第2部 五関の奇岩

第10章
アドラの守護蜥蜴
 大華の国主アンセルムから示された、砂漠の守護神体が祀られているというアドラの古塔は、首都アルバートルから二〇〇ルーレル西に下ったところにあるという。
 ジンキス・サファ父娘と別れ、再び三人の旅に戻ったアルファたちにとって、今更ながら土地勘のない者ばかりで砂漠旅を続けると言うことが、いかに過酷なものなのかと言うことを、つくづく思い知らされる羽目になった。
「考えてみれば、大華に入る前からジンキスさんとサファが一緒だっらからなあ。そんなに苦労はしなかったと思うけど・・・」
 アルファが口に入り込む砂を吐き出しながらそう呟く。
 実はアルバートル城を出立し、30ルーレルほど西進したと思われる頃から、急に強い南風が吹き荒ぶようになってきたのである。
 砂漠のような草木も生えぬ地では、自然の息吹というものが抑えられることなく感じられるのだ。むしろ、アルバートルのように、強い風というものがあまり吹き荒ばないことの方が珍しいとも言えるのだ。
 ナンセットから南星関までの殺風景とは次元が違う、まさに死の黄土色風景。三人が互いに少しばかり目を離すと、すぐにはぐれてしまいそうだ。
 風が強くなってきたときから、極力手をつないで行こうというアルファの提言は正解だった。
 異国人にとって、こんな不慣れな状況でも魔物というものは容赦なく襲ってくるものである。
 彼らにとって、獲物となる者たちに、初心者も熟練者もない。
 魔物の容赦ない攻撃に、アルファたちは大いに苦しめられた。ここまでの間に数多くの戦闘経験があるおかげで、何とか窮地を切り抜けることが出来たが、少しでも経験不足で来たものでからは、確実に砂漠の塵と化していたことだろう。そう思うと、三人はゾッとした。
 打ちつける黄砂に苛まれながらも、道なき道に立てられている古ぼけた道標をたどり、約一週間かけ進むと、ようやく地平にかすみ見える楼閣を発見した。
「あれがアドラ塔ね・・・」
 この数日来、まともに喋っていなかったシュリスがようやく声を発すると、アルファとカムルもほっとしたように息をつく。
 それでも、そびえ立つ古塔の入り口に到達するには、それから丸一日を要してしまった。
 一際激しい強風と砂塵。
 大華を守護するご神体がもたらす風なのか、体重の軽いシュリスなどひと吹きに飛ばされるかと思う程の突風がアルファたちを襲う。
 シュリスは一度風になぎ倒され、それからは常にカムルにしがみつくようにして歩いている。
 こうまでしなければたどり着けないアドラの塔と呼ばれる遺跡は、アンセルム王が語ったように、観光地どころか、とても常人が近づけるような場所ではない。魔物さえも避けるような場所である。
 聖皇主ミカエル以来の古代歴史建造物と言われるアドラ塔は、意外にも風化が目立っていなかった。
 外見は七,八階はあるであろうか。塔の天辺は砂塵にかすんで見えない。もしかしたならば、もっと高いかも知れない。
 だが、今のアルファたちにとって、塔の高さなどどうでもいいことであった。
 古い石の扉を押し開けて中に入ると、今までの強風が嘘のように静まり返る。耳をつく轟音が治まる。
「ちかれた~~~」
 カムルが力つきたように壁に寄りかかり、そのまま座り込む。
 それと同時にシュリスもぺたりと膝を折り、お尻を床につける。
「ふう――――――――」
 最後にアルファも剣を杖代わりにしてその場に座り込んだ。
 薄暗さに目が慣れないうちに、シュリスとカムルは寄り添うようにして、そのまま深い眠りについてしまっていたが、アルファは何故か寝付くことが出来ないでいた。
 そして、脳裏に過ぎる突然な不安があった。
 カムルとサファの一件で忘れ去られたかに思えていた事柄。
 それは、シュリスの不可思議な能力のことである。
 あの戦闘の時に突如放った謎の閃光が、未だアルファの記憶に生々しく残っていた。
 シュリスのまるで子供のような寝顔を見ていると、あのような奇怪な光を放つような、異常な能力の持ち主とは思えない。だが、無意識のうちに彼女を見る目が変わってしまう。
(シュリス――――君はいったい――――)
 そのときだった。
 アルファはシュリスの事を深く考える間もなく、魔物の気配を感じて閉じかけていた瞼をきっと見開く。
 素早い身のこなしで立ち上がり、剣の柄に手を伸ばす。
 カムルとシュリスはよほど疲れているのだろうか、魔物の気配を感じるどころか、アルファが立てた金属音にさえも反応なく、死んだように眠っている。
 暗闇に慣れたアルファの眼が180度何度も左右に動く。時々背後を振り返ったりもする。魔物の姿が見えない。
 どこだ、どこにいる――――。
 アルファは全神経を眼・耳・剣先に集中させて、じっと息を殺した。
「姿を見せろ・・・」
 ぼそりとそう呟くアルファ。
 だが、魔物の気配は杳としてアルファを嘲るように包み込み、アルファを更に苛立たせる。
 すると突然、今までなかった風がアルファの身体を煽るように吹きつけてきた。
「くっ・・・・・・」
 一瞬、怯んだ隙にアルファの身体に強い衝撃が走る。
 そして次の瞬間、アルファは気を失ったかのように意識が朦朧とし、目の前が異常に白く明るくなった。
(カムル・・・シュリス・・・)

 ……………。

 鈍い痛みが頭を走る。
 アルファは自分の呻き声に気がついて目を覚ます。
 身体はうつ伏せに倒れており、手には剣がしっかりと握られていた。
 眼を二、三度しばたたかせて辺りを見回す。真っ暗闇である。風はおさまったのか、再び静寂が包んでいた。
 アルファはゆっくりと立ち上がって目が慣れるのを待った。
 しばらくすると、うっすらと周囲が見えてきた。どうやらアルファが倒れていたのは通路のようである。
「カムルッ、シュリスッ!」
 思わず叫んでみたが、返事はなく、アルファの声は通路の奥へと消えてゆく。返事どころか、二人の姿さえ見えない。
「な、何なんだ・・・」
 アルファは一体何が起こったのか解らなかった。
 ただひとつ言えることは、今自分がいる場所が、塔の入口ではないということである。
「参ったなあ・・・どこだよ、ここは」
 剣を鞘にしまい込み、アルファは頭を掻きながら取りあえず通路を前に進む。
 つきあたりから左右に分かれる通路。アルファは迷い抜いた末に左へと足を向ける。ここに来てまさかローアン時代からの趣味だった占い術が役に立つかどうかはわからないが、当てずっぽうで進んでいるわけではない。
 どれくらいの分岐点を右へ左へと曲がっただろうか。
 ある程度進んだところで、アルファは通路の突き当たりの左奥の方から淡い光が射していることに気がついた。
「誰かいるのかな・・・?」
 アルファは迷うことなくその光の方へと足を速めた。
 通路を左に回ると、その淡い明かりは蝋燭のようなものであった。
 人の気配さえまるで感じられない、言い換えれば廃墟のようなこの塔の中に、蝋燭が灯っている。それだけで不思議だと思うのは当然のことであろう。
 アルファは怪訝そうな表情で、右手は剣の柄に当てながら、歩幅を緩めて進んだ。
 手が届きそうもないほど石壁の高いところに据え付けられている蝋燭の灯りは、爛々としてはるか奥まで照らしている。
 アルファは歩くたびに不思議な感覚にとらわれ始めていた。この場所に来るべくして来たのではないかという思いが、心の奥に無意識のうちに発生していた。
 やがて、アルファの前に鉄製の扉が現れた。
 見るからに頑丈そうで、とてもアルファ一人では開けられそうにもない。
「・・・・・・」
 別にそうしようと思ったわけではなかったが、アルファはそっと右手を剣の柄から外して扉に手のひらを当ててみた。するとどうだろう。

 ギギギギギ…………

 独特の重く、鈍い軋音が響きわたり、扉はゆっくりと開いていったのだ。
 いとも簡単にこの強固な鉄扉が開かれたことに、アルファは拍子抜けたようにぽかんと口を開けた。しかし、茫然とする暇はアルファには与えられなかった。
 扉の隙間から、今度は蒼い光がアルファを照らし始めてきたのである。
 鉄扉は全開し、軋音は止まった。アルファが吸い込まれるように蒼い空間に足を踏み入れる。すると、再び鉄扉は音を立てて閉ざし始めた。
「あっ・・・」
 逃げ出そうかと思ったが、何故か足が動かなかった。いや、動かないと言うか、逃げ出そうという気持ちにならなかったと言った方が正解かも知れない。
 扉が完全に塞がれると、そこは蒼色の空間だった。
 神秘的だと言えば聞こえがいいのだが、どこか不気味さが残る雰囲気がある。
 アルファは一度辺りを見回してから声を発した。
「誰か、いるんですか?」
 声がうるさいほど反響する。それが、この空間の大きさを象徴する。返事はない。
「誰かいたら返事して下さい」
 だが、アルファの声は虚しく響きわたるだけだった。
 ふう――――と、長いため息を漏らすアルファ。
 このままだと、この広い空間に閉じこめられている状況だったが、なぜか焦りは生じない。むしろ余裕をもってこの空間を探索しようと言う気に駆られていた。
 空間の壁は幾何学紋様が描かれ、アルファにとってはその意味など理解のしようもない。
 それよりも目に入ったのは、やはり中央にある壇であった。何も置かれていない、台形型の壇。アルファはおもむろに十段ほどの階を登り、壇の中央に立った。
「?」
 その瞬間、アルファは何かを感じた。再び、あの気配が自分を覆いつくして行くような、恐ろしい感覚。
(やっぱり・・・誰かいるのか)
 今度はじっと息を呑んで、辺りを見回した。
 ある意味で殺伐とした、この壇以外は何もない空間。壇上に立つアルファの気を震わせる、見えない魔物の気配。
 その時だった。
 突然、空間全体が激しく振動し始め、鼓膜を破らんばかりに轟音が発したのである。
 思わず身を伏せ、両手を耳に当てるアルファ。部屋を包む蒼色が揺れ、瞳を閉じていてもはっきりとわかるくらいの閃光が飛び交う。あまりの振動に、壇が崩れてしまうかと思えるほどだったが、幸い今のところは大丈夫のようだ。
 どのくらいの時間、揺れていたのだろう。
 不思議にも揺れによる建造物の破片や瓦礫などは床に散らばっていない。
 あれ程激しく揺れていたのに、なぜなのだろう。よほど耐震構造のしっかりとした塔なのだろうか。

 ――――何者か――――

 静寂が戻りかけていたその空間に、突然、低音のよく透る声が発したのを、アルファは聞き逃さなかった。
「誰か・・・・・・誰かいるのですねっ!お願いです。姿を見せてくれませんか」

 ――――お前は――――

 威圧するような声、身体の芯にまで響きわたる。
「私はローアンから剣の修練のために旅をしている、アルファという者です。大華国王アンセルム様のお導きで、アドラのご神体の事を聞きやって参りました」
 空間に向かってアルファがそう言うと、再びゆっくりと小さな揺れが巻き起こり、アルファの正面に淡く白い光が発生した。
 そして、それは徐々に形を成すようにはっきりと、ひとつの物体を現していった。
「!」
 白い光が物体に形を変えておさまったとき、アルファは愕然となった。
 何と、アルファの目の前に、アルファの身体の十数倍はあるであろう、大きな蜥蜴(とかげ)が、紅い眼差しと紅い舌でアルファをにらみつけるように身を伏せていたのである。
 その皮膚は赤く、色とりどりの斑点があり、異常に気味が悪かった。それは、今まで目の当たりにしたいかなる魔物たちよりも威圧感がある。
 アルファは咄嗟に剣を抜いた。
 その時だった。大蜥蜴の両眼がかっと赤い閃光を発し、口が大きく開き、不気味な唸り声がアルファの身の毛をよだたせた。そして再び地に響くような低い声がした。
「早まるな――――剣をおさめよ――――」
「え――――」
 アルファは愕然となった。
 はっきりと聞こえるその声は、目の前にいる大蜥蜴からのものであったからだ。
 大蜥蜴が言葉を話している。生まれて初めての事にアルファは大いに戸惑った。双眸が宙を彷徨う。短い沈黙の後、大蜥蜴は再び声を放った。
「我はアドラの守護――――エル・サラマンダル――――異国の勇者よ――――よくぞここまでやってきた――――」
 大蜥蜴はじっとアルファをにらみつけたまま微動だにしない。
 アルファは唖然となっていた。この蜥蜴の怪物が、アドラ塔のご神体だというのか。
「怖れることはない――――それよりも、ここに勇者が来るのは何年ぶりだろうか――――そなた――――いかな道標を得、ここレシュカリアに踏み入ったのか――――私に聞かせてはくれぬか――――」
 恐ろしく地に響く低音の声だったが、気がつけばどこか優しく、心を落ち着かせてくれる気がした。
 それがとても不思議に思えてくる。
 アルファはそれ程抵抗なく言葉を話すことができた。
 ローアンで最強の剣士を夢見、熱心に修練に励んでいたこと。剣聖レグテチス大師との出逢い。そして、そのレグテチス大師の薦めによって、故郷を旅立ち、はるか遠洋の地・レシュカリアへとやって来たこと。そして、レシュカリアを覆う、暗雲の噂のことを――――。
「そうか――――そなたは、ドゥートゥルによって選ばれし者なのか――――。アレンを最後に、何人たりとてこのアドラには近づくことはできなかった――――。そなたがここに来たと言うことは――――そなたにはレシュカリアを救わねばならぬ運命を背負っているからなのだ――――」
「選ばれし者――――? 運命? ・・・・・・・・・どう言うことなのですか?」
 アルファは飛躍している守護蜥蜴・サラマンダルの話に困惑していた。
「そなたはこれまでの旅をして、不思議に思っていること、聞きたいことが山ほどあろう」
 アルファは頷いた。
 サラマンダルの言葉通り、アルファにはこのレシュカリアに来てから何もかもが初めての事ばかりで、遭遇した事件や悪しき噂など、事の真意が解らぬまま、いわばこの未知なる大陸を彷徨っていたのだ。
 サラマンダル、アドラのご神体と言われた彼は、アルファが知らないことをすべて知っている。
 聞きたいことなど、喉が痛くなるくらいあった。
「だが――――その前にそなたが真の選ばれし者かどうか、今ここで確かめねばならぬ――――」
「確かめる――――?」
 きょとんとしたアルファをよそに、微動だにしなかったサラマンダルの双眸が閃光を放った。その輝きにアルファは一瞬、目を眩ませる。

 キャア―――――――ス

 剃刀のような甲高い叫喚をあげて、サラマンダルは紅く細長い舌を、その目一杯に開かれた口からアルファ目掛けて振りかざしてきた。横からアルファを薙ぎ払うように舌の鞭は唸りをあげる。
「あっ―――――!」
 間一髪、アルファは身を伏せて舌の攻撃をかわした。
 伏せた瞬間、宙に舞い残った後ろ髪の一部が、舌に触れて切られ、散乱していた。
 驚愕するアルファ。サラマンダルが叱りつけるように言った。
「何を茫然としているのだ。私と戦い、勝たねば、そなたはここで死ぬことになるぞ」
「・・・・・・そ、そんな無茶なっ!」
 だが、問答無用とばかりにサラマンダルの攻撃は間を置かずにアルファを襲う。
 しかし、天性の身軽さが幸いしたのか、アルファはその再攻撃をかわして背後に飛び退けた。
「うわあっ!」
 しかし、不幸にもアルファはそのまま壇上から転落してしまったのである。飛び退けて着地したのは壇の斜面だったのだ。
 どんと鈍い音がした。軽い尻餅をついたのだろう。
 身が軽いことは助かる。反射的に衝撃を和らげる体勢を取っていたのだ。左手で腰をさすりながら小さく呻くアルファ。
 だが、サラマンダルは壇上に姿を現し、アルファに鋭い視線を向けている。
「逃げてばかりでは、何の役にも立たぬぞ――――」
 どこか落ち着き払ったような口調が、かえって迫力を感じさせる。
 アルファはゆっくりと剣を握り直し、身構える。だが、今度は攻撃をしてこない。アルファはようやく戦意を露わにしてサラマンダルの隙を見計らうように息を潜める。

 と――――、サラマンダルの紅い舌がするすると口の中に収まり、ゆっくりと閉じて行く。
 怪訝な眼差しになるアルファ。今が攻撃のチャンスか。そして
「えいやあぁぁぁぁぁぁぁっっっ!」
 剣を振りかざし、喊声をあげ、右脚をバネにして跳躍する。
 腰の鈍い痛みによって跳躍力が落ちているのではないかと思われたが、あれくらいの尻餅など、アルファにとっては何ともないのか、全然落ちてなかった。むしろいつもより気合いが込められて跳躍のスピードが上がっているような感じがした。
 しかし、アルファは完全に甘かった。
 サラマンダルは閉ざした口をもごもごと動かし、その隙間から明るく黄色い光がゆらゆらと揺れていたのだ。そして、アルファがサラマンダルの真正面に足が着いた瞬間、閉ざされた口は一気に全開した。
「―――――!」
 瞬間的にアルファは横に身体をなぎ倒す。しかし、一瞬遅かった。
 サラマンダルの吐いた炎は、アルファの右脚を掠めていたのだ。そして、巨大な火の玉は空間の厚い壁に当たり、轟音を発して四散した。
「うわあああぁぁぁぁ―――――――――――」
 飛び散った炎の一部を喰らい、また右脚も炎に焼かれ、アルファはその激痛に悲鳴を上げてのたうちまわる。
 しかし、容赦のないサラマンダルは、今度はその尾を鞭にしてアルファの身体を打ちつける。
 骨が軋む。肉がちぎれる。そしてアルファの身体は宙に舞い、強く壁に叩きつけられた。
「ぐあっ・・・・・・」
 アルファは一声呻くと、そのまま気を失ってしまった。
 実に情けない。突然の攻撃におどおどし、戦意昂揚も後の祭り。
 身軽さを武器に、レグテチスから習った剣術でここまで幾多の魔物と戦ってきた。実戦経験はそれなりに積み上げてきたはずだった。
 しかし、サラマンダルに対しては全く通用しなかった。蚊の刺すような傷でさえ、アルファは与えられなかった。まるで手玉のように攻撃が見抜かれていた。
 動きはお世辞にも速いとは言えない、鈍足の大蜥蜴に対して、アルファはただ人間の周囲をうるさく飛び回る蠅のようだった。
 呆気ない。あまりにも呆気なさ過ぎて、意識を失する直前に口許に苦笑さえ浮かんだ。

「ううっ・・・・・・」
 身体中に痛みが走る。
 目が覚めると、アルファは壇上にうつ伏せになっていた。ずきずきする。だが、不思議なことに身体自体に外傷はなかった。
「気がついたか――――」
 守護蜥蜴サラマンダルの声が耳に届く。
 アルファははっとなって飛び起きようとした。だが、激痛が治まらない。立ち上がりかけて体勢を崩し、その場に腰を沈めてしまった。
「そのままでいよ――――」
 元の位置に、サラマンダルはいた。
 そして、最初の時と同じように、じっとアルファを睨んでいる。
「俺は――――負けたのか――――。負けたのならば――――俺は・・・・・・」
 その言葉、サラマンダルは何も答えない。
「どうやらそなたは、選ばれし者ではなかったようだな――――ドゥートゥル――――おぬしも老いたか、それとも私の早とちりなのか――――」
「え・・・選ばれし者って、何のことです―――」
 しかし、サラマンダルは答えない。彼は独り言のようにつづけた。
「むう・・・・・・今は――――その様なことを言っている場合ではないのか――――」
「?」
「何も知らぬ――――異国の若者ならば――――もしや――――」
 理解しがたい呟きをつづけるサラマンダル。
 アルファは唖然としたまま、守護蜥蜴を見つめていた。その表情は変わらない。だが、どこか哀しい雰囲気が彼を包み込んでいるような気がした。
「――――わかった――――ドゥートゥルよ――――この若者に、全てを託してみることにしよう――――。私も長きにわたり――――この地を護ってきたが―――――辛いものよな――――炎ひとつ吐き出しただけで――――体力が持たぬ――――年老いた証拠よ―――――」
 サラマンダルは誰かと会話をしているのだろうか。
 アルファには姿も声も、気配も感じない、サラマンダルだけが見える、誰かと。
 サラマンダルは言葉終わると、双眸を伏せた。そして、アルファに向かって話しかけた。
「アルファとやら――――」
「は、はいっ」
「そなたは選ばれし勇者ではない―――――しかし――――運命に導かれて、そなたはこの地に足を踏み入れたのだ――――」
「・・・・・・」
「ゆえに――――そなたが望もうが望まないに関係なく――――そなたはこのレシュカリアの命運を背負わねばならぬ――――わかるか」
「・・・・・・・・・・・・」
 アルファはしばらく間を置いた後、「はい」と頷いた。
 アルファはサラマンダルの言葉の後、考えた。それは、レグテチスがアルファたちに対して示唆した意味とは違う。
 サラマンダルの言葉は、アルファたちがこのレシュカリアを訪れ、魔神召喚という暗黒の野望をつぶすことは、生前からの宿命だということだった。
 アルファが幼い頃から剣を習っていたのも、カムル・シュリスが幼なじみであることも、全てレシュカリアという未知なる大陸を救うために課せられた、変えられない運命。
 これに逆らえば、すなわち死となる。いや、逆らうも逆らわないもない。どう転んでも、アルファたちはレシュカリアの土を踏んでいた。
 宿命が、理想の国レシュカリアとしてアルファの胸を高鳴らせ、レグテチスという道標によって招かれたのだ。
「アルファよ――――」
「はい・・・・・・」
「――――この大陸は・・・・・・哀しみに満ちている・・・・・・。魔神・デムウス召喚は――――残念だが・・・」
「やはり・・・魔神召喚の噂は、本当だったんですね」
「――――そうだ・・・。しかし―――――私にはどこの者がその様な大それた事を企んでいるのかまでは解らぬ―――――もっと若ければ――――そのような企みなど、私の手でつぶしていた――――私には、誰がその様なことを企んでいるかまでは解らぬ。それを確かめる力もない・・・・・・歳、老いすぎたのだ――――すまぬ」
 あきらかに語気に力がない。
「ただ――――デムウス召喚が、愚かな征服欲によってもたらされたものではないような気がするのだ」
「――――どういうことですか・・・?」
「哀しみ――――失われた思い――――デムウス召喚の陰に、そのような思いを感じるのだ」
「・・・・・・・・・・・・・」
 アルファはなぜか寂しい気分になった。
 魔神召喚が、悪しき野心からではなく、レシュカリア大陸を覆いつくしている『哀しみ』からくるものであるならば、使命としてこれを追討しようとしている自分の心に、どこか虚しさが生まれてくる。
「だが―――――いかなる事情があろうとも、デムウス召喚だけは断固として阻止せねばならぬ―――――そなたはこの先、数多の虚無―――悲哀―――失望を目の当たりにすることになるだろう――――。それに負けず、正義を貫き、大陸を救える自信があるか」
 そうなのだ。
 夢見たレシュカリアの旅は、もとより過酷な現実がアルファたちを待っていた。
 見知らぬ国・大地に馳せた理想は打ち壊された。
 おそらく、これからも辛い現実がアルファたちを襲うのだろう。哀しみがもたらす、魔神召喚という危機。
 それに立ち向かえば、立ち向かうほどアルファたちは苦しむことになるかも知れない。だが、ここまで来て怖じ気づくほど、アルファたちは弱い人間ではなかった。
 現実がいかに過酷だろうと、夢を追いつづけること、そして何事にも負けない強い精神力が、アルファたちには備わっていた。だから、答えはひとつだ。
「はい―――――」
 力強く、アルファは頷いた。サラマンダルも、それ以上アルファの心理を確かめるような質問はしなかった。
「アルファよ――――聞きたいことがあるのだろう。私が知りうる限りのことを答えよう――――」
 アルファは知り得たい事柄を整理するために間を置いた。そして、ひとつひとつ、訊ねた。
 ジェルキンが持ち去った、歴史書三十二巻のこと。

 ――――人間が編纂した史書か――――
 ミカエルがデムウスを封じたときのこと――――
 封印廟のことなどを詳細に描かれている――――。
 そのジェルキンという人間は、デムウス召喚に関わる者であろうが――――、その史書だけであのデムウスの封印は解けぬ。
 ――――『魔竜の眼』
 ――――『霊鳥の尾羽』
 ――――『封印の杖』
 ――――『呪詛の書』
 ・・・・・・これら《四封宝》があって初めてデムウスの封印を解く鍵が出来る。

「ならば・・・、その四つのうち、一つでも欠ければ、魔神召喚は叶わないのですね」
「だが――――デムウスを召喚しようとしている輩のことだ。すでに、四封宝は手中にしておるかも知れぬし、あるいはその史書に四封宝の在処が示しているのかも知れぬ・・・・・・。召喚しようとしている輩が、四封宝をすでに手に入れているとするならば、その史書に召喚の最後の手法が描かれているのかも知れぬ」
 アルファは愕然となった。
「――――ならば、もはや手遅れなのでは――――」
「いや――――それは私の推測に過ぎぬ・・・。また、そのジェルキンという人間の行動――――そなたの話を聞けば、解せぬ点が多すぎるのだ――――」
 確かにサラマンダルの疑問は的を得ている。
 ジェルキンが魔神召喚に関わる者だとするならば、絶対必要である歴史書三十二巻を奪うために、あれ程大騒ぎさせる必要があっただろうか。王女まで誘拐するだろうか・・・。
 普通ならば、大臣という顔を持つ彼だから、こっそりと蔵書庫から持ち出して姿をくらました方が手っ取り早いではないか。
 今さらながら、彼の行動には疑問な点が多すぎる。
「とにかく、ジェルキンの行方は必ず突き止めます。彼を見つけだせば、彼の行動の意味がわかりますので・・・」
 次に訊ねたのは、国境五関を塞いだ、謎の奇岩のこと。

 ――――デムウス召喚に関わる事態と見て間違いはないだろう――――。
 元々、国境五関と呼ばれている場所は、デムウス君臨時に魔道の力が大きく作用していたのだ。
 ミカエルがデムウスを封じた後に、奇岩は自然と消滅した。
 五関はその魔道の力を封じ、監視するために設置されたものと聞く――――。
 ゆえに、今その奇岩が現れたのは、魔道の力が強まっている証――――。

「つまり――――魔神を倒さぬ限りは、奇岩は消え失せないということですか?」
「いや――――奇岩を消す手法はある――――」
 サラマンダルはそう言うと、念を込めているのか、身体中から気のようなものを立ちこめた。
 すると、アルファの足下から淡い輝きが発し、アルファを驚かせた。そして、そこにアルファの脚の長さほどの杖が一つ現れたのである。
「それを用いよ――――。一時的だが、沙立関の奇岩はそれで封じることが出来よう」
 アルファはその杖を手に取ると、サラマンダルに深く頭を下げた。
 そして、何よりも聞きたかったことがあった。シュリスのことである。
 彼女が放った謎の閃光――――。
 アルファの目に映った、魔物のような形相の幼なじみ。サラマンダルは不思議そうに言った。
「言わずともわかること――――それは魔法だ」
「魔法――――?」
 アルファにとって、『魔法』という言葉は初めて聞く。
 ローアンには魔法など言うものは存在しないからだ。
「己の精神を集中させ術を起こし、敵を攻め、あるいは味方を援護させる能力。その者には、攻撃魔法を操る資質があるのだな―――――」
「魔法を操る――――シュリスが・・・?」
「本人にも気づかない、潜在的才能――――。アルファよ、まず始めにその者に魔術を修得させるのだ。砂漠で放った攻撃魔術。無意識とはいえ、最強の攻撃魔術に匹敵するもの。修得すれば、必ず将来欠かせぬ存在になろうぞ――――」
 魔法――――そうか。
 それで初めてわかった。
 アルファやカムルに剣の才能があるように、シュリスには魔法の才能があったのだ。
 ただ、ローアンには魔法が存在しない。だから、彼女が潜在的能力を、あの窮地で無意識に放った魔法が、アルファには異様に映ったのだ。
 サラマンダルの話を聞いて、アルファは自分に恥じた。彼女を敬遠気味に接してきた事を悔いた。何も知らないで、勝手に思い込んでいた。
 アルファは唇を噛んでうつむいた。
「どうやら――――私の役割も終わったようだな――――」
 不意に、サラマンダルがそう言った。
 はっとして守護蜥蜴を見るアルファ。
「ドゥートゥルに示され、アドラに降りて千余年――――私は守護神体として幾たびも勇士たちと交わってきた――――。しかし、よもやこの時代に、かような事態を迎えるとは――――守護神体などと、この老体も大層祭り上げられてきたものよな――――」
 哀しそうに呟くサラマンダル。
「ご神体さま・・・・・・」
「だが――――このまま手をこまねいて命、果てることなくそなたと出会えたこと、感謝するぞ――――」
「・・・・・・」
「私からもそなたに頼む――――ドゥートゥルと共に築き上げたこの大陸を――――そなたの手で救ってくれ――――この大陸から――――哀しみを消してくれ―――――」
 その悲愴な声が、空間に反響する。
「私はこれより――――ドゥートゥルの元に行く――――。この大陸の命運と、そなたたちを――――天より見守るために―――――」
 サラマンダルの声が急激に落ちてきた。アルファは愕然となった。何とサラマンダルの胴体が、尻尾から徐々に石化してゆくではないか。
「ご神体さまっ―――――まだ・・・まだ聞きたいことが山ほど・・・」
 しかし、サラマンダルの声はかすれ、聞き取ることが出来なくなっていた。それでも、ようやく聞き取れた言葉。

 レシュカリアを――――頼んだぞ――――

 そして、千余年アドラ塔の神体として、砂漠・レシュカリアを守りつづけてきた大蜥蜴サラマンダルは、眠りについていった。完全に石化したその顔には、どこか安堵した感じが窺える。
「――――必ず――――約束を果たします・・・・・・」
 アルファは跪いて深々と拝礼した。
 その時だった。
(おーいっ! アルファア・・・)
(アルファくん・・・どこにいるの)
 扉の向こうから親友二人の声が聞こえてくる。
 アルファは嬉しそうな表情を浮かべて身を翻し、壇を駆け下りた。痛みさえも忘れていた。
「カムルッ、シュリスッ、ここだよっ」
(あっ・・・ねえカムル。アルファ君の声だわ。ここから聞こえる)
(ああ。全く、どこほっつき歩いてんだよ・・・心配かけさせやがって。おいアルファ! なんでおめえはこんなところにいるんだよ)
 扉越しのカムルの声。
「話は後でゆっくりするよ。それよりも、もう用は終わったよ」
(何だって? おいっ、どう言うこった?)
(そんなことよりカムル、早くここ開けてよ)
(おお、そうだったな。・・・ちくしょう。こんな頑丈そうな扉、ホントに開くのかよ)
 カムルの唸り声がアルファの耳にはいる。その顔を想像して思わず笑ってしまった。

 バタンッ―――――

 大きな音を立てて、扉は呆気なく開いた。勢い余って顔から倒れるカムル。
「いってええええええ!」
「なによこの扉、見かけ倒しねー」
 扉に手を当てながらそう言うシュリス。鼻頭をおさえて立ち上がるカムル。必死に笑いをこらえているアルファ。
「そ、それにしてもアルファ―――おめえって奴は勝手に・・・」
「全くそうだよね。何だかんだ言って、結局アルファ君が心配かけてるんだから・・・」
 散々に愚痴られるアルファ。
 詳しい話は後にして、取りあえずは言葉の攻撃を甘受する。そしてようやく攻撃が止んだときに、アルファは石像を指さす。
「アドラのご神体にはもう会ったよ」
「お前がか? あの石像に?」
 カムルが石像とカムルを交互に見回す。
「―――――うん」
 アルファの笑顔が急に哀しそうになる。
「何かあったのね・・・アルファ君」
 シュリスはアルファの変化がすぐにわかった。
「カムル、詳しい話は後にしましょうよ。・・・それよりも、打開策みつかったの?」
「ああ。これ・・・」
 アルファがサラマンダルから貰った杖をシュリスに差し出す。
「これがあれば、沙立関から、東シュリアに渡れるよ・・・」
「そうなの? ・・・やったじゃないアルファ君っ。これで聖都に行けるわね」
 嬉々とするシュリス。だが、寂しそうに微笑むアルファ。ゆっくりと石像に向き直る。
「アドラのご神体――――エル・サラマンダル様・・・・・・。カムル、シュリス。ご神体は永遠の眠りにつかれたんだ。拝礼して行こう・・・」
 アルファはゆっくりとそう言うと、再び跪いて、石像に深く拝礼を捧げた。今度は長く、一心に。
 カムルとシュリスも、アルファの様子を察し、彼の後ろに並ぶように跪いて石像に拝礼を捧げた。
 やがてアルファがゆっくりと立ち上がり、振り返って二人の親友を見て、笑顔で言った。
「さあ――――東シュリアに向かおう――――」
 二人も立ち上がり、互いに見つめ合って、力強く頷いた。

 アドラ塔を出ると、風は止んでいた。
 相変わらず、空は晴天だった。遠ざかるアドラの古塔。
 千年余の守護蜥蜴の住まいは、なおも偉容を失わず、未来へと続いて行くのだろう。
 誰もいない塔最上階の空間には石像がある。
 静かな表情を見せるその大蜥蜴の像が、崇拝されるアドラのご神体であることを、万民が知ることは、遂になかったという・・・。