第1部 旅立ち
第6章
追放
一月の間、兄は自室にて何をするわけでもなく、ただじっとしていた。
椅子に凭れ、目を閉じ、太陽が昇り、沈むまでじっと物思いに耽っていた。その顔は、薄い無精ひげに覆われ、とても一国の王子には見えない。艶やかだった銀色の髪の毛はぼさぼさに乱れ、元々白かった顔色は更に透明な白へと変わり、やつれていた。
そして、謹慎が明けるその日の正午を、兄はじっと待っていた。妹が自分の部屋に訪れてくるのを。官女が運んできた朝食を摂り、兄は朝から、落ち着かないように部屋の中をうろうろしていた。
そして、正午を告げる城下の鐘の音が、兄の部屋にこだまする。鐘の音に重なるように、扉をノックする音が、確実に兄の耳に届いた。
兄は思わず表情が映え、扉に向かった。
・・・・・・がちゃ・・・・・・
扉がゆっくりと開かれる。兄はそこに愛しい妹の姿があることを確信していた。きっと、妹であると、そう、思っていた。
「・・・・・・」
しかし、扉の向こうには長槍を携えた複数の衛兵と、一人の朝臣の姿であった。
「警邏府長官・レックスでございます」
朝臣は軽く会釈をしてから厳しい表情で兄を見ていた。
「・・・・・・」
兄は唖然とし、レックスを見つめていた。
「陛下の勅命を、お伝えに参りました・・・・・・」
謹慎解除の事なのだろうか。いや、それにしてはやけに物々しすぎる。兄は突然、異様な不安感に襲われた。父皇帝の詔書を取り出すレックス。彼はゆっくりとそれを広げ、一つ間を置いてから一つ一つ、確実に伝えるように読み上げた。
『第一王子サイヴァ その身分全てを剥奪 国土追放を命ず』
たった一行の文。ゆっくりと読み上げた筈だったが、兄は聞き返した。
「何と・・・・・・レックス長官。今、何と・・・・・・」
レックスは二度言わなかった。代わりに皇帝直筆の詔書を兄に差し出す。
「・・・・・・・・・・・・」
兄はがくがくと震える手で羊皮紙の詔書を受け取った。瞬きが極度に多くなる。全身からは汗が吹き出す。全身から力が抜けて行く。心拍数が極限を超えんばかりに、鼓動が耳にまで聞こえる。
B4サイズほどの羊皮紙の中央に横書きで書かれた、たった一行の勅命。
兄は三度、目で文字を追った。何かの間違いだろう。きっと、誤字があるはずだ。そう、思いたかった。
だが、やがて力尽きたかのように膝を折り、その場に倒れ込んでしまった。無情にもレックスは兄を助け起こそうとはしなかった。また、事情を訊こうともしなかった。ただ、その場に伏す旧王子を、冷たく見下ろしていた。
しばらくして、落ち着きを取り戻した兄は、皇帝に接見を許された。それが両親と会える最後であると、兄は覚悟を決めていた。しかし、母皇后、そして妹はその場にはいなかった。
「王女様は公用で出掛けられております。お戻りは夕刻を過ぎるかと」
大臣は冷ややかにそう語った。そして、また酷いことに、兄は即日城外退去を命じられていたのである。最愛の妹とは遂に会えることは叶わない。
「サイヴァ」
皇帝は低く、怒気籠もった声で兄の名を呼んだ。
「あれ程、隠すなと申しておいたに・・・・・・」
「・・・・・・」
サイヴァは何も言わなかった。
「かの日の出来事、あれから警邏長官に調べさせた・・・・・・。見ていた者がいたのだよ。そなたが城下の者たちと争っていた、その一部始終を・・・・・・」
兄は愕然となった。誰も見ていないだろうと、たかをくくっていた。そして、暴漢たちを殺した罪だけを被れば、やがてこの出来事は忘れ去られるだろうと、思っていた。だが、それは世間知らずの甘さであった。
「警邏長官、口上せよ」
皇帝がそう言うと、レックスは頭を下げ、サイヴァを見ながら口を開いた。
――――城下の者たちに聞き込みをしておりましたら、ある者が事の子細を目撃しておりましてな。
《王女様によく似た少女が、街のならず者たちにさらわれ、王子様によく似た少年が酒場の裏で激しく争い、ならず者たちは血を流して倒れた。始めは王子様と王女様かと思ったが、まさか城下に来ているはずはないだろうと思った。それからしばらく様子を見ていたが、二人とも一向に出てこないので、心配して見てみると、二人は・・・・・・》
レックスの口がそこで止まった。兄は身体の奥から熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
(その先は・・・・・・その先だけは言わないでくれ・・・)
兄は心からそう叫びたかった。まるで死ぬるかと思うほどの羞恥がサイヴァを襲う。思わず両手で頭を抱え込む。
「構わぬ。続けよ」
皇帝の冷たい言葉が広い空間に響きわたる。レックスは一つ間を置いてから続けた。
「二人は・・・・・・物陰で・・・・・・何も纏わず・・・・・・抱擁を交わしていた・・・・・・と」
語るレックスも、次第に顔が真っ赤になり声が震え、最後は耳を立てないと聞こえないくらいであった。
「うあああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
サイヴァは突然狂ったかのように叫びだした。衛兵が慌ててサイヴァを取り抑える。息が荒れる。目が血走る。遂に、兄と妹の禁断の情事が露見された。皇帝はなおも表情を変えず、冷たくサイヴァを見ている。
「サイヴァよ。余はそなたに失望したぞ・・・・・・。幼い頃から聡明であったそなたが、よもや神の教えに背くような事をしていたとは・・・・・・。実の・・・実の妹に・・・何ということを・・・・・・。后は・・・お前たちの母は、あまりの衝撃で病に伏せてしもうたぞ・・・・・・」
「父上っ!」
サイヴァは唾を吐きながら叫んだ。
「私は妹に邪な欲望を抱いていた。昔からそうだったっ。あの日も、妹を抱きたいと考え、祭りを見ようと言う名目で私が城下に連れだした。あいつは・・・レミアは何も知らずに私の誘いに乗っただけのことっ。暴漢たちを殺し、服をぼろぼろにされたレミアを見て、私は押し寄せる欲望を抑えきれずに・・・・・・妹を・・・レミアを抱いたっ!」
唖然とする皇帝・諸臣。
「いやがるレミアを、私は強引に犯したんだっ!」
遂に気が触れたかと、誰もがそう思っていた。だが、サイヴァは精一杯、愛する妹・レミアをかばい抜いていた。さすがの皇帝も、遂に堪忍袋の緒が切れた。
「この背信不貞の輩めっ。貴様は人間ではないっ。誰か、こやつの首を刎ねいっ」
怒髪天を衝く勢いで怒鳴る皇帝。しかし、レックスは必死に皇帝を宥めた。
「貴様のような輩が我が息子と考えるだけで虫酸が走るわっ。早々にこの城から出て行けっ。二度と我が面前にその顔を見せるなっ!」
皇帝の蹴った脇息がサイヴァの額を直撃する。額が割れ、血が迸る。愕然とする諸臣。
それでもサイヴァはじっと目を伏せている。抑えている衛兵に説き、自分から離れさせると、ゆっくりと立ち上がった。そっと、裾で額を拭う。そして皇帝と目を合わせず、小さく頭を下げると、振り返り、ゆっくりと広間から出ていった。呆気に取られ、一言も発しない諸臣。ただ、去っていく旧王子の背中を見送る事しかできなかった。
サイヴァは部屋に戻り、身支度を整えると、城門に向かった。平民の着る布の服に青地のズボン。王子の印象はもはや完全に薄れてしまっていた。そして、誰も別れの言葉をかけるわけでもない。サイヴァに側近として仕えてくれた、リーク近衛大佐がただ一人、見送りに来てくれただけであった。
「サイヴァ様・・・・・・」
リークの呼びかけに振り返るサイヴァ。その表情は先ほどとはうってかわって穏やかであった。まるで厚い雲が晴れたかのように、爽やかな感じさえする。
「リーク。見送りは結構だよ」
「陛下はサイヴァ様を、城門まで監視せよと申されまして・・・。名目上ですが・・・・・・」
そう言って微笑むリーク。
「全ては私の過失。レミアには何の過ちもないのだ。それだけは解ってくれ」
リークは頷いた。
「サイヴァ様、陛下の御前で仰有られたこと、あれは嘘ですな・・・・・・」
「本当だ。私は人の道に外れた人間・・・・・・」
「果たして、そうでしょうか・・・・・・」
「?」
「兄妹とはいえ、個々に見れば一人の男と女。愛し合っても不思議ではありません」
「リーク・・・・・・」
「サイヴァ様とレミア様は、幼い頃から非常に仲が良かったではありませんか。端から見ると、本当の恋人のようでした」
「そのようなこと・・・・・・」
「兄妹仲良きことは、何よりの至宝であると思います。いつしか、お二人は兄妹という線を越えて、愛し合うようになった。ごく普通に、ごく自然に・・・。私はそれが、人の道に外れてなんていないと思います。レミア様が暴漢に襲われそうになったこと、サイヴァ様は必死に隠そうとなされた。そして今日も、サイヴァ様は最後までレミア様をかばい抜かれました。・・・これに勝る愛情がありましょうか」
リークの声が突然涙声になった。サイヴァは足を止める。
「ありがとう、リーク。解ってくれたのは、あなただけだ」
「いつの日か、陛下もサイヴァ様のお気持ちが解って下さる時が来ます。そのときは、必ずご帰還下さいませ」
リークの手を握りしめるサイヴァ。その瞳には涙が溢れていた。
「リーク。一つだけ、願い事を聞いてはくれないだろうか」
その言葉に、リークは腕で両目をこすると、笑みを浮かべてサイヴァを見上げた。
「はい。私に出来ることならば何なりと」
サイヴァは懐から一通の書簡を取り出した。
「これはレミアに宛てた手紙だ。レミアの部屋には入ることもままならなかったから、本当は捨てようと思っていたのだが・・・・・・。リーク、これを手渡してはくれないだろうか」
「そのようなこと・・・お安いご用です。レミア様がお戻りになられましたらば、直接、お渡しいたします」
「ありがとう。リーク、あなたにはいくら感謝しても飽き足らない」
深々と頭を下げるサイヴァ。
「何をなされますっ。お顔をお上げ下され。私こそ、このくらいしかお役に立てなくて、歯痒うございます」
「リーク。くれぐれも、レミアを頼む」
「ははぁっ」
気づけば二人は城門まで来ていた。サイヴァは振り返り、城全体を見回していた。
思えば王族として生まれ、十五年間、聡明太子などともてはやされた日々。それでも、それが当たり前だった。
今まで、何気なしに過ごしてきた場所。これからは平民として、一人で生きて行かねばならない。
だが、自分は平民だという実感がわかない。不意に告げられたことに戸惑っているのか。心境は城下視察か、お忍びか。でも、それはそれで面白いことかも知れない。愛する妹レミアを残していくのは心残りだ。だが、サイヴァは今、清々しい気分でいた。たとえ、それがひとときの晴れ間であっても・・・・・・。
「サイヴァ様っ、これから何処に・・・」
リークが問う。サイヴァは微笑みながら答える。
「さあ・・・・・・風の向くまま、気の向くままってところかな」
どこかの本で見た受け売りをするサイヴァ。城を背にし、悲運の王子は歩き出した。どこへともなく、去って行く。リークは姿が見えなくなるまで、その場に立ちつくしていた。
サイヴァの妹、レミアは大臣の言ったとおり、太陽が地平線に隠れた夕刻に戻ってきた。兄への土産であろう、『苦難を乗り切り、幸福を掴む』という象徴《ガラスの鷲》を手に。浮かれるレミア。しかし、城内に異変が生じたことををいち早く察知したのも、レミアであった。
兄がいない――――私の愛する兄はどこに――――
レミアは大臣から告げられた。王子サイヴァ、身分剥奪、国外追放。即日、城を退去す――――と。
その瞬間、レミアは頭の中が真っ白になった。
――――がちゃん――――
無惨に割れたガラスの鷲。どっと地に倒れ込むレミア。大慌てでレミアに駆け付ける諸臣・使用人たち。
部屋の寝台に寝かせられたレミア。しばらくして目が覚めると、枕元には一通の書簡。レミアはそっと、それを開いた。
――――愛するレミア、私はお前だけを守るために、この身を犠牲にする。それを悔いることはない。私はこの城を出て行くが、お前は城にあり、レシュカリアの威光を伝えて欲しい。私はお前が幸せになれること、心から祈っている。そして、決して私を捜してはならない。それが、私達にとって良き選択であると思うからだ。父上や母上を恨んではならない。私は君を一人の女性として愛している。出来ることならば、君と二人でずっと暮らして行きたかった。元気で生きてゆけ。さよなら。私のレミア・・・
サイヴァ
レミアは目を通しながら大粒の真珠が止めどなく溢れ、サイヴァの肉筆の手紙を濡らしていた。手紙を抱きしめ、毛布に突っ伏して大声を上げて泣き出した。
秋深まる夜、満天の星が降り注ぐ澄み切った空。その日、虫の音とともに、王城には少女のすすり泣きの声が夜通し続いていたという。
サイヴァが去り、数日が過ぎた。レミアには、皇帝の咎はなかった・・・。
第一部 旅立ち 終