第16話 サンクチュアリ -Chorus by Junichi Inagaki-

 グランバニア国史に記される、『壮賢后妃御選叙の次第』は、リュカの苦節を生々しく伝え、彼の決断に、恋愛を経験する若者たちを中核とした賛否の諍論は今もってなお尽きることはない。
 後世にその名を残す選択をしたリュカは、結婚式前日、独身最後の日を、仲間たちの元で過ごす事を望んだ。フローラは、はや片時も離れたくないと思いつつ、リュカの意を酌み取った。
「やあ、みんな」
 主人の帰還に、仲間のモンスター達は皆、歓喜に騒然となる。
「リュカ」
 ピエールが見上げる。リュカは微笑んで頷いた。それだけで、意思は伝わった。
「良い顔をされてますよ」
「からかうなよ」
 はにかむリュカ。
「迷いは取れたようですな、ご主人」
「マーリンか、ああ」
 マーリンはすきっ歯を光らせて言う。
「殺戮に明け暮れていた冥府魔道の過去から解き放ち頂いたご主人との出逢いこそ、我らの本望でありまする。ご主人の心の癒しとなられるご伴侶のこと、このマーリンとてもうれしく思いますぞ」
「ありがとう。そう言ってくれると、僕は嬉しいよ」
 ふと、リュカが仲間たちを見回す。
 スラリン、ホイミンらをその暖かな毛皮に包み、安心したように丸くなり眠っている巨大なキラーパンサーに、リュカは目を細めた。
「プックル――――」
 リュカはそっと近づき、その頭を軽く撫でる。紅い鬣(たてがみ)が微風に揺れ、気持ちよさそうにヒゲをむずむずとさせる。
「プックルよ、僕を恨むか――――」
 前足に控えめに結ばれたビアンカのリボンを見つめながら、リュカは呟いた。
「僕はきっと、ビアンカのことを忘れはしないだろう――――お前という繋がりがある限り、想い出が褪せることはないんだ」
 ごろごろごろごろ……。
 地獄の殺し屋キラーパンサーは愛らしく喉を鳴らして熟睡している。
「僕は新しい道を歩み出すけど――――プックル、お前との空白の十年を、せめてもの未練として、これからも僕についてきてくれるか――――」
 プックルは無意識に舌を出し、鼻を舐め、連鎖的に大きな牙をむき出しにしてあくびをする。
 ごろごろごろ……。
 返事はない。だが、リュカは澄んだ瞳で微笑み、朋友の身体を何度も何度も優しく撫でた。

「みんな――――」
 リュカは満面の笑顔を湛えながら、それぞれ好物の新鮮な食料を大量に背中と両手に提げ、仲間の名を呼ぶ。
「このリュカ、独り身最後の夜だ。つき合って、くれるかい?」
 リュカの仲間たちは歓声を挙げ、小さな宴に心弾ませた。あるいは歌い、あるいは踊り、種族を超えて打ち解け合い、羽目を外して主人の幸福を祝った。そしてリュカは改めて、この連中の素晴らしさを、しみじみと実感する夜であった。

翌日――――

 ゴーン……ゴーン……

 黄色がかった陽射しが、サラボナの街全体を包み込むいつもの朝。街を挙げての一大祭典を告げる聖堂の鐘が鳴り響いた。
 街の人々は誰もが高揚し、我がことのように交歓し合う。
「…………」
 目覚めたリュカは、その光景に触れ、カボチ村からの寂寥感が、真綿に水をひたすかのように埋まってゆく感じに胸が熱くなる。
「晴れたな――――」
 薄い靄がかかった蒼天、雲一つ無い快晴の予兆だ。とんっと、樫杖を突く。リュカが旅中、ひとつの決断をする時の癖。さっと舞い上がる土煙が微風に運ばれてゆく。
「お、主役だ主役。いよ、この幸福者め」
「見たよ昨日。いやぁ、実に格好良いねえ」
「きゃーリュカさまぁ!」
 公邸に向かう道すがら、祝福の言葉をかけぬ往来はひとりもいなかった。リュカもまた、それに応える。

 普段は謹厳たる様相のルドマン公邸も、今日は祝賀一色ムードだ。
「ほらほら、どいたどいた。あー忙しいよ」
 家人は総出で結婚式・祝宴の準備で東奔西走状態、新郎リュカの訪問すら気づかないほどに喧噪と人出が止まない。
「あ、リュカさま。失礼いたしました。どうぞ、こちらへ――――」
 リュカの姿にようやく気づいた家人が、冷や汗を浮かべて苦笑するリュカを、洋間へと導く。
「おお、リュカ君。おはよう」
 窓辺に佇んでいたルドマンが、上機嫌に新郎を迎えた。
「おはようございます、太守」
「ふふっ、固いな。緊張しているようだな」
「はい。昨夜はあまり寝付けなくて――――」
「お仲間と夜更かしされたのかな? それとも、この日を思い、心巡らされていたのかな?」
 リュカは小さくはにかむと、こくんと頷いた。
「はい。いささか、思い巡らせておりました」
 ルドマンはじっとリュカの目を見ると、ゆっくりと、深々頭を下げて、言った。
「フローラのこと、どうか……どうかよろしくお頼み申す――――」
 リュカも見返した。義父に歩み寄り、年季の入った手を取る。そして彼も上体を倒し、毅然とした口調で言った。
「つたないこの身ですが、ただひたすら身命を賭して、フローラさんをお守りいたします」
 ルドマンは顔を上げて笑う。
「お強いのう、そなたは」
 義父と婿は笑い合い、固い握手を交わしたのである。
「旦那様、リュカ様。フローラ様のご準備が整いましてございます」
「おお、左様か。……よし、メアリ、メアリはおるか」
 家人の呼びかけに、ルドマンは夫人の名を呼ぶ。
「はい、ただ今――――」
 奥の扉からルドマン夫人メアリが、紅錦の天鵞絨(ビロード)の木台に載せられた純白の被り物を恭しく拝しながら姿を見せた。そして、ゆっくりとリュカの前に進み、差し出す。
「これは白絹の面紗(シルクのヴェール)です。良人が佳人を御聖堂へ導く時、良人自ら佳人へこれを被せ、式に臨みます。神前における契約の証と思いなさい」
 リュカは驚いたようにルドマンを見る。
「太守、ならば――――!」
 目を見開くリュカに、ルドマンはにやりと笑う。
「他意はないぞ。まあ……いささか高き代償だが、君ならば許された。古の夏修家貞恒卿(マクベス=カシュー)も本望であろう。しかし、君を試したのも否定は出来ぬ。許してくれとは申さぬが――――」
 リュカの瞳に涙が溢れた。何故なのか、リュカ自身わからなかった。だが、メアリ夫人から天鵞絨の木台を受けると、ぐっと唇を噛み、涙を堪えようとした。
「ありがとうございます――――」
 頬を伝う涙の跡。リュカの強い意志が、そこに秘められていた。

 公邸のはなれ――――翠蝉の間と呼ばれる広間が、フローラの控え室とされた。
 清楚な純白のウェディングドレスに包まれたフローラの姿を見るに、まさしくその名の通り、美と豊穣を象徴する現人神を奉拝さる――――と、国史はフローラの美妙を記す。
 そこはまるで、良人となるリュカ以外の男性の視線を忌諱とするかのように、家人達が扉を守護していた。
 木台を拝したリュカが姿を見せると、家人達は一斉に拝礼し、道を空けた。
「待って――――」
 扉の前に立ったリュカは、扉越しに聞こえてくる話し声に、開こうとノブに手をかけた家人を柔らかく制止する。
 その話し声は、紛れもない、フローラとビアンカだった。

「……本当に、おめでとう、フローラさん」
「……喜んで、いただけるのですか、ビアンカさん――――」
「当たり前じゃない。そうじゃなかったら、とうの前に村に帰ってるわ」
「……ごめんなさい……」
「え――――?」
「私…………私……あなたのこと――――」
「やだ――――よしてよ。それは言いっこなしって決めてたでしょう?」
「ビアンカさん……でも……」
「フローラさん。勘違いしないでね? 私はあなたに負けて、そして勝ったの――――」
「…………」
「私、こう見えて、かなり負けず嫌いなのよ。物心ついた頃から、ずっと好きだったリュカを、黙ってあなたに取られるほど、お人好しじゃないわ――――」
「それは――――ええと……」
「ふふっ……あははっ」
「ビ、ビアンカさん……?」
「なんてね、強がりかなぁ。……でもね、フローラさん。私、正直言うと、今は全然悲しくなんかないの――――」
 リュカははっとなって扉を凝視する。

 ――――彼は今でも私のことを好きだって言ってくれた……。
 でも、彼と別れて、再会したこの十年の空白は埋まらない。長すぎたっ…………て。
 昨日、私の前で縁の笏を砕いた時、ショックだった……。
 彼の気持ちが私にはない……ううん、毀して、砕いて、二度と元に戻らない気持ちを表しているんだな――――って、そう思ったの。
 私――――馬鹿だから……ただ目の前の光景だけで、そう思いこんで、勝手に傷ついて……。
 でも、それは違ってた。
 今日、こうしてあなたの着付けを手伝って、こんなに美しくて、女神様になってゆくあなたを見ているうちに、彼の真意がわかっていったの。
 彼は未来を見つめているわ――――。
 母上マーサ様を捜し、伝説の勇者を求め、この世界に平和が訪れて、誰もが皆倖せに笑える未来を見つめて、あなたを選んだ。
 でも、決して私を過去と見ている訳じゃないと思う。
 あの時、あなたに言ったことがきっと彼の素直な気持ち――――。
 でもね……私が彼の想いと違う事はひとつだけ――――。
 私にとって、リュカと過ごせた日々は、たとえ短くても、確かに幸せだったこと――――。それは、誰にも変えることが出来ない、私だけの事実なのよ。
 フローラさん。あなたがこれから、彼と築き上げてゆく幸福ですら、私にはきっと敵わないわ。
 ……だから、私はあなたに負けて、勝ち続けてるの。悲しくなんかないじゃない――――。

 ビアンカの明るい声は、扉越しにも澄み切っている気がした。
「フローラさん。だから、あなたはリュカと幸せになるべきよ。ヘンリーさんの言葉じゃないけど、ソウジョウノジンしたら、本気であなたからリュカを奪うからっ!」
「ビアンカさん…………」
 二人の表情など、中の様子はわからない。でも、ビアンカの決意の一端を窺い知ることが出来て、リュカは安堵した。
「……それにしても、遅いわね。どうしたのかしら――――」
 新郎の遅参にやきもきする幼なじみの声。
「うっ――――」
 リュカは狼狽し、家人に扉を開けさせた。

「あ、来た来た。こーらっ、寝不足の新郎さんっ。寝癖立ってるわよ、ふふっ」
 ビアンカは冗談を交えてリュカに遅参を軽くなじると、大聖堂で待っているからと言い、ウィンクをして身を翻し、翠蝉の間を出ていった。家人たちも役目を終えた様に、退散してゆく。静寂の公邸には、この瞬間リュカとフローラの二人きりとなっていた。
 純白のウェディングドレスに包まれた、白薔薇の女神に、リュカは目を奪われる。
 女神の深く、澄んだサファイアブルーの瞳は、切なげに、甘く苦しいほどに一途な輝きを湛えて愛しい良人だけに向けられる。ドレスに負けぬ皓(しろ)い容に、ほんのりと朱が射す。
 まるで言葉などいらぬかのように、ただ見つめ合う二人。
 やがてリュカは天鵞絨の木台から、白絹の面紗をそっと包むように持ち上げると、ゆっくりとフローラに歩み寄り、水色の髪にそれを戴いた。
 ふわりと、柔らかに女神の容を隠す。
「綺麗だ――――フローラ……」
 リュカはようやく素直に、“フローラ”と呼べた。薄い絹ごしに、フローラの容が喜びに晴れる。
「嬉しい……リュカさん……私…………」
「僕もだよ――――。思い起こせば、まさか貴女と、この日を迎えることが出来るなんて……思いもよらなかった――――」
 リュカはまっすぐ、自分の女神を見つめる。そして、ゆっくりと瞳を閉じ、右手を自らの胸に当て心情を奉告する。
「不肖リュカ、君、フローラを我が正道の伴侶と成し、これより大聖堂までのサンクチュアリを共に歩む――――。我が真意受け容れるならば、君自ら、我が手を取らん――――」
 わずかな沈黙が翠蝉の間を包む。
 そして、ひやりとした繊細で滑らかな指が、そっとリュカの胸に当てた手に重なる。
「フローラ……」
「リュカさん……」
 リュカが瞼を上げると、透き通るような皓き頬を染め、潤んだ瞳でリュカと眼差しを交わし、しっかりと指を絡めている愛おしい美少女が映った。
 リュカはフローラを立たせ、ブーケを差し出し、並ぶ。フローラはブーケを片腕に抱き、もうひとつの細い腕が、リュカの逞しい腕に絡められる。初々しく、絵に描いたような美しい男女の晴れ姿は、翠蝉の間から、大聖堂へと続くサンクチュアリへ光跡を刻む。

  アーアアアー………
  アーアアアー………
  アーアアアー………
  アーアアアー………

 ゆっくりとフェードインし、街全体を包むゴスペル。それはその名の通り、正しく神の福音をもたらす厳かな音色。ルドマンが招聘した、東洋大陸の出自と言われる歌の名手がリードヴォーカルとしてアカペラで紡ぐ、その名も“サンクチュアリ”。

 街は巨大な聖堂ととなり、天空は淀みひとつもない、果てしなく高く、昊(ひろ)く、そして限りなく原色の青に彩れられていた。
 荘厳なゴスペルが、延々と二人の若者を祝福する中、寄りそいながらサンクチュアリをゆっくりと歩む。
 驚かんや鳥獣までもが二人を祝福し、時折、この地方では幸運の象徴と謳われ、拝観することすら稀有な霊鳥・斑鳩(いかる)が舞い降り、女神の面紗に留まり、鳴き声を上げてゆく。フローラはお伽話に聞いていた霊鳥の姿に、感嘆する。
「ごらん――――君を慕って、天象万有すべての輝きが君を祝してくれているんだ……」
「リュカ……さん…………」
 昔、さる親友から知識として教えられていた、歯の浮く台詞の一部が自然と口に出る。フローラは愛しい人の麗句に、仄かに染まった頬をさらにぽうっと紅く染めて恥じらう。
「あっ、おほんっ――――」
 その様子にリュカは思わず抱きしめてしまいたい衝動に駆られ、慌てて軽い咳払いをして自制した。
 故郷・サラボナ。
 今、このサンクチュアリにありて人生の岐路を迎えたフローラは、その蒼く輝く街並みに、不変の郷愁を感じ、胸を熱くした。
 そのサファイアの美しい瞳に映るのは、幼い頃に見たサラボナの光景そのままに、潮の香りが穏やかな西風に運ばれ、どこかしか懐かしくて哀しい、静かな佇まいであった。
「…………」
「フローラ?」
 リュカはふと、フローラの横顔を見遣る。眦に浮かぶ、透明な宝石。
「すごく懐かしくなって……この街、こんなに綺麗だったの――――」
 言いながら、フローラはリュカの腕にさらに凭れる。リュカは黙って微笑むと、その宝石を薬指で優しく掬った。

  アーアアアー………
  アーアアアー………
  アーアアアー………
  アーアアアー………

 大聖堂に響くアカペラのゴスペルがゆっくりと新たな契りを結ぶ若き二人を迎える。
 扉がゆっくりと開き、青き陽光が一条の軌跡を祭壇に伝え、神と一体になった。

  アーアアアー………
  アーアアアー………
  アーアアアー………
  アーアアアー………

 リードヴォーカルのテナーが反響し、ゆっくりとフェードアウトしてゆく“サンクチュアリ”
 そして、今度は楽隊の演奏が華やかに始まる。
 “結婚ワルツ”。その太古伝承の楽譜は、各地の聖道のバイブルとして、人が織りなす華燭の典に必ず披露される舞曲。
 荘厳なゴスペルと美しい舞曲のメドレーを耳に出来た人々は、実に幸運に恵まれている。
 美しくも、初々しさが溢れている主役の登場に、会場はにわかに歓喜の渦に包まれた。
 そして、ビアンカもルドマン夫妻やアンディらと同じ最前列の席にいて、賑やかに二人を迎えた。
 リュカが苦悩し、神と対話したヴァージン・ロードは、今光に満ちて二人を照らす。そして、二人は祭壇の前に立ち止まり、神体を見上げる。

「本日これより、汎神(かみ)の御名において、新郎リュカ、新婦フローラの結婚の儀を執り行わん」
 神父アロンの託宣が始まる。
「まずは汎神に対し、誓約の証を奉らんや。
 ――――汝リュカ。
 そなたはこれなる女フローラを佳人となし、
 健やかなる時も病める時も、
 永久に変わらぬ愛をもて、その躬を共にすることを誓うか――――」

   はい――――誓います――――

「――――汝フローラ。
 そなたはこれなる男リュカを良人となし、
 健やかなる時も病める時も、
 永久に変わらぬ愛をもて、その躬を共にすることを誓うか――――」

 フローラは僅かの間の後、瞳を閉じ、想いを深く、強く込めて言った。

   はい――――誓います――――!

「宜しい――――。
 そしてここに汎神の祝福を受けし指環を交さん――――」
 アロンが聖台に祭られた炎・水の両指環を差し出す。リュカが水の指環を、フローラが炎の指環を手にすると、ゆっくりと二人は向き合う。
「…………」
「…………」
 そして、最初はリュカが、次にフローラが、互いの左手を取り、薬指に指環をはめた。朱と青の宝玉がきらりと輝く。
「今、ここに汎神へ契りの証を示されたし――――
 いざ、永久の誓いたる、口づけを――――」

 アロンの託宣に導かれ、リュカはゆっくりとフローラの容を隠すヴェールを上げた。
 そして、仄かに頬を染めた二人は見つめ合う。今、この瞬間に二人、そしてビアンカ、アンディ達の胸に去来する様々な想いとはどうなのだろうか。
 瞳を閉じ、二人の唇が重なる。
 本当の一瞬、心身共に愛し合う時と較べれば何ともロマンチックな場面だと思うほどに、純白なるフレンチ・キス。
 瞳を開き、互いに見つめ合うも一瞬のこと。何故か気恥ずかしくなって俯く初々しさに、列席からはやや揶揄を込めた拍手が起こる。
「おお、大いなる汎神(かみ)よ、御覧じろ。今ここにそなたの名をもて、新たなる夫婦が生まれたり。どうか鴛鴦(おし)の御使が導きを下し賜りて、二人に末永き幸あらんことを……アーメン――――」
 アロンが十字を結ぶと同時に、大聖堂は再び、割れんばかりの拍手喝采に呑み込まれた。楽隊の舞曲も聴き取れぬ程に、祝福の歓声は若き夫婦を暖かく包むようだった。

 寄りそいながら、ヴァージン・ロードを再びサンクチュアリへと向かう二人。聖堂の前では華々しいコンフェッティが夫婦を待っていた。
「リュカにフローラさんおめでとう――――」
「奥さん大事にしろよ――――」
「羨ましいぜこのやろう――――」
 時に痛烈な祝福の野次が絶え間なく降りそそぎ、歩き始めたばかりの夫婦は戸惑い微笑む。
「フローラ……」
「はい――――」
 リュカが目配せすると、フローラははにかみながら頷いた。そして、胸元に抱くブーケを見つめると、それを高々と掲げる。
 稀代の美男美女同士の婚礼を垣間見る幸運に預かった若い女性達は、挙って歓声をあげる。
「皆さんにも――――この幸福を――――!」

 フローラは声を上げ、広大な蒼天にブーケを放った――――。
 そして、稀代の幸運を秘めたそれは、弧を描きながら、ゆっくりと、ゆっくりとそこへ舞い降りていった――――。

ルドマン邸

 喧噪著しい酒宴は、いつ果てる時を知らない。
 羽目を外すルドマン。ロジェル夫妻もレイチェルも、神父アロンも酒を酌み交わし酔いしれる。
 アンディは友人達に慰められているのだろうか、時折やけ気味にアルコールを呷り、心配したフローラに止められ、皆に笑われる。
 ヘンリーすらも大いに傾き、マリアに呆れられ、フローラやビアンカを唖然とさせた。
「ヘ……ヘンリーって、いったい……」
「バカ言えおめェ、俺は元々こういう性格なんだ!」
 激しく戸惑うビアンカの質問に、ヘンリーは何故か空の瓶を抱えながらリュカに絡み、突然哄笑する。酩酊しているとはいえ、あまりのギャップに返す言葉すら見つからない風だった。
「えーかリュカ、ひっく! 大人しいカミさんほど――――手強い女はいねっぞ! わかっか、あ?」
「はいはい――――」
 苦笑しながら宥めるリュカ。
「トキにオトコは――――がつーんっ! と、一発かまさにゃならんときもある! ――――じゃねーと、きづかねーうちに……なんだーその――――なんだっけ……」
「なんだっけ……??」
「あはっはははははっ、ま、いいっしょ! おめーももうじきわかるってな?」
「??」
 つかつかと横から眉を顰めたマリアがヘンリーに歩み寄り、肩を怒らせる光景が見えた。
 気分の良かったヘンリーの表情がにわかに青ざめる様に見えた。彼が言いたかったのはこういう事なのかなと、その時リュカは思った。
 ヘンリーがマリアに連行されていった後、様子を見計らい、彼は中庭に出た。

 静かな夜だった。喧噪もここでは丁度良い音楽と化す。
 リュカは満天の星空を見上げながら、この日までを振り返っていた。一言では語り尽くせぬほどの想いが次々と脳裏を駆け抜けてゆく。
 深呼吸をした。爽やかな空気が胸一杯に染み渡る。幸福感に満たされた熱い胸に、その冷たさが、実に心地よい。
「リュカさん――――」
 背後から愛おしい女性の声。
「やぁ……フローラ――――」
「ふぅ――――やっと、抜け出せましたわ、うふふっ」
 微かに息を切らしてリュカの側に駆け寄ると、彼女は微笑んだ。
「主役が抜けちゃ、まずいだろうに」
「あら、そのお言葉そのままお返しいたしますわ、うふふっ」
 そして、出来たての夫婦は自然に唇を重ねる。喧噪と虫の声、満天の星空に包まれた二人、離れるのが惜しむかのように、静かで熱い唇の交歓。
「……フローラ、君にひとつだけ、知っていて欲しいことがあるんだ――――」
 星を見上げ、妻の肩を優しく抱きながら、リュカは言った。
「はい……」

 ――――今こんな事を言うのは卑怯かも知れない。でも、君にだけは、隠し事なんかしたくないから――――

 僕は……ビアンカを愛している。
 誰よりも…………愛している……。
 それは……どんなに繕っても……自分を偽れない気持ちだ――――

 だから……だから僕は、ビアンカを抱いた……
 君を裏切るとわかっていて抱いた……

 でも――――こんな罪深い僕が、フローラ……君を選んだのは……
 君への想いが、ビアンカ以上だったから――――他に何もない、ただ……それだけ……。

 安直だよね――――ばかばかしいよね……
 ずっと、自分でもそれを分かっていたのかも知れない……気づかない振りしていたのかも知れない……

 僕は最低だ――――…………
 決して、許される事じゃない……許してくれなんて言えない…………
 でも…………フローラ……僕は……
 僕は君のことを…………

 リュカは震えていた。そして、今こんな事を告げる自分に嫌気が差していた。
「ありがとう――――」
 フローラは意外な言葉で、リュカの言葉を受け容れた。愕然となるリュカ。
「やっと……あなたは……ご自分の“弱さ”を見せてくれました――――」
「フローラ……?」
 彼女は愛おしそうにリュカの胸に凭れると、続けた。

 あなたを知って、あなたに惹かれて、あなたを想い、あなたを感じるたびに、私はあなたとの距離を感じずにはいられませんでした……。
 あなたはお強くて、逞しくて、固い思いを抱いて旅をされている――――
 私は、きっとそんなリュカさんを好きになって、思い焦がれてきました――――。
 そして、ビアンカさんが訪れた日……正直、私は絶望しました。激しく、恨みました――――
 でも……昨日あなたが例えビアンカさんを選ばれていたとしても、今はそれが良かったって思えるの――――。
 ビアンカさんに出逢えたことが、本当に良かったって――――。

 あなたが初めて私を抱いてくださった日も――――あなたは強かった……私が愛したリュカさんに満たされてゆくこの身がとても愛おしくて……

 でも…………どうしてでしょう……胸のどこかに、ぽっかりと穴が空いたような気持ちが埋まらないの……。
 そして……ヘンリーさんに連れられてビアンカさんと会った時……気づいたんです。
 ビアンカさんが見せた、“弱さ”を――――。心に秘めた、あの女性の弱さを――――。

 リュカさん……あなたはずっと強かった。
 私たちを傷つけたくないと想ってくださって、自らを戒飭(かいちょく)されて……。
 そして、儀礼を擲ち私を抱きしめてくれた瞬間……すごく……すごく嬉しくて……。

 でも…………あなたはずっと、お強いリュカさんでした――――。
 私には決して弱さを見せてくださらない、私のリュカさん――――。

 でも……それが……とても辛かったの……

 あなたの全てを愛したいのに……満たされない想いがだんだんと強くなって行くのが……
 あなたの強さを知るたびに……悲しくなった――――

 だから……今はもう……嬉しいの――――心の底から、嬉しいの……!
 あなたが弱さを見せてくれて……私がその弱さを受け容れられることが……すごく……すごく…………!

「フローラ――――!」
 リュカは強くフローラを抱きしめた。こんなに愛おしくて儚げで、芯の強い健気な深窓の令嬢を、壊れてしまうかと思うほどに強くかき抱いた。
「ああ……あなた……愛しています……」
「僕もだ……フローラ……。君と結ばれたこと……この世の全てに感謝したい……」
 再び、星影に照らされた二つのシルエットはひとつとなり、延々とそれが離れることはなかった。

「…………」
 ビアンカが瞳を伏せてそっと身を翻すと、そこには朝衣を纏った、ラインハットの王子ヘンリーが微笑みを浮かべて立っていた。
「ヘンリー……」
 やや安堵したような表情を浮かべるビアンカ。
「大丈夫なの?」
「マリアのやつに解毒呪文(キアリー)唱えられちまったよ、アハハッ」
「はぁ――――」
 呆れたようにため息をつくビアンカ。
「帰るのかい?」
「ええ。ルドマンさんにお願いして、レイチェルさん達に送っていただけることになったの」
「そうか……あいつらには黙って発つのか」
 ビアンカはふっと笑みを浮かべると、ひとつ小さく頷いた。
「もう……別れの言葉は思い浮かばないわね」
「…………」
 ヘンリーはビアンカの言葉と、その表情を察した。
「俺もマリアも、これから帰るところなんだよ」
「え――――? あなたこそ、リュカ達にお別れしなくても良いの……?」
「ああ。いつだって会いたい時に会えるからな。……それに、柄じゃねぇし、何かね」
 と言いながらはにかむヘンリー。
 ビアンカはしばらく考え込むように眉を顰めた後、ぱぁっと晴れたように手を打ち鳴らす。
「……そうだっ! ねぇヘンリー、もしもこのまま真っ直ぐラインハットへ帰るだけなら、私の村へ寄ってかない? 何にもないところだけど、温泉だけは格別よ!」
「わぉ! そいつは良いね! マリアのやつもきっと喜ぶし――――」
「うんっ、じゃ決まりね。ふふふっ」

 …………
 …………
 元気でね……リュカ……フローラさん……
 どうか……お幸せに……

 …………
 …………

 華やかな祭典が終わり、世界は再びいつもの様相に戻る。
「あなた……」
 書斎の窓から、じっと西の空を眺め続けているサラボナ大公ルドマンを案じて、夫人メアリが、淹れたての紅茶を机に置く。
「そんなに心配されなくても、大丈夫ですよ」
「むう…………」
「フローラが、自ら選んだ道なのですよ。……あの子が、自ら…………」
「……やはり……気づいているのか――――」
「もう、あの子は大人ですよ――――」
「そうか……そうで、あったのう……」
 ルドマンの寂しげな表情が夕陽に照らされる。
「あの子は、リュカという大空を見つけて、自由に羽ばたいて行った……。それがきっと、始めから決められていた、あの子の運命だったのだと……今は、そうだと思えるのです……」
「…………」
 ルドマンの胸を熱くする寂しさは、確かな親心であったと、後に日記は示す。
「あなた……二人が戻られたら、何と言われます――――?」
 ルドマンはひとつ、長いため息をつくと、彫りの深い顔に満面の笑みを湛えて言った。
「世界が平和を取り戻した時……子や孫ら、皆共に暮らそうぞ――――」

 それが、何よりの願い――――。

「それでは義父さん、義母さん……私たちは――――」
「お父さま……お母さま……行って参ります……」
 旅立ちはいつも涙とは限らない。誰よりも強く、そして自分が決めた道だから、笑顔でひとときの別れを告げられる。
「気をつけてな。二人とも、おのが信じた道を、どこまでも信じ貫くのだ。どんな暗闇がこの先待ち受けていたとしても、その向こうに必ず、光明はあるのだから――――」

「はい……!」
「はい……!」

 サラボナ郊外に留まっていた馬車が動き出す。ひとりの旅の青年と、彼に従うモンスター達。そして、一見場違いな美しい少女……。
 この先待ち受ける幾多の苦難と忍従の運命を知る由もなく、幸福と決意に満ちた、静かなる旅立ちであった。
 その遠ざかる影をルドマン夫妻はいつまでも、いつまでも見送っていた――――。