北天に殃炎(おうえん)悉く蒼穹に昇りて、社稷(しゃしょく)凶音の響に、臣民昼夜に臥せず。
壮賢王帝、大臣が奸計逞しくして兇魔に拉せりし后妃救わんが為、北天を戡定(かんてい)さるも、未だ以て還幸されず。
先帝代王、壮賢王不遇の宣布・服喪の大礼なお告(ひろ)めること能(あた)わず、王子リュナン踐祚(せんそ)、良日これなし。
社稷千歳の君惠に与(あずか)らず、臣民猶も魔帝の恐懼に安眠満たすことなし――――
【グランバニア国史・壮賢王受難上段】
フローラを妻に迎えたリュカは海路南へ、テルパドール王朝を訪れ、女王アイシスの天意を受け、亡父パパスの故郷と伝えられているグランバニア大陸へと進路を取った。
その長き船旅は順調であった。
夫婦を守護する神徳は、朝夕に止むことはなく、大チゾット高原の天嶮から、生まれて初めて眼下に望む故郷の楼閣へ感慨を深めるリュカにとって、フローラ懐妊の報は、まさしく高原の瑞煙とともに神が下された、父子二代における、ささやかなる功業の賜物と思い止まなかっただろう。
程なくグランバニアに到達したリュカとフローラを待っていたのは、恩人サンチョとの再会、そして先帝パパスの実弟である、オデュロン(オジロン)王よりの帝位禅譲の意向であった。
奸臣セイシェルの謀計虚しく、試練の洞窟より凱旋したリュカを、臣民は歓喜をもって受け容れたのは必然である。
由緒あるグランバニアの帝位は名実共に正嫡たるリュカが継ぐべきものとしたオデュロン王の天意を、リュカは受けた。
オデュロン王は献正帝代王の謚号を受けて退位し、その瞬間、リュカはグランバニア王位に踐祚・登極した。
そして時は程なく、フローラが産気づかれた。それはリュカにとって奇しくも、母マーサが自分を産み落とした日と同じ運命の邂逅。
狼狽えるリュカの元に数時後、まこと慶ばしくも、フローラが二児をご出産されたとの報がもたらされた。
一介の素浪人の子から奴隷を経て、逃亡者・魔物使いという数奇な運命に翻弄され続けたリュカの子は、何の因果か由緒あるグランバニア王国の正統嫡流という殿上にあり、パパス・リュカの遍歴を刹那にして凌駕した。
リュカは第一王子をリュナン、第一王女をラファと自ら御名を賜り、フローラの功を衷心に労い、その日を寄りそい共に過ごした。
しかし、国の吉慶、一縷の禍根がために純白の真綿に黒墨を垂らすが如くと、国史に刻む。
その日はまた、リュカのグランバニア国王即位の大礼祭が盛大に執り行われ、御子の生誕を祝うと同時に、国威掲揚と掃魔追討を願い、准侯爵級の貴族から、専農・丁稚の末端階層に至るまで、国民誰もが王の御酒に与った。
それは王統の血か、父祖の輪廻がなせる運命だったのか。
セイシェルが放った、最後の弑虐(しいぎゃく)の奸計は功を奏した。
恐らく、天地神の震怒にも目覚めぬ程に深き眠りに陥っていた臣民諸侯が、王妃フローラ拉致に気づき、奸賊誅殺の挙に出る事は完璧なほどに不可能だっただろう。
ただひとつだけ、異変に気づいたフローラが、侍女に二人の子を託し、遭難を免れたことが、パパスとマーサの唯一の加護であったと……。
グランバニア新帝の即位宣下が伝えられて数日後、北グランバニア地方にいつ知れず立つ、デモンズタワーという禍々しき塔に、愛しき妻を取り戻そうと、自ら危難に身を投ず一国の王の姿があった。
王父パパスの仇敵ジャミに誑かされた奸臣セイシェルは、おのが愚行を恥じ、代王、そしてリュカ、フローラへの慚悔の念に嘖まれ、遂に兇魔の手に罹り大量の血を吐いて惨死した。
「フローラッ!」
「あなた――――!」
囚われたフローラを前にしながら、禍々しき障壁に阻まれたジャミに、リュカはかすり傷ひとつも与えられず、執拗な攻撃を一身に受け、遂に口腔に血の塊を噛みしめた。
兇魔の鋭き灰色の裂爪がまさにリュカの首を掻き切らんとしたその瞬間だった。
「やあぁぁぁぁぁ――――――――」
フローラの身体は、伝承にもれ聞く輝かんばかりの聖光に包まれ、轟音と暖かな風を巻き起こして魔物の眼を潰し、一閃。障壁を粉砕したのである。
「貴様が――――勇者の末裔か――――!」
ジャミの叫喚間もなく、リュカが全霊を込めた一閃を薙ぐと、その光跡がいつまでも消えず、断末魔の悲鳴すら上げる暇もなく、ただ兇魔の首を胴から切り離し、馬頭が空高く弧を描いて、音を立てて床に落ちたのである。
リュカはその瞬間、剣を投げ、外套を捨て、ただ、あの日、我が子をこの世界に導き出してくれた時のまま、ぼろぼろに汚れた寝具姿でがくがくと震える愛しき妻を、強く抱きしめるしかなかった。
二人はただ疲れはて、喘ぐ息の中で、何も思い描けなかった。ただ、互いのぬくもりを感じるだけが、精一杯だったのだ。
沈黙……。
デモンズタワーは完全に静まり返った。
「……フローラ……」
「……あな……た……」
夫婦は深く見つめ合い、抱き合いながら立ち上がる。目指すはただ、グランバニアへの帰還。
そして、一瞬、ごとりという鈍い音が、甃(いしだたみ)の空間に響き渡った。
「――――――――!?」
リュカが愕然となって兇魔の首が落ちているはずの方へ振り返った時だった。
目の前を覆い隠してゆく灰色の煙。
(くっ――――フハハハッ! その姿で世界の終わりを見るがいい――――……)
兇魔の絶命の瞬間だった。
リュカとフローラの意識は、そこでぷっつりと、途切れた――――。
…………
……………
………………
…………………
――――空が……
――――鳥達か……
……風が……心地、良い……
ああ――――
何故か……もう随分と……天地の息吹を感じている気がする…………
天上か…………
或いは贖罪の為に辿り着いた下界か……
風が……空が……陽光が…………
優しく……我が身を包み行くようだ……
神よ……私は…………救えたのか……
その瞬間、白き茫漠の彼方に意識が包まれ、世界が色を取り戻した。
…………
……………
………………
…………………
――――さん……
――――う……さん……
――――とう……さん…………
「ん……んん……」
――――父さん!
「はっ――――!」
リュカは瞼を上げた。眩い光に、一瞬意識が遠退く。
「お父さん――――!」
「おとうさん――――!」
リュカに必死にしがみつく、愛しき女性と同じ色の髪をもつ二人の子供。そして、懐かしさすら憶える、傍らの侍従の姿。
リュナンに……ラファか――――
リュカは愛おしい我が子の名を呼ぶと、ぐらりと崩れ落ち、意識が飛んだ。
時はグランバニアの代王摂政九年――――。つまり、リュカがデモンズタワーで消息を絶ってから、八年の歳月が流れていた。
リュカ還幸の吉報は瞬く間に内外に宣布された。そして、久しく思い募らせていた君恵に与り、臣民果ては禽獣に至るまで涙流さぬ者は誰一人としていなかったと言われるのだが、リュカや二人の子供達、そしてサンチョや代王オデュロンは心から晴れやかな表情を出来ようはずがなかった。
両親を喪ったリュナン・ラファは、代王やドリス王女、そして侍従サンチョの深き慈愛の下で強く育った。
物心がついた時は、サンチョと共に旅の空の下にあった。
両親のぬくもりが恋しいはずの幼い少年少女に課せられた苦難の道。世界中に未だ知らぬ両親の手掛かりを求め、遂に両親が石化の呪詛を得ていることを突き止め、大賢よりストロスの杖を拝領し解呪の法を得た。
仙郷で四賢者に遇い、千年の伝承を聞きし後、遂にそのリュナンこそが、亡父パパスが探し求め、リュカが引き継いだ夢のひとつの結晶だったことを知ったのだった。
「フローラを……そなたたちの優しき母を、取り戻す――――」
リュカの旅は終わってなどいなかった。そして、何よりも今、我が子と八年もかけ離れてしまった空白。喪われた時間を、リュカは取り戻したかった。
リュナン・ラファ、そしてサンチョ。リュカは八年の沈黙を破り、再び旅立ちを迎えたのだ。
「王の留守は私がしかと守ろうぞ」
代王オデュロンの下で、グランバニアは安泰だったと言えた。
春の夕暮れ――――
「…………」
リュカはデジャヴに似た感覚にはっとなった。
暖かな光景、セピア色に染まってゆく街。
……リリアン…リリアンどこ? どこにいるの?
「――――お父さん……?」
リュナンが茫然としている父の名を呼ぶ。
「ん――――ああ……」
今も変わらない、その道の向こうから、彼女の玲瓏とした声が響いてくる幻を、彼は見た。そして、春霞包む黄昏の残光に照らされたリュカの瞳が、ひとつきらりと光った。
宿屋・晴月亭――――
リュカとフローラが出逢い、結ばれたきっかけのひとつとなった、縁の深き街の宿。窓の灯りが煌々と照らされ、あの時のままに健在だった。
「こんばんは――――――――」
懐かしきサラボナの人々。主人ロジェルの明朗な威勢を求めて、リュカは扉をくぐった。
「いらしゃいな。お早い――――」
ロジェルの声に重なった気がしたその出迎えの声は、ロジェルの声ではなかった。
「アン……さん――――」
アンは愕然とした表情でリュカを見つめ、すぐに目を細めて笑顔を作った。
「あんた――――リュカ……リュカさんじゃないかいっ!」
美人で肝の据わった雰囲気のアンは、あの頃とあまり変わらない印象だった。軽くリュカの肩を交互に抱き、再会を喜んだ。
「ずいぶん久しぶりだったねぇ。……おや、あんたの子……フローラさんの子かいっ」
まるで我が子のように、アンはリュナンとラファを抱き、その存在を確かめた。リュナンもラファも、照れくさそうに父の恩人の抱擁を受けた。
「アンさん。ロジェルさんは――――」
アンに勧められて共にした食事の最中、リュカが訊ねると、アンは一瞬沈黙した後、寂しそうに微笑んだ。
「あの人は……天に召されたんだよ――――」
「え――――――――」
思いも寄らぬ言葉に愕然となり、リュカは言葉を失った。
「三年ほど前にね――――急に…………。ホント、あっ気ないもんだねぇ。それまで、ひっきりなしに、あんたの話をしていたあの人が――――突然……」
「…………すみません……」
リュカが力無く言う。慌てて苦笑するアン。
「ああ、ごめん、ごめんよリュカさん。……ただ、あの人死ぬ直前まで、いつか俺はグランバニアに行ってリュカ王御用達の宿屋を作るぞっ! なんて豪語していたから……」
ロジェルの急逝後、晴月亭はアンが一人で切り盛りしているという。
リュカにとって、単に八年と言っても、ほんの一瞬だったのかも知れない。サラボナも、街並み、佇まいは何一つとて昨日見たままのようだった。
しかし、時間は確実に流れていた。
親しき人の死。それは、かつて山奥の村に訪れた時に、ビアンカの母親・マルガリータの訃報を知ったことでひしひしと感じたことだった。
墓標に手を合わせて、リュカは肩を震わせた。ほんの数日世話を受けただけなのに、ずいぶんと親しい友との別離を思わせた。そして、見上げた霞がかる蒼い空に、ロジェルの屈託のない笑い声が響くような気がした。
何も変わらない白亜の建造物。フローラの婿たらんと欲し、夥しい数の男性達が列を並べたのが、実に遠い昔のような気がする。
そして、リュカがフローラと共にここを後にしてから、九年になるだろうか。リュカにとってはまだ三年にも満たぬ気がするのだったが。
「リュカさま……あれ、リュカさまだっ!」
家人が驚きの声を上げる。当時リュカに良くしてくれた中年の女性だった。今は髪が白く、皺が幾重にも刻まれる。時は、過ぎていた。
彼女、家人の導きで、ルドマンの書斎に通される。
「旦那様――――」
「……ん?」
机に広げた分厚い書物に目を落としていた白髪の御仁がゆっくりと顔を上げる。そして、鎖のついた眼鏡を外し、リュカの姿に目をしばたたかせた。
「そなた……そなた、リュカかっ!」
がたんと椅子を蹴飛ばす勢いで、ルドマンは立ち上がりリュカに駆け寄る。
間近で見るルドマンは、すっかりと白髪になり、恰幅の良い体格も心なしか痩せたように思えた。
「この馬鹿婿がっ、八年もどこに行っておったのじゃ――――!」
突然、ルドマンはそう怒号を発し、リュカの胸座を取った。疲れ切ったような目に涙が浮かんでいる。
「すみません……でした――――お義父さん――――」
語りきれない経緯や思いより先に、リュカはただ、謝るしかなかった。
そして、ルドマンはこの場に共にいるはずの愛しき子が不在であることを、リュカに糺すつもりは毛頭なかった。ルドマン自身が、その理由を強く思い知らされてきたからだった。
「おお、リュナンにラファか。大きゅうなったのう」
「おじいさまっ」
「おじいさまっ」
リュカの二人の子に裾を掴まれ、この時ばかりは、威厳なるルドマンも顔をくしゃくしゃにして、久しぶりに会う孫を抱きしめた。
「時に、義母上様は――――」
「メアリは山奥の温泉村に静養に行っておるよ。……全く、この様な時に呑気なものじゃて――――」
苦笑するルドマン。そして時をおかずに続ける。
「婿殿よ――――」
久しぶりの再会も刹那。ルドマンは表情を曇らせて婿を見た。
それはルドマンより遡ること八代一五〇年。
伝説の八勇士の一、聖商侯トルネコより数えて第七十代サラボナ太守・仲賢侯ルドルフの手によって封じられた、巨魔・ブオーンがいよいよ以て復活の時を迎えたとの恐懼に、ルドマンは単身怯えていたのだ。
封印の祠は、フローラとの結婚式が終わった翌日、フローラ旅立ちの条件として、ルドマンが彼女に視察を命じた場所だ。当時は、神聖なる青き輝きに包まれた祠に安置されている壺に目を奪われたのを、リュカはしっかりと憶えている。
(お父さま……どうしてこんな……)
青き聖光を見つめながら、リュカにぴたりを身を寄せるフローラ。
(僕を信じていただけたのか――――或いは……)
(あるいは……?)
(始めから、君の旅立ちを認めてくれていたのか――――)
(まぁっ、そんな……)
ハネムーンが封印の祠だったということに初めは怪訝な様子だったが、その壺を見た瞬間に、それがルドマンの粋な計らいだったのかと、リュカとフローラはたまらずに笑い合った。浅はかさを、リュカは恥じた。
「私たちに、お任せを――――」
答えは、ひとつだけだった。
「リュカ――――」
封印の祠に向かう船上でピエールが話しかけてくる。
「あの村は……」
リュカはふうと息をつく。
「……ピエール。今は巨魔をこの手で倒すことだけを考えよう――――」
海岸線沿いに進む帆船。東の水平線上にうっすらと連なる稜線を見つめながら、リュカはそう言い聞かせた。ピエールは騎士の礼で頷く。
燃え滾るような紅蓮の輝きに祠全体は包まれていた。フローラと愛の雰囲気に洒落込んだかつての聖光の欠片など、ひとつもない。
「時は近いな――――」
仲賢侯ルドルフが街の外れに建てた物見の塔へ向けて歩を進める。リュカは巨魔ブオーンの鎮定に心を向けていた。
【仲賢侯、義卒を随い巨魔を伐すも、体躯当に山林鳴動の境地にありて津浪郊外に未だ達せず。踏死二〇〇、蹴死五〇〇、撲死八〇〇、砕死一五〇〇に及び、天空聖賢の護摩壺に印を結び、漸く鎮護封印に及びたり――――。
壮賢王、仲賢八世の裔孫に遇い巨魔討滅の允武を示し、天孫リュナン、王女ラファともども驍名夙に魔界を脅かしたり。
しかれども公民、危急存亡に今以て気づかず、成英公(ルドマン)が哄笑にただ西州偃武の吉兆を賜ること甚だし――――】
グランバニア国史に記述するリュカ父子巨魔討伐の項にあるように、ブオーンの巨体は、歩を踏み出すたびに熾す地震の津波すらも自らの体で遮る程であったという。
足に踏み殺され、或いは蹴り殺され、殴り殺され、ついには巨体の突進で肉片ひとつ残すことなく砕死するなど、ルドルフが多くの生命の犠牲を払い、やっと封印したその巨魔は、一五〇年の時を経て再びサラボナを襲おうとした。
しかし、永き封印にかつての禍々しき力を喪ってしまっていた巨魔は、リュカと、天空の勇者リュナンらの好敵手とまでは至らなかった。
損害の深きは、未だ幼きリュナンの肋骨を数本折った程度にとどまり、サラボナ大公家八代一五〇年の悲願であった巨魔ブオーンは、因縁浅からず、仲賢侯ルドルフが建てた物見の塔に平伏すようにして、終に殪(たお)れたのである。
そして、ひとときの使命感に満ちたリュカたちに哀しみがひとつ。
リュカ流浪の途上からずっと随ってきたマーリンの脱落だった。
「ご主人……すまぬことじゃ――――」
決して屈強な人間や、体力のある怪物とは違う、華奢なほどに細身の老躯には、リュカへの随従、そしてリュナン・ラファを良く支えての長年の戦いで満身創痍になっていた。これ以上の随行は、マーリンの生命に関わるものだった。
「ご主人より受けた数え切れぬ恩恵、そして儂を魔物と蔑まずに遇して下された坊っちゃん、嬢ちゃん、ご内儀、サンチョ殿を始めグランバニアの人々の思いを決して忘れず、これより先、このマーリンが粉骨砕身、同族を決して修羅に引き入れることは致しませぬぞ――――!」
知嚢マーリンはこうして、静かに去っていった。フローラに再会(あえ)ぬ思いからか、その小さな背中に僅かに無念の色を滲ませて、道の彼方にある故郷へ向かって行ったのだ。
「マーリンッ!」
「マーリンじいッ!」
リュカは同朋の幸運を心から願い、幼き我が子は、八年傍らにいてくれた心優しき老魔との別れに、いつまでも涙を禁じ得なかった。
ブオーン殪れる。
その報せに触れた日、ルドマンの歓喜の哄笑は朝夕に止むことはなかった。
思えば、女婿が旧国グランバニアの国王であり、外孫は伝承に名を残す天空の勇者である。そんな彼らが永年の恐懼を除いたとなると、若返るほどに笑える気持ちもわかる。
それでもなお、浮かぬ表情のリュカたちを、ルドマンは労った。そして、戦いの疲れ未だ癒えぬ子供達は、フローラの寝台に、母の温もりと香りを偲びながら包まれ、安らかな寝息を立てていった。
「婿殿、よいかのう――――」
リュカはルドマンに誘われて、美酒を勧められた。
「いえ――――僕は……」
リュカは美酒を断った。代わりにサラボンティーグルを求める。
「左様か……、酒はやめたか――――」
「…………」
リュカは瞳を伏せて俯く。
「さもあらん。……そなたの胸中、推し量るべきであったな――――」
ルドマンの言葉に、リュカはただ謝意を示すように瞳を伏せる。
「本来ならば私は――――この場に居合わせることが…………」
リュカの呟きに、ルドマンは不快の色を滲ませる。
「しかし、それは聞き捨てならぬ。……そなた、娘の想い今にして無下とするか」
静かな怒りに、リュカは沈痛な面持ちで首を振る。
「いえ――――それは……」
「ならば、二度弱気を申すな。あれもいずれの地で心安んじられぬ。そなたを信じていようからな」
「はい……ありがとうございます……」
フローラ受難を、彼女を最も愛しているはずの父親がこう述懐しているのだ。幾分、リュカの心痛は和らいだ気がした。
「まぁ、せっかく高祖の禍患を除いためでたき日なのじゃ。今日ばかりでも、解禁せぬか」
「はっ――――しかし……」
その時だった。不意に扉が開き、良く透る声がリュカを突き刺した。
「公のご厚意、受けるべきです、あなたは」
それは実に重厚でシックな朝衣に身を纏った、リュカもうひとりの友、アンディの凛々しき姿であった。
「おお、アンディ。ようやく来たか」
「所用で遅くなりました、申し訳ございません――――」
アンディはルドマンに拝礼をすると、優しい微笑みをリュカに向けた。その表情はかつての彼と寸分も変わりない。強いて挙げれば、8年歳を積み重ねた貫禄が出てきたと言うところだろうか。
「妻も連れてきておりますが、よろしいでしょうか」
「おお、スーザンか。それは久しいのう。早う通せ、久しぶりに顔を見たい」
「はい――――」
あの後、アンディはスーザンという元踊り娘の女性と長い紆余曲折を経て結ばれたという。
未だに頽廃的なイメージが根強い下級階層の職である踊り娘のスーザンは、その出逢いからひたすらにアンディに想いを寄せていたのだという。
しかし、その身の上から比較的中層のレーベ家のアンディに対する障壁を、彼女自身無為に重ね上げてきた部分があった。アンディもフローラに対する想いにけじめをつけかけて、心不安定でいる時に幾度となく支えられ、その踊りに癒されていった。
それが恋愛感情となって二人を結びつける事になるのはむしろ当然のことではあった。
そして、彼らを揉んだ波風が、二人をひとまわりも大きく成長させていただろう。
「お久しぶりです、リュカさん――――」
スーザンを伴ったアンディが丁寧に挨拶する。
「アンディさん――――」
リュカが言葉を発そうとするのを、アンディはゆっくりと制止する。
「今はあなたに再会できたことを素直に喜びましょう。……そして、公の憂患を除いていただいた事を、心より感謝いたします……」
アンディの笑顔は心からのものだった。一点の迷いも、曇りも感じられなかった。
「まずは……再開の喜びに、私の杯を受けては頂けませんか」
アンディがワインの瓶を取る。リュカは自然に、それを受けた。
ルドマン、そしてアンディ夫妻とのささやかな宴は静かに盛り上がる。
「彼女(フローラ)は、あなたの伴侶として、十分に役立ったのでしょうか――――」
不意に、アンディはそう呟いた。愕然となるリュカ。
「それは――――」
意味深なアンディの言葉に、リュカは戸惑っていた。
「悪い意味ではありませんよ。……あなたを撰んだ彼女は正しかったと言える。私も……今にして心、無にして言えますよ。あなたで、本当に良かったと――――」
そう言いながら、アンディは妻を見遣った。優しい眼差しで、妻を見つめる。二人の様子に、そこはかとない愛情を感じられた。
「たとえどのような境遇が彼女に降り掛かろうとも……、それが神の定められし宿運というのなら……リュカさん――――あなたはそれを受け止める事こそ彼女のためです――――」
アンディの言葉には、重みがあった。
「私は何も力にはなれなかった――――そして、これからも、あなたの力にはなれない……。出来ることはただ、ここから見守ること……」
アンディがリュカに寄せる畏敬の念は決して形ばかりのものではない。それは、寄りそう元踊り娘スーザンと、ルドマン、そして窓外に広がるサラボナの風景に注ぐ眼差しが物語っていた。
「彼女は――――フローラは本当に良い幼なじみです……。リュカさん、今さら言うのもおかしいのですが……、どうか、どうかフローラのこと、よろしくお願いします――――」
「お願いします――――」
スーザンも懇切に頭を下げる。
「…………いかがかな、リュカ君。皆、そなたのことを信じて八年の時を経てきたのだ。
……確かに、ひとえに八年と雖も、途方もないほどの時を重ね、語りきれぬ。移り変わり、失くし、生まれ……子は大人になり、大人は歳を取る――――。
……だが、変わらぬものが、ないわけではない――――。そなたやフローラはもとより、リュナン・ラファを愛する人々の思い。何よりも、そなたを知り、そなたに支えられてきた者たちは、決して変わりはしないと信じぬか」
「お義父さん――――」
ルドマンは微笑んだ。
「例え、フローラが異境の狭間にその命落つることになったとしても、悲しめどそれもまた宿運ぞ。誰を恨むことある」
アンディが続いた。
「あなたには、ひたすら彼女の無事を信じてあげることを願う――――必ず、救い助けられることを。恨むとするならば……、それを棄て、旅を止めるあなたを見たとき――――」
あり得ない。リュカの心がすうっと軽くなる。
「旨い酒です――――本当に、旨い酒です…………」
リュカの顔が綻んだ。
そして、静かな宴が、再び盛んとなり、早暁まで語り尽くせぬほどの閑話に花を咲かせたのだった。
サラボナを発つ日。
「アンディさん、ひとつだけ聞いてもいいですか――――」
長い髪を泳がせて、アンディはリュカを見つめる。
「あなたは今でも、フローラのことを――――」
アンディはすっと瞼を閉じて、ゆっくりと深呼吸をする。
「ええ……。もちろんじゃ、ありませんか――――」
「……そうですか――――」
安堵したように息をつくリュカ。そして、それぞれに万感の思いを秘め、再びこの街を発つ。次に還るときは、フローラと共に、そして、この大世界に平和というかけがえのない土産を持って――――。
「大丈夫かのう――――」
彼の背中を見送るのは二度目。前を振り返ればすぐ昨日のように思える。ルドマンが虞るのは、回帰する空白の年月。
しかし、アンディは綽然とした笑顔を向けながら、言った。
「大丈夫ですよ――――」
あの日の景色をやや黄色に霞めた色合いと暖かな風の中で、誰の胸にも、確信という思いが、勇気となり、笑顔を生んでいた。
そしてサラボナの街は、いつもと変わりない一日が始まろうとしていた。