サラボナ郊外にある眺海台。リュカの仲間たちは、太守ルドマン公の配慮によって、その期間、馬車と共に在していた。
「リュカ……だいじょうぶかな……」
一番初めにリュカの仲間となった、スライムのスラリンが不安げにそう呟く。
「不安ですか、スラリン」
冷静沈着で、事実上、魔物仲間たちを統率するスライムナイトのピエールがそう訊ねると、スラリンは当たり前だよとばかりに、ぴょんぴょんと跳ねる。
「ご主人もいよいよ伴侶を娶られるか。儂も若かりし頃はそうであったのう……」
好々爺マーリン、瞼を閉じて感慨に耽る。
「もどかしいですね――――」
ふうと、ピエールがため息をつく。
「がるる?」
もそりと頭を上げたプックルが、疑問の表情を示すようにヒゲをぴくりとさせる。
「プックル。こう言う時は、私たち魔族では、どうにもならないのですよ」
「そうじゃのう……」
ピエールのため息に、マーリンが頷く。
「どうにもならないって……どういう事なの?」
スラリンはピエールやマーリンの言葉の意味がわからなかった。
「ボク達じゃ、リュカのチカラにはなれないのかな……」
ガンドフの頭上にぴょこんと乗るスラリン。ひとつだけの大きな目を上に向け、ガンドフは相変わらず、ぼーっとしていた。
「力にはなりたいのじゃよ。……じゃがのう――――こればかりは、ご主人自らが決断すべき事なんじゃ」
「マーリンの言う通りです。私たちがリュカに出来うることは、どんな状況になったとしても、リュカについて行くと言うことなのです」
ピエールは冷静にそう語った。だが、なおも小難しい表情を浮かべているスラリン。
「へーき……スラリン……へーき」
まるで宥めるかのように、スミスがのそのそとスラリンの身体を撫でる。
「わぁ、スミスー……」
どうもスラリンはこの純朴な腐った死体がいい意味で苦手なのだ。そして、メッキーやドラきちらを巻き込んで、喧嘩と呼ぶには烏滸がましい、じゃれ合いが始まるのだ。
「……また始まったようじゃ。飽きぬようじゃのう、ふぉふぉふぉ」
まるで我が孫を見るかのように、微笑を向けるマーリン。
「…………」
ピエールはじっと街の方を向いたまま、何かを考え込んでいる様子であった。
「ピエールよ、いかがしたのじゃ?」
「……あ、いえ」
マーリンの声にやや慌てるピエール。
「……大丈夫じゃよ。ご主人も、奥方になられるお人も、間違った答えのない道なのじゃから――――」
マーリンはピエールの心を察した。
「はい……」
穏やかな街の灯りに、仲間たちの思いが込められてゆくようだった。
ヘンリーと再会したリュカは、翌日から急に狩衣烏帽子の礼装のまま、教会・サラボナ大聖堂に終日身を置いていた。そこは言わずもがな、リュカと、その妻になる女性との結婚式の舞台である。
「リ、リュカ様ッ、困ります。式の準備が――――」
当惑する教会のシスターをリュカの優しくて厳しい眼光が圧す。
「五日……いや、四日だけ……僕に、神と対話するお時間を頂きたい……」
そう言って、リュカはひとり、祭壇の上方、ステンドグラスに掲げられている十字架に対した。
大聖堂のバージンロード。花嫁・花婿が神父の説教を受けるちょうどその壇下で、リュカは腰を落とし足を組み、ぴんと背筋を伸ばし、左手に縁の笏を真っ直ぐに持ち、両の拳を膝に乗せ、瞼を閉じ、唇を真一文字に結んだ。リュカの胴ほどもある高い漆黒の烏帽子の先がぴくりとも揺らがない。
瞑想にも似たリュカの行いは、早朝から、夜まで続いた。その間、リュカは一切食事も取らず、水すらも、唇を湿らす程度にしか飲まなかった。
さすがの神父も、リュカの身体を心配し、一度声をかけたが、リュカは「大丈夫です」とだけ言って引かなかった。
三日が過ぎた。
ルドマン公との約束の日まであと三日。リュカはその間、一言も声を発せず、じっとその体勢のまま物思いに精神を預けていた。
カタン……
音響設備の整った大聖堂は、どんな小さな音も捉えて谺する。大扉をわずかに開いた音すらも……。
石化したかのように壇下に瞑想するリュカの後ろ姿を、フローラはうっすらと頬を染めて、切なそうに見つめていた。
(リュカさん…………)
胸に合わせた手のひらをきゅっと握りしめる。
(私……私リュカさんのために何か出来ることがあれば…………)
フローラはリュカとの間にある、微妙な距離を敏感に感じていた。
リュカと情交を重ねれば重ねるほど、フローラの心は幸福に満たされる反面、リュカの心の隙間すら、どんどん明瞭になってゆくもどかしさに焦っていた。
リュカはきっと、フローラが大扉の隙間から自分を見つめていることを知っているのだろう。しかし、彼は精美な彫像のように眉ひとつ動かさず、唇の真一文字を崩さなかった。
(…………リュカさん……)
振り向かないリュカに、フローラはその汚れなき水晶のような心に、急激に曇りが差してゆく感覚に胸を突かれた。
「――――っ!」
フローラは扉を開け放し、そのまま駆け出し、思いきりリュカに抱きつきたい衝動に駆られた。
リュカに抱きしめられたい。リュカと熱いキスを交わしたい。いつしか、奥ゆかしい深窓の令嬢は、その深い恋を知ってしまったがゆえに、精神の奥底で眠れる“情熱”を呼び覚ましてしまったのだ。
大きなリボンに飾られたスカイ・ブルーの長く美しい髪を揺らし、まさに駆けだそうとしたその瞬間、フローラは誰かに肩を掴まれ、止められた。
「っ!?」
強く怒気をにじませて振り向くと、青い羽根帽子に薄手の外套を身に纏い、腰に佩剣を差したエメラルドの髪の青年が、フローラを見つめながら小さく首を横に振る。
「あ、あなたは……」
「……そんなことよりも、今貴女がリュカの元にいて何が出来る」
「あ…………」
青年の言葉に、フローラは止まった。
「リュカ(あいつ)は今、自分の胸に渦巻いている迷いの中で、真実の答えを見つけようとしている。
……今、貴女があいつの側に駆け寄りたい気持ちはわからなくない。
だがな……
今ここで、貴女が不用意にリュカの前に飛び出せば……リュカは再び真実を見失ってしまうだろう。
それが何故なのかは、貴女が一番良くご存知のはず……」
フローラはひどく切なげにリュカの背中を見つめた。身動きのしないリュカの後ろ姿。まるで無機質な石像を、遙か後ろから愛しそうに見つめているだけの虚しさを禁じ得なかった。
バタンと、無情に大扉を閉める青年。
「手間は取らせません。少しばかり、このヘンリーにお付き合いいただけませんか、フローラさん」
彼は使い慣れた巧みな技法で、さり気にそう名乗った。フローラは頷いた。
宿に隣接するバーは、昼はカントリーな装いの喫茶店になる。
仮初めにもサラボナ大公家の御令嬢であるフローラが、こうした庶民感覚の店に訪れることは珍しい。リュカと出逢ってからは、彼女自身の意思で外出する機会が増え、全てが新鮮に目に映った。
「やぁ、フローラさん。……お、そちらの立派な人は昨日の」
コーヒーカップを磨きながら、マスターが口ひげを綻ばす。
「どうやら、少しばかり早く来すぎたかもしれねぇ。みんな、湿気た面ばかりしてやがる」
マスターに愚痴るヘンリー。苦笑するマスター。
「あなたさんも眉毛が八の字のようで。奥さんがご心配でしょう」
「ポートセルミに着いてから二日も歩きづめ。十日の旅も手慣れたもんかと思っていたが……」
と、マスターとの雑談に花が咲く前に、ヘンリーは思わず苦笑する。
「ノンアルコールのグレープで、いいね?」
「……あ、はい……」
反応が遅れたフローラ。ヘンリーはふうとため息をつくと、カウンターに席を勧める。
「すみません……」
フローラは椅子に腰掛けると、やや力無く、カウンターに視線を落とす。
「俺はミルクでいい。温かい奴ね?」
マスターは微笑みながら頷くと、支度に取りかかる。そしてヘンリーはフローラの隣に腰掛けた。
「…………」
「…………」
それからしばらくの間、何故か互いに口を開こうとはしなかった。
「レディファースト。フローラさんのお口に合うかどうかはわからんけど、ノンアルコール・グレープハイどうぞ――――」
甘酸っぱい香りとともに、グラスをフローラの前に置くマスター。
「あ……ありがとう……ございます――――」
見ず知らずの間柄ではないのに、何故かよそよそしい態度のフローラ。マスターも苦笑気味だ。
「あ……あの……ヘンリー……さん?」
なかなか話を切り出そうとしないヘンリーを訝しげに、フローラは言った。
その時だった。ドアベルの音が静かな店内に強く反響し、ひとりの客が入ってきた。
「こんにちは…………」
玲瓏とした少女の挨拶が、やや場違いに響く。
「参られたか――――ビアンカさん」
ヘンリーはそう言って振り向くと、こくんと頭を下げた。
愕然となるフローラ。思わずヘンリーと同じ方向に振り返ると、浅葱色の筒衣に橙色の外套を纏った、金色のお下げ髪の美少女が、ヘンリーを見てぺこりと頭を下げた。
そして、『恋敵』同士である二人は、目を合わせても決して憎愛の眼差しで互いを意識することはなかった。
「まずはこちらへ――――」
ヘンリーは立ち上がり、ビアンカを自分の座っていた椅子の隣に導く。ビアンカは小さく返事をすると、ヘンリーの勧めた椅子に腰掛けた。
「お、『両手に花』ですね?」
と軽く揶揄するマスターに、ヘンリーは笑いながら鸚鵡返しに答える。
「ここに座るのは、本来俺じゃねぇんだがな。当事者はただ今、精神統一の真っ最中だ。……俺はいわば、大輪の美花の鉢にある、小さな値札だよ」
「ははははっ、ご謙遜だね」
マスターは笑いながらホットミルクを差し出す。
「そちらの美しいお嬢さんは、何がよろしいので?」
マスターがビアンカに話しかけると、ぼうっとしていたのか、ビアンカは驚いたような顔をする。
「えっ……? あっ、はい。ええと……それじゃ、サラボンティーグルにしようかしら」
マスターは了解とばかりに、ウインクに指打ちを交える。
薄い紫色のジュース。サラボナ地方特産の果実・サラボンティを原料とした高栄養・低カロリー飲料。ジュースと言っても甘くない。仄かな苦みが、どこかコーヒーの味に似ている。
ビアンカは、亡母マルガリータが良く作ってくれた、このジュースが好きであった。そして、リュカを引き連れてレヌール城のお化け退治などとしゃれ込むほどに、やんちゃでぎすぎすだった少女を、今日ここまで切なく、美しく成長させた原動力。
深く、青く澄んだ瞳でビアンカは寂しげにグラスを見つめる。
「あ、あの……」
突然、フローラがヘンリーに話しかける。
「ビ……ビアンカさんは……何故……」
偶然にしては出来過ぎた遭遇に戸惑うフローラ。ヘンリーの策略と考えると、実に怪訝な感じである。
「ああ。彼女には今朝、リュカのことで話があるって誘っておいたんだよ。貴女のことは偶然、あそこで見かけただけさ。……でも、ちょうど良かったよ。これで、話す手間も省けるってもんだしな」
ヘンリーはそう言って笑う。フローラもビアンカも、なお顔をわずかに赤く染めて俯き加減のままだった。
「……さぁて、せっかくこんな可愛い女の子を両脇に従えて放っておく程、俺は根性なしじゃねぇし」
ホットミルクをぐいとひと呷りするヘンリー。空になったグラスをカウンターに置くと、両脇を見遣った。二人ともなお寂しそうに俯いたままである。
ヘンリーは呆れ気味にため息をついた。
「二人ともよぉ、顔くれぇ上げてくんない? なんか……俺が言うのもヘンだけど……暗い顔、似合わないぜ」
「…………」
二人はヘンリーの言葉に反してわずかに眉を顰める。
「……しゃぁ、ねぇか」
ヘンリーは後頭部をやや乱暴に掻きむしると、誰に向けてじゃなく、空を向いて話しかける。
「リュカにマジで惚れてるあんたらを振り向かせようていう下心なんて、黍粒程思っちゃいねえから、ちょいとばかりきついこと言わしてもらうな?」
「…………」
マスターが無言でヘンリーを窘めようとするが、元よりヘンリーには効果がない。
「あんたら、殊勝に互いに気を遣い合ってるように見えるがな、そう言うの、なんて言うか分かるか?」
「…………?」
瞳だけをわずかにヘンリーに向ける二人。
「東洋の諺で、『宋襄の仁』って言うんだ」
「そうじょうの……じん?」
知性のフローラが聞き返す。
「ま、要するに無用な情けをかけて、かえって自分があぶねえ目に遭うってことさ。……あんたたちが互いにかけている気遣いは、ムダに自分を傷つけているだけに過ぎねえと思うぜ」
その言葉に沈黙していたビアンカが突然と怒りの表情をヘンリーに向ける。
「ねえヘンリー。あなたに、私たちの気持ちが分かるって言うの?」
「…………」
ヘンリーが眉を逆立てているビアンカをじっと見る。
「他人のあなたなんかに分かる訳ないでしょ? リュカの答えを待っている、私たちの気持ちなんて……。何がそう……なんとかのジンよ……分かった風に言わないでよ!」
ビアンカの鋭く、清冽な声が空を切り裂く。
「…………」
その威圧感には、そこに存在する全ての生命の呼吸が沈黙するようであった。
「ああ、全くわからねぇな。……つけなくてもいい傷を付け合っているその心境がね」
ヘンリーも意外と気が強い方だ。ビアンカの威圧に臆しはしない。
「どういう……事なのですか?」
フローラは穏やかに疑問を言う。
「二人とも、相手に背を向けている。リュカ(あいつ)の決断に任せようと思っておきながら、時が経つにつれて互いを敬遠……いや、もしかすれば、憎しみの感情すら抱いていねぇか」
「に……憎しみですって!」
ビアンカの怒りは更に募る。
「失礼ですがヘンリーさん……。このお話は私と、ビアンカさんが胸襟を開いて決めたことなのです。お互いに思いやることはあっても、傷をつけ合っているなんて……まして憎しみなんて、抱いているはずがありませんわ」
珍しく怒りに語気を強めるフローラ。
いつしか二人は、孤立無援の悪役・ヘンリーを討たんやとの勢いで彼を睨みつけ合っていた。
しかし、マリアとの結婚生活で、時に激しい喧嘩をし、侍女采女たちまで巻き込み、白眼視を受けたこともあるヘンリーにとっては、こういった状況は極めて日常茶飯事である。
「……ならば、二人にひとつだけ聞きたい。納得のいく答えを聞かせてくれたら、俺……いや、リュカ自身、もっと楽に迷いがなくなるだろう」
「…………?」
「…………」
瞳の怒りの色がすうと弱まる二人の美少女。
ヘンリーはマスターにホットミルクのお代わりを要求すると、ふうとやや長く深呼吸をして瞳を閉じた。
その後――――
あんたたちはどうするんだ
唐突な言葉に、二人は唖然となる。ビアンカが聞き返すと、ヘンリーは瞳を開き、真上を仰ぐ。
「リュカが花嫁さんを撰んだ後……どうするんだって聞いてんだよ」
「え……あ…………」
「…………そ、それは…………」
二人は一瞬、顔を見合わせて言葉に詰まった。
「き、決まってるでしょ! 私は山奥の村に帰って、お父さんの手伝いをして……」
ビアンカがぎこちなく言う。
「私は…………大丈夫……です……」
フローラは根拠もなくそう言って微笑む。
「…………」
ヘンリーは入れたてのホットミルクを飲み、幸福の表情を浮かべる。
「マスター、最高だよこのミルク」
「そ、そうかい?」
雰囲気を察してか、マスターもやや及び腰だった。だが、ヘンリーは自ら訊ねた質問の答えを聞いても何も言わずに、自分のミルク好きと、ミルクの味について、マスターを褒めちぎる一方だった。
そんなヘンリーの様子に、二人は苛立ちを隠せなかった。
「ヘンリー、何なのよいったい! 私たちのことバカにしてるの?」
ビアンカが怒鳴る。一瞬にしてぴたりと静寂が戻る場。
ヘンリーは真顔で、冷たい視線を、この金色の髪の強気な美少女に突き刺す。
「そんな答えなんかじゃ……誰も納得なんてしねぇだろ」
「なんですって――――」
ヘンリーはすくっと立ち上がる。そしてなに気に自分の髪をくしゃくしゃとかきむしると、失笑する。
「まったく……どうしてこう……みんな自分に嘘つくのかなァ……」
ヘンリーはどこか自嘲気味に、無理矢理笑っていた。
図星を突かれたのか、そんな彼の様子を感じ取ったのか、ビアンカもフローラもそれ以上、言葉尻を荒げることは出来なかった。
「……正直言えば、俺にはあんたらの気持ちなんかわからねぇがな。
……ただ、リュカは十数年、苦楽を共にしてきた親友だ。
奴のこと考えれば、あんたたちにはしがらみなんかなくいてもらいてぇよ」
「ヘンリーさん……」
不意にフローラが口を開く。ヘンリーが振り向くと、清楚な表情の中にあって、その瞳だけは、決意に燃えた情熱を沸々とさせていた。
「私……私は……」
誰もがフローラを見る。
「ビアンカさんを……傷つけます――――」
その言葉がゆっくりと反響してゆく。
炭火が煌々と燃える七輪に掛けられたポットのお湯が、コトコトと沸騰し、蓋を揺らしていた。
(私はビアンカ。私のこと、憶えてる?)
…………
(綺麗な宝石……きっと、王様たちからのお礼よ……)
…………
(決まったわ! 今日からあなたはプックルよ!)
…………
(リュカ……
また いつか――――
いっしょに冒険……しましょうね!
ぜったいよ――――)
――――元気でね……リュカ……
ステンドグラス越しに照らされたリュカの顔。
檀下に座してこの四日、うっすらと髭を蓄えたその表情は、まるで何かに達観したかのような落ち着きすら感じさせる。
「…………」
きいぃ……
再び、教会の大扉がきしむ音が響き、一条の陽光がリュカに向かって真っ直ぐ伸びた。
「…………」
「…………」
ヴァージンロードに伸びる光の線を、言葉のない影が遮った。狩衣烏帽子姿のリュカは、それでも魔法に掛けられたかのように、微動だにしない。
それから、幾時経ったのだろうかわからない。
いつしかリュカに伸びていた光が、遙か東の方に逸れていった時、それまで沈黙を保っていたリュカが突然、衣擦れの音を発した。
「僕の答えは――――決しました」
「…………!」
影は確かに驚きに息を竦めた。
「ひと晩で出せるはずの答えだったのに、僕の心の迷いによって、三日もかかりました――――」
「…………」
烏帽子の先が背後に傾く。
リュカは祭壇の上、ステンドグラスの十字の彫刻を見上げ、縁の笏を両手に掲げた。
「この罪なる神僕(わたし)に、なにとぞ、ご慈愛を――――」
たんっ……
ひとつ足音が聖堂に響き渡ったと同時に、リュカの背中に、柔らかな衝撃が走った。そして、白くほっそりとした腕が、リュカの胸をきゅっと包む。
「…………」
リュカの項に切なく熱い吐息がかかる。
「ごめん……なさい……私……私……」
こみ上げてくる熱い想いを涙声で抑えながら、フローラは強くリュカの背中にしがみつく。
「フローラ……さん……」
ようやく、リュカは祭壇に向ける体勢をずらし、フローラの背中に優しく腕を回した。
「ああ……リュカさん……」
それだけで幸せというような表情で、リュカの胸に容を押しつける。
「私……ヘンリーさんに…………」
「ああ――――わかっているよ。彼はいい男だ。僕の友人にはもったいないくらいだよ」
「でも……私……どうしても、あなたと……」
ヘンリーの教誡を無視してまでリュカの側に駆けつけたフローラの真意を、リュカは判っていた。
自分を見つめる、切なくて胸が張り裂けそうな瞳。白薔薇と擬されるほどに真っ白な肌が、わずかな羞恥に桃色に染まる。
――――あなたの答えがどちらでしょうと……私はあなたのことを愛しているのですっ!
たとえ……たとえこの身が他の方の許に行こうとも……老いて朽ち果てようとも……
この想いだけは、未来永劫に朽ち果てることはありませんっ――――!
「フローラ…………さん」
「…………」
フローラはリュカを求めるように、瞼を閉じ、そっと唇を突き出す。
だが、リュカは小さくため息をつくと、ぐいとフローラの肩を押しのけた。
愕然となるフローラ。あまりの衝撃に飛び出すかと思うくらいに目を見開き、哀しそうに眉を顰めるリュカを見た。
「な……なぜで……す…………」
それはヘンリーの教誡を無視した罰と言えばそれまでだろう。
「フローラさん……。今……あなたをこの手に抱くことは……僕には……出来ません――――」
リュカの言葉が冷たくフローラの胸を突き刺す。縁の笏がフローラから背けるように狩衣の袖に隠れた。
「あっ…………あぅ…………」
子供が癇癪を起こす前兆に似たしゃくり声を上げ、涙すら落とすのを忘れたフローラは、その美しい瞳に、絶望の色をにじませ、逃げ出すように聖堂から飛び出していってしまった。
「…………」
リュカは去ったフローラを追う事もなく、再び唇を真一文字に結ぶと、祭壇の十字をしばらくの間、見つめていた。