第1部 旅立ち

第3章
出逢いと別離
 六種七国乱立後、レシュカリアは再び戦乱の様相を見せることになった。
 中でも、黒エルフ族の青王国と、白エルフ族の白燕王国との戦いは、『平野の冷戦』と呼ばれ、古来より相容れなかった両族は、益々確執を深めていった。
 そして、元帝コナンが確立した聖シュリアの嫡流王国東シュリアも、コナン没後はやはり戦乱を避けられず、聖都ラシンヴァニアの権威を得ようとする周辺諸国の圧力を受けることとなった。
 ハーフ族の大華王国と、東シュリアの第三代武帝との間に激戦が展開されたことを契機として、野心のないガルシアの暝王国と、ファルシスが建国したラリツィナ王国を除き、互いに権力奪取の権化となり、流血の川を築いていった。

 聖シュリア統一王朝が滅亡し、六種七国乱立より百年。戦痕生々しく大地に残る。だが、一時的平和は十年弱ほど続いていた。しかし、戦乱長く平和短し。
 レシュカリアに不気味な噂が立ち始めたのは一年前の聖陽歴1819年。何者かが、聖帝ミカエルが封印した魔神デムウスを、再び解き放つかも知れないと言う、穏やかならざるものであった。
 魔神が復活すれば、聖なる地レシュカリアは二度とかつての繁栄を見ることがなく、終生暗闇に包まれることとなるのだ。七国の王たちは互いに疑心暗鬼に陥り、まさに一触即発の事態を招いていた。

「あっ、陸地が見えたぞ」
 甲板にて北の水平線を観察していたカムルが、嬉々とした声を発する。それに応えて、アルファとシュリスも慌てて甲板に向かう。
「本当だ」
 アルファが食い入るように霞んで見える大陸を眺めていた。
「あれが、レシュカリアなのね・・・・・・」
 シュリスの声はやや震えていた。ローアンを発つときは、うなじの辺りまでだった青く美しい髪も、腰の辺りまで伸びていた。思えば、アルファたちは、実に250日にも及ぶ航海を経ていた。
 途中、数多の小島に寄りながら、船上の旅を続けていた三人。期待と不安が交錯する日もあった。故郷に帰りたいと思う日もあった。だが、それを乗り越え、ようやく目の前に姿を現した未知なる大陸レシュカリア。
 航海士トルフェンは気合いを込めて舵を握る。船は大きく迂回して、大陸最南端・ナンセットの岬にたどり着いた。
「お待たせいたしました。皆さん、この地がレシュカリア大陸です」
 トルフェンが狭い砂浜に橋を下ろす。三人は嬉々としながら砂浜に駆け下りる。そしてカムルが海に向かって大きく深呼吸をした。
「うーん。やっぱローアンとは違うね。空気が澄んでいるように感じるぜ」
 アルファも同じように息を大きく吸う。清々しい潮風が鼻腔をくすぐる。ローアンとはまた違う異国の風。心地よい。そして、わざと言う。
「そうかな・・・同じような気がするけど」
 がくっと膝を折るカムル。苦笑いを浮かべながらアルファを見る。
「お、お前なあ・・・一年近くかけてようやく着いたんだぜ。ちぃとは感動しろよ」 
「あははは。ごめん、冗談だよ」
 微笑むアルファ。シュリスは大きく背伸びをしていた。
「着いたわね・・・・・・」
 そして、大きく息を吸うと、かん高い声で陸に向かって叫んだ。
「レシュカリアさん初めまして! わたしたち、ローアンからやってきました!」
 その言葉に驚くアルファとカムル。
「おいおいシュリス、何だそれ」
 カムルが笑う。
「あはは、シュリスらしいや」
 アルファが微笑む。
「初めてやってきたんだもん。あいさつしなきゃ」
 シュリスは無邪気にはしゃいでいた。その表情はとても21歳とは見えない。汚れを知らぬ少女の笑顔であった。
「アルファ様」
 航海士トルフェンが船から下りてきてアルファたちに話しかける。
「あ、トルフェンさん。本当にありがとうございます」
 三人が丁寧に頭を下げる。トルフェンの顔が薄く染まる。
「いや・・・その。私は何もしておりません」 
「一年近くも私たちのために船を動かしてくれて、本当にありがとうございました」
 シュリスがトルフェンの手を握る。
「トルフェンさん、レシュカリアに詳しいんだろ。案内してくれるよね」
 カムルの言葉に、トルフェンは微笑むと、小さく首を横に振った。
「すみません。残念ですが、私がご案内できるのはここまでです」
「えっ・・・・・・」
 アルファの表情が一瞬こわばる。
「私はこれより遙か西の大陸に出航せねばなりません」
 彼もまた、アルファたちと同じ志を持つ、一個の冒険者であった。剣聖レグテチスに多大な恩顧を受けた一人であったのだ。アルファたちがレシュカリアへ行くこととなり、レシュカリアへの道を案内するように言われたのだという。航海士トルフェンは、世界の未知なる大陸を探検するために、果てない旅を続けているのだという。アルファたちとの航海の最中、とある島で耳にした、遙か西の地には未だ知らない大陸があるという。その話を聞いた彼は、冒険心を大いに揺り動かされた。
「お別れです」
 深く頭を下げ、彼は微笑んでいた。シュリスは急に瞼の奥が熱くなるを感じた。
「トルフェンさん!」
 シュリスは航海士らしい、彼の逞しい腕を思わず掴まえていた。潤んだ瞳でしっかりと彼の瞳を見つめている。
 彼女の澄んだ瞳に見つめられたトルフェンは、顔が紅潮し照れ笑いを浮かべて目を逸らす。
「またいつか、共に航海する日がやってきます。約束します」
「絶対・・・・・・絶対よ」
「はい・・・・・・」
 トルフェンはいつものように穏やかな微笑みを向けていた。
「シュリス、そろそろ・・・・・・」
 アルファがシュリスの肩に触れる。それに反応し、彼女はそっとトルフェンの腕を離した。
「トルフェンさん、今まで本当にありがとうございました。あなたのことは決して忘れません」
 アルファが手を差し伸べる。トルフェンも手を合わせ、二五〇日間の仲間は固い握手を交わす。
「私もです。あなたたちと過ごしたこの二五〇日間のこと、たとえ途上に倒れることになろうとも、忘れません」
 未知なる旅に出る者の、覚悟と決意の言葉であった。航海の日々は長く、そして仲間と過ごした時間は短く、去り行く者との惜別の時はやってきた。
「アルファ様、ここより北へ一二〇〇ルーレル(約一五〇〇キロ)進むと、南星関があります。南星関を抜ければ、ラリツィナ王国です。南星関までは険しい峠道。くれぐれもお気をつけて・・・・・・」
「ありがとう。あなたも・・・・・・航海の無事を、お祈りいたしております」
「では・・・・・・」
 トルフェンはアルファたちに深く頭を下げてから、ゆっくりと船に乗り込んだ。そして、二五〇日、共にしてきたトルフェンの船影が西の海へと進んでゆく。アルファたちは、見えなくなるまで大きく手を振りつづけていた。

 アルファたちは、トルフェンが言った南星関を目指して、歩き出した。東西に非常に高い断崖絶壁がそびえ立ち、どこまでも続く峠道。
「ホントに平地が見えねえな」
 カムルが唸る。
「トルフェンさん言っていたじゃない。一二〇〇ルーレルは峠道だって」
 シュリスがやや呆れたように言う。
「ひゃあああ! まさかだとは思ってたけど、じゃあ、しばらくはずっとこんな殺風景な景色なんか?」
「と、言うことだね」
 アルファが事も無げに言う。
「もしかしてレシュカリアって、まさか前人未踏の秘境なんかよ」
 カムルの失望にも似たぼやきはしばらく続いた。そして、その日の夕方、小さな宿場町らしき明かりが目の前に見えてきた。
「ちょうどいいところに宿屋がある。みんな、今日はここで泊まることにしよう」
 さすがに春先とは言え、未知なる大陸の夜は冷え込んでいるようだ。ローアンとは違う寒さ。
「軽く酒でも呷って寝ようぜ。久々に陸地歩いたから、さすがに疲れたぜ」
 隣でシュリスがくすくす笑う。
「そうね。今日はカムルに賛成。アルファ、早く行きましょうよ。私もお風呂に入りたい」
「わかった。じゃあ、行こう」
 アルファたちは道なり一番手前の宿の扉をくぐった。初めて見る、異国の人間。いや、容姿はアルファたちとほとんど変わりがない。意外なほど、驚かなかった。
「いらっしゃい。お早いお着きで」
 なんと、言葉も通じる。不思議だ。
「おや? お前さんたち、この国のもんじゃないね」
 宿の主人らしき白髪交じりの男性がにこやかにアルファたちを見る。
「見たところじゃあ、南海のローアン辺りかな?」
 鋭い指摘だ。アルファたちは驚いた。
「何故わかるかって? 実はこの俺もローアン出身なんだからな」
 主人の名はベクテル。ローアン中央大陸の主要都市キタイ出身のしがない商人だったという。レシュカリアに渡り、旅商人を続け、ようやくナンセットの宿場町に宿屋を開いたという苦労人。アルファたちにとって、見知らぬ地に初めて出会った人間が、同じ故郷出身だったとは、何とも奇遇で幸運なのかと思わずにはいられなかった。
 アルファは自分たちがトルキステルの出身だというと、ベクテルは非常に喜んだ。そして、故郷の話になって意気投合。ベクテルはこのレシュカリアについて、色々とアルファ達に教えてくれた。
 言語は基本的に通じると言うこと、ローアンではあり得ない、異種族が一つの地に居住していると言うこと。そして、旅をして行けば判るように、レシュカリアは途轍もなく広いということだ。
「……レシュカリアは聖都と呼ばれるラシンヴァニアが全ての発祥だ。この大陸を知りたいのならばラシンヴァニアを目指すのがいいぜ」
 国境五関と呼ばれる関所があるという。

 大陸東北・ドワーフ族の王国『邑』へ通じる西嶺関(せいれいかん)。
 これからアルファ達が向かう、ラリツィナを結ぶ塔岷関(とうみんかん)。
 砂漠の王国・大華を結ぶは沙立関(さりゅうかん)。
 大陸西北部の秘境・渓谷群に通じる北海関(ほっかいかん)。
 そして謎の小盆地に設けられた中河関(ちゅうかかん)。

 この五つの関所を通じ、レシュカリアの文明は発展したという。
 大雑把だが、レシュカリアについて色々と話してくれる同郷人。そして、話は大陸の現実に移る。
「お前さん達は聞いちゃいないだろうけど、今この大陸は途轍もなく悪い噂が立っているんだ」
「悪い噂…………?」
 アルファが不安げにベクテルを見つめる。
「実はここ一年くらい前からかな。どこかの国の奴らが封印された魔神を復活させ、大陸どころか、この世界全てを制圧しようと目論んでいる……ってさ、随分物騒な話なんだよ」
 それを聞いたカムル、思わず杯を落としかける。
「おいおい。いきなりしゃれになんねえよ。魔神だって?」
 アルファたちの故郷ローアンでは、魔物というものはほとんど存在しない。動物・昆虫類がやや進化した程度のおとなしいものばかりである。
「ここ四,五年大陸の魔物が凶暴化してな。それもこれも魔神復活の前兆ではないかと、住民達は不安に陥っている。七国の国主連中も、戦どころじゃなくなっている」
「誰なの? そんなことをする悪い奴は」
 シュリスが憤懣し、頬を膨らます。
「それが判れば苦労はしないんだろうがね。でも、ガレア高原の瞑国王ギャルシアが専ら犯人だと言う話だ」
「何故です?」
 アルファが不思議そうな表情をする。
「かれこれ百年くらい前だそうだが、ギャルシア王の一人娘が当時大陸の皇帝だった男に殺されたんだそうだ。その皇帝は仇討ちされたんだが、ギャルシア王の人間に対する恨みは相当深い。人間を滅ぼすために魔神を召喚しようとしている……ってな」
 カムルが愕然となる。
「ひゃ……百年前だって! おいおい、そのギャルシアって奴、何もんだ?」
「ギャルシア王は魔族の王国瞑の皇帝。人間ではないぞ」
「あ、納得」
 そこへシュリスが哀しげな表情を見せる。
「ベクテルさん。でもそれって、その皇帝が悪かったんでしょう。そんなことがあったからって、疑いをかけるなんて酷すぎるわ」
「お嬢さん。こいつぁ、俺が思ってるわけじゃない。ここへ来る連中が口を揃えて言っている噂なんだ。俺だって元を正せばお前さん達と同郷の部外者さ。この大陸の事なんざ、すみかすみまで判るわけがない」
「あ、ベクテルさんを責めてるんじゃなくて、そんな証拠もない噂立てられたギャルシアっていう王様が何か可哀想」
「まあ、部外者と言っても、仮に魔神が復活なんてしちまったら、レシュカリアだけじゃなくてローアンもただじゃすまなくなる。……本当に不気味な話だよ。あ、ミルクでいいかい?」
 ベクテルが奥の部屋から温かいミルクを運んできた。
「すまないな。酒、切らしちまってて」
 ミルクを口に運び、喉を通す。身体の芯から温まるようだ。厚着していたからやや汗が吹き出す。着物を一枚外す。
「まあ、触らぬ神に何とやら――――。大陸の内情にはあまり深入りせんほうがいいかもな」
 アルファの心の中で、何かがこみ上げてくるような感じを覚えた。この一年近い船旅の中で、彼はずっと考えていた。レグテチス剣聖が何故遙か遠いレシュカリアの旅を持ちかけたのか。自分に素質があるという理由だけで、わざわざ船まで用意し、自分たちをここまで導いてくれるものなのだろうか。こんな若輩者の自分たちに、なぜなのだろうか、と――――。
 アルファは、ベクテルの話を聞き、ようやくレグテチス剣聖の意図を知った気がした。毅然とした眼差しでカムルとシュリスを見る。
「カムル、シュリス。その噂が本当だとしたら、僕達でその悪い奴をやっつけてみないか」
 突然の言葉に、二人は愕然となってアルファを見つめた。
「俺、ようやく判った気がするんだ」
 そう。レグテチス剣聖はアルファ達にこう示唆していたのだ。

『……お前たちの力で、レシュカリアの危機を救ってはくれないだろうか……』

 アルファの眼差しは鋭く、カムルもシュリスも、返す言葉が生まれなかった。いや、むしろこの話を聞いた時点で、彼らの心は決まっていたのかも知れない。カムルがまっすぐアルファを見、真面目な言葉で言う。
「……並大抵の事じゃないぞ。武者修行なんて、そんなものじゃない。もしかしたら、命に関わることがあるかも知れない」
 ゆっくりと、力強く頷くアルファ。
「下手をすれば、一生、ローアンには帰れなくなる。それでもか」
「…………俺の進むべき道、ようやく見つけた気がするんだ。――――俺はこの大陸を救う。英雄になるなんて、そんなことは関係ない。ただ、やってみたい。自分の思う道を、進んでみたい」
 カムルとシュリスはそんなことを言うアルファに向かって、優しく微笑んだ。
「それでこそ、無理強いしてついてきた甲斐があったってもんよ。なあ、シュリス」
 カムルの言葉にシュリスは大きく頷く。
「アルファ君。私はあなたについていく。何ていうのかな・・・・・・すっごく、わくわくするの。ローアンにいた頃とは違う、楽しいことが起こりそうな気がするの」
 無邪気に微笑むシュリス。苦笑するアルファとカムル。
「シュリス、君ってホントに楽観主義者だね。うらやましいよ」
 アルファがそう言うとシュリスは少し唇を尖らせた。
「あーあ。アルファのことしっかりと押さえてあげないと。これからいっぱい大変なこと起こりそうだから」
「なんだよそれ。シュリスこそあんまり俺達に心配かけないで欲しいもんだ」
 二人の会話を聞いてカムルが大笑する。
「全く、二人とも全然変わらねえな。昔のまんまだよ」
 三人は笑い合った。その雰囲気はローアンにいた頃の、ごく普通の三人の姿だった。
 翌日、三人は南星関に向けて出立した。宿の主人ベクテルは三人が見えなくなるまで見送ってくれた。異郷の地で思い掛けなく出会った同郷人。昨晩はベクテルも、仕事を忘れて語り合った。
 たった数時間の関係なのに、こうも別れが寂しいものなのだろうか。トルフェンとの二五〇日間。彼との別れも言葉に出来ないくらい寂しく、悲しかったが、それに匹敵するくらい、ベクテルの宿を出立するとき、シュリスが非常に寂しそうにしていた。アルファももとより、カムルは無理に笑顔を見せていたような気がしてならなかった。
 きっと・・・また来ますから。お元気で・・・
 シュリスがベクテルと握手したとき、無意識に言った言葉。何度も振り返りながら北へと歩いて行く三人の若者を見つめるベクテルの心は、純粋に三人の旅の無事を祈っていた。

 はるかに遠く、どこまでも続く峠道。ただひたすらに、北へと続く道。
アルファ達は南星関から広がる世界に想いを馳せて歩き続けた。思えば随分と雨が少ないように感じる。この街道には、ベクテルの宿があった小さな宿場町が三十数カ所存在した。
 聞けばナンセットの岬から南星関、そしてラリツィナという王国は大陸の東南にあり、気候は温暖で雨は少ないという事だ。特に南星関から南に下る街道は一年に三十日も雨が降れば多い方だとも言っていた。
 そして、ナンセットの岬を出発してから一五〇日余り。故郷ローアンを旅立ってから、延べ四〇〇日が過ぎた。一年以上も歩き続けたアルファたちは、長く緩やかな坂道の彼方に、石造りの巨大な門がそびえ立っているのを見逃さなかった。
「あれが――――南星関」
 アルファが思わず立ち止まって呟く。明るい灰色の城壁は、その向こうの景色を遮るように立ちはだかっていたが、この四〇〇日間、夢にも見たレシュカリア大陸の旅の始まりの扉が、いよいよ目の前に現れた。
 足取りが軽くなったシュリスに手を引かれて、足早に坂道を登り、その門の前に立つ。
「ここはラリツィナ王国・南星関です。旅の方ですね」
 二人の衛兵はアルファ達を確認すると、扉に手をかけた。ゆっくりと、徐々に開かれる扉を見つめながら、アルファの脳裏には真っ先に故郷の家族のことが思い浮かんだ。
 四〇〇日という途方もなく長かった時間。期待と不安を胸にローアンを旅立った日。両親と妹たちが、姿見えなくなるまで手を振り続けてくれた日が、この瞬間、実に昨日のように思い出す。本当の旅はこの日、この南星関のゲートが開かれる瞬間から始まるのだ。