第1部 旅立ち

第5章
暗雲
 収穫祭は最高潮を迎えていた。
 広場では様々な出し物が行われ、人々の盛大な拍手喝采が鳴り止まない。兄は広場に行こうと妹の手を握りしめ、妹は人波に圧されながらも兄の腕にしっかりともたれていた。
 人波は一斉に広場に向かって押し寄せてゆく。誰もが嬉々と輝いた目で、久しぶりの収穫祭を満喫しようとしているに違いなかった。そう、兄妹をじっと見続けている、ある数人の男たちを除いては・・・・・・。
 兄妹は寄り添い合いながら広場についた。いつしか踊りや歌は止み、雑技、手品、猛獣ショーなどの出し物に、人々は狂喜に満ちていた。
 そんな周囲に感化され、何事か理解できない兄妹も、いつしか拍手喝采の渦に飲み込まれていった。しっかりと繋いでいた手も無意識のうちに離れ、二人とも両腕を大きく掲げ、手を打ち鳴らし、歓声を挙げていた。

 そう――――気づいたときには、遅かった――――

 兄はふと、横を向いた。その表情は、快晴の空に突如現れた黒雲のようになる。
 妹がいない。代わりに見知らぬ、街の住人が狂喜にうち震えている。兄は麻酔から醒めたように、慌てて周囲を見回した。

 いない――――

 兄の視界にはいるのは皆、一点にステージを煌々とした目で見つめる、街の住人たちだけであった。
 身体中の血の気が引いてゆくのを、兄は生々しく感じた。何も考える間もなく、その場を飛び出していた。人波を強引に逆らい、歓声を打ち破る。

 はぐれたのか――――いや、そんなはずはない――――

 兄は人波を抜けた瞬間、極度の不安感に襲われていた。心拍数が高まる。表情が強張る。その眼は、周囲の人間の姿は映らなかった。

 どこだ――――

 人通りの減った通りを駆ける兄。

 城へ――――いや、そんなはずはない――――

 暑くもないのに、汗が全身の毛穴から噴き出す。そして、兄の混乱した思考の中で最後に浮かんだ、思ってもみなかった、そして考えたくもない、最悪の事態。

 ――――さらわれた――――

 ぴたりと、兄の足が止まる。茫然と立ちつくす。

 ――――さらわれたのか――――

 瞬間、兄の脳裏は白に染まった。猛然と駆け出す足。極めて人通りの少ない裏道に向けて、兄は無意識のうちに走り出していた。喧噪はとうの昔にかき消えていた。その耳は妹の声、その眼は妹の手折れそうな華奢な容姿、五感は妹の気配だけを追っていた。

 ――――さま――――

 兄の鼓膜に確かに響いた声。鈴の音をも陰る程のか細く、玲瓏とした声。気のせいか。いや、そんなはずはない。確かに聞こえた。兄の聴覚は今や超人をも勝る。
 酒場の裏。酒樽やら食料の木箱が積み重ねられている場所に、兄はたどり着いていた。篝火の灯りも遠く、茫然と暗い。秋だというのにじめじめとしている感じもする。酒樽から沸き立つアルコールの匂いや木箱から立ちこめる微かな腐臭が鼻をつく。

 気がつくと、いつしか祭りの喧噪も収まり、辺りは雑踏のざわめきだけが交錯していた。それは祭りの終演が近いことを意味していた。このざわめきが止むときが、華やかなる祭典の終わり。このような酒場の裏口などに足を運ぶ奇特な人間はいようはずもない。いるとすれば、妹をさらった極悪非道のならず者たちである。
 兄はその狭い周辺に敏感な視線を送りながら微動だにしなかった。自分の衣服の擦れる音さえもどかしい。

 ――――ガサ――――

 兄は本当にその小さな音を聞き逃さなかった。その音のした、物陰に向かって猛然と走った。
 そしてその瞬間、兄は本当に神の存在はないのかと絶望感に襲われた。神が存在するというのならば、なぜにこうもむごい仕打ちをなされるのか――――と。
 物陰には無惨にも破れ千切られ、煤けた服を纏った美少女が、猿轡をさせられ、その美しい瞳も死んだ魚のような色をし、涙さえも涸れ果てているような状態だった。
 茫然とする兄。やがて周囲の暗闇から目が慣れてくると、更に愕然となった。
 その美少女を押さえつけているように三,四人の男が身を潜めていたのである。
「・・・・・・貴様ら・・・・・・」
 兄は血が出るくらい唇を噛みながら声を発した。その瞬間、暴漢の一人が奇声を発しながら兄に飛びかかってきた。手にはきらりと光る物。兄は咄嗟にかわそうとしたが一瞬、遅かった。右腕の衣服が切られ、赤い液体が手首を伝いしたたり落ちてくる。続けて他の暴漢たちも一斉に兄に向かって飛びかかってきた。だが、今度はそういかなかった。兄はただの勢い任せに攻撃してくる暴漢たちを難なく避け、バランスを崩して転倒した暴漢の一人から素早くナイフを奪い取った。
「~~~~」
 もがき声を挙げる美少女。暴漢たちは突然起こった兄の殺気に気づくのが遅かった。
「!」
 逃げる体制を与える隙もなく、兄の握るナイフは暴漢たちの身体の急所を次々と襲った。断末魔の悲鳴を挙げながら次々と崩れ落ちる暴漢。再びその場に一瞬の静寂が訪れる。
 兄は我を忘れて囚われの美少女に駆け寄り、その枷を全てなぎ払った。
「お兄さまっ」
 その瞬間、妹は震える身体で兄の胸に飛び込んだ。兄も妹の冷たい身体をがっちりと抱きしめた。
「あっ・・・ぐっ・・・えくっ・・・」
 妹は極度の緊張が解けたのか、兄の温かい胸にようやく安堵したのか、小さな嗚咽を発していた。何も話しかけることの出来ない兄。妹の答えを聞くのが怖い。今思っていることは、無事だった妹をこうして抱きしめていられることだけだった。
「何も・・・・・・なにもされなかった・・・・・・」
 妹はつまるような声でそうこぼした。何もされなかった。兄は本心、訊こうとした答えが良い方向で返ってきたので、ほっとした。
 間一髪だった。あと1分、兄の駆けつけが遅れていたら、妹の身体は暴漢たちに滅茶苦茶にされていたに違いない。ぼろぼろにされた服。それだけでも最悪の事態を免れた。
「すまない――――」
 妹を抱きしめる腕が小刻みに震え出す。
「お前をこんな目に遭わせてしまったのは私の責任だ――――」
 兄の言葉に驚愕し、目を見開く妹。
「やはりあの時――――縛りつけてでも城にとどめておくべきだった――――」
 次第に自責の念に苛まれ始める兄。離さないように、ますます妹を抱きしめる手に力が入る。
 妹はそんな兄の泣きそうな表情を見上げていたが、やがてそっと兄の胸を押して離れると、はだけた胸元を右腕で隠しながら、やや腫れた瞳で真っ直ぐ兄を見つめた。
「お兄さま・・・・・・そんなに責めないで・・・・・・。悪いのは私よ。お兄さまに無理をさせた私が悪いの。だから・・・だからきっと、私に罰が当たったんだわ」
 妹の優しい言葉にも、兄はなおも表情を和らげない。
「お前を守れなかった・・・・・・そんな自分が悔しいんだ」
 兄は妹を直視することが出来なかった。はだけた胸元を意識してのわけではない。自分の不甲斐なさで妹を危険な目に遭わせてしまったことへの慚愧の念からである。
「なにも・・・・・・なにもされなかったわ。服を破られただけ・・・・・・」
 だが、兄はただぎりぎりと唇を噛んでいる。やがて力尽きたかのようにどっとその場に座り込んだ。項垂れ、両手を血が出るかと思うくらいに握りしめる。身体が小刻みに震える。
「人を・・・殺してしまった・・・」
 ぼそりと呟く兄。思考が正常に戻るにつれて、次々と自らの過ちに苛まれる。気がつけば兄の身体中は暴漢たちの返り血で汚されていた。
「ああ・・・何ということだ・・・・・・これまでか・・・」
 血塗られた収穫祭であった。今まで何事もない、ありきたりだった兄妹仲睦まじい日々。それがこの上ない平和な時間だった。それがこの瞬間に全て失ってしまいそうな極度の不安。兄は怯えるように頭を抱える。
 さも奈落の底に落ちようとしていた兄の身体を、突然温かい物が包んだ。はっと我に返る兄。目を開くと、妹が兄の身体を優しく抱きしめていた。
 冷たく冷え切った心も身体も、妹の華奢な身体に包まれ、次第に温められて行く。
「れ・・・」
 言葉を発しようとした兄より一瞬早く、妹は囁くように口を開いた。

 ――――お兄さまはいつも私のことを気にかけてくれたわ・・・私が物覚えをする頃から・・・ずっとそばにいてくれた・・・。私がお父様やお母様に叱られそうになると、いつも庇ってくれた・・・。遊ぶときもいつもお兄さまがいてくれて。喧嘩をしても、いつも謝るのはお兄さまだった・・・。私が高熱を出して三日寝込んだときも、不眠不休で看病してくれたのはお兄さまだけ。医者の治療じゃなくて、お兄さまに救われたの。あの後、お兄さまも熱を出して寝込んでしまったわ。今度は私が看る番だって、誰もお兄さまに近づけさせなかったの。おかげで、二日で治る病気が五日かかってしまったけど・・・・・・それでもお兄さまと過ごす時間が長く出来て嬉しかった・・・。

 兄を抱きしめながら妹は瞼に真珠の粒を浮かべていた。
「そして今日も・・・・・・」
 そこで言葉を止める妹。兄はゆっくりと顔を上げる。妹は二粒ほど真珠を零すと、真っ直ぐに兄の瞳を見つめた。
 短くも、長い静寂が二人の間をよぎる。見つめ合う瞳の線だけが途切れることなく繋がっている。そして、妹の唇が、ゆっくりと開く。

 ――――私・・・・・・お兄さまが・・・・・・好き――――

 その言葉を発した瞬間、妹の瞼からは堰を切ったかのように無数の真珠が溢れ出してきた。
「お兄さましか・・・・・・見えないの・・・・・・」
 妹は両手で顔を覆い、激しく嗚咽した。今まで気づかなかった、いや、その思いはとうの昔から感じていたのかも知れない。兄を兄として慕う感情が、いつしか一人の男を恋い慕う純粋な思いに変わっていた。無意識のうちに積もり積もっていた恋する想いが、ここで爆発してしまった。茫然と妹を見つめる兄。ようやく開いた口からは拒否的な台詞。
「・・・・・・私達は実の兄妹だ・・・・・・やはり・・・・・・」
 しかし、妹は兄の言葉を遮るように激しく首を横に振りながら叫んだ。
「いけないことだって事はわかってるのっ。実の兄を愛してしまうことなんて・・・・・・。でも・・・、でも、どうしようもないのっ。お兄さまが好きなのっ。他の人なんかどうでもいいのっ。もう、お兄さましか見えないっ。お兄さましか好きになれないっ!」
 その叫びに、兄は心の中で、壁を突き破られたような衝撃を感じた。兄に想いを告白した後、震えながら泣きじゃくる妹が急に愛おしくなる。妹はなおも何かを言おうとしているが、声にならない。兄は衝動的に妹の細い身体を強く抱きしめていた。
「お・・・・・・おにい・・・さ・・・ま・・・」
 妹は一瞬驚いたが、抗うことなく兄の抱擁を受けていた。兄は何も言わない。ただ、夢中で妹を抱きしめつづけていた。それが、兄の答えであると、妹は確信した。兄も自分を愛している。兄妹という範疇を超えて、一人の女性として自分を見ていたのだ。
 無言で抱き合う兄と妹。やがて、どちらともなく互いの目を見つめ合う格好となり、瞼が閉じる。そして吸い寄せられるように、二人の唇が重なる。二人の身体が小刻みに震えながら・・・・・・。
 いつしか、街の喧噪も止み、城下町は秋の虫の音が鳴り響く、心地よい夜更けを迎えようとしていた。

 翌日、寄り添うようにそっと城に戻った兄妹を待ち受けているのは、きっと驚天動地の権化となった宮廷人の様相と、父である皇帝、母である皇后の鬼神に擬した表情であった。
 昨夜からそのままの姿で帰還した二人を、何とも言えない表情で見る宮廷人たち。擦れ違う者、皆よそよそしく頭を下げて行く。言葉をかける者など誰もいなかった。
「殿下、王女様。陛下がお召しでございます。早急に御座所へお越しを・・・・・・」
 大臣が二人の姿を見つけ、厳しい表情で言った。兄は小さく頷く。妹は兄にすがるようにしている。大臣は目を細めて何も言わずに去っていった。
 両親の痛烈な怒りを覚悟し、兄と妹は皇帝・皇后の座す広間の大扉を開けた。
「・・・・・・」
 百畳はあるであろうその広大な空間には、衛兵の姿はなかった。はるか奥の上座に二つ並んだ玉座。兄妹の両親である皇帝と皇后がじっと兄妹の方を見て座しているだけである。
 兄妹はゆっくりと前進する。俯いたまま、一歩一歩、足音さえ立てないように進む。やがて玉座の前で深々と頭を下げ、跪いた。そして、皇帝の鉄槌を甘んじるように、身動き一つせず、待った。しかし、皇帝も皇后も何も喋らない。長い沈黙の後、言葉を発したのは兄であった。
「こたびの不祥事、責任は私にあります・・・・・・。いかなる罰も、甘受いたす所存」
 兄の言葉に愕然となる妹。
「いいえっ。お兄さまのせいじゃありません。お城を抜け出したいともうしたのは私ですっ。お兄さまは仕方なく私に協力しただけでございます。全ての罪は私にあります。なにとぞ、お兄さまにお咎めのないようお願い申し上げますっ」
 互いにかばい合う兄と妹。しばらくその様子を眺めていた皇帝が、ゆっくりと重い口調で話し始めた。
「城を抜け出したこと、それ自体は何も咎めるつもりはない・・・・・・」
 思いもよらない皇帝の言葉。兄妹は思わず皇帝の方を見た。
「ただ・・・・・・どうやら由々しき事態が起こっていたようだな・・・・・・」
 噂というものは綿に浸した水のように、あっという間に広がるものだ。
「昨夜、城下で五人の男が他殺体で発見されたそうだ。何者かと争っていたと、警邏府に通報があってな。兵が駆け付けたとき、現場から若い男女二人が寄り添うように去っていったと・・・・・・。皆まで言う必要はなかろう」
 兄は素直に認めた。しかし、妹が暴行未遂されたことだけは、どうしても言えない。
「申し訳ありません・・・・・・。あやつらは突然私達に襲いかかり、凶器を取り出したので、致し方なく・・・」
 皇帝は頷きもせず、ただじっと兄を見ている。
「例え非が先方にあるとはいえ、武芸にも魔術にも優れ、《聡明太子》と謳われたそなたが、庶民の命を奪うとは穏やかならざる事情があろう。怒りはせぬから、正直に申すのだ」
「何かを隠していると、後で事が大きくなりますよ。王子が城下に抜けだしたというだけでも、宮廷は混乱に陥ったと言うのに・・・・・・。あまつさえ一般庶民に危害が及んだとなると、国の威信にも関わります。何か秘めたことがあるのならば、今のうちに告白なさい」
 母である皇后の口調は穏やかであった。しかし、兄はどうしても言うことが出来なかった。妹に恥をかかせることなど、出来ようはずがなかった。
「それだけで、ございます・・・・・・。こたびの件、私の不徳。どうか、厳重なお裁きをお願い申し上げます」
 兄は平伏した。その様子に妹は愕然となった。

(――また――――また私をかばってくれるの――――)

 妹はすぐにでも口を開き、事実を告げたかった。しかし、兄がそんな妹を気配で抑えていた。
(何も話すな)と。
 皇帝は皇后と顔を見合わせると、小さく頷き、兄妹を見下ろした。
「左様か・・・・・・。もうよい。本来ならば一年の禁固刑に処するところなれど、事情の全容解明が済むまで、一月の謹慎を命じる。沙汰があるまで、部屋からの外出を一切禁じる。誰も部屋に近づくこと、まかりならん」
 兄は再び平伏した。
「寛大なお裁き、恐縮至極に存じ上げ奉ります。謹んで、お受けいたします・・・・・・」
 兄はゆっくりと立ち上がった。しかし、妹は固まってしまったかのように身動き一つ取らず、放心状態にあった。兄の声にもしばらく反応しない。兄が無理矢理立たせ、支えるようにしながら広間を退出する。扉が閉まると、途端に妹は声をあげて泣き始めた。
「どうして・・・・・・どうしてお兄さまが・・・・・・お兄さまは私を・・・私を助けようとしてくれただけなのに・・・・・・」
 兄は妹の小さな肩をそっと抱きしめながら囁いた。
「仕方がないじゃないか。全てを認め、私が罪を被れば、昨夜の出来事は露見せずに済む。それに、一月の間、会えなくなるだけだ。私は自室にいる。どこへも行かないんだ。寂しいことなどあるか」
「お兄さま・・・・・・」
 妹は兄の胸に顔を埋める。兄は優しく、妹を抱きしめた。
 しかしこのとき、この兄妹の運命の歯車は、悪しき方向へ回り始めていたことを知る由もなかった。そう、全ては昨夜の収穫祭の夜から・・・。