第3部 涼秋の聖都
第1章
聖都の烈士
「夏河守護・多勢頼輝中将様、お越しでございます――――」
群臣居並ぶラシンヴァニア城謁見の間にその声が響くと、騒然としていた広間が一瞬のうちに静まり返り、視線が一斉に廊下の方へと集中する。
やがて、銀糸で織られた衣冠を纏った、背の高い青年が広間前の廊下に現れた。
青年はきびすを返して広間の方に向き直り、その場から群臣を一通り見回す。表情がやや硬い。
「遅くなりました――――」
青年は軽く会釈をすると、長い裾を振り払う。
ばさっという音が広間に流れ、かつ・・・かつ・・・という金靴の音が広間に不思議な緊張感を漂わせる。
青年は空席の玉座の前で足を止めると、やや語気を強くして言葉を発した。
「女王陛下は――――いかがされているのです」
すると白髪まじりの朝臣が慌てたように前に進み出て青年に拝礼する。
「夏河中将殿、女王は先日来の発熱が治まらず、伏せっておられます。どうか、お許し下され」
「コリス宰相、女王陛下が病を得てすでに五日が経っている。医官は何をしているのか。この様な大事な時に、女王を欠いたままでは、魔神召喚の野望をくい止めることは叶わないぞ。どのような手段を用いても、快癒に全力を注がれよ」
その怒りの声に、宰相コリスでさえも気圧されてしまう。
この、威厳あふれる青年こそ、かつて聖皇帝ミカエルの四肢と評された勇者の一人、神剣士アンリの直系の子孫であり、はるか東洋から伝えられた漢姓文化を引き継いだ、レシュカリア三大漢姓家の一つ、多勢家第四十三代当主で、夏河守護職・近衛中将軍、多勢頼輝である。
――――突如起こった国境五関の変事は、我が国のみならず、周辺諸国からもいらぬ疑いを掛けられている。
このままでは、各国がこれを好機とばかりに一斉に我が国に攻め込み、大陸は焦土と化し、聖シュリアの栄光は潰えてしまう。
いや、それどころではない。
魔神は召喚され、この世から草ひとつなくなってしまうことになる。悠長なことをしている場合ではないことは、諸侯らが一番よく判っているはずでありましょう。
威圧感あふれる頼輝の声に、並み居る群臣たちはばつが悪そうに頷くだけであった。
その中で、一人の中年の重臣が前に歩み出て頼輝に言う。
「夏河公のお言葉、最もです。しかし――――五関の件に、何もかように目くじらをたてられずとも……」
その言葉に頼輝の鋭い視線がきらりと光った。
――――何を言われますか。貴方は事の重大さを判っていないのか。
五関に現れし奇岩は、単なる自然現象などではない。
諸関の守衛長らに事の子細を調べるよう通達を発し、すべて回答を得ている。
あれは魔神召喚の風潮に裏打ちされた不可解な現象です。
召喚を企む何者かが、何か裏の画策を用い、弄したのです。
あなたはそうのように言われるが、もしものことが起きたならば、いかがなされるおつもりか。
やはり、重臣は言葉をつむぐしか術がない。
この多勢頼輝は、今の東シュリアの中にあって極めて抜きんでた名臣であった。
聖シュリア王朝の御代に、はるか東の遠洋文化の到来で、『漢字』と呼ばれる文字が伝来し、人の名前にも使われるようになった。
だが、その浸透は深まることなく、高い功績を残した一族に対して、皇帝が特別に漢字の姓名を与えるという風習が自然と確立していった。
レシュカリアには皇帝から賜った漢姓家が三家あった。
白エルフ族のリーセイ=ケイカスを祖とする、『嶺聖(れいぜい)家』
聖帝ミカエルの庶流で東シュリア王国の上丞相となったコーアンを祖とする『摩裏阿(まりあ)家』
そして、聖帝四天王の一人である神剣士アンリの子孫・ライアンが賜った、『多勢家』である。
レシュカリアには漢姓家はこの三家しかない。
摩裏阿家は聖シュリア統一王朝滅亡時に、当主資統(しとう)が殉死して断絶した。ゆえに、実質現在は多勢・嶺聖の二家が現存するだけである。
多勢姓を下賜された初代頼安(ライアン)は、中央平原北東の重要拠点サルバンに領地を受け、サルバンを『夏河』と改称した。以来、多勢家は王室の藩屏として、代々夏河守護職を世襲してきた。
東シュリア末期には皇帝ガルヴェルの暴政に対し毅然たる態度を貫き通し、第三十八代頼資(らいし)は節を曲げずに一族と共にガルヴェルの凶刃にかかった。
だが、その子頼虎(らいこ)は多勢家の誇りを守り通し、コナンを支えて東シュリアの復権に尽力するなど、多勢家の当主は皆、英傑を生み出してきた。
そして、四十三代当主となった頼輝もまた、そうした英傑の血を色濃く受け継ぎ、父の死後、二十六歳で早くも宮廷の実力者として名を馳せた。
国境五関に出現した奇岩の変事のことなど、まるで対岸の火事のように議論する、群臣たちの釈然としない態度にほとほと疲れ果てた頼輝は、半ば憤然として朝議を終わらせ、おどおどする群臣を後目に、謁見の間を退出してしまった。
「情けない……」
頼輝はこめかみを人差し指で押さえながら呟いた。
「あのような事で、本当に魔神が召喚されたならば、いかがするつもりなのか」
うつむき加減に大廊下を歩く頼輝を、若い男性の声が呼び止めた。
「兄上」
頼輝がはっとなって顔を上げると、頼輝と同じ裾の長い朝衣を纏った、青年がうやうやしく頼輝に拝礼し、微笑んだ。
「頼理か――――」
頼輝の実弟・多勢頼理(らいり)。
弱冠二十三歳で王国近衛兵を統括する近衛少将を勤める、文武兼備の若者である。
風貌は兄のように精悍ではなく、美男ではあるが、高貴な雰囲気はない。
性格も温厚で、一見凡庸そうだが、その実武勇は人を超え、特に弓を取れば彼の右に出る者はないといわれるほどで、一時期《多勢少将、銀弓ひとつで世界を安んじる》というのが流行語になったほどである。また、女王レアの特の寵臣といわれる。
「朝議は、いかがでございました?」
「…………」
頼理はそれだけで判った。そう、いつものことであったからだ。
「宰相も相変わらずですか。困ったものでございます……」
「臣下は皆、魔神召喚をただの噂だと思っている様だ。五関の変事も偶発的な自然現象だ、などと……悠長にも限度というものがある」
静かに、それでもその声色には怒り心頭といった感じだ。
――――ここ一年あまり、兄上はご領地である夏河に戻られておられない。
それもすべては怠慢な臣下になりかわり、魔神召喚の真相を探られているためだというのに、心ない者は兄上を、『噂に翻弄される小心者』と陰口を発し、多勢家の存在すら罵りさえしていると聞きます。
本当に、嘆かわしいことです。
「頼理、私はもはや他の臣下はあてにはしない事に決めた。今日の朝議の結論も、あらかじめわかっていたこと。ゆえにわが独断で五関の様子を探らせてきたのだ――――」
「不肖ながらこの頼理も兄上のお力に――――」
「一刻も早く、そのような陰謀を目論む輩を追討し、大陸の平穏に尽力しなければならない。頼理、お前だけが頼りだ」
疲れたようにため息をつく頼輝。
「兄上のため、聖シュリアの偉勲のためならば、命は惜しみません――――」
その瞬間、頼輝はキッと眉をつり上げて頼理を見た。
「頼理、私はこれより女王陛下に接見することにする。お前も共についてこい」
突然の言葉に愕然となる頼理。
「あ、兄上・・・何を仰せられます。レア様は病のために・・・」
しかし、頼輝は語気を強くして言った。
「頼理。これは急を要する事態なのだ。病とはいえ、女王陛下には事の子細を知っていただかなくてはならない」
「無茶です。そのようなことをなされば、接見どころか厳罰が下されてしまいます」
頼輝は本気だった。
表情と口調を見ればわかる。頼理は必死になって兄の"暴挙"を止めようとした。
「軽率でも浅はかでもかまわぬっ。事が起こってからでは遅いのだっ!」
頼輝は裾を振り払うと、身を翻して後宮へつづく通路に向かっていった。
「あ、兄上っ!」
頼理は狼狽しながらも兄の後をついてゆくしかなかった。
ラシンヴァニア城・後宮は、東シュリア王国女王レアが普段在居する所である。
もともと後宮は后妃が生活する場であった。むろん、男子禁制である。
だが、レアが女王となってからは、後宮が政令や詔書の発せられる中心部となっていた。
男子禁制は緩められ、レアが認めた者であれば、後宮への出入りは自由となっている。
頼輝は弟の制止を振り切って、後宮を目指した。
つかつかと歩を進める頼輝を、護衛の女官が止める。
頼輝は眉をやや逆立てて女官をにらみつけて言う。
「夏河守護・多勢頼輝である。女王陛下に拝謁を賜る」
「そ、それは困りますっ!・・・たとえ夏河中将様といえど、ここをお通しすることは出来ません。女王陛下はまだ病を――――」
女官の言葉終わらないうちに、頼輝は語気を強くして言った。
「もとより承知の上だ。ご寝所前でもかまわぬ。これは光主帝以来の国家存亡の危機である。女王陛下には是が非でもお話を聞いていただかねばならない。処罰は甘んじて受ける。通せっ!」
頼輝は立ちふさがる女官を半ば強引に払いのけ、振り返ることなく歩幅大きく奥へと進んでいった。
よろめく女官を後から続いた頼理が受け止める。唖然とする女官。頼理はため息をついて呟く。
「すまない。いつもは何事にも冷静な兄なのだが、今日は違うようだ。気を悪くしないでくれ。責任は私が持つ」
頼理の優しい言葉に女官ははにかんだように頷いた。
女王の寝所が近づくと、頼輝は宝石の佩剣を腰から外し、歩幅を緩めてゆっくりと歩む。
すれ違う女官たちは怪訝な眼差しで頼輝を一瞥するが、頼輝は気にもとめずに寝所の扉の前で足を止めた。護衛の女官が恭しく頭を下げる。頼輝はその場に跪き、佩剣を置くと、扉に向かって声を発した。
「臣は多勢頼輝です。火急の用件ゆえ、お許しもなく参上した次第。拝謁賜らずとも、この場にて奏上したきことあります」
数十秒の沈黙がつづく。
扉の向こうからの返答はない。ここはレア女王の寝所である。無下に立ち入ることはさすがに出来ない。頼輝は跪いたまま、じっと瞳を閉じている。頼理もまた、兄の後ろに控える。
数分の刻が経った。
「――――頼輝」
扉越しの声に、頼輝ははっとなって顔を上げた。
「夏河中将――――お入りなさい――――」
窓越しでもはっきりとわかる、玲瓏と透き通った美しい声。
「御意」
頼輝はゆっくりと立ち上がり、佩剣を女官に預けると、おもむろに開かれた扉に一度拝礼すると、一歩、前に歩む。頼理は三歩ほど遅れて入室する。
ご寝所といえど、小会議が開けるほどの広さがある。
高座にある寝台の周囲には白のレースカーテンが引かれ、その向こうを窺うことは出来ない。
扉の両側、そして高座への五段ほどの階の上下両側には女官が整然と立ち、寝台の周りにも女官が立っている。いずれも女王を護衛するために登用された、武芸のたしなみを持つ若い女性たちである。並の男たちでは、彼女らには勝つことは不可能だ。
階下に進んだ頼輝は裾を払い、跪く。
レースのカーテンの中には淡い光をたたえる蝋燭が灯されており、寝台の上に、華奢なシルエットがレース越しに映る。
「ご尊顔を拝したてまつり、恐悦至極――――」
「頼輝、どうされたのです? 突然――――」
頼輝の言葉を遮るように、魅入られそうな声が室内に反響する。
「臣、許されざるご無礼を承知でまかり越しました。単刀直入に申し上げます。――――近日勃発した、国境五関の変事についての上奏ならびに、近来噂の絶えぬ、魔神召喚の対処につき、ご叡慮を賜りたく存じ上げ奉ります――――」
レース越しのシルエットは、わずかにうつむき加減に動き、かすかなため息の後、声を発した。
「その事についてはすでに承知しております。――――頼輝、あなたはどのようにすればよいと、考えているのです?」
頼輝はおうむ返しに答える。
「おそらく・・・いや、確実にこの変事は、『魔神召喚』の前兆であること。そして、何者かが召喚の呪詛を行い、その兆候が五関に降り注いだものでございます」
「まあ・・・・・・!」
「五関の各守衛長に事実の確認を取り、宮廷蔵書の古文書等にて原因を調査致しましたゆえ、間違いはございません。これは、魔神召喚の兆候にございます――――」
名将・多勢頼輝の言葉に迷いの色はなかった。
きっぱりとそう断言すると、絢爛な空間に重苦しい空気が漂う。
平和な世にあって、女王の許可もなく、無下に男子禁制の後宮に乗り込み、あたら証拠もない頼輝の言葉は混乱を招く妄言とも言える。下手をすれば乱心者として護衛の女官たちに命を奪われていただろう。
しかし、こうも凛とした瞳の輝きと、自信満々と告げられると、かえってそれが真実のようで、強い説得力があるそんな雰囲気に、言葉を失した空間。何とも言われない緊張が走る。
だが、頼輝はそんなことに動じることなく、堂々たる言葉で続けた。
「聖レシュカリア大陸の破滅を望む、常軌を逸した輩がおります――――なにとぞ、女王陛下御自らお立ち下さり、聖シュリアは元より、六諸国に対し宣旨の発令、ならびに綱紀粛正、魔神召喚の最悪の事態を思い、勇士の召集を――――」
女王の寝室に、頼輝の強い口調が反響する。
病の身を得ているレア女王に対し、気遣いをしているのだろうか。後ろに控える弟・頼理は気が気でなかった。
「そこまで・・・事態は急を要しているのですね――――」
「はっ――――。五関の変事は、召喚呪詛の前兆に発せられる、特異魔力の一つとのこと。最悪の事態には幾ばくかの時間がかかるかと思われますが、こうなった以上は、寸分の猶予もございません。直ちに黒幕を突き止め、これを伐たなければなりません」
「呪詛を行っている、張本人のめどは立っているのですか?」
「瞑主ギャルシア王が専ら嫌疑を掛けられているようですが、真偽は定かではなく、臣としては現在調査中にて――――」
「・・・わかりました。それほどまでに事態が切迫しているのならば、確かに躊躇している時間はありませんね。すべての権限を頼輝、あなたに委ねます。私もあなたの意向に出来うる限り従うことにします」
その透き通った声に緊張がにじんでいる。頼輝は安堵したように胸を撫で下ろした。