第2部 五関の奇岩

第8章
「愛する」心
 東シュリアの女王レアを巡るラリツィナ王ファルシスとの駆け引き話に、シュリスは思いだしたかのように顔を上げて、手を打ちならした。その大きな音に驚愕するアルファたち。
「ば、ばかやろうっ! び、ビックリさせんなっ」
 カムルがシュリスの後頭部を軽く叩く。
「イタイわねっ! 何すんのよ」
 完全に我に返り、反撃するシュリス。
「おいおい、いきなり大きな音たてるなってばシュリス・・・」
 アルファが額から汗をにじませて嘆息する。サファとジンキスは茫然とした表情でシュリスを見つめている。
「はははは・・・・・・いかがなされました? お嬢さん」
 聖君主アンセルムはあまり驚いた様子を見せずに微笑みながらシュリスを見ていた。
 彼女はコホンと軽い咳払いをしてから身を正してアンセルム王に向き直る。
「へ・・・陛下っ! ・・・その・・・あの・・・」
「?」
 いざ言葉を発しようとするが、顔が真っ赤になって上手く言葉に出来ないシュリス。
「え・・・っと・・・だから・・・その・・・んーと・・・」
 じっとシュリスの言葉に耳を傾けていたアルファとカムルであったが、次第にこめかみに青筋が浮き立ってくる。
「――――その・・・さ、砂漠の・・・・・・」
「ええいっ! シュリスッ、わかった。俺から言ってやる」
 カムルが息を荒くしてシュリスの眼前に腕を突き出す。
 愕然となるシュリス。彼女に反抗の声発する間を与えず、カムルがアンセルム王に向き直り、毅然とした口調で言った。
「王様。俺は口が悪い人間だから、気を悪くしたら謝ります」
「ああ、かまわないが」
「王様、この人たちを見てくれ」
 カムルがしんとしているジンキス・サファ父娘を指さすと、父娘はびくっとしたように肩をすぼめて頭を垂れる。
「これは・・・我が国の民ですね」
「俺たちは、ある街でこの父娘に出逢った。・・・っていうか、彼女・・・サファさんが、親父さんと口論しているのを見かけて、俺はてっきり神隠しが女の子を無理矢理連れ去ろうとしているのだって勘違いして割り込んだ。・・・それが俺の思いこみだったことは別として、事情を聞いて正直驚いているんだ」
「驚きとは・・・?」
「決まっている。砂漠の掟って奴にさ」
「砂漠の掟・・・・・・?」
 アンセルム王はカムルの言葉に一瞬怪訝そうな表情をして、言葉を詰まらせた。
「『女の子が好きな人とは結婚できない』。それに、『他の男と一夜を過ごさなければ結婚できない』って、そんな馬鹿な話があるかって」
「・・・・・・」
 アンセルム王は真顔でカムルを見ている。
「そんな非常識な掟のせいで、彼女は辛い目に遭っているんだ。即刻、そんな掟など廃止にしてしまった方がいい。そして、みんな自由にさせてあげてくれっ」
 カムルの強い言葉が終わると、場は一瞬静寂に包まれる。
「こんな感じでいいのかい? シュリス」
 いつものカムルらしさをにじませた口調で、シュリスに振る。振られたシュリス、かなり困惑したように顔を真っ赤にした。
 そして、わずかな沈黙の後アンセルム王は小さく笑い出し、徐々にその声が大きくなっていった。
「何かと思えば、その様な話か」
 事も無げに笑顔で語るアンセルム王に、呆気に取られるカムルとシュリス。だが、アルファだけは多少むっとした。
「陛下、お言葉ではございますが、これは笑い事ではすまされない問題ではないかと思います」
「ほう。と、言うと?」
「砂漠の掟など、一人の少女の将来や心を無視した、ひどいものです。サファさんはその掟が枷となり、今までずっと悩まされつづけてきました。そのような、非道な掟のために・・・」
 アルファの言葉に、ジンキスとサファはやり切れないように項垂れた。
「・・・確かに、婚礼前の女性が一夜の伽を成すことは常道だが、それが掟だったとは・・・知らなかったな」
 思いのよらないアンセルム王の言葉だった。
 掟だとは知らなかったとはどう言うことなのだろう。砂漠の民族の頂点に君臨する、大華王国の国主が、掟を知らないなどと、言い逃れにしてはあまりにも見え透いている。子供にも劣る言い訳だ。
「私はそれが常識だと思っていた。掟などと言うものであったとは、今初めて聞きました」
 どうやらとぼけている感じではない。アンセルム王の真剣そうな困惑色の眼差しと口調に、それはわかった。
「ならば陛下は、民族の掟というものは知らないと・・・言われるのですか」
「それが常識だと思っていたのでね、別に気にもしていなかった。しかしそれが『掟』などと、そのような堅苦しいものだったのか」
 国王からして掟の存在を知らないなど言う話はあり得ないと思っていた。
 確かに、アンセルム王の言葉は、ジンキス父娘が言った『民族の掟』というものに違いはない。しかし、どうやら今の民族たちの意識には『掟』というよりも、それ自体が常識として民族一人一人に定着してしまったらしい。『掟』が掟でなくなっていたのだ。
 途方もないくらいの歳月をかけて、アルファたちからすれば全く常識外れな『掟』が、この砂漠の民の当たり前な道徳になっていったのだ。
「廃止にするにしろしないにしろ、我々にとっては三食摂るように当たり前のことですからね」
 アンセルム王は微笑んではいたが、それが苦笑であることは誰の目から見てもわかる。
「君たちの言いたいことはわかるような気がする。しかし、そればかりは民ら一人一人の意識問題。私が仮に意識を改め、常識を覆しても、民らは従わないだろう。何と言っても、それが我らにとって普通のことですからね」
 アンセルム王の言葉にアルファたちは返す言葉を見つけることが出来なかった。
 そう、彼らにとって当たり前の常識に、部外者がそれはおかしいなどと口を挟むことは愚の骨頂と言うものである。サファの行動は、アルファたちの世界の常識に言い換えれば、『婚礼前夜に他の男と寝る』というくらい、倫理に外れた行動なのである。
 砂漠の民族と人、それぞれの『常識』は全く正反対の価値観なのである。そうと知った以上、サファをアルファたちの常識の範疇で庇えば、サファは砂漠の民としての道を踏み外してしまうことになる。
「アルファさんっ・・・カムルさんっ・・・シュリスさん・・・・・・ごめんなさい」
 サファが耐えきれずに悲痛な声を上げた。
「私が・・・馬鹿なばかりに・・・余計な気を遣わせてしまって・・・」
 アルファたち、特にカムルは思いつめたかのような眼差しで、サファの曇る横顔を見ていた。
「お父さん・・・私――――」
 寂しそうな微笑みを父に向けて、サファは小さな声で言った。
 だが、その後の言葉が出てこない。何か口ごもっているように見えたが、言葉が聞き取れない。
 アルファたちも、彼女の父ジンキスも聞き返すことは出来なかった。
 やがて、何か吹っ切れたかのように、ぱっと明るい笑顔を見せ、サファはアンセルム王を真っ直ぐに見つめた。
「陛下――――私、父のすすめで結婚することになりました。どうか、よろしくお願いします」
 そんな彼女の様子に、カムルは思わず声を上げそうになったが、一瞬早くアルファが手のひらでカムルの口を塞いでいた。
(彼女自身が出した答えなんだ。もう、俺たちには何も言えないよ)
 アルファはカムルにそう囁いた。
「サファ――――と言いましたね。何やら気が進まないようだが、あなたはそれでいいのかな?」
 アンセルム王は心もち潤んでいるサファを優しく見つめながら問うた。
「はい・・・・・・」
 小さいが、意を決した返事を返すサファ。
「御父殿は、良いのかな?」
「畏れおおございます・・・」
 ジンキスは俯きながら深々と拝礼した。
 アンセルム王はしばらくの間アルファやジンキス父娘を交互に見回してから、言った。
「解りました。ならばサファは今宵、預からせていただきます。御父殿は明日、改めて登城していただきます。よろしいですか」
 父娘は無言で拝礼する。
「巡検使殿、君たちはいいかい?」
 カムルにとっては非常に残酷なアンセルム王の振りだった。いいとも、悪いとも言えない。答えの出せない問いだった。
「サファさんがそう、言うのであれば・・・僕たちは何も・・・」
 アルファが力無く、そう答えると、アンセルム王はゆっくりと頷いた。その時
「陛下っ!」
 遠くから声が響く。振り向くと、ラクスムが半ば焦燥の面もちで扉の前に立っていた。
「おお、そうであった。すっかり忘れていた。巡検使殿、詳しい話は明日また伺おう。サファは後院に行き、疲れを癒して待っていてくれ。後ほど行く。では、失礼」
 アンセルム王は恭々と胸に手を合わせて頭を垂れると、素早い動きで中庭を去っていった。
「・・・・・・」
 残されたアルファたちとジンキス父娘。釈然としない雰囲気を漂わせかけていたが、サファは無言で立ち上がると、アルファたちに一つ深々と頭を下げると、逃げるように階段に向かって小走りに去っていった。
「いろいろとありがとう。お礼を言います」
 ジンキスは一つ一つの言葉を噛みしめるように言うと、アルファたちに拝礼し、どこか哀愁を漂わせるように中庭を去っていった。
 残されたアルファ・シュリス・カムルの三人の間に、実に重苦しい雰囲気が立ちこめる。
 結局、一人の女性の苦悩を解決できなかったという悔しさと、自分たちの無力さを恨んだ。
 理想に燃え、夢のレシュカリアにたどり着いたアルファたちにとって、その地の現実はあまりにも理想とはかけ離れていた。いつも陽気だったカムルも、さすがに落ち込んでいた。
「・・・行こう。今日はもう何もしたくねえ」
 そう落胆するカムルの心情を、アルファとシュリスは痛いほど解っていた。

 時折、涼しい夜風が吹き抜けて、アルバートル城後院の寝室に灯る角灯の火を揺らす。
 サファは女官によって湯浴みを受け、髪を梳かれ、純白のシルクのガウンを着せられた。元々精霊のような白さを持つ彼女の身体がより一段と輝いて映える。
 籐椅子に一人彼女は座り、聖君主アンセルムの来訪を待っていた。緊張と不安で、小さなか細い肩が小刻みに震えている。やや青ざめた顔が痛々しくさえ思う。
「国王陛下のお越しです――――」
 不意な女官の声にびくりとするサファ。
 怯えに潤んだ瞳が、白く塗られた扉の方に向けられる。間もなく、扉がゆっくりと開き、サファと同じ純白のシルクのガウンを纏ったアンセルム王がゆっくりとサファの前に姿を現した。優しそうな微笑みが、かえってサファの緊張を増長させ、身体を強張らせる。
 アンセルム王はそんな彼女の様子を見てふっと笑うと、彼女が座っている籐椅子に近づく。アンセルム王の足が一歩前に進むたびに、彼女の心拍数が上がって行く。
 俯く彼女の視界にアンセルム王のつま先が映った瞬間に、きつく瞼を閉じて貝殻のように身体をすぼめる。
 しかし、アンセルム王は彼女に触れるどころか、立ち止まりもせず、籐椅子を横切ったのである。
 足音が後ろに通り過ぎ、サファは不思議な感覚にとらわれ、おそるおそる瞳を開いた。左右に視線を移しても、アンセルム王の姿はない。
 かちゃ・・・かちゃ・・・。ガラスのような音が背後から発し、サファはきょとんとしながら振り返る。
すると、アンセルム王はワイングラスを二つ、テーブルの上に置いて、薄緑色の液体が入ったガラスの水差しを持ち、二つのグラスにそれを丁寧に注いでいた。
「シネマの果実酒です。あなたもどうですか――――?」
 にこりと微笑みながら、アンセルム王はサファにグラスを差し出す。
 思いもよらない事に、サファは激しく動揺したが、アンセルム王が再び聞き返すと、小刻みに震える手でグラスを受け取った。
「心が落ち着きますよ」
 アンセルム王はそう言って微笑み、一口ワインを含んだ。
 サファはシネマ沃地に栽培されている薄緑色の果実酒をじっと見つめながら、思考が交錯する。
(これを飲んだ後に、抱かれるんだわ――――)
 だが、アンセルム王はグラスを片手に、サファの座る籐椅子に近づこうとはせず、大窓の方に足を進めた。そして、レースのカーテンを指で払い、窓を開ける。ひやりとした心地よい風が、緊張で暑くなった寝室の空気を新鮮にしてくれる。
「寒いですか――――」
 アンセルム王の声が、サファのやや混乱した思考を立て直す。
「いいえ――――すごく気持ちがいいです――――」
「そうですか。それはよかった」
 吹き込む新鮮な空気を吸うたび、緊張が意外なほどほぐれて行くことに、サファ自身驚いていた。
 それからその場に沈黙が訪れた。互いに言葉を発するでもなく、微風が鼓膜を揺らす音だけが響く。
 サファはそっとアンセルム王の姿を追った。
 アンセルム王は窓の前に立ち、じっと空を見つめている。窓を開けたときから、アンセルム王は身を動かしてはいなかった。
 角灯の淡い光にも美しく輝きを放つ銀色の髪が、吹き抜ける微風に小さく揺れている。その背中は偉容さを彷彿とさせ、さすがに聖君主と呼ばれるほどの器量をうかがえる。
 いつからか、サファは身体ごとアンセルム王に向けていた。
 決してアンセルム王に心身とも解放しようと言うわけではない。もしもアンセルム王が突然身を翻して自分を押し倒そうとしたならば、死を覚悟で突き飛ばすか、逃走を図るつもりでいた。
 だが、アンセルム王は一瞥振り返ることもなく、ただじっと空を見上げている。時折右手が動くが、果実酒を口に運んでいるのだろう。
 言葉を発しないのは、サファに対する、いや、今まで婚前の女性と一夜を共にした時の常套事務的手段なのかどうかはわからないが、この雰囲気を体感すると、サファ自身、城下の女性たちがアンセルム王に惹かれて行く心境が、少しわかるような気がした。
「ここから見る星は、美しい・・・」
 ようやく、アンセルム王は言葉を発した。空を見上げながら、独り言のように。サファははっとしてアンセルム王を見直す。
「我が国も、まだまだ捨てたものでもない」
 アンセルム王はそう呟いて軽く背伸びをした。
「サファ。あなたはあの少年の言葉をどう考えているのですか?」
 振り返らず、空を見上げながらアンセルム王は質問を投げかける。
「えっ・・・・・・あの・・・・・・」
 不意な訊ねにサファは大いに戸惑ったが、少し考えてから答えた。
「私は・・・大華の民として、間違っていました。アルファさんたちの言われたことは、私たちの常識では考えられません・・・」
 すると、アンセルム王は肩を震わせて突然、笑い出した。
 愕然とするサファ。笑いがおさまると、アンセルム王はようやく振り返り、サファを見つめた。
「いや、失礼。しかし・・・自分に嘘をついてはいけませんね」
「えっ・・・?」
「サファ。正直に言いなさい。あなたは、あのアルファという少年がお好きなのでは、ありませんか?」
 その言葉に大慌てで首を横に振るサファ。
「ちがいますっ!」
 語気強く反論する。
「ははは・・・ならばカムルという青年かな?」
「そ・・・それは・・・違います・・・」
 今度は大きく動揺する。
 アンセルム王は屈託のない笑みを浮かべると、空になったグラスに果実酒を注ぎながら、穏やかな口調で語った。
「私は、あの少年たちが言っていたことは、必ずしも間違っているとは思わない。むしろ、それこそが正しいのではないのかとさえ思う」
 その言葉に愕然となるサファ。
「はははは。私は大華の民族として非常識な事を言っているね。私の思いは、我々にとって大いなるタブーなのかも知れない。いや、タブーだ」
 アンセルム王はグラスを軽く揺らしながらはにかんでいた。
「今、実は私も君と同じ心境にあるんですよ」
「?」
 同じ心境という言葉に、サファはどう言うことなのか、寸分も見当がつかない。怪訝な表情でアンセルム王を見つめている。
「日中、私は自分とファルシスが恋敵であるだろうと言いましたね」
「はい・・・」
「私はレアが好きだ。ファルシスも同じ気持ちであることは言うまでもない。レアに恋する者同士、互いにライバルであることは、君にもわかるね」
「はい・・・」
「しかし・・・私はレアと結婚することは出来ない。民族の常識では好きな者とは結婚できないからだ」
「・・・・・・」
 サファが哀しそうに瞳を伏せる。
「だから、私とファルシスがいくらライバルとはいえ、私は必然的にレアを妻にすることは出来ない。勝負は、最初からファルシスの勝ちに決まっていた・・・」
 アンセルム王はグラスを一気に呷ると、ふうと一つため息をついて、空のグラスを置く。
「だが・・・私の心の中で、奇妙な思いが芽生え始めていることに気がついた。・・・それが、我々にとって決して抱いてはならない、背徳の情。つまり――――レアを妻に迎えたい、レアと一緒になりたいということだった・・・・・・」
 サファは愕然となった。
 目を見開いて思わずアンセルム王を凝視する。アンセルム王は口許にやや卑屈な笑みを浮かべている。だが、決して理性を失したようでもない。それどころか、その瞳は毅然として、偉容溢れた、聖君主たる輝きを放っている。
「私は悩んだ。禁断の情と、理性の狭間に葛藤する日々がつづいた。私が信頼する家臣たちにも相談できず、私は国事に携わることもできないくらい、混迷の中にあった。・・・だが、ある時にファルシスから隠密に話がしたいという知らせが届いた。外交に関する話であることは判っていたが、私はこの心情を思い切って人間であるファルシスに相談してみることにした」
 サファはいつしか、食い入るようにアンセルム王の話に引き込まれている。

 ――――国事の話が終わり、私がその事を話すと、ファルシスは事も無げに笑い飛ばした。
『そんなくだらないことで悩んでいたのか』と・・・。
 ファルシスの言葉を聞いたときは、本気で怒りを覚えた。だが、ファルシスはその言葉の後、私に言った。
『アンセルム、お前はレアを愛しているのか、いないのか』――――と。

「アイシテル・・・?」
 サファは聞き慣れない言葉に首を小さく傾げ、繰り返して呟いた。

 ――――私はファルシスの言葉が最初理解できなかった。『愛してる』って、どういう意味なのか――――。
 私は訊いた。すると、ファルシスはまた笑った。そして、いとも簡単にこう言った――――。
『お前の、今の気持ちの事だよ』、と・・・。

 サファはアンセルム王の話が釈然と捉えることが出来なかった。
 と言うよりも、『愛』という言葉の意味が全く、理解できないでいた。

 ――――私は言葉を返すことが出来なかった。ファルシスは最後にこうも言っていた。
『私にも愛という意味がまだよく判らない。多分、愛にはいろいろな意味や形があると思う。だが、お前の今の気持ちは紛れもない愛の意味の一つだと思う。好きな者とは結婚できないというならば、愛する者と結婚すればいい。簡単な事じゃないか』
 ・・・私は、ファルシスの言葉の後から、何か不思議な感情が芽生えてくるのを感じた。何か新鮮な、暗闇にこう、光が射し込むような、そんな感覚がした。

「アイスル者と結婚する・・・」
 サファは繰り返して呟いた。
 そうすることによって、その言葉の意味が自然とわかってくるような、そんな気がした。
「ファルシスとの話の後から、私はレアと結婚したいという感情に、抵抗を抱かなくなっていった。自分を殺して、レアを諦めることなんかない・・・と。私はファルシスと正々堂々戦い、必ずレアを妻に迎えると、自分にそう言い聞かせ、誓うことが出来たのだ。『愛する』レアを、必ず・・・」

 アンセルム王の話は終わった。サファは心の片隅にたちこもる漠然たる靄が、次第に晴れて行くような心地よさを感じずにはいられなかった。
 そして、脳裏にあの青年の笑顔が浮かぶ。
 彼に対する感情が、ずっと『好き』であると思っていた。が、アンセルム王の話に当てはめて考えると、それは『愛』という感情なのではないかと、その思いが強く、心を支配していった。
 茫然としているサファの目の前に、突然アンセルムの美しい容貌が映った。驚愕して我に返るサファ。
「サファ。あなたはどうなのです?『好き』という感情と、『愛』という感情。その人に対する思いは、あなた自身がよくわかるはずです」
 サファはその訊ねに、もう一度自分に問いただすようにゆっくりと瞼を閉じて、首を前に傾ける。
 そう、フォルティアの街で見ず知らずの自分を助け出そうとしてくれたやや調子のよさそうな感じの青年。だが、勘違いとはいえ、純粋に自分を助け出そうとしてくれた青年。
 そのどこか無邪気な瞳に、一目で惹かれていった。
 最初は、本当に好きだという感情だったのかも知れない。だが、アルバートルまでの短い旅の間で関わった、彼の自分に対する対応。決して面白いとは言えない駄洒落を連発するなど、どこか不器用だが、不思議と優しかった。
 魔物と遭遇し、窮地に陥ったとき、サファは彼を助けようとして火中に飛び込んだ。だが、彼は却って自分を必死に守り抜いてくれた。
 いつからか、彼に対する『好き』という感情に変化が生じたのを、サファはわかっていた。
 先夜、彼の寝室に忍び、抱擁を求めたのは、ただの儀式的な感覚ではないと言うことを、サファは重々わかっていた。
 愛という言葉を知らなかったがゆえに、ただ好きという言葉だけにとらわれて自分を偽っていたのかも知れない。
 彼は抱擁を拒んだ。彼は「自棄になるな」と言った。あの時は否定したが、今思えば確かに自棄になっていた。葛藤に苦悩し、彼の事を考えずに、闇雲に抱かれようとしていた。
 彼は心身共に清潔だった。『嫁ぐとき、男の伽を経て成す』という掟を心底嫌っている彼に、自分を抱くことなど出来るはずはなかった。
 愚挙だ。私は彼を傷つけた。そんな思いが、サファの心に痛く突き刺さる。
 そして、その傷みの後、サファは確信した。

 私は――――カムルさんを――――アイシテイル・・・・・・

 ぎこちないが、はっきりとした口調で、サファは言った。
 アンセルム王は安堵したように小さなため息をつくと、微笑んだ。
「好きな人と結婚できないと言うのならば、愛する人と結婚すればいい。そう思えば、悩むこともないですよね」
 先ほどまで打ち沈んでいたサファの表情がにわかに明るくなった。
 戸惑いが消えた訳じゃない。むしろ、一度も聞いたことがない『愛』という感情がどういうものなのかは自分自身よくわからないが、少なくても、カムルに対して抱く感情は、好きを通り越した特別の思いであることに違いはない。
 サファは、その思いこそが『愛』であることを、自分なりに解釈した。そして、今更ながら、自分が今置かれている状況に対して、恐怖というものをだいぶ払拭することが出来た。
「陛下・・・・・・でも、私は今夜・・・」
 一抹の不安はあった。自分は王に抱かれるのだ。愛する者と結婚できようとも、男の伽を経なければ、それは叶わない。
 だが、そんな心配は杞憂に終わった。アンセルム王は今度は天を仰いで大笑する。
「女性は、好きな人に抱かれ、愛する人と結婚するべきです。サファ、あなたはカムルという青年が好きで、カムルという青年を愛しているのです。どこに、私の入る余地がありますか」
「えっ・・・!」
「私の代になってから、私は常識に倣い、婚前の女性と一夜は共にするが、契りは結んだことはない。それどころか、身体に指一本、触れたことはないのですよ」
「そ・・・そうだったのですかっ!」
「暗にこの常識を否定する私にとって、好きでも、愛してもいない女性を抱くことなんか、出来るはずがない。私が抱きたいと願うは、レアだけですよ。ははははは」
 やや照れくさそうに笑うアンセルム王。
「まあ、形式的にも婚前の女性を導かねば、非常識と言われるのでね。娘の親たちは一夜の伽をしたという事実だけで満足していると聞く。今の若い娘たちは、ただアンセルム王の寝室に泊まったという事だけで、喜んでいるようだ。おかげで、私は一年の間、自分の寝台で寝るこ日は数えるくらいしかない。困ったものだよ、はははは」
「まあ・・・・・・」
 サファは感嘆した。
 そして、アンセルム王が聖君主と賛美されるもう一つの意味が、こういうところにあるのではないだろうかと、思った。
「さあ、ともかく朝までゆっくりと休みなさい。そして、その想いは必ずあの青年に伝えるのです。あなた自身、後悔しないように・・・」
「あ・・・ありがとうございます・・・陛下・・・」
 急に目頭の奥から熱いものがこみ上げてきて、声がひきついた。
 その涙が、アンセルム王に対する感謝の念から来るものなのか、それともカムルに対して気兼ねなく思いを告げられると言う、嬉しさから来るものなのか。それとも、未だ心に残る漠然たる不安がこみ上げてくるせいなのか。あるいはそれら全てが降りまざってなす涙なのかも知れない。
 アンセルム王はなおも優しくサファに微笑みを送ると、奥の扉の向こうにある別の寝室へと消えていった。
 サファはその夜、なぜか気分が高ぶって容易に寝付くことが出来なかった。