……コンコン……
木戸をノックする音に、くつろいでいた壮年の夫婦が驚く。
「おや……誰だろうね、こんな時間に……」
……コンコン……コンコン……
一刻一秒をも待てぬように、ノックはけたたましく鳴り響く。
「はいはい。今開けますよ――――」
がちゃ――――
「あっ――――あんたは……」
夫人が愕然となって不意の来客者を凝視する。
「おばさま……ごめんなさい……アンディ……お願いします――――」
「ま、まぁ……汚いけど――――」
見る影もないほど落ち込み、くすんだフローラの様子に、アンディの心境もただではすまない。
彼はすぐにフローラがリュカと何かがあったことを察知した。
「あ、あのさ――――何か飲むかい?」
アンディの勧めに、フローラはふるふると小さく首を振る。
「あ、お腹が空いたのかな? ……えーと……ろくなもの無いからなぁ――――」
裕福な大公家の令嬢を捕まえて腹減ったのかはないだろうと、アンディは自分に突っ込みを入れて失笑した。
「アンディ――――!」
突然、フローラが大きな声でアンディを呼ぶ。愕然となるアンディ。思わず素っ頓狂な声で返事をする。
「……お願い。今日はここに……居させて欲しいの…………」
「!?」
俯きながらそう告げるフローラに、アンディは声を失った。突発的な地震のように、心臓が高鳴る。
「……どうしたの……? リュ……リュカと、何かあったのかい……?」
「…………」
反応を示さないフローラ。
アンディは、フローラがここに来た時点で、ある程度の予測をつけてはいた。リュカとの間に何かがあって、フローラが傷ついてしまったこと。……いや、傷ついてしまったと、思いこんでいることを。
(フローラのこと……愛しているのか)
(……愛しています)
そう答えたリュカを、アンディは信じることにしたからだ。
自分にとっては、いかなる場合であろうと、終生の『恋敵』であるリュカ。自分は『炎の指環』を得る“勝負”に負けた。
だが、フローラを想う勝負には負けたつもりはなかった。
今でも、彼女が自分を見つめてくれていると、心のどこかで信じていた。だからこそ、リュカのことも信じられた。
出逢って間もない、どこぞの者とも知れぬ怪しい旅の青年。そんな彼に、アンディは永年の親友に似た感情を寄せていたのかも知れない。
心の底から、人を愛せる事――――。
自分はフローラを愛し、フローラはリュカを愛し、リュカもまた、フローラを愛する。
心の底から愛を知る者同士は、きっと恋敵という憎愛を超越した絆で結ばれるものなのだろうか。
フローラは語らなかった。
だが、初めて見る、そんな彼女のうち沈んだ表情に、不思議と伝わる言葉があった。
アンディは、フローラの心が叫ぶそれを、確かに聞き取った気がした。
「大丈夫だよ、フローラ」
「…………えっ?」
驚いて見上げた、幼なじみの青年の表情は、胸を突くほどに安らかに、穏やかに微笑んでいた。
「リュカを好きになった、君の気持ちはよく判る気がするよ。
だから……僕はこれからも、彼を好きになれそうな気がする……。
頼りなくて……まだまだ全然子供の僕が言うのも何だけど……
僕が信じた彼が、無責任に君を傷つけるようなことはしないよ――――」
「…………」
優しい言葉だった。
「答えは明後日……出るんだろう?」
フローラはこくんと頷いた。それ以上、アンディが可否を確認するまでもなかった。だから、こう言った。
「もしも……君が彼の背中を永遠に見送ることになったら……その時は……
僕が……君の時間を動かすことが出来るかな――――」
どこまでが本心だったのか、アンディ自身良く憶えていなかった。
フローラもまた、歯の浮くセリフを吐いた無器用な幼なじみに、ようやく小さな微笑みを取り戻し、慰めてくれたことを心から感謝した。
そして、アンディに送られてフローラはルドマン邸に帰宅した。
「…………」
フローラの部屋の灯りがすうっと消えると、アンディの瞳に、最後の涙が浮かび、一条の線となり伝った。
(幸せに、なれ――――)
心の奥で、アンディはそう呟いた。
そして、リュカがビアンカ・フローラのどちらかを花嫁に選ぶ運命の日を明日に控えた朝が明けた。
リュカは窮屈な狩衣烏帽子を、ほぼ五日ぶりに脱ぎ捨てた。着慣れたターバン、マント、筒衣がやはりしっくりと来る。
「おう、おはようッ! お? もうお籠もりは終わりかい?」
ロジェルの言葉に苦笑いするリュカ。
「答えは決しました――――後は、最後の心の整理を、つけるだけです」
リュカは爽やかな笑顔でそう答えた。
「おぉ、遂に決まったのかい。……それで、振られるのは――――っててっ!
きぃっと、アンに耳朶を摘まれるロジェル。
「何バカなこと聞いてんのサ、アンタ!」
「だ、だ、だ、だってよ。気になるじゃねえか」
「そんなこと、アンタが心配しなくてもいいっ! ……ごめんなさいねリュカさん。どうか気にしないでおくれよ――――」
見た目細腕の女性が、何と片手で大の男を吊し上げているような光景にリュカは目を見張る思いだった。
「あはははっ……では、出かけてきます」
そして、懲らしめられているロジェルを見捨てるようにして表に出た。
久しぶりに見る、太陽の下の外界。穏やかな風景に、否応にも心が安まるのは、リュカもやはり一個の人間であることを自覚する瞬間であった。
とんっ……と、ひとつ樫杖を地面に突くと、さっと小さな土埃が舞い上がり、風に運ばれてゆく。その軌跡を見ていると、伝説の勇者を探求する冒険者として、このまま旅立ちたい欲求に駆られる。
「…………」
だが、リュカの足は街の外には向かない。
心に決めた、ひとつの試練の答えを出すまでは。
嘉事を明日に控えたルドマン公邸は、普段と変わらぬ佇まいだった。
清澄な表情で現れたリュカに、ルドマン夫妻は期待に満ちた面持ちで迎える。
「久しいなリュカ君。いや、ほぼ五日ぶりとはいえ、儂たちにとっては千日にも劣らぬ時間であったぞ」
「ご心配をお掛けしました、太守」
リュカが深々と頭を下げると、ルドマンは安心したように息をつく。
「……ふむ。どうやら、そなたはその胸の裡に、ひとつの答えを導き出したようだな。なあに、顔つきひとつ見れば判りうること」
リュカは無言で瞳を伏せる。
「今、ここで答えを求むる事はせぬ。安心するがよい」
「……ご配慮、感謝いたします」
「明日、そなたの真摯な答えもて、婚儀の成就を祝おうではないか」
「はっ――――」
リュカは恭しく頭を下げる。
「……それとも、これから何か所用でもあるのかな?」
ルドマンはリュカを酒宴に誘った。
ラインハットの使節をもてなす名目の宴。事実は余人の知るところ。
「ありがとうございます。……しかし、今日は日が日。酔えぬ席にあっては無粋にして興醒めとなります。……申し訳ありません……」
「おお、さもあらん。これは儂としたことが……。まぁ、今宵はそなたにとって心の整理をつけるべき最後の日。宴において浮かれる場合ではなかったな」
どこかわざとらしく、ルドマンは苦笑する。
「ま……そなたには悪いが、儂らは今宵、羽目を外させてもらうぞ。天朝の御前で、このルドマン、一世一代の大傾奇と洒落込もうぞ」
家祖伝来の宴会芸とは一縷の興味があった。しかし、一世一代と銘打つそれを、リュカが目にすることはこの先ないであろう。
そして、運命の美少女二人がその宴に出席するのかどうか、聞くまでもなかった。
中庭を突き抜ける渡り廊下に足を踏み出した時、リュカは池の辺にぽつんとある少女の姿に、思わず足を止め、石柱の影に隠れる。
愛犬・リリアンをあやしているフローラ。その清楚可憐な姿は、今まさしく文字通りに儚げで、愛(かな)しく見えた。
「ねえ……リリアン? 私……どうすれば……いいの?」
まるで陶器のように磨かれたプードル犬は、主人の哀しみを慰めるかのように、はっはっと息を荒くして、尻尾を振る。
フローラは言葉を話さぬ愛犬に、まるで独り言のように話し続ける。
――――私は……力もない……呪文もあまり使えない……
そして……あの女性(ひと)のように前向きじゃないし……明るくもない……
多分……ううん、きっと……全てがかなわないの……
そしてフローラは想った。
――――みんな、私のことを白薔薇の様って言ってくれる……。
いつからか……そう持て囃されて……自分でも気がつかないうちに、有頂天になっていたんだわ…………。
でも……
でもね? リリアン――――
私……気づいたの…………。
白薔薇のフローラなんて……どこにもいなかったわ……。
それはきっと――――色眼鏡で私を見続けてきた人々が創った……『偶像』――――。
誰も皆……私じゃなくて……白薔薇のフローラという偶像を見つめていたの……
……私は…………ずっと孤独だった……
もし……
もしも……白薔薇のフローラが本当にいるのだとするなら――――…………それは――――
それは、きっと…………リュカさんの側に寄りそっていられる時の私なんだわ……
「くうぅぅぅ~~ん……」
突然、リリアンが哀しい聲を上げて主人の顔に鼻を近づける。
「っ……あ、ゴメンね、リリアン。ううん、大丈夫。ちょっと埃が入っちゃたみたいね……」
「…………」
彼女の華奢な肩が、小刻みに震えているのが、リュカにははっきりと見えた。
「――――もし……もしね……
リュカさんが、あの女性を選んだら……私――――私……どうしようかしら…………」
『その後――――あんたたちはどうするんだ』
「ふふっ……ヘンリーさんのおっしゃる通り――――
リュカさんが私のことを――――
…………」
リリアンを撫でる仕草も、心ここにあらずという感じだ。
くーんと言う鼻声に我に返った彼女は創ろうように微笑み、まるで自嘲するかのように言った。
「……そうね……
その時は、アンディに拾ってもらいましょうか――――」
そして、すぐに自分の言葉を後悔した。
「……なんて言えたなら……どんなに楽でしょう――――。
…………
言えない……言えるはずがありません……
だって……
だって私は…………どんなことがあっても……私は…………
リュカさんのことだけ……愛しているから……
リュカさんの側で……ずっと……ずっと……
白薔薇のフローラで……いられたなら……
もう私……何もいらないわ――――」
「…………」
リュカは瞳を閉じながら空を仰いだ。フローラのどこまでも一途な想いに、リュカは脳裏が真っ白になる。
切なすぎる程のフローラの覚悟を、リュカは最後まで聞くことは出来なかった。
それまでの緊張した時間とは打って変わり、この日はまるで持て余すかのように、時がゆっくりと流れていった。
午後から立ちこめてきた薄い雲が、夕方近くになり天を覆う。
「こりゃあ……今夜遅くに一雨くるわな」
町外れの漁師が半ば投げやりに言う。
「降りますか……」
心なしか安堵するリュカに、漁師はにんまりとした表情で言う。
「明日は晴れるね。北回帰線上の気候は周期的なんだ。夏もいよいよ本番さー」
サラボナは北回帰線上にある街だ。夏至には、太陽が九〇度真上に昇る。
『そう言えば……大神殿にいた頃も、真上近くに、太陽が昇っていたっけ……』
セントベレスでは麓のように、夏らしい気候を味わうことは出来なかったが、そう考えれば、実に対照的な境遇にある自分が何故かむず痒く思う。
「宿に戻るか――――」
結局、無為な時間を過ごし、リュカは晴月亭へ戻った。
美味なアン手製の夕食も今日で食べ納めとなる。ロジェルらも交えて、リュカは心ゆくまで味わった。
「まぁ、今日は何も考えねえで寝るこったな」
「そうします……」
ロジェルたちと囲んだ事実上最後の食卓で、結婚の話は出なかった。それが意図的な気遣いであることをリュカは感じ取り、同時にその配慮に感謝した。
いつもよりも大分早く寝床に就くが、当然のように睡魔は訪れず、いつまで経っても、夢国の門が開かれることはなかった。
いつもの旅装に着替えると、リュカは表に出た。
家々の窓灯りが夜の街を飾る。空は雨が近いのか、濃紺の緞帳を敷き詰めたように、星屑ひとつ見当たらない。
公園を過ぎ、この街の特徴でもある、一際大きな石塀を伝う。
静寂な世界に、その邸内から微かに聞こえてくる賑やかな喧噪は、酒宴の盛況を物語る。
明日、明後日は、あの宴の主役の座を務めることになる。それを前にして、今この時にいささかセンチメンタルな色を浮かべている自分自身に、妙な違和感を感じざるを得なかった。
やがて、その広大な公邸の外れにある別荘の窓から、ぽつんと光が漏れているのを、リュカは見つけた。その窓灯りは、とても寂しく、孤独の闇の中に今にも消え入りそうな程に揺らめいているように見えた。
ジャリ……
「……誰?」
リュカが敷き詰められた砂利を踏む音に、玲瓏とした美しい声が咎める。
「あ――――リュカ…………」
それは、窓から茫然と外を見つめているビアンカの姿だった。リュカの姿に気がつき、狼狽をすんでのところで抑える。
「……ビアンカ…………」
リュカは呟いた。思わず彼女を見つめる。
ビアンカは髪を結っていなかった。湯でも浴びたのだろう。比類無いほどに繊細で美しい真っ直ぐな金色の髪はしっとりと洋燈の光を含み宝石を鏤め、寝間着なのであろう、黒のタンクトップという薄着から見える肌はほんのりと上気し、わずかに伏せ気味の睫、力無く合わさるピンク色の唇。そんな憂いの表情と重ね、洋燈の光と調和してなまめかしく見えた。
二度、お互いの一方的な欲求で肌を合わせた関係。きっと、それは良くも悪くも、二人にとって重大な出来事だったのかも知れない。
だが、今リュカが見るビアンカの姿は何よりも初々しく、二度の情交を忘れさせるほどに色気を漂わせていた。
「……どうしたの……? こんな時間に……」
少し困ったような感じで、ビアンカが言う。
「うん……ちょっとね……眠れなくて――――」
リュカが返すと、ビアンカは少し息を吸い込み、長く吐いた。
「そっか。……私もよ。ふふっ、同じだね…………って言っても、まだ寝るには早過ぎるけど――――」
にこりと微笑むビアンカ。
「…………」
自分の姿を見た時、一瞬喜びの表情を浮かべたように見えたのは思い上がりだったのかと、リュカは考えた。ビアンカは自分がここに来るのを待っていたのではないかと……。
リュカを確信へと引きずり込む、ビアンカの声。
「……入って。鍵は掛かっていないから」
その言葉が何を意味するのかを示す余地もなく、親が子の、兄が弟の部屋に入るように、リュカは入り口を開け、中に入った。
ラヴェンダーの香りが仄かに立ちこめる。きっと入浴の時に使った香料なのだろう。とても清潔な香りが、リュカの脳神経を刺激する。
「ビアンカ……」
リュカはビアンカの後ろ姿にドキッとなった。上と同じ黒色のホットパンツからすらりと伸びる長い脚は、湯上がりの色を湛えて言葉に耐え難いほどに美しい。
元々、無駄な肉ひとつないビアンカは、絶世と言えるほどに美しかったが、この脚線美には正直圧倒された。
フローラを月に喩え、マリアを海に喩えるならば、ビアンカは正しく太陽と呼ぶに相応しいと、リュカは実感した。
そこから見上げることが出来る階上には寝台がある。リュカはこの妙な空気に触れたせいか、心拍数が上がり、アルコールを含んだかのように、息がわずかに熱を帯びる。
「リュカ……見て、ほら。月が――――」
ビアンカの言葉に、傾きかけた意識が戻る。「あ、ああ……」
しかし、突然彼女の存在を過敏に意識してしまったリュカの足は動かない。
ビアンカは振り返ることなく、再び言った。
「ここに来てみて。ほら……ここから少しだけど、海が見えるの。月が雲の切れ間から顔を出して、波間に輝いて、とても綺麗よ――――」
ビアンカはしっとりとした声で、リュカを夜景に誘った。
束の間の雲の切れ間から除かせる月の光は、この健気な美少女の瞳をわずかに映し出した。とても寂しげな色だった。
「…………」
その瞳を窺えた時、リュカの足はすうっと動いた。無意識のうちに、リュカはビアンカの隣に立ち、彼女と同じ視線を送る。
「あ……ほら、隠れちゃった――――」
リュカには見せまいと言うかのように、波間の月は濃紺に飲み込まれる。
「早く来ないから……もう、リュカったら――――」
囁くようにビアンカは拗ねてみせる。
「あ、ああ。ご、ごめん……」
再び下ろされた濃紺の緞帳。二人は視線の行き場を失い、何度も瞬きをする。
「ねえリュカ?」
間を置かずに、ビアンカは言葉を発した。
「い……いよいよ、明日ね。……そ、その……」
「…………」
リュカはぎこちなく、それでもしっかりと頷く。
「そ……そっか。じゃあ……リュカの気持ちは……もう……決まったのね」
「うん――――」
ビアンカは小さくため息をついた。
「そ…………か…………」
今すぐ答えを知りたい。どんな現実が待っていても、聞けるものならば、聞きたかった。そして、こんなに甘く苦しい気持ちから、開放されれば、どんなに楽になるだろう。
「ねえリュカ……思い出さない……?」
「ん…………」
ビアンカの言葉が紡ぐ、想い出の数々。何度も笑顔が綻ぶ、幼い頃の二人のエピソード。
「……でもね……リュカ?」
不意に、彼女はリュカの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「あなたは…………フローラさんを幸せにする事を考えて――――」
突然、そんなことを彼女は言った。愕然となるリュカ。思わず、強い視線で彼女を睨みつける。
「私ね…………リュカが好き…………
ずっと……ずっと好きだったの……
でも……でもね……
リュカは――――あなたは――――!」
感情を抑えるようにビアンカは言ったが、その言葉の裡にある悲痛な思いはリュカの胸に鋭利な棘となって容赦なく突き刺さる。
リュカには幼なじみとして、ビアンカの想いをよく判っていた。それが同じがゆえに、哀しいほど、判らざるを得なかった。
「ビアンカ――――」
リュカに名前を呼ばれて、ぴくんと肩を震わすビアンカ。リュカは柔らかな眼差しで彼女の貌を真っ直ぐに見る。
仄かに上気した彼女の頬。恥ずかしさが先んじたのか、スカイブルーの瞳はリュカの瞳ではなく、胸元に向けられたままだった。
「僕の答えはもう決まっている。
この四日で、心の迷いを振り払えたと思っていた。思い残すことなく、明日に臨めると、そう思っていた――――。
でも……眠れないのは何故なんだろうって――――。今、君の言葉を聞いて気づいたよ……」
「……リュカ?」
「虚心坦懐で明日を迎えるために、僕には最後のわだかまりを拭う必要があったって。
そうしなければ、ビアンカ、そしてフローラさんを、心の奥底で悲しませてしまうことになるんだよ――――」
「うん…………そうね……。リュカには気を遣ってまで、一生を決めて欲しくないもん……」
ビアンカは小さく首を横に振った。
そして、わずかの間の後、リュカは大きく息を吐くと、懸命に震えを抑えて言った。
「だから……ビアンカ。
僕は……今……
君を……抱く…………」
その言葉に、ビアンカは愕然となった。思わず、伏せていた瞳をリュカの瞳に合わせる。
――――正直、今僕は君への思いが強いんだ。
……すごく愛おしくて、何か……放っておけなくて……守りたくて……。
でも…………でも、何かが……心に引っかかるんだ……。
とても小さくて、それでも動けばちくちく刺さる棘のような、何かが――――。
棘は抜かなければ、いつか膿み、皮膚を腐らせてしまう…………
僕が最後に残した心の棘――――
ビアンカ……今の君への、愛――――
「…………」
リュカはそっとビアンカの両肩に手を添えると、絡めるような眼差しで、彼女の青く澄んだ瞳を捉えた。
「リュカ…………」
ビアンカは拒もうとはしなかった。彼女もまた、そっとリュカの背中に掌を回すと、力が抜けてゆくように瞼を下ろし、可憐な唇をリュカに向けた。
そして、哀しみを滲ませたふたつの心が今、刹那の夢に重なり、静かな情炎に、自ら焼かれようとしていた。