第2部 五関の奇岩

第7章
大華の聖君主
「ちょ・・・ちょっとサファさん・・・ど、ど、ど、どないしたんか」
 じりじりと身を寄せてくるサファ。後ずさりながら激しく狼狽するカムル。
「カムルさん・・・」
 消えそうなか細い声でサファはカムルの目を直視する。
「まままま、待てっ。どどどど、どういうつもりだよっ。まずは説明してくれぇ」
 カムルの悲鳴にも似た叫びに、サファの動きがぴたりと止まる。
「??」
 呆気に取られるカムル。サファは突然、両手で顔を覆い、声を上げて泣き出してしまった。
「ご・・・ごめんなさい・・・カムルさん・・・」
「な――――どうしたんだよ、いったい」
 額から滴り落ちる汗を拭いながら、カムルは訊いた。
「わ、私――――やっぱり――――」
 サファは息の合間にそう漏らす。言わずとも、カムルは彼女の真意を察した。
『嫁ぐとき、男の伽を経て成す』などという掟は彼女にとって堪えられないことであった。
 しかし、民族の宿命というのならば、否が応でも従わなければならばい。
 だが、いかな国王とはいえ、会ったこともない男性と一夜を共にするなどということは、彼女にはどうしてもいやで、出来ないことであったのだ。カムルたちから見れば、それが正常と言えば正常である。しかし、彼ら砂漠の民族からすれば、そう言った考えを持つことは異端者に映るかも知れない。
「いっそうのこと、カムルさんに抱かれた方がいい――――」
 顔を覆いながら弱々しく、彼女はそう言った。無言で彼女を見つめるカムル。
 サファが落ち着きを取り戻したのを見計らって、カムルは洗いたてのマントを彼女に纏わせてベットに座らせ、自分は床に胡座をかいた。
「―――気持ちは解るけど、自棄になっちゃいけねえ」
 こめかみを指で掻きながらカムルが言うと、彼女は不満げに言い返す。
「自棄になんかなっていませんっ――――本当に、あなたに抱いて欲しいんです」
「し、しかしなあ・・・」
 困惑するカムル。
「サファさんよ。あんた、好きな人いるのかい?」
「えっ・・・?」
 不意な質問に思わず唖然とするサファ。
「俺さ、ずっと不思議に思ってたんだけど、親父さんの話がどうしてもいやだったら、結婚なんてしなければいいじゃないか。独り身だとそんなこと気にする必要なんてないんじゃないのか?」
 カムルにとっては実に単純で安易な結論に達したと思った。結婚などせず、独身を通せばいやな掟などに従わなくてもいい。
 愕然とするサファの表情をよそにして、カムルは自己納得するように何度も頷いていた。だが、そんな考えは砂漠の民族であるサファにとっては思いもよらない、暴言であった。
「そんな・・・カムルさんが・・・そんなこと言うなんて・・・」
 哀しみと失望の色を滲ませた嘆声がサファの口から漏れる。
「私は・・・・・・私は・・・」
 カムルには理解しがたいサファの心境。まともなことを言ったと思ったカムルは、サファの嘆息に愕然となった。
「私は・・・結婚します」
「け・・・結婚って、サファさんよ、あんた好きな人はいるのかよ」
 その質問に、サファは再び哀しそうにため息をついてから答えた。
「好きな人はいます・・・でも、私たち砂漠の民族は好きな人と結婚することは出来ないのです」
「な、なんだってっ!」
 思わず声を張り上げるカムル。どう言うことなんだ。好きな人と結婚できない・・・そんなことも民族の掟だというのだろうか。
「私たちの結婚は、全て親の決めた人とすることになっているんです。好きになった人とは結婚なんてするものではありません」
「・・・・・・」
 当然の如く、カムルは声を失した。
 自分たちの常識では考えられない話であった。好きな人と結婚し、幸せな家庭を築いて末永く暮らして行く。それこそが『幸福』と言うべきものではないだろうか。
「好きな人とずっと一緒に暮らしたい・・・そうは思わねえのかよ」
 思わず訊ねたその言葉に、サファは軽く頷く。
「思いません。それが、私たちの常識ですから・・・・・・」
 カムルにとって、そんな彼女のいう『常識』など、寸分たりとも解ろうはずがなかった。
 好きな人とは結ばれないのが常識という砂漠の民族。しかし、彼女はそんな常識がいやで抜け出したのではないのだろうか。
 怪訝な表情のカムルの心を察してか、サファはゆっくりと語った。
「私は確かに初め、そんな『砂漠の掟』、『常識』がいやで国を抜けました。・・・でも、フォルティアの街で父に会ってから、自分の間違いに気がついたんです」
「で、でもよ――――」
 カムルの言葉を遮り、サファはつづけた。
「でも――――やっぱり私、顔も知らない国王陛下とは一夜を過ごしたくないんです。見ず知らずの男の人と過ごすくらいならば、知り合ったあなたと過ごしたほうがいい」
 彼女の立場から考えれば、その言葉も、その気持ちも理解できる。
 だが、カムルはそんな彼女の希望を叶えてあげることはどうしても出来なかった。
 成り行きで彼女を抱くなどと言うことは、カムルの良心が許さなかった。
「あなたが抱いてくれないと・・・私は国王陛下と過ごさなければなりません・・・どうか、どうか後生ですから・・・」
 思いを込めて、サファは最後の嘆願をする。
 しかし、カムルは堅物というか、人一倍正義心が強いというか、言動は軽いと言われているが、人間的や道徳心は人一倍優れていたので、知り合って間もない女性と肌を合わせるなどと言う行為はどうしてもする事は出来なかった。
「悪い・・・俺さ、やっぱ出来ねえよ」
 カムルがため息まじりにそう言うと、サファは悲哀に潤んだ瞳をカムルに向けた。
「あんたのことは嫌いじゃないけど・・・やっぱよくねえよ、こんな事・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
 サファは何も答えずに、しばらくじっとカムルを見つめていた。そして、短い沈黙の後、彼女が口を開いた。
「私の好きな人って・・・・・・誰か解ります?」
「え?」
「ある街で、悪者と間違えられた父から私のことを助けてくれようとした男の人・・・そして砂漠では魔物から私を守ろうとしてくれた人・・・」
「そ、それって・・・」
 愕然とするカムル。寂しげに瞳を伏せるサファ。あえて名前を言わない。それが、彼女なりのカムルに対する名誉維持、気遣いだったのかも知れない。
「・・・でも、もういいんです。私、ようやく決意がつきました」
「決意って・・・まさか・・・」
「私――――国王陛下と共に過ごします――――」
 それはもはや今、カムルが翻意を示しても覆すことの出来ない、決断であった。
「ごめんなさい・・・突然、変なことしてしまって・・・・・・・・・失礼しますっ!」
 彼女はそのままの姿で部屋を駆け出てしまった。
 茫然とするカムル。
 漠然とした後悔の念が綿に染みわたる水のように脳裏に広がって行く。
 人の常識、民族の常識。
 互いの常識や道徳の相違が相手を傷つけてしまったのだろうか。
『据え膳食わぬは、男の恥』と言うが、カムルにとってサファは据え膳などという安価な存在ではなかった。
「畜生・・・・・・」
 その言葉の矛先が空を切る。そして、何度も拳を床に打ちつける。感情がとめどなくあふれ出して、睡魔をも流して行く。
 その夜、カムルはまともに眠ることが出来なかった。

 涼しい朝の光が、アルバートルのオアシスを優しく包み込む。
 アルファたちはいつものように朝食を摂った。
 大華国王に接見する緊張感をわずかににじませ、会話は少ない。
 朝食を取り終えたアルファたちは、そのままアルバートル城を目指した。
 焦げ茶色の煉瓦造りの王宮は、総二階建ての一見富豪の豪邸のような感覚しかない。だが、内部はまるで迷路のような作りになっており、外敵が進入しても、容易に攻略できるような感じではない。
 衛兵に対し巡検使であることを証明すると、衛兵は敬礼して五人を通す。長廊下を歩いていると、砂漠民族の衣装を身に纏った廷臣たちが慌ただしく往来している。
「何か忙しそうだなあ・・・」
 アルファの呟きに頷くカムルとシュリス。ジンキス・サファ父娘は不安そうに辺りを見回しながらアルファたちの後につく。
「巡検使殿」
 不意にアルファたちの後ろから若い男性の声が聞こえ、アルファたちの足が止まる。振り返ると、外見は一二,三歳くらいの少年。
「執務卿ラクスムと申します。突然のご来訪、どうかされたのですか?」
「あ、は、はい・・・」
 わかっていることだが、やはり戸惑ってしまうアルファたち。
 彼もまた実年齢はカムルよりも多いはずである。アルファたちは経緯を話して国王との面会を求めた。
「・・・わかりました。ただちに国王陛下に取り次ぎますので、お待ち下さい。事情があるゆえ、おもてなしできませんが、ご容赦を」
 廷臣慌ただしく往来する廊下にアルファたちは佇んでいた。
 国王に直談判してやるなどと豪語していたシュリスは、その様子に否応なく毒気を抜かれてしまい、唖然茫然とカムルの片腕にしがみついている有様だった。
 書類やら分厚い本などで手を塞いだ廷臣たちは屹立する障害物に不快そうな一瞥を向け、無視して行く。そして、10分ほど経ち、ラクスムと名乗った少年が現れる。
「お待たせいたしました。陛下は中庭にてお待ちです。ご案内いたします」
 ラクスムは軽く敬礼をしてアルファたちの先に立ち、導く。
 煉瓦の階段を上り、二階の長廊下の奥、国王在所にアルファたちは通された。
 しかし、驚かされたのは、国王在所とは言うものの、十二畳ほどの空間だったことだ。玉座がやけにばかでかく見える。アルファたちは大華に入ってから、本当に驚かされることばかりであった。
「こちらでございます」
 ラクスムは玉座に向かって左側にある扉を開いた。
 宮廷の中庭と呼ばれるアルバートル王城の中庭は、国王家専用のために、国王在所からしか入ることが出来ない。
 宮廷の中庭は、外部の砂漠とはまるで装いが違っていた。
 四角形の空間の中央には円形の池があり、樹木が一本植えられている。池の水はおそらくオアシスの水であろう。整然とされた芝生に季節の花、温暖な沃野に育つ花咲く木々が煉瓦の壁際に緑々と生え、まさに砂漠にあっての別天地。
 アルファたちは扉をくぐり、ゆっくりと階段を下って中庭の芝に立つ。
「アンセルム様、ラリツィナ王国の巡検使殿をお連れいたしました。」
 ラクスムがそう言ってゆっくりと跪くと、池の真ん中に聳える樹木の陰から、低音ながら澄みわたる声が発した。
「うむ――――ご苦労」
「では・・・」
 ラクスムは池に向かって敬礼し、アルファたちに軽く会釈を送ると、ゆっくりときびすを返し、去っていった。
 そして間もなく、樹木の陰から、高身長の人影がゆっくりと姿を現した。その瞬間、アルファたちは思わず息を呑んだ。
「ようこそ、我が大華王国へ・・・」
 微笑みながら恭々と頭を下げるその青年の華麗で偉容をたたえた姿に、サファは目を奪われて動きが止まり、特にシュリスはその身体に電撃を食らったかのような衝撃が走ったのを瞬時に感じた。
 さらりとした見事なまでの銀髪、すっと細く通った眉、凹凸がない、形の良い鼻梁、引き締まった唇は白いが、不健康な感じではない。強い意志を感じさせるややつり上がった細く空色の瞳。やや華奢のように見える体格だが、白銀の鎖帷子を纏った上半身は、歴戦の勇士のように形よく筋肉が盛り上がり、その上からもくぼみがわかる。ゆうにアルファの胸の下あたりまではあろうかと思われるほどの長い脚も白銀の甲冑が当てられ、完全武装したその容姿は、まさしく戦記に綴る『伝説の英雄』を目の当たりにしているようであった。
 彼ぞ誰なん大華の民が聖君主と謳い敬う、大華王国第四代国王・アンセルム=ディアレルその人であった。

 アンセルム国王は池の側にあるテーブルにアルファたちを導き、椅子を勧める。そしてアルファたちの着席を確認してから、彼はゆっくりとした口調で口を開いた。
「私が国主のアンセルム=ディアレルです。民間人に代わり、歓迎します」
 聞く者が陶酔しそうな、甘い声色で聖君主は微笑みながらそう名乗った。
 アルファたちは妙に緊張しながらも名乗る。
「はははは。そんなに固くならなくてもいい。・・・そうですね・・・ならば・・・」
 アンセルム王は微笑みながら軽く二,三度手を打った。すると、メイドらしき女性が三人ほど、ティーカップとポットを運んできた。
「覇王樹から採取した特製の茶です。まずはこれを飲みながらお話を伺いましょう」
 アルファたちは勧められるままに陶磁器のカップを手に取り、口に運んだ。
 覇王樹の抽出茶は精神の安定をはかる特効を備えているという。二、三度喉を越すと、自然と脈拍が落ち着きを取り戻してきた。
「どうやら、巡検使殿はこの大陸の人間ではありませんね。・・・言葉の訛りが違うので、すぐにわかりましたよ」
 アンセルム王がそう言って微笑む。
 アルファたちは聖君主の声、そしてややはにかんだ感じの仕草に思わず引き入れられそうになった。
 特にシュリスやサファら女性たちはまるで一目惚れでもしたかのように、視線は彼を捉えて離さない。
 ファルシスはそんなアルファたちの視線を感じながらも、照れるでもなく、慣れた感じで言葉をつづけた。
「アンナ姫拉致事件の話は聞いています。姫を救ったのは、三人の異国の若い旅人とか――――」
「は、はい――――恐れ入ります――――」
 アルファが半ば慌てて頭を下げる。
「それにしても、ファルシスも迂闊なことです――――。この時勢になおも平和などと言うきれい事を通そうとしている。だから足下を掬われたのだ」
 アンセルムのやや嘲りがまじった言葉に、アルファは思わず彼を凝視する。
「これは失礼を。ファルシスとは旧知の仲ゆえ、つい口が滑ってしまった。・・・しかし、あの男の理想は、本当に理想にしか過ぎない。あのような考えで、この難局をどう乗り切るつもりなのだろうか――――」
 そう言い終えて茶を飲み干し、カップを置いてから小さく息をもらすアンセルム王。
「理想と現実は昼夜の如くだ。魔神召喚などと言う大それた事を企む国があると聞く・・・。私は、そのような愚かな企みを阻止するべく、戦争は辞さない。平和な世を築くためには、ある程度の流血は避けられぬ事だ」
 彼のもの憂いげな表情は男から見てもドキッとするくらいである。アルファたちは用件も忘れて、聖君主の言葉に魅入っていた。
「おお、私ばかり喋ってしまったようですね、失礼。――――それで、私にどう言ったご用件で来訪されたのでしょうか」
 その問いかけに眠りから覚めたようにはっと我に返るアルファたち。シュリスもサファも、顔を真っ赤にして俯いてしまう。
(シュリス、お前から言うか?)
 カムルの囁きに小さく首を横に振るシュリス。
 カムルはアルファに目合図を送り、アルファはそれを確認して小さく頷くと、アンセルム王に向き直り、口を開いた。
「アンセルム王陛下、実は――――」
 アルファは塔岷関が奇岩にて封鎖されて、東シュリアに行くことが出来ないこと、それにアンナを拉致し、歴史書を奪った盗賊団総領ジェルキンのことなどを話した。
 アンセルム王は冷静にアルファの話を聞き終え、むうと唸った。
「そうか――――。実は以前、私のもとにも多勢中将殿から書簡が届いてそのことは知っています。沙立関の守衛に事実確認をさせたが、報告ではその様な事はなかった。・・・うーん、どう言うことなのか」
 どうやら大華から通じる沙立関は塞がれていないと言う事らしい。
 アルファは心なしか安堵したが、塔岷関で守衛長宛てに届いた夏河守護・多勢頼輝という人物の書状と食い違うところがあったのが、多少気になった。
 だが、用語漏れや書き損じという程度なのだろうと、アルファは自己納得した。
「ファルシスもよもや一国の大臣が盗賊の首領などと言うことは思いもよらなかったのだろう。・・・わかった。もしもジェルキンが魔神召喚に関わりあるというのならば、我ら大華王国としても出来うる限りのことはさせていただきます」
 アンセルム王はアルファの用件を快諾してくれた。しかし、すぐにため息が漏れる。
「・・・全く、レアも大変なことだ」
「は?」
 アンセルム王の呟きに思わず声を発するアルファ。
「ああ、すまない。東シュリアの女王のことを思っていたのだ」
「え・・・? 東シュリア・・・女王・・・?」
「はははは。そうか。あなた方はご存知ないのか。――――東シュリア、聖都ラシンヴァニアを治める国王は、レアという女王なのだ」
 アルファたちは感嘆の声を上げた。
 知らなかった。レシュカリアにたどり着いて、宿の主人ベクテルから聞いた話に、東シュリアの女王の話などなかったからだ。
「レアは美しく、気丈でとても健気でね。・・・恥ずかしながら、私とファルシスは恋敵でもあるのだよ」
 はにかみながら語る聖君主。
「しかしなあ・・・幾たびとなくレアに求婚を申し立てても彼女は断りつづけている。ファルシスも多分そうだろう。巡検使殿、もしかすると、ファルシスから手紙を預かっていないか」
「え・・・は、はい」
 アルファが驚いて肯定すると、アンセルム王は高らかに笑った。
「ファルシスも相変わらず懲りないなあ。まあ、私も人のことは言えないが」
 ファルシス王にしろアンセルム王にしろ、随分と変わった国王だなあと、アルファたちは心の中でそう思っていた。
 人は見かけによらないとは言うが、外見は別として、アンセルム自身に惹かれていきそうな気がして、アルファたちは妙な気持ちになっていた。