第1部 旅立ち

第1章
レグテチスの誘い
 聖陽暦一八二〇年――――
 レシュカリアより遙か南の国、ローアン
 トルキステルの村――――。

 レシュカリア最南端・ナンセット岬より南に一万五千ルーレル(約二万キロ)下ったところに、この国はある。
 レシュカリアの混乱はまるで別世界の出来事のように窺わせる程、静かで平和な国。春が盛りで新緑の薫りが村々を包み込む。人の心も穏やかに陽光の下に優しくなる季節。トルキステルにまた、平和な春の一日が始まる。
「おーい。アルファはどうした? またレグテチス剣聖と立ち合っているんか?」
 背の高い筋肉質の好青年が隣を歩く少女に向かって話しかける。
「もうカムルってば、隣にいるんだからそんなばかでかい声出さないでよ」
 カムルと呼ばれたその好青年は高らかに笑う。
「シュリスよ、お前何年俺達とつき合ってるんだ? 今知ったこっちゃねえだろが俺の声は」
 シュリスと呼ばれた華奢な美少女が頬を膨らませて不満そうにカムルをにらむ。
「あなたの声は何年聞いても慣れっこしないわよ!」
「あっ、ひっでえ事いいやがる」
「そんなことより、アルファよ。今日も朝っぱらからレグテチス剣聖のところに行っているって」
「よっく飽きねーよなあいつも」
 呆れたようにぼやくカムル。
「そんなに剣なんか習ってどうするつもりなのかしら」
「さあね。チャンバラごっこでもするんじゃねえの?」
 そうこう語らいながら、村のやや外れにある小さな公園を通りかかったとき、そこに二人の人間が長い物を手にしながらにらみ合っていた。
「おい。あれ、アルファじゃねえか」
 カムルが背の小さい方の少年を指差しながら言う。
「あ。ホント。アルファとレグテチス剣聖ね」
 アルファと呼ばれたブロンズ色をした髪の少年は、満面汗だくでレグテチスと呼ばれる背の高い美髯の男に対峙していた。木刀を握る手は小刻みに震え、肩を上下させて息を切らしていた。
「アルファ君、何度やっても同じ事だ。君の動きはもう見抜かれている。私に勝つことは出来ぬ」
「なんの先生。もう一手、お手合わせを」
 言うやいなやアルファは驚くべき速さで跳躍し、木刀を振りかざしてレグテチスに襲いかかる。レグテチスがすっと身を避けてアルファをかわすと、アルファは瞬間的にレグテチスの背後に回り、木刀を突き立てようとした。しかし・・・。
「甘いっ!」
 レグテチスは悠然と中段の構えを取り、木刀を脇腹から後ろに突き立てる。
「あぁっ」
 木刀はアルファの臑を払うように薙ぎ、体勢を崩されたアルファはどさりと、地面に尻餅をついてしまった。
「くっ・・・くそっ」
 腰をさすりながらアルファが苦い表情をする。
「アルファ君。君は身軽さではおそらく右に出る者はいないくらい逸品の持ち主だ。しかし、戦闘においてはその身軽さ故に墓穴を掘ることも多々あるもの。剣術は身軽さだけで勝てるものではない」
 レグテチスがアルファを支え起こしながら優しく言う。
「アルファ、おめえの完敗やな」
 カムルがにやりとしながら二人の前に出る。
「"チャンバラの王様"とあだ名されてるアルファが剣聖に手も足も出ないなんてね。上には上がいるって、ホントね」
 シュリスがクスクスと笑う。
「カムルにシュリスじゃないか。見てたんだ」
 顔を真っ赤にするアルファ。
「レグテチス剣聖、いつもアルファがお世話になっております」
 ペコリと頭を下げるシュリス。
「いやあ、こちらこそ。トルキステルに来てからというもの、毎日いい汗をかかせていただいて、こちらこそ感謝しておりますよ」
 レグテチスがタオルで顔を拭いながら微笑む。
「でもこいつ、剣聖の相手にはならなかったでしょう」
 カムルがアルファの肩をぽんぽんと叩く。
「いやいや。アルファ君は素質がある。今は身軽さに頼り切っていて剣術の腕はまだまだ粗削りだが、修練を積めばおそらく私を超える程の光る玉になると思うぞ」
 レグテチスの言葉を聞いたアルファ、瞳を輝かせた。
「それは本当ですか。僕に素質があるというのは」
「ああ本当だ。君は構えから太刀筋、気合い全てにおいて常人に勝るものがある。剣術は君の天性の資質だよ」
 アルファにとって、幼い頃から十九歳になる今日まで、遊び道具と言えば木刀であった。二歳年上のカムルとは幼なじみであり、学校の先輩にあたり、彼もまたずば抜けた剣才の持ち主で、腕力もあるからバスタードソードなどの重量武器も難なく扱える。練習試合などもアルファの主催で度々つき合わされているが、戦績はアルファの十勝九敗。ほぼ互角と言われた。それ程剣術が好きなアルファにとって、剣聖と言われているレグテチスの言葉は千金にも勝る栄誉に違いなかった。
「俺、もっと修行したいです。修行して、剣聖にも勝る剣術家になりたいです」
 青雲の志ある少年の、ごく当然の台詞であった。レグテチスがゆっくり頷く。
「アルファ君、レシュカリアという大陸を知っているか」
 レグテチスの質問に、アルファが一瞬考え込んでから言う。
「レシュカリア・・・・・・確か、遙か北の彼方にあるという大陸ですか?」
「そうだ。人間の他に五つの種族が存在する、世界で唯一の大陸だ」
「そのレシュカリアがどうかしたんですか?」
 一つ間を置いてアルファを見つめるレグテチス。
「行ってみないか。レシュカリアに――――」
「えっ・・・・・」
 思いがけないレグテチスの言葉。アルファのみならず、カムルもシュリスも一瞬唖然となった。
「レシュカリアには、私より強い剣豪が星の数ほど存在する。君にとって、ここで私と修練するよりも更なる修練が出来よう」
 いままでつゆとも思いつかなかった未知なる大陸レシュカリア。その名は学校時代の勉強の中で一度だけ耳にした記憶があるのみだ。
「・・・・・・・・・・・・」
 アルファの心が一瞬のうちに真っ白くなる。驚きよりも、自分の夢以上に、大きな話が現実に聞こえてきたので、混乱しているのだ。
「君さえよければレシュカリアへの旅を案内しよう」
「せ、先生っ、ちょ、ちょっと待ってもらえますか」
 突然手足ががくがくとなって座り込むアルファ。
「なあに、今すぐ返事を聞こうとは思わんよ。私はあと十日ほどトルキステルに滞在するつもりだ。それまでゆっくりと考えて返事してくれればいい」
 汗を拭い、木刀を納めるレグテチス。
「では、今日はこれまで」
 レグテチスが去った後、まだ動揺と胸の高鳴りを押さえられないアルファと、話の大きさに訳が分からず茫然と立ちつくしているカムルとシュリス。太陽は南天の空高く、穏やかな昼時。家々の煙突からは炊事の淡い煙がゆらゆらと風に靡いていた。