ルドマン自身はご満悦だった。上機嫌の彼は、酒をあまり嗜まないリュカにも勧め、リュカは微酔いとなっていた。
 ビアンカとフローラは、初めの険悪な雰囲気は雲散霧消し、随分と打ち解けたように談笑している。初対面でもすぐに仲良くなれる事が、さすがに女の子と言ったところ。
「そうなのですか……。ビアンカさんはそんな苦悩を背負ってこられたのですね……」
 ビアンカが語った自分の経緯に、フローラは同情を寄せた。
「でも……、辛いと思ったことは一度もないの――――」
「えっ?」
 穏やかな笑顔を浮かべるビアンカに、フローラは驚いた。
「過ぎたことを悔いても、何の解決にもならないわ。…………今を生きること。未来を見つめて、今日を生きてゆく。ふふっ、だから私は自分たちの生活が苦しいとか、惨めだとか、ネガティブに考えたことはないの」
 グラスに残ったワインを飲み干すビアンカ。
「お強いのですね、ビアンカさんって……」
 頬がほんのりと紅潮したフローラが、感動ひとしおにビアンカを見つめる。
(…………強くなんかないわ……)
 それは本当に聴き取れないほどの小さな呟き。そして、わずかに瞳を逸らして見る先には、ルドマン夫妻と語る、リュカの屈託のないほどの笑顔だった。
 直後、わずかに曇ったビアンカの表情を、フローラが見過ごすはずがなかった。
「…………」
 ビアンカの視線の先に、リュカがいたこと。彼女がリュカのことを特別に想っている事くらい、最初に会った時から直感として確信していた。
 だが、今の彼女の様子を見たフローラが、無意識のうちにその胸にずきんと突き刺さる痛みを感じたことが、心の中の別の不安を増長させていた。
(リュカさんと、ビアンカさん…………)
 いつしか、フローラは食事のことも忘れ、リュカとビアンカを交互に見回していた。リュカはそんな二人の美少女の気を知る由もなく、その後もルドマン夫妻と相変わらず談笑に耽っていた。

 やがて晩餐も終わり、宿に帰るためにリュカが席を立つ。
「では、良い返事を期待しておるぞ、リュカ君」
 酔いが回ったルドマンが大笑しながらリュカの肩を叩く。その彼は苦笑いしか出来ない。
 メアリに支えられたルドマンを見送ると、一気に静まり返った食堂を振り返る。使用人たちによって、テーブルはすでに綺麗に片づけられていた。素早い対応、さすが大富豪である。
「はは……酔ったかな。……宿に帰ろか。……ピエールにまた怒られるな、ふははっ」
 常識人(?)のスライムナイト・ピエールは、仲間になって以来、主人の行いをさも女房のように諫め、励ましてくれている。オクラルベリーや、ポートセルミなどの繁華街に繰り出して帰りが遅くなったときなど、良く透る声で怒るのがピエールだ。リュカはそんな彼をよく信頼し、そしてよく苦手であった。
 アルコールの成せる作用か、やや上機嫌で廊下のドアに向かうリュカ。
「リュカさん……」
 花も恥じらうほどにやや熱を帯びた可憐な声が、リュカを呼び止めていた。
 二、三歩足を進めて立ち止まったリュカが、振り向く。そこには、胸元で手を合わせた白薔薇のフローラが、切なげな表情で、真っ直ぐリュカを見つめていた。
「おお、フローラさん。今日は御馳走さまでした。ここまでしてもらってすみま――――」
 全てを言わないうちに、リュカはバランスを崩してしまった。
「あ――――リュカさんっ!」
 ぱたぱたと、小走りにリュカに駆け寄ったフローラが、無様に尻餅をつく彼を支える。
「いけませんね。酔いが――――」
「少し……休まれてゆかれた方が……。はぁ――――お父様ったら、リュカさんに無理にお酒をお勧めするから……」
 フローラがわずかに頬を膨らます。
「あはは……心配には及びません。ひとりで帰れますから。……と、それよりビアンカは?」
 その瞬間、フローラの美しい眉が顰む。
「あっ、あの……ビアンカさんは、先に休みたいと仰って……」
 少し前に、使用人がビアンカを邸内の浴場に案内していったことを、フローラは隠していた。
「そうですか。確かに、ビアンカはここずっと休む間もなかったですから。……ありがとう。ビアンカに代わってお礼言います」
 カクンと上体を倒すリュカ。しかし、酔っているせいか、そのまま、上体が折り曲がり、フローラの胸に倒れ込む形となった。
「あっ……………………」
 顔を真っ赤に染めて、リュカの頭を胸に受けるフローラ。
「ありがとう…………」
 いい匂いのするフローラの胸で、無意識にそう呟いた時、彼女の中で、何かが高ぶった。そして、それはその華奢な腕で、鍛えられた少年の背中をめいっぱい抱きしめるという行動に表れた。
「フ、フローラ……さん?」
「あ、ご、ごめんなさい……私ったら何て事を――――」
 それは一瞬のことだった。ふわりと漂う良い香りと同時に、リュカの脳裏にいつか彼女と激しく唇を重ね合ったことが過ぎる。
 リュカから身を離すと、フローラは顔を真っ赤に染めて、顔を逸らした。まるであの日のことを覚えていないように、恥じらう。
 くるくるとリュカの視界が回る。ようやく酔いが回ってきたらしい。おぼつかない足で立ち上がり、アルコールの息を吐く。
 恥ずかしそうに、わずかに身をよじるフローラを見ているうちに、あの時の情景と共に愛おしさが募り、アルコールの力が助長させて、聊かリュカを積極的にさせていた。
「フローラさん、酔い覚ましに少し僕につき合ってくれませんか?」
 その言葉に思わずリュカを見上げたフローラは満面の笑顔をたたえていた。

 ルドマン邸の裏庭。池の片隅に抱き合う少年と少女。
 酒のせいか、少年はいささか大胆になっていた。自ら求めるように少女の肩を抱き、半ば強引に唇を重ねている。
 修道院で育まれたはずの普段は控えめで、花も恥じらう清純な乙女が、なすがままに、そして嬉しそうに少年を受け容れる。まだ慣れないながらも、懸命に小さな舌を絡めようとしていた。彼が息をつこうと離れようとしても、まるで乳呑み児のように離そうとしなかった。
 唇がひりひりするほどのキスに飽きて、半ば強引に少年が顔を離すと、二人の間に銀色の糸が伸び、月光に輝いた。
「フローラさん……」
「リュカさん……」
 真っ直ぐな髪を束ねる大きなリボンが揺れて、フローラは真っ赤に上気した顔を隠すようにリュカの胸にもたれかかる。リュカも優しく、彼女を抱きしめた。
「ありがとうリュカさん……私なんかのために危険を冒してまで……」
「何を言うのです。貴女のためだからです……」
 夜風に揺れるフローラの髪を、優しく梳く。気持ちよさそうに、フローラは瞼を閉じた。
「嬉しいですわ……。でも……リュカさん少しお酔いに……」
「確かに、僕は今酔っています。……でも、貴女を他の男性たちに奪われたくなかった。これだけは本心です。だから僕は――――信じて、もらえないかも知れませんが――――」
 フローラは小さく、首を振って否定した。
「信じます――――だってリュカさんは私の――――」
 言いかけてフローラは戸惑う。一瞬、脳裏に過ぎった不安。
「私の――――初めて……心から好きになった人ですもの……」
リュカにすがるように身を寄せ、不安を振り払うようにフローラは告白し、言葉を紡いだ。
「フローラさん……」
 そしてそれは、リュカの胸をちくりと突き刺す言葉だった。
「でも……でもリュカさんは……ビアンカさんのことを……」
 フローラが言いかけた瞬間、リュカの身体が硬直した。それが忌諱に触れたかのように、ほんの一瞬でもフローラを睨みつけるように凝視してしまった。それを悔いるかのように、ため息をつき、わずかに瞳を逸らす。
「あ――――ご……ごめんなさいっ、わ、私ったらなんて事を……」
「良いのです。何も隠す必要はありません」
 リュカはそっとフローラから離れると、視線を池に映る月に送り、ゆっくり天に移す。
「……貴女の言われる通り、僕はビアンカが好きでした。確かに、幼き頃の想いは忘れられるものではありません」
「…………」
 祈るような瞳をリュカの背中に向けていたフローラが、わずかに肩を落とす。
「ですが――――今の僕にとって、彼女のことをどう思っているのか、そして……何よりも貴女のことが……」
 リュカはその裡にある葛藤を漠然と吐露した。
 運命に導かれるように出逢った、フローラに寄せる想い。そして、定められた運命の元に再会した、ビアンカへの想いが、彼の胸を強く縛りつけていた。
「……しい……」
 微かなフローラの呟きを、リュカは聞き逃さなかった。
「フ……ローラさ……ん?」
 リュカは振り向き、彼女を見つめた。フローラは瞼を閉じ、本当に微かに肩を震わせていた。
「悔しい――――」
 今度ははっきりと、そう言った。言葉を失うリュカ。重い空気が漂う。
「どんなに背伸びをしても……どんなに取りつくろっても……ビアンカさんに――――敵わない自分が…………悔しくて…………」
 それはフローラが自分自身を責める科白だった。そして、愛しさと悲しみが交錯した眼差しをリュカに向ける。
「リュカさん…………聞かれないのですね」
「え――――――――?」
 フローラは淋しげに瞳を伏せる。
「……あなたが私のために危険を冒して旅を続けていたこの間のことです――――。リュカさんは……私のことが気にかかりませんでしたか?」
「そ、それは――――しかし……」
 ずきんとリュカの胸が疼いた。フローラは言いかけるリュカの間に言葉の楔を打ち込んだ。
「私――――アンディのところに……泊まりましたの」
 その告白に、リュカの胸は、さび付いてぼろぼろになった刀で無理矢理引き裂いたような苦しい痛みが走った。
「アンディは……私のためにあんなひどい怪我を……ですが……ですがそれ以上に私――――」
「…………」
 唖然となるリュカ。本来ならば叱責や皮肉の言葉のひとつも返すところだろう。しかし、リュカは唖然とするばかりで返す唸り声すらなくしている。
 言葉を途中で切らしていたフローラ。時の静寂が実に重苦しく二人にのしかかる。一分足らずの間が実に一時間にも二時間にも感じた。
 やがてフローラは、言葉を紡ぐ代わりに、じわりと涙の粒が眦に溢れ出してきた。
「どうしてですか……。どうして…………何もおっしゃって下さらないのですか……」
 それは悲しみに満ちていた。時に天地を司る精霊の占術を遙かに凌駕する女の直感が、リュカを責めていた。
「…………」
「うっ…………ひくっ……」
 それでも何も言わないままのリュカ。ついにフローラは耐えきれず、身を翻して駆け出してしまった。