ルドマンの計らいで、その日からしばらくの間、ビアンカは離れの別荘で仮住まいすることになったのだが、そのことで、今朝早くから、家人たちが一斉に別荘を整えていた。
仰々しい待遇に戸惑うビアンカだったが、ルドマンは、リュカに寄せる思いと同じ感情で、ビアンカにも何か遇したいと言うことだったらしい。
短期間ながらも、ビアンカは別荘でひとり暮らすことになる。
そして彼女にとっては、リュカとのことと同等に、父ダンカンが心配だった。
しかし、その心配もすぐに無くなる。
山奥の村に派遣された、ルドマンの家人の報告で、いつも昵懇にしてくれている農家のエルゴさんたちが、都度ダンカンの様子を見てくれると言うことだった。
そして、ルドマンの計らいで山奥の村に医師が派遣され、健康面でも心配には及ばないとの墨付きを得た。
ダンカン自身もビアンカへ『今は自分のことを考えよ』との言伝をルドマンの家人に託した。
そのことで故郷の憂いを払拭したビアンカの脳裏には、すでに七日後の事でいっぱいになっていた。
果たして、リュカが縁の笏を差し出してくれる相手は、自分なのか、フローラなのか。
「はぁ――――――――」
ビアンカは長いため息を漏らし、作られたベッドの上に、スタイルの良い身体を投げ出した。そして、ぼうっと天井を見つめる。
(リュカ…………)
ゆっくりと瞼を伏せると、幼なじみの少年の姿が映った。
無邪気と言うには語弊がある、澄んだ瞳、どこかしか頼りなげな、それでも子供心に、一緒にいるだけで安心出来た存在。
今思えば、それこそが初恋……『恋心』というものだったのか。
(どうして…………どうしてなのリュカ……)
彼を思うと胸の奥がじんと熱くなる。
(私のこと……嫌いなら……
はっきりそう言ってほしい……)
すうっと、彼女の眦から一筋の涙が伝う。
瞳の奥のリュカは、慙愧の表情でビアンカを見つめていた。
(……じゃないと……私……)
切なげにため息をつく。
初夏の夜半。微かにさざめく夏の虫たち。
涼しい風に乗せて、遠く波の音が聞こえてくる。
薄暗く部屋を照らす、洋燈の黄色い炎。
とても静かなひとときだった。
(……私……あなたのこと……もっと――――)
感情が高ぶった。そして、それはビアンカの心中にある性蟲を惹起させる。
芯が疼く。
わずかに身を捩り、彼女は無意識にその蟲を拒もうとしていた。しかし、実に呆気なく、その壁は破られる。
蠱毒に冒されたビアンカの白く、しなやかな指がひとつ、浅葱色の服に包まれた胸元に向かい、ひとつはもどかしげに短い裾からすらりと伸びた、細く長い脚に這う。
生き物と化した奇麗な指は、巧みに胸元をはだけて、桃色の頂点を晒す。
そして、もう一つの生き物は、言葉に表しがたいほど素晴らしい感触の太股を、舐めるように登ってゆく。
その肌に、まるで指先が歓び、躍っているようだった。
「ん………………」
形の良い乳房をぎこちなく包み、ゆっくりと揉み扱く。
(ああ……私……こんなこと…………リュカ……)
蠱毒はリュカへの切ない思いと共に、強くなって行く。
柔らかな双丘を戯れながら、焦らすように、頂上の寸前で旋回する指。そして、もう一つの生き物が、まるで気怠そうに、太股のまろみを堪能する。
(リュカ……そんな……あぁ……)
想像の中でリュカに触れられるビアンカ。
リュカは大胆だった。
狩衣烏帽子の姿で、ビアンカの肢体に点在する性感帯を的確に刺激してくれた。
目を細めておもむろに唇を耳元に寄せると、彼女がいたく悦ぶ刺激的な呪文を囁き、わずかな卑猥な笑みを浮かべて耳朶を軽くかむ。
「やぁ……ん………………だめ…………うぁ」
直接的な愛撫とともに、性の欲望に満ちた少年の瞳がビアンカの肌を犯してゆく…………。
少女の清冽で初々しさが残る、微かに嗄れた喘ぎ声と、粘っこい水の音が絶え間なく微かに響く別荘。消えかかる洋燈にわずかに照らされる、裸身。
彼女に課せられた哀しい宿命が、皮肉にもそこはかとない淫靡な情欲を更にかき立てていた。
今まで幾度となく、若さの象徴として、自らを慰めてはきた。
だが、今日この日ほど鎮めても鎮めても、身体の疼き、溢るる蜜が止むことはなかった。
「りゅ…………かぁ……」
まるで見てくれと言わんばかりに身体を開き、腰を浮かしながら自らの秘壺をなぶるビアンカ。
(私――――私……なんかヘン……ヘンになりそうだよ……リュカぁ――――!)
取り憑かれたように彼の名を呼び続けるビアンカ。
十八歳の美少女は、この上ない淫靡な姿を夜気に晒しながらも、羞恥心すら押し寄せる想いにうち勝てず、もはやリュカに対する想いだけがひとときの不安をうち消し、自らを慰める行為に一心不乱に没頭していった。
リュカは窮屈以外の何ものでもない狩衣烏帽子を身に纏ったまま、宿の屋上で木椅子に腰を落とし、片方の膝頭に凭れ夜風を受けていた。
唇を結んだまま、中天に差し掛かる蒼い月を、ただ真っ直ぐ、寂しげに見つめる。
はたはたと、袖や裾が微風に靡いていた。
(太守は僕の迷いを……。そして……フローラさんとビアンカは……)
手に握りしめる象牙の笏は夜気に馴染み、冷たいはずなのに、リュカの掌にはじわりと汗がにじんでいた。
「僕は……」
突然、月光に冴えた夜気がリュカの胸を突いた。
二人の美少女の甘く切ない表情が視界を掠め、鼻腔の奥がつーんとなった。
「ああ――――どうすれば……!
僕は……
僕は誰かを傷つけることなんて……
神よ……
……父さん……」
リュカは両手を広げ月を抱き、嗄れた声で叫んだ。
「烏帽子狩衣か――――。そうしてお月様見上げてる姿は、いやに様になってるじゃねえか、リュカ」
それは、リュカの叫声が、ゆっくりと優しい濃紺の闇に包まれて消えていった時だった。
「…………」
「――――よっ」
リュカが振り返ると、その青年はそう微かにはにかみながら、右手を軽く挙げる。
「ヘ……ヘンリー!」
それは誰なん、リュカにとっては、この十数年、語るに尽くせぬ大親友・ラインハットの第一王子・ヘンリーの懐かしき姿だった。
「ヘンリー。どうして君がここに――――」
予期もしていなかった親友の登場に、否応なく当惑するリュカ。
しかし、そんなリュカをよそに、ヘンリーは小さく笑う。
「どうしてとはずいぶんご挨拶じゃねえか、……『子分』のくせによ」
この憎まれ口は寸分も変わっていない。リュカははにかんだ。
つい数ヶ月前までは、共に苦難を分かち合い、故郷の危難を共に乗り越えてきた刎頸の友の素顔なのだ。
「サラボナ公の通信使から、子分がいよいよ身を固めるって報せを受けてな、祝いのためにわざわざ身を運んできたってのに……。リュカ、湿気た面してんじゃねえよ」
ぽんと、ヘンリーはリュカの肩を叩いた。
そして、おもむろに小さな水筒を差し出す。
「ヘンリー……?」
「ライムサワーだ。さっき作ってもらった。どうせ何も飲んでねぇんだろ? 飲もうぜ」
ヘンリーは薄手の外套をばさっと払うと、やや粗忽にリュカの隣に腰を落とし、水筒の栓を抜いた。きゅぽんと、小気味のいい音が響き、一口、それを呷る。
「はぁ――――うめえ。……ちょっと城にいるだけで、身体が鈍っちまうなんてな――――。お前と旅していた頃が、遠い昔のような気がするよ……」
リュカもヘンリーに勧められてライムサワーを口に含んだ。
渇ききった口と、いやに粘っこい喉を清めるかのように、ライムの香りとアルコールの熱さが心地よく広がってゆく。美味かった。
「ヘンリー。そう言えば、マリアさんは……?」
リュカが訊ねると、ヘンリーはちらりとリュカを一瞥し、小さくため息をついた。
「……ああ。マリアはもう休んでいるぜ。何せこの二日ばかり、ひっきりなしに歩きづめだ、疲れもするさ――――」
「そうか……それは大変だったんだね……」
ヘンリーとマリアが、あれから間もなく結婚したという話は風の便りに聞いていた。
二人と共に過ごした年月を思えば、二人がそこはかとなく惹かれ合い、結ばれたことはむしろ自然の道理であろう。
そして、リュカは旅の空で、ヘンリーならばきっと、マリアを幸福に出来ると、確信していた。
「……ふふっ、ははは…………あはははははっ!」
突然哄笑するヘンリーに、リュカは唖然となった。
「相変わらずだな、お前は――――」
「ヘ……ヘンリー……?」
しばらく笑いが続いたかと思うと、突然ぴたりと真顔に戻るヘンリーにリュカは戸惑いを隠せなかった。
「あのな……マリアは――――」
ふと、ヘンリーは言いかけて止まった。
首を傾げるリュカに、親友は寂しげな微笑みを浮かべる。
「……わりぃ……何でもねぇ」
ヘンリーは水筒をぐいと呷った。
「…………」
リュカはかける言葉を見失い、唾を飲み込む。
「そんなことよりもリュカ。お前のことだぜ? ……町中の噂じゃ、随分と羨ましい状況下にあるみてえじゃねえか。肖りたかったもんだね」
ヘンリーは揶揄するように言った。
「冗談はよしてくれないか――――。あまり戯ける雰囲気じゃなくて……」
リュカの言葉に、ヘンリーは素で返す。
「わかってるよ。……俺で良かったら、事情話せよ。少なくても、恋愛や結婚経験ならお前よりも先輩のつもりだ。まァ、参考になるかどうかは自信ねーけどな」
「ありがとう……ヘンリーが来てくれて助かったよ……」
ロジェルでも良かったが、父よりも永く同じ時を過ごし、実の兄弟以上に気心知れたヘンリーが側にいることは、リュカにとってまさに神の手助けに等しかった。
リュカは縁の笏をきゅっと握りしめる。そうすることで、幾分気分が和らぐような気がした。
そして、ヘンリーにフローラとの出会いから、ビアンカとの再会、そして今日に至るまでの経緯をゆっくりと語る。二人と婚前交渉を持ったこと以外全てを。
ヘンリーはリュカの話を聞きながら、ぐいと水筒を呷り、ライムサワーを飲み干した。リュカが語り終えても、アルコールの匂いわずかに混じる息を夜風に乗せ、気分良しといわんばかりの面持ちで、月を見上げていた。
「いい月だなぁ、リュカ」
「…………」
リュカは驚いたように目を見開いて、ヘンリーの横顔を凝視する。
ほろ酔い気分の親友は、リュカの苦悩を酒肴とでもしているのだろうか。
「太后の下じゃ、こんな綺麗な月は拝めなかった。まして……奴隷の時なんざ尚更だよな」
「……あ、ああ……」
御門違いの思い出話に、リュカは間抜けな相槌を打つしかない。
「…………」
しばらくヘンリーは月を見つめた後、ふうとひとつ長いため息をつき、リュカを見た。
「お前――――何を悩んでるんだ?」
「え…………?」
予期せぬ問いかけにリュカは耳を疑い、思わず聞き返す。
「だから、一体何をそんなに悩む必要があるって、聞いてるんだよ」
ヘンリーは語気を全く変えず、淡々と言う。
「……何って……だから言ってるじゃないか。僕は……フローラさんか……ビアンカか……」
ルドマンの結婚延期の理由を聞かされた後から、リュカは正直、五里霧中のただ中に身を投じられた。
二人のどちらを本当に愛しているのか、自身見失ってしまったのだ。
ヘンリーには、そんなありのままの自分の心情を語ったつもりだった。
しかし、ヘンリーはやや嘲るように鼻を鳴らし、言った。
「……それで、どっちが……満足出来た?」
「…………?」
ヘンリーの好奇の色に満ちた瞳が、じっとリュカに向けられている。リュカは意味がわからず、ヘンリーを見返した。
「身体だよ。……寝たんだろ、二人と」
「!?」
ヘンリーの言葉に、リュカは愕然となった。
思わず声を上げ、身を退き、烏帽子が倒れかけ、笏が躍る。胸から下腹部へと、何かが走る感覚に襲われる。
「ヘ、ヘンリー、な、何を……!」
「何慌ててんだよ。別に慌てることはねぇだろ」
淡々とした様子のヘンリーに、リュカはただただ、狼狽するばかりだった。
「何でわかったかってか?
そりゃ……お前の様子見てりゃ、きっと誰でもわかるぜ。
……まして、伊達にお前と十数年もつき合ってる訳じゃねぇよ。……俺に隠すだけムダってもんだ、リュカ」
やはり、ヘンリーにはかなわない。リュカはそう思った。
「ああ……責めてよ。……僕は…………僕はでもっ! 生半可な気持ちなんかじゃない!」
フローラを愛し始めながら、再会した幼なじみのビアンカを抱き、帰還後にそのフローラすら抱いた。誰もがリュカを最低と責めるだろう。
「……そんなこたァ判ってるよ。お前は中途半端な気持のまま女を抱けるほど器用じゃねえ。それに、二人ともそれを承知してんだろ」
「…………」
「普通じゃ――――ねぇよな。……もしも、俺がちょっとでも、当事者の立場だったら、間違いなくお前のことをぶっ飛ばしてたぜ」
ヘンリーの言葉に、リュカは肩を落とした。かくかくと、身体の芯から震えが走る。
「お前の話聞く前に、サラボナ公の息女と、ビアンカさんのことは見聞きしたよ。
……全く、あんな絶世の美女二人にそこまで愛されるお前が羨ましいぜ。……他の男共が聞いたら、間違いなく袋叩きにされちまうところだよな」
「…………」
俯くリュカ。ヘンリーは水筒をゆっくりと石床に置くと、ひとつ長いため息をついた。
「でもな、お前が結婚するしないに関係なく二人を抱いても、それを責めることは、俺は当然、たとえサラボナ公にしても、誰にも出来ねぇんだよ」
「ヘンリー……?」
予想外の言葉に、リュカは顔を上げる。
「何故なのか、お前わかるか?」
リュカにわかるはずのない質問をぶつけるヘンリー。
「二人とも、心の底からお前のことを、本気で愛してるからだ」
語気強く、ヘンリーは言った。愕然となるリュカ。
「上辺だけの言葉や感情で繕った脆さのままで、抱かれる女なんていねえよ……。
二人とも、そんな尻軽女じゃねえってことくらい、お前が一番良く判ってんだろ」
リュカは無言で頷く。ただ、ヘンリーのその言葉に、確信をもって頷くことは出来なかった。
「ましてや、紛いなりにもお前との“結婚”を目前にしている関係だ。それがどういうことかくらいわからないほどバカじゃねえよ」
いかにそれまで、父の遺志を継ぐことに躍起となり、自らの女性経験がないリュカといえど、ヘンリーの言うことの真意がわからないほど暗愚ではない。
「わかるよっ! だから悩んでるんだ……」
思わず声を荒げるリュカ。それはヘンリーにではない。まして自分を愛してくれる二人の可憐な美少女であろうはずがない。
「…………」
ヘンリーは不思議そうに、リュカを見る。
「……だから、何をそんなに悩む必要があるかって聞いてるんだよ」
「……え?」
さすがのリュカも、ヘンリーに対して今度は不快感を顕した。眉を顰めて親友を睨視する。
ところが、ヘンリーは今度は怒気を含ませてリュカに食って掛かる。
「二人の気持ちはもう決まってんだろ。後はお前の素直な気持ちのまま、本当に好きな女を撰ぶだけじゃねえか」
ごく当たり前な言葉だった。それはリュカ自身、当の昔に理解していた。だから、ヘンリーに対して失望にも似たため息を漏らす。
「……君には、わからないだろう。僕が……僕がどんな気持ちで、七日後に選択の場に臨むのかが――――」
「…………」
リュカの瞳が月光を含み、ゆらゆらと揺れ、煌めく。毀れてしまうばかりに縁の笏をぎりぎりと握りしめ、血がにじむばかりに唇を噛む。
……二人が隣同士に並び、僕がこの縁の笏を、フローラさんか、ビアンカに差し出す……。
ルドマン公やメアリ夫人……
アンディやロジェルさんたちの面前で、傷つけてしまう事になるんだっ!
僕が……僕が二人を――――
傷つけたくない……
誰も傷つけたくない……
誰の泣き顔も、見たくないんだよ……。
そう漏らすリュカはうち震えていた。
大神殿でいかに過酷な労働を強いられようと、千回の鞭笞を受けようと、そして伝説の勇者を求め、凶悪な魔物と鎬を削り、九死に一生を得る苛烈な征途の中であろうと、ここまで兢々とする事はなかった。
リュカの目的からすれば、当地の出来事は旅先の見聞のひとつに過ぎないはずだった。
ルドマンに認められた以上、天空の盾を拝領し、そのまま次の地へと旅立つことも、不可能ではない。
しかし、それは既にリュカの中で選択肢にはならなかった。
「……傷つくのが、そんなに怖いのかよ」
ヘンリーは穏やかに言った。だが、それでも怒気は衰えることはなかった。
「お前がそこまで軟弱者だったとはな――――。お前を愛した二人……。そして、お前を見込んだサラボナ公は、よほど人を見る目がないと言うしかねぇぜ!」
「な……なんだって――――」
ぎりっと、リュカは歯をかみしめてヘンリーを睨む。
「黙って聞いてりゃ都合のいい事ばかり言いやがって……。所詮、お前は自分が一番傷つきたくねえだけじゃねえかよ!」
「ヘンリー!」
ガタッ……
リュカの手から、まだ中身が残っていた水筒が床に転がる。ゆっくりと流れ出す液体に、月が反射した。そして、リュカはヘンリーの胸座を思いきり掴み上げていた。
「…………」
「…………」
遠く聞こえる海鳴り。そして近くの虫の鳴き声。耳元の微風……。静寂が二人を戒めるように包み込んだ。
ヘンリーは哀しそうにリュカを見つめる。かたやリュカは、遂にぽろぽろとその美しい瞳から雫を落とした。
「……ごめん……」
リュカは手を離し、力無く石床に崩れる。象牙の板が、からんと場違いな音を立て、転がった。
「……殴っても、良かったんだぜ……」
崩れた服装を正す素振りも見せず、ヘンリーも肩を落とす。
「……俺も、言い過ぎた」
小さく首を横に振るリュカ。
しばらく時が止まったように身じろぎひとつもしない二人。
やがて、ヘンリーは崩れ落ちたリュカの両腕を掴み上げ、強引に立ち上がらせた。
そして縁の笏を拾い、先端で軽くリュカの胸を撲つ。
「リュカ。……お前の悩む気持ち、わからなくもねえ……。だがな? これだけはわかっておけ」
リュカは唇を結んだ。ヘンリーは一語一語、諭し窘めるように、言葉を紡ぎ出した。
――――フローラさんも、ビアンカさんも、もう既に傷ついてんだよ……。
……誰も傷つかねぇ恋愛なんて、本物なんかじゃねえ…………。
もし、二人を抱いたことが、お前の心に寸分でも重荷を感じさせているならば、それは違うぞ。
好きになった者同士が、互いの身体のぬくもりを求め合うことは、何も間違いなんかじゃねえ。
何が間違ってるか……。
それは、お前が二人を抱いたことに、後ろめたさと後悔を感じる心だ。
もしもお前の心が、そんな疚しさに満ちていれば……二人はもっと、もっと、一生癒えることのない傷を受けることになる。
それに…………
お前が今、こうして悩んでいる間にも……
二人は……傷ついているんだ。
お前のことを、身を引き裂いてしまうほどに愛しちまったから……耐えがたい痛みを、今も二人は受けつづけていることを……
リュカ……
絶対、絶対に忘れんじゃねえぞ……!
烏帽子がふわりと舞い落ち、リュカの整われた長い髪が夜気にさらされ、月光を粒に変える。
そして、思わずヘンリーに抱きつき、肩に顔を埋め、必死に声を押し殺そうとしたが、とうに嗚咽は限度を超えていた。
ヘンリーは何も言わずにそっとリュカの背中をぽんぽんとたたき宥める。
やがて、ヘンリーは双眸に寂しげな色を湛えて月を見上げ、思った。
(本当に……罪な男だぜ、お前は――――)
リュカのくしゃくしゃな顔に失笑し合った後、二人は夜も更けたことでそれぞれの部屋に戻った。
妻の安らかな寝顔に微笑むヘンリー。
そして、親友の言葉を何度も反芻するリュカ。
お互い、深い眠りに落ちていったのは、それから大分経ってからのことだった。