第1部 旅立ち

第4章
収穫祭
 その年は例年になく豊作だった。城下では国民一丸となって、十数年ぶりの収穫祭の準備に大忙しであった。
 城の高楼から、そんな街の様子を静かに眺めている二つの人影があった。
「お兄さま、見て。街の人たちが踊っている。楽しそう・・・・・・」
 純白のドレスに身を包んだ、年の頃十四,五位の少女が、兄の腕に自分の腕を絡めて、無邪気に笑っている。
「民は今宵の収穫祭まで待てないくらいに浮かれているみたいだ。ほら、ここからでも人々の音曲が聞こえてくる」
 妹を支えている兄は年の頃十六,七。その長身に非常にマッチする漆黒の朝衣に身を包み、腰には宝石の剣を佩いている。
「いいなあ・・・なんか、みんなのびのびしてるみたい・・・・・・」
 やや寂しそうに呟く妹。そんな憂い気味な妹の美しい横顔を、優しく見つめる兄。
「今宵から城中でも豊作を祝い、宴が催される。何も羨ましがることはないだろ」
 そう言う兄に、妹は悪戯っぽい笑顔を向けた。そして甘えがちに言う。
「お城のパーティーなんて、すごく窮屈そう・・・。あたし、城下に行ってみたいな」
 不意なことを言う妹に、兄は驚愕した。
「馬鹿なこと言うもんじゃない。そんなこと、出来るはずないだろう」
 妹は一瞬、表情を曇らせたが、すぐに嬉々とした口調で語り始めた。
 ――――あたし、リーナから聞いた事あるの。城下ではお祭りの時になると、大人も子供も分け隔てなく歌ったり踊ったりするって。それで色々なお店が色々なところからやって来て、珍しいものがたくさん売っていてね、女の子たちは好きな人と一緒にそれを見て歩くんだって。見るだけなのって訊くとね、好きな人と一緒に、色々なもの見てお話しするだけでもすっごく楽しいって。それでね、お祭りの音楽が始まるとみんないっせいに歌ったり踊ったりして。美味しい食べ物もいっぱいあって、二人で歩きながら食べるの。きれいな花火を見ながら。それでね・・・

 間を置かずに嬉々と喋りつづける妹を遮るように、兄は人差し指を妹の唇に当てた。
「お前、昔からそうだったよな。実際に見たこともない話を、自分がまるで本当に経験してきたみたいに話す。可笑しい奴だよ」
 苦笑する兄。きょとんと兄の目を見つめる妹。その汚れのない、美しく透明な瞳を優しく見つめ、兄は静かに言った。
「本当に何も知らない、純粋で、無邪気。可笑しいけど、お前の話は聞いていて不思議と飽きない。僕の方がかえってお前の話に吸い込まれて行く。そして、意地っ張りだ。これって決めたことは頑として曲げない」
 感心しているのか、貶しているのかよくわからない言葉。
「もしダメだって言ったら・・・・・・一人で密かに城を抜け出すつもりでいるんだろう」
 図星であった。妹はにやりと笑う。
「あーあ。ここに来るんじゃなかったよ」
 そうぼやいた後、兄はふうとため息をついてから続けた。
「わかった。じゃあ、今晩、隙を見計らって城下に行ってみるか」
 その瞬間、妹は輝かんばかりの笑顔を浮かべて兄に抱きついた。
「やったぁ! お兄さま大好きっ」
「少しだけだぞ。こんな事がばれたら、私達は一生、城の外に出してもらえなくなるかも知れないからな」
 その晩、城内では豊作を祝う祝宴が催された。城下の喧噪とは全く違う、厳かな宴。上座には皇帝后妃、執務大臣以下の宮廷重鎮、各地の文武諸侯が正装をなして整列する。
 兄妹は皇帝后妃の両脇に静かに立ち、臣下の祝辞云々をじっと聞いている。取り分け妹の心は、とうの昔に城下に行くことの方に向いていたから、堅苦しい挨拶などは上の空だった。兄はじっと宴の隙を窺っていた。目立たないようにしていた。
 宴もいよいよ盛り上がろうとしていたとき、兄はそっと妹の方に近づいて耳打ちした。
「私は少し風に当たると言って庭園の裏にいるから、お前は適当な理由をつけてここを抜け出すんだ」
「ええ。わかったわ」
 兄は父皇帝に風に当たってくると言い、広間を出た。城内を警邏している兵士たちはいちいち立ち止まり、敬礼する。こうも警備が厳しいと、堂々と城を抜け出すことは、万が一にも不可能であった。
「一人で少し風に当たってくる。警備は無用」
「ははっ。お気をつけて」
 兵士の一人にそう言付けると、兄は表に出、庭園の裏に向かった。満月の明るい夜だ。城下の囃子の音がはっきりと聞こえてくる。兄も心の奥でわき上がる興奮を感じていた。
 庭園の裏は植木に覆われ、視界は狭い。塀は兄の身長の二倍は高かったが、小さい頃からよく木登りをしていたから、これくらいの高さは平気だ。
 十分後、なかなか現れない妹に兄は苛立っていた。
「何やってんだ。・・・まさかばれてしまったわけじゃないだろうな」
 それからまた十分くらいが立ち、しびれを切らした兄は引き返そうとした。そのとき。
「お兄さま・・・・・・」
 囁くような声が奥から聞こえてきた。はっとして振り返る兄。
「ごめんなさい。着替えていたから、遅くなっちゃった・・・・・・」
 月明かりに照らされた妹を見て兄は驚いた。煤けたような布地の服、膝下までのロングスカートを身にまとい、安物っぽい茶色の靴。そして、顔は化粧を落としてはいるが、寸分も変わらない美貌。庶民風な衣装に身を包んだ妹は、それでも気品を失わず、美しかった。思わずドキッとする兄。
「どう? この服、リーナから借りたの。少なくても、王女様には見えないわよね」
 そう言いながらくるりと一回転してみせる。
「あ、ああ。そうだな」
 無意識にどもってしまう。妹はじっと兄を見つめた。
「似合うかしら」
「あ、ああ。と、とっても似合ってるよ」
 自分も無意識のうちに妹を見つめていることに気づき、思わず顔が赤くなる。
「・・・・・・行きましょ、お兄さま」
「あ、ああそうだな」
 気を持ち直して兄は塀のそばの木の幹に手を掛けた。
「塀に上ったならば私が手を貸すから・・・・・・木登り、出来るよな」
「任せて」
 兄は身軽に幹を伝い、塀の上に足をかけた。
「さあ」
 腕を差し伸べると、妹はにこりと笑い幹に手足をかける。
 妹の手をしっかりと握ると、兄は一気に妹を引き寄せて落とさないように抱きとめた。
「けっこう高いわね、この塀」
 兄の胸にしがみつき、わずかに息を乱す。兄は思わず妹を見つめてしまった。妹も顔を上げて兄の瞳を見つめる。
「・・・・・・」
 お互いに意識してしまい、顔を赤らめ、言葉を失くしてしまう。
「さ、さあ。行くか」
 兄が目を逸らして言う。
「は、はい。お兄さま」
 妹もそっと兄から身体を離す。兄は着地体制を取るためにゆっくりと身構える。そして一つ間を置いてから瞬間的に飛び降りた。音を立てることなく着地する。
「私が受け止めるから、そのまま跳ぶんだ」
 兄が両腕を大きく広げて妹の跳躍を待つ。妹はさほど怖がってはいない様子であったが、こんな高い塀を飛び降りるにはそれなりに勇気がいった。戸惑う妹の様子に兄が言った。
「大丈夫。私が受け止めるから何も心配はいらない。さあっ」
 兄の優しい言葉に、妹は大きく頷くと塀を踏みしめていた足を外した。軽い身体がすうっと降下する。兄は両腕に力を込めて妹の身体を受け止める。いかに妹の身体が軽いとはいえ、引力の力は大きい。兄の腕は尻餅をつく衝撃を些少和らげる程度の効果しかなかった。
「ご、ごめん。受け止めたつもりだったんだけど・・・・・・」
「だ、大丈夫。これくらい平気。痛くないわ」
 妹はすぐに立ち上がり、スカートに付いた土を払い落とす。
「お城、抜け出してしまったわね、お兄さま」
 兄が立ち上がると、妹はやや寂しげな瞳で兄を見つめる。
「ああ。今さら後には引けない。・・・・・・さあ、行くか」
「ええ」
 兄の手に自分の手を絡ませ、兄妹はまるで脱走した囚人のように城下を目指して走り出した。

 深窓の令嬢にとって、街の雑踏は全てが見知らぬ別世界であった。収穫祭に浮かれる城下町は、侍女リーナから聞いていた話より、そして自分が想像していた感じをはるかに超える賑わいを見せていた。
 街の中央公園では、農夫姿の男性が鍬を肩に担ぎ、商人風の男性は算盤を両手にし、戦士らしい男性は自慢の太刀をかざし、老人や女性子供と、数多の人々が音楽隊の演奏する囃子に乗って、大声で歌い、踊っていた。夜の帳に月明かりと篝火が街を照らす。沿道は人混みで埋め尽くされ、歩くのにも窮屈だ。
 兄妹は人混みにもまれないように、しっかりと手をつなぎながら歩いていた。人波をかき分けて、道路沿いを覗くと、食べ物から貴金属(と、言ってもレプリカだが)まで、様々な種類の露店が軒を連ねている。人々はおせやおせやの大賑わい。
「・・・・・・」
 茫然としている妹に、兄は不思議そうに尋ねた。
「どうしたんだ?」
「え? ええ。あまりにすごくて、声を失っていたの・・・・・・」
 妹は目を輝かせて露店に並ぶ様々な売り物を見ていた。王宮出入りの商人たちの品物と比べれば、天と地の差があるであろう、実に安価で粗末な物。だが、城の奥で過ごしてきた妹にとっては、それら全てが初めて見る、とても高価なものに感じた。
 篝火の茫光に、一際きらめく品物が並ぶ露店の前で、妹の足は止まった。
「らっしゃい! おお、これはまた、随分とかわいいお嬢さん。どうだね、このアクセサリー。本物にも劣らねえだろ」
 そこの主人は、ねじりはちまきをした職人風の中年の男性である。
「このチムのガラス職人リックスが腕によりをかけて拵えたガラスのアクセサリーさ。他でこんなに精巧な細工はねえぜ。後ろのかっこいい彼氏、どうだい。かわいい恋人にお一つ」
 どうやらこの主人、兄妹であるという風には思っていないらしい。"恋人"という言葉を妙に意識してしまう二人。
「うーん、そやなぁ・・・これなんかどうや?」
 主人は手前に並べられているガラス細工をあさり、取り出したのはルビーの形をした一組のイヤリングだった。
「お嬢さんにピッタリやと思うけどな」
 妹は露店の主人からそれを受け取ると、じっとそれを見つめた。篝火の仄かな光に、幻想的に輝きをたたえる、ガラス細工とは思えない美事な代物だ。
「お兄さま・・・・・・これ、欲しいな・・・・・・」
 無意識のうちにそう呟いていた。
「ねぇ、お兄さま、これ欲しい・・・・・・」
 妹は魅入られたかのように、一点にイヤリングを見つめている。兄はその後ろで微笑みながら見つめていたが、やがて露店の主人の方に視線を送る。
「まいど! 二三〇パクセルでやす」
 兄はポケットから一〇〇パクセル硬貨二枚と、一〇パクセル硬貨三枚を取り出すと、それを差し出した。
「ありがとうごぜえやす。包みやすか?」
 兄は小さく頭を横に振ると、妹の方を向いた。
「私が飾ってあげよう」
 妹の小さくて華奢な手のひらから、二つのイヤリングを取ると、そっと、その桜貝のような耳朶にイヤリングをつけた。その美しい容貌が、幻想的な輝きを放つルビー色のガラス細工になお一層引き立つ。
「・・・・・・」
 兄妹は無言で見つめ合った。ただ、一点に互いの視線が重なり合う。
「似合うよ。とっても・・・」
 兄が微笑んだ。妹は何も言わず、一つため息をつき、恍惚とした表情で兄の胸にもたれかかる。
「おいおい、店の前でいちゃつくのだけは勘弁してくんなよ。商売の邪魔だかんな」
 半ば冷やかし気味に言う主人。はっと気がついた兄妹は、慌てて離れ顔を真っ赤に染める。そんな二人の状況を見ていた周囲の人々からは笑いが起きる。兄妹もつられて笑い出していた。笑顔が素敵な城下町の人々。その心のあたたかさというものが、心の中を満たしてくれるようだった。