窓から差し込む朝の光が、カーテンの隙間から真っ直ぐにビアンカを照らす。
「ん……んん……」
情炎の余韻さめやらぬ夜気が、一条の陽射しに儚くもかき消され、一糸纏わぬ身体にシーツの感触が夢見心地に導き、気怠さに変わる。
眠い瞼を上げると、ちょうど誰かが入口のドアを開けて、出てゆくところだった。
(リュカ…………?)
それが彼の姿と知ると、ビアンカの夢は一瞬にして覚めた。上体を起こし、彼と乱したシーツをぎゅっと抱きしめる。
(…………)
華奢な身体にシーツを巻き付け、階段を下りる。昨夜と何一つ変わりはしない、ルドマン別邸――――。その空気だけを感じると、リュカと心からひとつになれた昨夜の激しさが本当に幻のように思える。
すぅ――――…………はぁ――――…………
窓を開け、新鮮な空気に深呼吸する。わずかに立ちこめる潮の香りが、未だわずかに火照るビアンカの身体を冷まし、優しく溶け込んでいった。
「……今日……なのね…………」
朝陽に染まる雲の端を見つめながら、ビアンカは呟いた。
リュカが花嫁を選ぶ日。その長く過酷な旅路を支え合い、そして人生の伴侶と成すべき運命の岐路。
今更ながら、その路に立つ自分を不思議に感じていた。
悲しさよりも、今はむしろその路に自分という存在があることが嬉しくさえ思えるようになっていた。
おかしいものだった。あれほど愛し焦がれていたリュカに対する想いが、別の意味で強くなっていることに。
(君を抱く…………)
そう告げられた時、拒絶することも出来たはずだった。しかし、格好をつけて拒絶していたら、どうなっていただろう……。
(その後――――あんたたちはどうするんだ)
ヘンリーが冷たくあしらったその言葉が反芻される。
「――――今は……まだわからないわ……」
少なくとも、その疑問の中に、後悔という言葉はないことを確信し、ぽつりとビアンカは呟いた。
その美しい肢体に万遍なく刻まれたリュカの『愛』が、彼女自身の支えとなる、そんな気がした。そして、そんな矛盾の中に、いつか必ず答えが見つけられる気がした。
「…………」
ふと視線を横に向けると、同じ外開きの窓の下に備えられた檜の机の上に、滑らかな筆で『bianca』と書かれたパーチメントの封筒が控えめに置かれているのを見つけた。
「……リュカ…………?」
その肉筆の文字に、ビアンカの胸は一瞬、ずきんと痛んだ。そして、わずかに怯え震えたように、手を伸ばし、それを手に取る。
「…………」
まるで作為的な、糊付けのされていない封筒。それは、一枚の便箋が収納されただけの、手紙としては物足りなさすら感じる軽さの中に、きっとリュカの想いがぎっしりと綴られているのであろうか。
見ようとすれば、すぐに文章で綴られた彼の想いを確かめることも出来たはずだった。
しかし、ビアンカはわずかに躊躇した後、それをそっと愛おしそうに胸に抱きしめる。
そして、こわれ物を扱うかのように、後生大切に自らの荷物の中に埋めた。
それがリュカの本意と察したかどうかはわからない。しかしビアンカは何故か、その手紙を、今見てしまってはいけないような気がしたのだ。
リュカ……
私――――逃げる訳じゃないよ……
でも……いいよね?
ひとつくらい、私の秘密にしていても……
いつか……
いつかきっと、この手紙……
ゆっくりと読む日が来ることを私……
私……信じているね――――
リュカが自分を選んだとしても、フローラを選んだとしても、それはきっと同じ気持ちだろうと、ビアンカは思った。
そして、彼女の心を染めた幼なじみの少年の色は、決して消えることがないと信じて、朝陽のプリズムに虹が鏤(ちりば)む浴室には、彼女の涙と共に、笑顔が滲んだ。
本邸からルドマンの家人が迎えに来たのは、それから間もなくのことだった。
湯浴みをし、汗と埃を流し、髪を整える。
「着付けはいいのかい?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
さすがに着慣れた東洋の礼装・烏帽子狩衣。
新調されたのだろうか、用意されたのは、漆黒の絹地にうっすらと、竜(ドラゴン)と不死鳥の紋様刺繍が施されている。
アン曰く、それは人が一生のうちに三度だけ着ることが許された竜禽(りょうきん)の装束だという。
人が三度経験する運命の岐路。すなわち『誕生』、『結婚』そして、『死』
何故自分のような者に、当初からそこまでしてくれるのか、リュカは随分と疑問を禁じ得なかった。
しかし、ロジェルもアンも、『あんたが気に入ったからだ』と、初めてここを訪れた時の言葉をくり返すだけで、ついにその真意を聞くことは出来ずじまいだった。
その神聖な装束を、リュカはじっと見つめる。
(……とうさん……)
ふと、父パパスの笑顔と勇敢な姿が脳裏を過ぎった。
今の自分はどう足掻いても、二度しかそれを着ることが出来ない。でも、もしこの衣装を知っているとするならば、パパスはもう三度目を着ることが許された。パパス自身はきっと、二度だけそれを実感出来たのだろう。
二度目は迷ったか。それとも、あっさりとこれを着て、未だ見ぬ愛しき母マーサと愛し合えたのだろうか。
「…………」
厳かな雰囲気を湛える異国の礼装に、リュカは胸の奥深くから突き上げてくる熱い感覚に、息が止まりそうな気がした。
ルドマンの家人が、晴月亭を訪れた。言うまでもない、リュカ達を迎えに来たのである。
公邸には、ロジェルとアンも招待されていた。
サラボナ公ルドマンは、この日内外の主要な人物を大広間に集め、リュカの選定を公開することに決めたからだった。
「お待たせ、致しました――――」
リュカの礼装姿には誰もが都度、息を呑む。見慣れるどころか、何故か日が経つにつれてひとつひとつ雰囲気が変わってゆく彼の厳かな姿に、新鮮味を感じた。
アンは勿論、近辺に住む若い乙女たちすら、叶いもせぬ思慕の眼差しをリュカに向けるのが日課となりかけていたのだ。
竜禽の装束は、そんなリュカの雄々しき姿を更に引き立てるには未だ不十分であると言っても過言ではなかった。
そして、手に恭しく拝する、縁の笏。リュカはルドマン邸に向かう幌馬車の中で、終始それを見つめ、言葉を発しなかった。ロジェル夫妻も、そんな彼の様子を慮った。
公邸に到着し、幌馬車を降りると、リュカはロジェル夫妻に深く頭を下げてから言った。
「幸福に……なれるのでしょうか」
一瞬、怪訝な表情をしたロジェルだったが、にこりと笑顔で答えた。
「ああ、間違いないぜ」
リュカは少し間を置いた後、微笑んだ。そして、縁の笏を胸に合わせ持ち、再び頭を下げると、『申し訳ありません……』とだけ言い残し、ルドマンの家人と共に、邸内に入っていった。
「何だ――――何かまずいことでも言ったか」
ロジェルの戸惑いに、アンは払拭するように夫の肩をポンと叩く。
「そんなことないよ。もう、リュカの気持ちは決まってるのさね。だからあたしらは素直に喜んであるだけだよ」
「……そうだな。うん、お前の言う通りだ」
ロジェルはニィと白い歯を覗かせた。
「……それにしても、俺のご先祖様も大層な代物遺してくれてたもんだね」
「あんたのご先祖って、確か――――ガーデン……何とかって国のえらい大臣様だっけ?」
「マクベス=カシュー。世にも美しい女王さまを巡る実の弟との確執が……なんて、童話がわりにずっと聞かされてきた。どうせコレもんだろうがね」
と言いながらロジェルは人差し指を舐めて眉毛に触れる。
「愛する女王さまと結ばれた男性の想いが込められた装束ねぇ……時を越えて紡がれる愛のしるし……ああ、なんてロマンチックな」
アンの言葉に思わず失笑するロジェル。
「な、なにさアンタッ!」
顔を真っ赤にして怒るアン。
「いやなに、お前の口からそんなセリフが出てくるなんてな、ちょっとビックリしただけだ」
「フンッ、あたしだってまだまだ夢見る年頃だよッ! そうでなきゃ――――」
言葉を遮るように、ロジェルは妻の手を握る。
「ホラホラ、俺たちも急ぐぜ。美男美女の究極の選択なんざ、一生に一度見られるもんじゃねえからな!」
「わ、わかってるよ。そんなに引っ張らないで……」
夫の不意の行動に思わず赤くなった顔を俯かせながら、アンは引かれるようにルドマン邸の玄関をくぐっていった。
家人に案内された客間・翔鶯(しょうおう)の間が、リュカの控え室とされた。告白の儀は正午の鐘を合図にとルドマンの通達を受けた。後三時間ほどある。
迷うことはもはやないが、気持ちを落ち着かせるようにとの配慮。
暖炉に対するように備えられた、黒系にまとめられた重厚な装飾の木椅子に、長い袖を払うように腕を振り上げ、ゆっくりと腰掛ける。その西洋の空間に東洋衣装のアンサンブルは実に違和感に満ちていて、それがなぜか無性に様になっている。
コンコン……
「どうぞ――――」
返事と同時にドアが開くと、見慣れたラインハットの朝衣を纏った青年が、穏やかな笑顔を見せた。リュカも嬉しさを滲ませる。
「おはよう、リュカ」
「ヘンリー……おはよう。この前は……」
「おっと――――――――」
掌をかざして言葉を遮るヘンリー。
「お前の選んだ答えに、間違いはねえよ。……ふっ――――ただ、それだけだ」
ヘンリーの笑みに、リュカもつられてはにかむ。
「……ありがとう……」
リュカを背にする位置にあるソファにヘンリーは腰掛け、天井を仰いで深呼吸した。
「しかし……不思議なもんだぜ、本当に」
「え――――?」
ヘンリーは礼帽を外すと、指で髪を梳く。
「何か……、お前といるとさ、心のどこかで安心出来るって言うか、任せられるって言うか……」
「え……?」
ヘンリーは照れ隠しにわざと大きく笑う。
「成るべくして成る……って言うのか。上手く言えねえけど……お前といると、それが、良い意味で運命だって、素直に受け止めることが出来るんだよ――――」
「ヘンリー……」
「そう。お前、本当は超すげえ奴なんじゃねえかっ! ……ってさ」
両腕を目一杯横に広げるヘンリー。リュカは嬉しそうに親友の言葉に耳を傾けていた。
「まぁ――――だからよ。そんなお前が選んだ答えは、どれも間違っちゃいねぇって……な」
「あはは……買いかぶりすぎだよ、ヘンリー。僕はそんなに――――」
リュカが小さく笑う。
ヘンリーはわずかに憂色を滲ませた微笑みを浮かべて立ち上がり、リュカの前に歩み寄ると、そっとその肩を抱きしめた。
「ヘ……ヘンリー……?」
驚くリュカ。そして、囁くように、それでも力強く、ヘンリーは言った。
――――お前は意志が強い。
パパスさんがあんな目に遭って、生き地獄の大神殿で奴隷となっていても、お前はずっと瞳の輝きを失わなかった。
十年……途方もねえよな。長いよ。振り返るのも辛いくらい長かったよ……。
でもリュカ。お前は廃れるどころか、日に日に優しさに満ちていった。俺やマリア、そして、他の奴隷の人たちにさえ、お前の直向きさと優しさが、生きるための一縷の望みだった……。
お前は何事にも一生懸命だ。
馬鹿がつくくれえ、正直で、人を疑うことが無くて、それでも心が強くて優しい奴だ。
人を素直に愛し、無器用すらも魅力になって、あの二人に巡り逢えたんだろ。
だから、何度も言うぞ……そんなお前を心の底から愛することが出来たあの二人は、大丈夫だ。
そんな純粋な想いを曇らすんじゃねえぞ、リュカ。後悔のない路を、悔いるなんて事はするんじゃねぇ……。いいな?
すっと、リュカも腕をヘンリーの背中に廻し、こくんと頷いた。何度も頷いた。自然にあふれ出す涙が、ヘンリーの朝衣に染みた。
「リュカ様、お時間でございます――――」
しばらくしてノックと共に、家人の声が響く。
「おっと、それじゃ広間の方で事の経緯、見定めてもらうぜ、リュカ」
「ああ……」
ヘンリーはウィンクをしてリュカの肩をポンと叩くと、外套を翻し翔鶯の間を出ていった。
「…………」
ひとつ息を吐くと、リュカは烏帽子を整え、帯(ベルト)を正した。アイボリーの縁の笏を恭しく手に取ると、毅然とした眼差しを窓の外に向けて立ち上がった。
(……よし、行くか)
翔鶯の間を出、家人の先導でリュカは初めてルドマンと会し、運命の岐路に立たされた大広間へと向かう。
ゆっくりとした足取りは決して装束のせいばかりではなかった。踏み出すたびに長い裾袖が靡き、衣擦れの音が廊下に響く。
突き当たりを広間の方に折れ、やや俯いた顔を上げたリュカは、まるでフェードインするように現れた人影にぴたりと立ち止まった。
水色の長く繊細な髪、白いドレス。やや疲れた感じの容。フローラもまた、愛しい人の姿に気づき、戸惑う。嫋(たお)やかな姿が、黄昏れて、顔を背けた。
「…………」
リュカは言葉を発せず、手に持つ縁の笏をぐっと握りしめる。竜禽の装束が湛える雰囲気なのか、リュカの表情は無機質に見えた。
「…………」
フローラも、その人の名を叫びたかった。会えた喜びを目一杯さらけ出して、胸に抱かれたかった。
しかし、彼の持つ厳かな雰囲気に、言葉すら封じ込まれたように、何も言えなかった。
しばらく、二人は顔を見合わせた。正確に言えば、瞳は合わせず、ただ貌だけを向かい合わせただけ。時間にすればほんの数十秒だった。だが、二人にとってはそれが痛く長い時間のように感じた。
「……失礼」
ようやく発したリュカの言葉は、冷たく突き放すものだった。そのまま、ゆっくりと衣擦れの音を立て、大広間の方へ踏み出していた。
(……リュカ……さん……)
心の中でようやく言えた名前。しかし、フローラは礼装に身を包むリュカの後ろ姿を、ただ立ち止まって見つめることしか出来なかった。
ラインハット摂政卿ヘンリー・マリア夫妻。
フローラの花婿に名乗りを挙げたことがある、ルラフェン大公家・光神成綱ルキナス=ディアス。
ポートセルミ太守・三位中将ディエゴ=キャンベル。
これもまたフローラの花婿に名乗りを上げた、旧エンドール王家末孫、オクラルベリー大公嫡子エラン=フェルイン。
そして、リュカと最後まで覇権を争った、アンディ=レーベ=インガルス。
サラボナ一の老舗宿・晴月亭主人、夏修頼宇ロジェリック=カシュー・アン夫妻。
稀代の一大イベントを一目見ようと集まった、街の人々、ルドマン家の家人。大広間は、高官平民分け隔て無く、さながらフローラの花婿を募ったあの日以上に、人に埋め尽くされていた。
ぎぃぃ……
奥の扉が重い音を立てて開き、大公ルドマン夫妻がゆっくりと姿を見せると、広間を埋め尽くした観衆が、しんと静まり返る。穏やかな表情の夫人と、やや険しい表情のルドマンの対照が印象的だった。
ルドマンが壇上に立つことを確認すると、夫人は開かれた扉の方を向き、小さく頷く。
すると、同じ扉から、ゆっくりと浅葱色の服に橙の外套を纏った、黄金の髪の少女。続けて、白い高貴なドレスに、水色の髪の少女が、怖ず怖ずと姿を現した。瞬間、広間はどよめきが巻き起こる。あまりに美しい二人の少女に、観衆はため息と歓声が混淆していた。
夫人の導きで、ルドマンが立つ壇を中央に、向かって左側にフローラ、右側にビアンカが立った。予想もしない観衆の数に、二人は恥ずかしさと戸惑い、気後れか、ただ瞳を伏せている。
どよめきがおさまらない観衆に、ルドマンは三回、手をうち鳴らした。
「皆さまにはこれより、歴史の証人として、勇敢なる青年の決断を見届けてもらいたいと思います」
ルドマンは既に街の噂となっている経緯を仰々しく公布し、改めて理解を求めた。それが、二人のどちらかがリュカと結ばれることなくても、万全の形で支えて欲しいという、大公として、父としての気配りであったことは、二人は元より、観衆の誰もが理解していた。フローラもビアンカも、ルドマンの言葉に、最後の覚悟を決めたのだった。
「リュカ殿、出ませい」
ルドマンが声を張り上げると、観衆の背後、通路の扉がゆっくりと開き、陽光が差し込んだ。群衆の目が一斉にそこを向く。
「おおおおっ」
「これは、何と」
「すごい……」
竜禽の装束に身を纏った青年リュカに、誰もが息を呑まされた。ここまで異国の礼装が似合い、人生三度の竜禽にさながら縁の神の姿を垣間見るような美丈夫を喩えて陳腐な言葉すら思い浮かばない。リュカの姿を如実に示した詩人ナウルの名節は後生に伝わる。
すっ……すっ……
真っ直ぐ壇上を見つめ、縁の笏を拝しながら、リュカはゆっくりと観衆が空けた道を歩む。二人の美少女は瞳を伏せたまま、衣擦れの音に耳を澄ましていた。
短い階段を昇り、壇上のルドマンに対す。そして、ゆっくりと深々拝礼した。
「このリュカ、太守の仰せに従い、また万神の僕として、心の迷い断ち切るべく聖堂に仕え、真(まこと)を求め、五(いつ)の晨昏(しんこん)を虚(うつ)に帰し、今ここに導きを出しましてございます――――」
「よかろう。――――時にリュカ殿、最後にひとつだけ訊ねる。二度は訊かぬ。……そなたの裡に、迷い在りか」
リュカはルドマンの目を見て、答えた。
「ございません」
微かに、ルドマンの口許が綻んだように見えた。そして……
「竜禽の装束に誓い、汎神の祝福受けし縁の笏をもて、そなたがこれより先、生涯の伴侶と成すべき者の前に立ち、笏を捧げよ」
ルドマンの柔らかくて、高らかな声が大広間に響いた。そして、フローラとビアンカ、そしてリュカの鼓動が徐々に高くなって行く。死んだように静まり返る観衆、鳥獣の聲すら緊張を感じて止み、天象すらも固唾を呑む。
すぅ――――はぁ――――
リュカの息づかいが緊張を思わせた。
そして、竜禽の装束の衣擦れは、フローラの貝殻のような耳からゆっくりと、無情に遠ざかる。
「ビアンカ――――」
強い意志が込められた青年の声は、気が強く、明るく、勇敢で健気で、それでも脆く愛しい少女の名を告げた。その瞬間、フローラの一縷の望みは完全に途切れた。
「…………!」
ビアンカはぴくんと肩を震わせて、そっとリュカを見上げる。一糸乱れぬ青年は右手に握った縁の笏を真っ直ぐに突き出し、深い瞳でその青く澄んだ瞳を捉えている。
「リュ……カ…………?」
突然訪れた幸運に途方に暮れるように、ビアンカの意識は泳いでいた。愛おしい人が自分の名を告げ、プロポーズの証を捧げてくれているという実感が、なかなかわいてこない。
しかし、リュカの言葉は続いた。
縁の笏を捧げたまま、彼の瞼がゆっくりと閉じられる。
――――僕は、ビアンカ……君が好きだ――――。
いつも明るくて、元気で、怖いものが無くて、いつも小さく怯え、戸惑っている僕を導いてくれてたね――――。
プックルを助けて、レヌール城の哀しみを解き放って、また共に冒険しようって誓ってくれた――――。
僕が大神殿で奴隷となっていた時も、君の笑顔が、ずっと挫けそうな僕を支えて、勇気づけてくれてた――――。
僕はそんな君が、好きだ――――。
フローラは耳を塞ぎたくなった。
どんな強い覚悟が出来ていようと、実際感じる痛みを、痛くないと思わぬ人間はいない。
観衆は小さくどよめいただけで、再び沈黙する。リュカはそのまま続けた。
でも……
僕の好きな君の姿は……あの頃のままだ。
きっと、何も出来ない子供の僕が愛したビアンカは、十年前まで、共に短い時を過ごした、あの頃の君の姿なんだ……。
リュカの目頭が熱くなる。
……ビアンカのことが好きだ――――。
でも……十年は長すぎた……。
今はもう、この空白は、どんなに埋めようとしても、きっと埋まりはしない……。
愕然となるビアンカ。大きく澄んだ青い瞳を、見開いてリュカを見つめる。
リュカはすっと、一歩後退る。
「何故なのか……君が好きなのに……」
リュカの声は震えていた。観衆の遙か後ろからもわかるほどに、リュカの声は切なく震えていた。
そして、閉じていた瞼を開く。一条の雫が、リュカの頬を伝う。悲しみに満ちた幼なじみと瞳を交わす。
「…………」
そして、リュカは左手をそっと、縁の笏の先端に乗せ、指を絡めた。
「…………っ!」
ビアンカは直感して思わず声を上げそうになった。
しかし……
ぱき――――――――――――――――ん………………
小気味よく、疳高(かんだか)い音が、壇上から大広間に反響してゆく。
瞬間、場の刻む時間が本当に止まった。
毀敗した淡いクリーム色の欠片が空を舞い、陽光に優しく、哀しい輝きを映しだした。
そして、そのひとつは、神が下した贖罪の鋭利な刃となって、青年の頬を掠める。すうっと、ひとつ赤い線がリュカの白い頬に走った。
「リュカ――――――――!」
「リュカさん――――――――!」
リュカの『暴挙』に、二人の美少女は我を忘れて叫び、飛び出そうとした。その時だった。
「動くんじゃねぇよ――――!」
観衆から、一際大きな怒鳴り声が発し、それを止めた。しんとなる。声の主は、二度、言葉を発しなかった。
「あ――――――――」
赤い線が滲んだ頬を横に向け、リュカはビアンカから二歩、三歩遠退く。
「…………」
ルドマンは咎め立てもせず、表情を変えることなく、リュカの行動を見据えていた。
「…………」
リュカはルドマンの立つ壇前に立った。
そしてひとつ、ゆっくりと頭を下げて顔を上げる。大広間に在する全ての人々の意識は、リュカの髪の毛先の揺れにまで尖らせ、集中していた。
そして、何と彼は両手を烏帽子にかけ、ゆっくりとそれを外す。ふわりとした長い黒髪が、舞い落ちた。
「…………」
飄然たるルドマン。リュカは構わず、今度は狩衣に手を掛けた。
するりと、心地良い衣擦れの音とともに、竜禽の狩衣がリュカの身から外れた。
その瞬間、場は大きくどよめいた。
「なんと――――!」
さすがのルドマンも、驚いて声を上げる。
装束を脱ぎ捨てたリュカは、いつもの旅の姿になっていたのだ。裾の綻びた白い布、同じく綻びかけた紫色の外套。正しくは、その旅装の上から、竜禽の装束を纏っていただけだった。
「…………」
唖然となる場。しかしリュカの表情は変わることなく、今度はフローラの前に歩み寄り、真っ直ぐ、彼女を見つめる。
「あっ…………あの…………」
戸惑うフローラ。瞳が泳ぐ。心臓が破裂しそうになるほど高鳴り、頬に朱が射す。
「…………」
そして、リュカはそっと歩を進め、ゆっくりと包むように嫋やかで可憐な白薔薇を、その腕に包みこんだ。
「あ――――――――っ…………」
何が起きたのか理解出来ない美少女。大広間は幽静な深夜のように静まり返る。アンディはそのままそっと瞼を閉じて、唇を結んだ。
そして、リュカのぬくもりを感じはじめたフローラの彷徨う意識はただ、愛しい人の逞しい指が、自分の水色の繊細な髪を梳いてくれているという心地よさを求めていた。
――――僕は……ありのままで伝えたい
初めてサラボナ(この街)を訪れたあの夕暮れの日を……。
あなたを初めて見た時の、この胸の衝動を……
繕った姿なんかじゃない……
形だけを捧げる訳じゃない……
例えみすぼらしくても、僕は僕のままで、あの時感じたこの気持ちを大切にしてゆきたい…………。そう、気づいたんだ。
ぽろぽろと、フローラの瞳からあふれ出す大粒の宝石が、リュカの服に染みてゆく。そして、彼女もそっと、腕をリュカの背中に廻し、胸に顔を埋める。
…………フローラ。あなたに出逢うことがなければ、僕はきっと、ビアンカを選んでいたでしょう。
でも、もしもあなたと出会うことが必然で、ビアンカとも出会うこと必然だったというのならば……僕は二人に出逢えたことを心から感謝したい……
すっ――――と、リュカはフローラを離す。美しいフローラの表情は、涙でくしゃくしゃだった。
フローラ。このリュカ、改めて心から言います……。
今の僕には――――フローラ、君が必要なんだ……。
フローラ……ずっと……
ずっと……側にいて欲しい……
……君を、愛している…………
もう、それ以上の言葉は必要なかっただろう。リュカの心からの言葉が、ひとつひとつ、フローラの心を潤す泉(みず)となってゆく。
「僕は……僕です。貴女を愛することしか出来ない、貴女にとって、僕は――――」
す――――――――…………
リュカの唇は、その桜の花弁のようなフローラのそれで塞がれた。瞬間、大広間に歓声が上がる。もう、それだけで満ち足りたような幸福感を、分け与えるかのように……。
「ふふっ……」
壇上のルドマンが含み笑いを漏らしたかと重うと、突然、腹をゆすって哄笑(こうしょう)した。愕然となり、一気に沈黙し、緊張する場。
「リュカ君。よくぞ、夏修家祖伝来の宝を毀敗に及んだな――――」
ルドマンは笑いながら、人目も憚らずに抱擁を交わすリュカと愛娘を見る。その視線と言葉に気づき、真っ赤になって狼狽し、身を離す二人。ビアンカは瞼を閉じ、唇を結んで屹立している。
「あっ……あの……それは……」
「夏修家ロジェリック殿、いかがかな」
ルドマンが観衆の前列に立つロジェルに声を掛ける。対してロジェル、にこりと笑顔で答えた。
「是非もなしですぜ、ルドマンの旦那」
「よろしい――――」
ルドマンも笑みを返し、再び路を決めた若者と、愛しいフローラに暖かな眼差しを向ける。
「リュカ君。そなたの思い、このルドマン確かに見届けたり――――。言うまでも無いが、フローラよ。そなたの答え、如何に……」
フローラは涙を拭い、ゆっくりと姿勢を正すと、瞼を閉じて言った。
――――私は……リュカという人を愛しています。
過去も、未来でもなく、今ここにいてくれる、リュカという人を愛し、そして、ずっと一緒にいたい……。
他に何もいらない……ただ、それだけです――――。
彼女の答えも、振り返れば何度も聞いた、実に単純なものだったかも知れない。
単純な答え――――。人はそれを素直に言葉にするのに、どんなに時がかかるのだろうか。だからこそ、人は傷つき、傷ついた分だけ、その意味は深く、かけがえのないものに変わってゆく……。
『ずっと一緒にいたい……』
初めて出逢った時の互いの感情は、今ここに結実し、この言葉になって一つとなった。 ビアンカはきゅっと唇をかみしめた後、雨後の晴天のように笑顔を浮かべ、突然、勢いよく拍手を始めた。
アンディは安堵したかのように爽やかな微笑みを浮かべ、ビアンカに続いて手を打ち鳴らす。
ヘンリーは終始表情に変わりなく、それに倣った。
ロジェル夫妻は観衆を代表するかのように、素直にフローラの幸福を祝し、歓声を上げて大きな拍手を送る。
波のように、拍手喝采の嵐は大広間を包んでいった。それは永遠の響きとなって、リュカとフローラの前途を明るく、そして力強く送り出してゆくようであった。
リュカとフローラを送り出し、ルドマン夫妻が退出するまで、夙に明るく振る舞ったビアンカ。
黄昏の陽光に染まる、静寂に包まれた大広間。
誰もいなくなった大広間にひとり窓辺に佇む哀しき美少女を、ヘンリーとマリア夫妻は気遣い、酒場へ誘った。
「ありがとう、ヘンリー、マリアさん。でも、私は平気ですっ!」
彼女は崩れ落ちそうな心を、必死で強がっていた。
慰めを嫌った。明るさを失わないと藻掻いていた。
だが、マリアの優しい言葉と、リュカの真意を知るヘンリーの言葉に、気丈な黄金色の髪の美少女は、心をさらけ出した。
「未来を見つめて生きてゆく……ネガティブに考えてない……か。ふふっ、ずいぶん偉そうなこと、言っちゃったなぁ――――」
フローラと会話を交わした時に言った自分の言葉を返し、嘲笑する。
「私……やっぱり…………
リュカ…………うぅ……
……リュカぁ…………」
数える日々に溢れる幼なじみとの想い出が甘く切なく突き刺さり、ビアンカはもはや言葉が繋がらなかった。そして、マリアはこの哀しき少女を優しく、抱きしめてくれた。
今は強く泣け。思いのままに泣け。
人は生けるもの全てに勝る特権がある
それは哀しい時、寂しい時、涙すること
心偽らずに、涙枯れ果てるまで泣け
いつの日か必ず、それが君の心を癒す泉となるだろう――――
稀世の勇者と、稀代の美少女が成す結婚式前夜――――。
北回帰線の古都は、何処も殷賑(いんしん)たる様相を呈し、その片隅に失恋の痛みに慟哭するひとりの少女の姿を、静かに霞ませていった。