第3部 涼秋の聖都
第3章
謎の老婆
タリスマの大砂漠から中央平原に続く国境五関のひとつ沙立関(さりゅうかん)は、アターシャ山脈のほぼ中央に位置し、通称『デス・ゲート(運命の門)』と呼ばれている。
六種七国の乱立前、ほぼ膠着状態の現在よりもはるかに混沌としていた頃、聖シュリア王朝を簒奪した暴君ガルヴェルを追討するべく、ラリツィナ侯ファルス・南沙公アレンの連合軍はここに総結集し、ラシンヴァニアに向けて出撃した。
しかし、戦いは結果連合軍の大敗に終わる。
両雄は重傷を負い、以後ラシンヴァニア攻撃の大志は潰える。
明暗を分けることになった聖シュリア朝最後の戦いに勇士たちが最後に会したこの地を、後の人々はこう呼んでいる。
アルファたちは閑散としている南門から沙立関をくぐった。
門の大きさは高さゆうに二〇〇ピアル(約一二メートル)、両幅一三〇ピアル(約八メートル)はあるであろう。さすがにでかい。
連合軍総結集の地と呼ぶに相応しいほどの巨大な門に、アルファたちは圧巻された。
関内の休息所や宿泊所には人気があまりなかった。
塔岷関の奇岩のようなものが関門を塞ぎ、往来が不可能となり、更に復旧の兆しが見えないとなると、それも仕方のないことなのかも知れない。
とりあえず、アルファたちは守衛の兵に対して事情を告げると、兵士は奇岩で塞がれている北門の扉を開けた。
「ひゃあああああ!」
その瞬間、カムルが素っ頓狂な声を挙げる。
薄暗い通路に眩いばかりの青空の光が差し込んだと思ったが一瞬。眼前にはアリの這い出る隙間もない程の大岩が悠然と立ちはだかっていた。
三人の中で一番背の高いカムルの数十倍はあるであろう、まるで宇宙に浮かぶ小惑星が落ちてきたと思われるようなグロテスクな形をしている。
表面にはクレーターのような起突が無数にあり、何はともかく塔岷関で見た岩とは桁違いである。
まるで計ったようにすっぽりと入り口を塞いでいる。それに、塔岷関の奇岩は灰色をしているのに、これは不気味なほど真っ黒い。
はた目から見れば石炭の固まりかとさえ思わせる。しかし、アルファがそっと触れてみても、指先は黒くならない。これが魔の力というものなのかと、不思議そうに 眺めるアルファとシュリス。かたやカムルは腕組みをしながら岩に向かってぼやいた。
「けったいなモン置きやがってよぉ……こげん悪さする奴ぁ、いっぺんお蔵の隅に三日くれえ閉じこめてやらんと……」
眉をわずかにひそめてアルファがカムルを見る。
「カムル……」
「あぁ?」
名を呼ばれて上目づかいにアルファを見るカムル。アルファは真面目に言った。
「三日くらいじゃ……足りない……」
「おお、そうか。ならば一週間くれえにしとく?」
「いや、ここはやっぱり一ヶ月くらいは……」
そんなやりとりに例によってシュリスが呆れ口調に突っ込む。
「二人ともふざけたこと言ってないで何とかしてよっ! もう……だいたい『オクラ』って何なのよ」
するとカムル、にやりと笑って返す。
「おめえ、しらねえの? 『がきんちょ』が悪さしでかすと、お仕置きとしてお蔵や物置に押し込められるんだぜ。暗いよぉ……怖いよぉ……ごめんなさぁいお母ちゃ~ん…ってな」
はあ…もう何度このため息をついたことか。
「ったく……どこのお話よそれって……。そんなことより…」
言いかけるシュリス。しかしアルファはまだ喋る。
「カムル、やっぱこれは『尻たたき五〇回』の方が効果あるかも……」
するとカムルの返事の前にシュリスの怒号が飛ぶ。
「聞きなさいアルファ!」
「うわぁ! ごめんなちゃい」
さすがのアルファも彼女の怒りには一発でしゅんとなる。
「……で? 何だって?」
「はぁ……だから、アドラのご神体から貰った杖でこの岩を消すんでしょ?」
「そだよ」
軽い口調で返すアルファ。
「『そだよ』――――じゃなくて、どうやって使うの? これって」
「う~~~~~~~ん……」
アルファはシュリスから差し出された杖を手にとって見回す。天に掲げ、前に突き出し、縦横に薙いでみる。息をのむ三人と衛兵。
…………
数分が経過した。岩が消えるどころか、蚊の飛ぶ音さえ聞こえてこない。
「おい――――ウンともスンともいわねえじゃねえか」
カムルが囁く。
「おかしいなあ……」
アルファは杖の先の透明な球体を覗きこんでみる。しかし何の変哲もない、ただの球。
「壊れてんのかなあ……」
その時、シュリスが顔をひくつかせながらアルファの前に立ち、前屈みでアルファを見上げる。
「アルファ君――――あなた、ご神体からその杖貰ったんだよね」
「そうだってば。怪しい店なんかからは買っていないよ」
アルファがそう答えると、シュリスはごくりとつばを飲み込んでからゆっくりと言った。
「だったら、杖の使い方――――聞いてるんでしょうね?」
その時、アルファは一瞬石膏化した。
「まさか――――聞いてないの?」
「やべ……」
そう呟くアルファ。
またシュリスの怒りが炸裂する。どうしよう…そんなときだった。
カムルがおもむろにアルファの手から杖を取り上げると、何故か腕まくりをして岩に向かって身構える。
「カ、カムル君……い、いったい何をしようとしているのかなぁ?」
苦笑冷や汗を浮かべてアルファはカムルを見る。予想はつくが…
「おおよ。ご神体様ぁ、この杖使って岩を叩き壊せってこったろ? 任せな。こんな岩、俺の力と杖の力合わされば一気に…」
まさに振り下ろそうとしたとき、アルファは咄嗟にカムルの背中から彼を抑えた。
「や、やめてくれカムルッッ、つ、杖が壊れる……」
「ん……そうか? いや、『押してもだめなら引いてみろ』って言うからさ。叩けばいいんじゃねえの?」
「折れてしまったらどうすんだよぉ……叩くんならせめて軽くこづく程度に……」
「それもそうだな」
するとカムル、再び杖を振り上げると、岩盤めがけて振り下ろした。
すぱんっ……
「あれ?」
「ををををっ」
あまりに気持ちのいい渇いた音に、アルファは両手を頬に当て、魂が抜けたような顔つきになった。
「ちょっとカムルッ、それでこづいてるつもりっ!」
「手加減してるぜ。どうした?」
「もう…馬鹿力……そんなことより杖っ」
シュリスが埴輪状態のアルファをよそにカムルの手元から杖を取り上げ、丹念に調べ上げる。
「どこもなんともない……もう、あなたには預けないっ!」
一瞬カムルを睨めつけ、ぷいとそっぽを向くシュリス。
「なんやそれ…気ィ悪いなぁ、もう」
拗ね気味のカムルをよそにシュリスは杖を構え、先を奇岩に向けた。
「何やってんだお前?」
「見りゃわかるでしょ?『念』じてるのよ」
「そんなもんでこいつがなくなんのかよ……って、おいアルファ。いつまでハニワってんだ」
カムルが軽くアルファの後頭部を叩くと、アルファは気がついたように目を見開いた。
「か、カムルッ、つ、杖は?」
アルファの動揺にカムルは顎でシュリスの方を差す。
「な、何やってんの? 彼女」
「念じてるんだと」
「は?」
「んなもんで岩が消えりゃあ苦労はしねえっつーの」
その時、アルファは思わずシュリスを見つめていた。
じっと何かを考えるように、瞳を閉じて杖を岩に向け、微動だにしない。
アドラの守護神・サラマンダルは言っていた。シュリスには『魔法』を操る潜在能力があると。
アルバートルへの途上・タリスマ砂漠の魔物に対し放った閃光。その威力は凄まじかった。彼女自身はまだ自分の才能に気がついていない。彼女に魔法を習得させよ――――。
サラマンダルの示した道しるべは、アルファ自身、決して忘れることのできないものである。
そして、今シュリスが杖を岩に向け、念じている姿は、彼女の潜在能力がもたらす行動なのだと、思っていた。そして…
「チチンプイプイ、チチンプイプイ、岩よ、消えよっ!」
突然シュリスはそんなことを叫びながら杖を振り回しだした。
「だぁ――――――――――――っっ」
アルファとカムルは両腕を上げ、本気でこけた。
何の変化もない岩と杖を眺めながら、シュリスはこともなげに首を傾げている。
「な、な、なんじゃそりゃあっっ!」
腰を押さえながら立ち上がったカムルが怒り気味に叫ぶ。
「か、かわいい声発して…あんたは…」
冷や汗たらたらにアルファも立ち上がる。
「あっれ~? おかしいね。」
やや困った表情をしながらシュリスは再び杖を眺める。
カムルが眉をぴくぴくさせながらぼそりと言う。
「お、おめーよ、どっから仕入れた? そのネタ…」
「仕入れてなんかいないわよ」
そうあっけらかんに返すと、アルファが苦笑しながら呟いた。
「君が一番センスあるかも知れない……」
なんだかんだと、こんなやりとりに一層拍がかかったような三人。
打開策もままならないというのに、端から見れば余裕ぶっているようだ。だが、これが三人の信頼の証である。どんなときでも、重要なことは忘れない。
その時であった。
「ホッホッホッホ……」
突然、老婆の笑い声が、三人の背後から発せられた。
驚いて振り返る。すると、顔面以外の全身を濃紺の布で覆い隠した、背の低い老人が黒木の杖を床に打ちつけながらゆっくりと三人の方に近づいてきた。
「あ、何だ?」
カムルは咄嗟に剣の柄に手を伸ばす。
アルファも反射的に身構え、シュリスは左足を後ろに引く。
「そう、殺気立つでない。取って喰おうなどと思ってはおらぬよ…」
老婆は布の間から覗く皺だらけの口許に嗤いを浮かべ、すきっ歯を見せる。
怪訝そうに老婆をにらみつける三人。
老婆は三人の前に近づくと、黒木の杖をとんと床に突いてから低く、鋭く通る声で言った。
「そこの娘……」
「えっ…あたし?」
シュリスが名指され、彼女は驚いて瞠目する。
「そなた……なかなかよい構えをしておる…」
「はぁ?」
訳も分からないままの言葉に、唖然とするシュリス。
「卓越した『魔法』を秘めたる『気』が見える……そなた、ただものではないな……」
「な、何なのよお婆さん。何言ってんの?」
迫力ある老婆の声にオロオロするシュリス。
しかし老婆は気にもとめず、彼女の目の前に進むと、顔を上げた。皺だらけの目元から爛と赤く光る両眼がシュリスの目線を捉えた。
「きゃあっ!」
シュリスが思わず悲鳴を上げそうになったとき、アルファがさっとシュリスを庇うように間に立つ。
「お婆さん、何をする気ですか」
「ア、アルファ君っ…」
アルファは危険を顧みず、咄嗟にそうしていた。
今まで頼りなげな感じのアルファが起こした行動。しかし、やや無謀。この老婆、もしかするとかなりの妖術使いで、一瞬にしてアルファたちを消し去ってしまうかも知れないのだ。
「シュリスには指一本さわらせない…」
おどおどした口調でアルファは言った。
だが、老婆はなで肩を揺らし、不気味だがどこか屈託のない笑いを上げている。
「若いもんは人の話を聞かぬから困ったものじゃのう。取って喰いはせんと申したに……」
唖然とするアルファ。額からはわずかに冷や汗が滲んでいる。
「よしよし…ならば離れように」
老婆は二歩ほど後退し、杖を床に突く。立ち止まったときの癖なのだろうか。
ぽかんとする三人をよそに、老婆は再び顔を上げて、にやりと笑った。
「名乗っておこうかのう……あたしゃ、東シュリア・タイアム湖畔にあるシアンという街の隠居でジェノアと申す婆じゃ、よろしゅうな」
そう名乗った後、老婆の笑みがものすごく優しい笑みに見えた。
「あ、アルファです…」
「しゅ、シュリスです…」
「カムル…」
まるで寝ぼけたような口調で、三人は思わず名乗っていた。ジェノアは真っ白なすきっ歯を見せて再び笑った。