第3部 涼秋の聖都

第2章
注進
 レシュカリア大陸を統一した聖皇帝ミカエル以来の由緒正しき聖シュリアの末裔にあって、今まさにミカエル以来の大陸存亡の窮地に毅然と構えを見せている人物は、この多勢兄弟と女王レアくらいであった。
 平和なれしているのか、それとも平和というものが人々の危機感をこうまで疎かにしてしまうのか。宰相以下、多勢兄弟を除く重臣のほとんどは、頼輝の話をまともに聞き入れようとする色を見せなかった。
 だが、レア女王は東シュリアの人々にとどまらず、隣国ラリツィナのファルシス王や、大華王アンセルム、邑国主パダルなどの王侯貴族たちから慕われている。
 それは類い希なる絶世の美貌の他に、才知にも長け、己のことよりも人臣を重んじる心優しい女性であるからこそである。家臣たちが愚鈍でも、国政や対外関係において、この女王あればすべてが円滑に事を運んだ。
 まあ、レア女王は各国の君主たちから頻繁に求婚されているようだが、本人には全くその意思はない。
 ファルシス王にしろアンセルム王にしろ、あわよくばレアを妻に迎えておのが国を東シュリアと併呑し、聖シュリアの流れを取り込もうなどという、よこしまな権力欲などではなく、純粋に一人の男として美しい女性を妻に迎えたいと思っているようなのだが、何しろ本人にその気がないのだからどうしようもない。
 宰相を始めとする重臣たちが愚鈍であるからこそ、レアは自ら執政し、夏河の守護である頼輝も、領地に戻らず、朝廷に在しレアを補佐していたのだ。
 だが、所詮華奢な女性には国事のほとんどをこなすには無理があった。日頃の疲労が蓄積し、レアはついに過労で倒れてしまったのである。
 しかし、宰相以下重臣たちはレア卒倒の現実だけにオロオロするだけで、国事はその場しのぎの稚拙な行動しか出来ない。
 その上、以前から問題になっている魔神召喚の噂に裏打ちされた、国境五関の奇岩である。頼輝の叱咤にも目を覚ますような明るさは持ち合わせていないのだ。それどころか、その事を隠蔽し、おのが保身と、多勢兄弟の失脚をも目論んでさえいるのだ。全く、話にならない。
「少将頼理もいるのですね――――」
 言葉をかけられ、頼理はやや驚いたように身を正した。
「はっ! ――――多勢頼理、ご尊顔を拝し―――」
 慌てて挨拶の言葉を発する頼理に、女王のシルエットは小さく微笑んで言葉を割り込ます。
「頼理、なにもそんなに固くなることはありません。あなたも兄とともに朝廷をよく支えてくれています。これからも兄上を助けて、災厄から臣民を救って下さいね」
「畏れ多きお言葉、深くこの胸に刻みましてございます。それよりも、ご休息中のところ、大変ご無礼致しました――――後ほど、女王陛下のご沙汰に従いますゆえ、今日のところはなにとぞ・・・」
「気にすることはありません。それよりも、よく上奏して下さいました。あなたたちが来なければ、私はなにも知らずに聖シュリア・・・いえ、このレシュカリアの滅亡を見ることになりそうでした。お礼を言うのは私の方です」
 その言葉に、多勢兄弟は深々と拝礼する。
「私は明日から公務に復しましょう。頼輝、あなたもそろそろ夏河に戻られたらどうです?」
「お心遣い、まことに恐縮至極です。・・・しかし、こたびの件が片づかない限り、領地に帰るつもりはございません。お許し下さい」
「そうですか――――しかし、神剣士アンリ以来、夏河の民は多勢一族のもとに安寧を得てきたのですから、一度は領民にその姿を見せてあげなさい。きっと、喜びますから・・・」
「はっ―――――」
 深く、頼輝は頭を下げた。
 そして、寝所に乗り込む前とは打って変わって心落ち着いた頼輝は、静かに拝礼し、弟とともに拝謁を終えた。

 ラシンヴァニア城正門の側にある多勢頼理の邸宅。ここが頼輝の宿館となっている。
 兄弟の父である頼尚(らいしょう)が亡くなってから、頼輝は多勢家の名跡と、代々世襲してきた朝廷近衛中将軍・夏河守護職を継いだ。
 しかし、二十一歳の時に三歳年下のミリアムという夏河の農民の少女と結婚したものの、元より病弱だった妻は五年後に他界。頼輝との間に子供はなかった。
 それから三年。
 頼輝は最愛の妻を失ってからというもの、他の女性には目もくれず、ひたすら東シュリア王国のために心身を捧げる日々を過ごしてきたのだ。
 妻が亡くなってからというもの、頼輝はまるで取り憑かれたかのように、五〇〇ルーレルも離れている夏河とラシンヴァニアを往復していた。
 そして、魔神召喚の噂が立ち始めてから、頼輝が夏河に馬を返すことはなくなった。
 夏河守護を拝命してから、まともに領地に在していたのは、のべわずか三ヶ月。それ以外はずっと、聖都にその身を置いている。
 五歳下の弟である頼理は、十二歳の時に侍従として朝廷に出仕したので、元より故郷夏河よりも、ラシンヴァニアでの暮らしの方が長い。
 都会暮らしが板につけば、滅多に会うこともない肉親のことは他人と思い、自分は独立してゆくものなのだろうが、頼理は離れていても父や兄を尊敬する心は色褪せることはなかった。
 朝廷の近衛精鋭軍を統括する少将軍の地位を得ても、父や兄に対する謙譲心を失くすようなことはなかった。
 常に兄を思い、自身のことよりも、兄を優先した。そんな献身的な弟を、兄は誰よりも一番理解している。
「兄上、飲み物を」
 頼理は入れたての珈琲を、居間の奥にある空き部屋を改造した書斎に運ぶ。
 ランタンがひとつだけ灯されている薄暗い部屋。分厚い書籍が乱雑に積み重ねられている机に、頼輝は腰を据えていた。
「まずは休憩を取って下さい。あまり根をつめられますと、お身体が保ちません」
 頼理は部屋の真ん中にあるテーブルと椅子の上に積み重ねられている書籍を片づけると、その上に珈琲カップが乗せられたトレイを置く。
 頼輝は弟の呼びかけに前屈み状態からゆっくりと上体を反らすと、大きく背伸びをした。
「ああ、いつもすまないな、頼理」
 椅子から立ち上がり、朝廷に登城する正装である弓なりにそった山高の戴帽をそっと頭からはずす。
 ふさりとした、みごとな金色の髪が腰のあたりまで舞い落ちる。端正で凛々しい顔にかかった髪の毛を背後に梳くと、頼輝はふうと一息をついて珈琲を手に取る。
「うまい・・・」
 そう呟いて、頼輝は椅子に腰を下ろす。頼理も向かい合わせに腰掛けた。
「今日は本当に緊張しましたよ」
 頼理はまだどきどきしているのか、声がどこかうわずっている。
 そんな様子に、頼輝は微笑みながら返した。
「無茶なことだとは重々承知していた。私も正直なところ、どうなることかと冷や汗をかいていたよ」
 その言葉が本心であることを、頼理はよく解っていた。
 ゆえに兄がそんな強硬手段に出てまで女王に面会を求めたことへの心境というものは解る。
 しかし、厳罰という言葉が脳裏を過ぎったとき、頼理は兄を止めていた。止めても無理だとはわかっていても、止めたのだ。
「最近の兄上は少々無理が過ぎているように感じてなりません。そんなに根をつめられると、魔神召喚の黒幕を突きとめる前に、倒れられてしまいます」
「そなたには色々と心配を掛けている。申し訳ないと思っているのだ」
「この身のことは良いのですが、兄上は義姉上がお亡くなりになられてより、ほとんど聖都にあり、非番の時でさえも国事に携わっております……。私は兄上が闇雲に公務に励まれているようにしか思えないのです」
「それは思い過ごしだよ頼理。私はただ、国を思い、臣民を思い、果ては大陸レシュカリアの平穏と安寧を望み、聖主の治世のように、万民が真からの平和と共存を得ることが出来ればいいと、それだけのために力を尽くしている。だが、我が聖シュリアの重臣らは迫り来る危機に目を向けようとはせず、目先の利益とおのが保身のみを考え、宸襟を悩ませている。全く、愚かなことだ」
「兄上の理想には常々敬服しております。しかし、我々だけで動いたとて、態勢はそれほど変わるものではありません。多くの人心が一つにならなければ、血気に逸るだけと言われてしまい、孤立してしまいます。時をかけて、重臣を説得されてはいかがでしょうか」
 頼理は静かにそう語った。
 兄は一つ大きなため息をつくと、力無く珈琲を口に運ぶ。
「時が許すものならば私もそうしていたに違いない。・・・しかし、魔神召喚は明日にも起こりうるかも知れぬのだ。召喚を行っている者の手がかりをつかめず、五関に起こった奇岩騒ぎ・・・。もはやそのような悠長な事を語っている暇はないのだよ。今はたとえ我が身一つになろうとも、悪しき火種は必ず潰すっ」
 頼輝は単純に魔神召喚の野望をくい止めたいと思うだけの理由ではなかった。
 聖帝ミカエルに仕え、魔神デムウスを討ち滅ぼした、神剣士アンリの血を引く英傑として、聖シュリア王朝を代々支えてきた多勢家当主としての気概が、頼輝を奮い立たせていた。そして、それは最愛の妻を失った哀しみを打ち消すかのようにでもあった。
「はは・・・堅苦しい話ばかりではつまらぬな」
 突然、頼輝が明るい声で笑った。きょとんとする頼理。
「頼理、お前、今年で幾つになる?」
「は、はい・・・に、二十五になりますが・・・」
「そうか。ならばそろそろお前も妻を娶らなければならないなあ」
 突拍子もない話に思わずうろたえる頼理。
「な、何を仰せられますか兄上。私のことよりも、まずは兄上のことが・・・」
「何も照れることはないだろう。二十五にもなって独り身では何かと不自由があるものだ。私だとて二十一でミリアムを妻に迎えたのだ。それに比べるとお前は明日結婚するとて遅すぎるほど。誰かいい相手はいないのか」
 兄として、弟の身の上は興味津々である。頼理は思わず顔を赤らめた。
 頼輝は貴族らしい白く優しげな顔立ちだが、どこか精悍さをたたえた美丈夫として評判だ。
 弟の頼理は端正、温厚な性格そのままにいつも微笑んでいるような感じが誰にでも好印象を与える。
 知勇兼備の名将だが、性格的に一本気な兄に比べて、柔和な弟の方が朝廷の官女たちに人気が高い。
 そんな頼理に色恋話が全くないという方が却って不自然である。
「ほう・・・顔を赤くしているところを見ると、意中の女性がいるのだな?」
 兄の言葉は弟の胸中ど真ん中に命中する。
 頼理は口ごもりながらも否定の言葉は発しない。はにかむ頼輝。
「そうか。それはいい。いや、そうだろうとは思っていたよ、はははは」
 その笑顔は兄として、親しい友としての本当の笑顔であった。
 どのような話であれ、頼理は兄のそんな笑顔を見たのは本当に久しぶりのような気がした。
「して、その女性は誰なんだ?貴族の令嬢か、商家の娘か、農民の娘か」
 すでに頼輝の口調は好奇心に駆られている。
「いえ・・・・・・あの・・・その・・・」
 照れと恥ずかしさに口ごもる頼理。
「おいおい、兄弟に隠し事はしない。誰だよ。時と場合によればこの私も協力しよう」
 もはや威厳あふれた夏河守護の表情ではない。
 顔にかかる髪を振り払いながらにやりとして弟を見ている。戸惑う頼理、しかし根負けした。
「笑わないで下さいね――――」
「誰が笑うものか。そのようなめでたい話」
「――――炊事係の・・・・・・ソフィアで、ございます――――」
 真っ赤な顔。何とか聞き取れるほどのか細い声で、頼理は告白した。
 一瞬、唖然とする頼輝。だが、すぐに微笑む。
「そうか――――炊事のソフィアか。・・・いや、彼女は私もよく知っている。まだ二十歳前なのに気立てがよく優しい、しっかりとした女性だよ」
「・・・・・・・・・・・・」
 頼理は真っ赤になった顔を隠すように項垂れている。
 炊事係。朝廷の中では雑用係と並ぶ最下層の官女である。
 その名の通り、食事の支度を中心とする役割。貧困にあえぐ者たちが、妻や娘を朝廷に出仕させる。
 彼女たちが就く職業と言えば大概はこの雑用係か炊事係。
 給金はひと月に五〇〇パクセル程度。並の商家に奉公するか、農民の方がはるかに収入は高い。
 言葉を悪くすれば、雑用・炊事は賤民の生業と言うことになる。
 頼理が意中とするソフィアは年齢こそ十九歳とはいえ、決して美しいと言われるほどの器量の持ち主ではなかった。
 正直な話、炊事係の中にあって、ソフィアよりも美しい女性は掃いて捨てるほどいる。
 人気のある頼理にとって、女性は選り取りみどりなはずだ。
 レア女王の次に美女と評判のある枢密卿レクスター侯の長女ルイフェでさえ、頼理に気があるとの話を耳にしたこともある。
 しかし、頼理も風変わりと言うのだろうか、男たちにとっては羨望の的であるはずのルイフェには関心を示さず、以前からぎこちないながらも話を交わし、それなりにうち解け合っていたソフィアを気に入るようになっていた。
 もちろん、二人の関係は他の誰もが予想にもしていないこと。まして朝廷の近衛軍を総括する少将軍と、炊事係との身分差の恋愛など、常識では考えられないものである。
「いや、全くお前らしいな。本当に私に似ている」
 頼輝もかつて数多い花嫁候補の中から選び抜いた女性が、農家の娘であった。父頼尚の感服した表情が今でも印象に深い。
「ソフィアならば必ずお前をよく支えてくれるだろう。兄として大賛成だよ」
 頼輝の屈託のない笑みに、頼理は真っ赤になった顔を何度も縦に振る。
 そのときだった。居間の扉をノックする音が書斎にも響いてきた。
「兄上、ちょっとお待ち下さい」
 頼理がゆっくりと扉を開けると、使用人である中年の女性が拝礼しながら控えていた。そして頼理の姿を確認してから報告する。
「近衛軍のエイギル様がお見えになっておられます。夏河様にご用とか・・・」
「エイギル中佐が兄上に? ・・・この夜更けに何の用だ・・・・・・・・・。」
 怪訝な面もちで呟いた頼理だったが、事の重大性を予感したのか、使用人に対してすぐに通すように申しつけた。
 やがて、出征服姿で顔中汗まみれにした青年将校が息を切らしながら頼理の前に倒れ込むように駆け込んできた。
「夏河中将殿に火急なる注進あり」
 深夜に似つかわしくない大声を張り上げる。
 半酸欠状態のため、意識が朦朧としているらしい。それに驚いた頼輝が髪を振り乱してエイギル中佐のもとに駆け寄る。
「多勢頼輝である。何事かあったのか」
 頼輝の表情はいつもの厳しさに戻っていた。
 この青年将校のいわんとすることが凶報ではないのだろうか。頼輝の脳裏を瞬く間に覆い尽くすどす黒い不安感。
「さ・・・沙立関が・・・・・・」
「沙立関? 沙立関がどうしたのかっ!」
 思わず口調が乱暴になる。
「沙立関が――――開通したとのこと――――奇岩が消え去り・・・・・・元に・・・戻りましてございます――――」
 それだけ言うと、エイギルは力尽きて意識を失った。
「誰かっ、エイギルを寝所にっ、急げっ!」
 頼理の叱咤が響き、使用人たちが慌てて駆けつけ、気を失ったエイギルを客室の寝所に運んでいった。
 かたや頼輝、エイギルの報告を受けて茫然としている。
「沙立関が開通した? 奇岩が消え去ったというのか――――」
「兄上?」
 独り言のように呟く兄を呼びかける弟。
「何故だ――――なぜ今、突然に・・・それも沙立関なのだ・・・」
「兄上っ」
 弟の一際高い声に呼び覚まされて頼輝は瞠目して弟を見た。
「事の子細は明日、エイギルから詳しく聞けばいいではありませんか。兄上は疲れておられます。今日はもうお休み下さい。お願いいたします・・・」
 哀願するように頼理は言った。
「・・・ああ・・・そうだな・・・・・・そうすることにしよう・・・。頼理、ソフィアとのこと、私も力になるゆえ、安心しろ」
 頼輝は疲れたように微笑み、弟の肩を軽く叩くと、目頭を押さえながら居間を出た。
 自分やソフィアの事などよりも、兄が心配でならない。頼理は悲しそうな表情で寝室へ向かう兄の背を見つめていた。