第3章 最後の夜
シルフロマン邸――――離れ

 シルフロマンが住む建物の裏には、小さな離れがある。一部屋八畳ほどの小屋のようなものではあったが、それでも人が住むには十分である。そこがシルフロマンの一人娘、フェリアの住まいであった。
 まだ十六になったばかりの生娘に、いくら離れだとはいえ一人で住まわせるとは、父親であるシルフロマンも豪快というか、不用心だというか。まあ、彼女の性格と男勝りの腕力を思えば、野郎たちも夜這いをかける覇気さえ薄れるというものなのだろうか。それに、エアドリックに対し執拗に彼女を押しつけようとするシルフロマンだったが、意外にも娘煩悩なところがあり、他の男たちが彼女に対しちょっとでも色目を使うと、時々狂ったように暴れ出したりもした。娘を大切にしているのか、それとも次期テューダの頭領相応しく、自由奔放に育てようとしているのか、全くつかみようがない。
 エアドリックは何度もやる気のないため息をつきながら、自邸から離れの方に向かっていた。
 彼はフェリアと仲が悪かった。別に大喧嘩したというわけではなく、彼が彼女と初顔合わせしたときから、どうやら彼は嫌われていたらしい。彼女を初めて見たのは彼女が七歳になったとき。それまではシルフロマンは彼に娘を見せようとはしなかった。理由はわからない。ただ、一人娘が嫁ぐ男は、イシュメリア南方の一大盗賊団テューダを率いることが出来る素質を備えた者でなくてはならないという、父親の理想であったからなのだと考える。シルフロマンがエアドリックの才能を見越して、いわば箱入り娘をご披露してくれたのはいいが、運が悪いというか、たまたま彼女のご機嫌がななめだったのかはわからないが、エアドリックは嫌悪の視線を一身に受ける羽目になってしまったというわけだ。
 それでもエアドリックは頭領の娘だと言うことで最初は気を遣っていたが、あまりにも彼女がエアドリックを嫌うので、遂にエアドリックも感情の緒が切れたのだ。それ以来、二人は顔を見合わせるたびに何かといがみ合う。最近ではエアドリックの方が無視している状況。
「邪魔するぜ」
 エアドリックはノックもせずに扉を開けた。その瞬間、エアドリックの瞳が、部屋の片隅に立つ少女の青い瞳と重なる。
「きゃあああああああああああああっ!」
 突然の叫び声に、さすがのエアドリックも驚愕した。
「大馬鹿野郎っ!出てけ!」
 エアドリックめがけて次々と飛んでくる小物。辛うじて避けたが、最後に短刀が髪を掠めてドアに突き刺さると、エアドリックは我に返ったように慌てて表に出てドアを閉める。そう、彼女は着替え中であったのだ。いくら何でも無粋すぎた。
「何の用?」
 しばらくしてフェリアが眉を顰めて扉を乱暴に開けた。その反動で危うく身体を叩きつけられそうになる。
「用って程じゃねえよ」
「何よ、用事がないなら来ないでくれる?だいたいノックもしないでドア開けるなんて、最っっ低っ!」
 語尾を強調してフェリアは再び扉を閉めようとした。エアドリックは足を突きだして扉をつっかえる。
「親父殿がおめえと話しろってーから、仕方なく来てやったんじゃねえか。」
「仕方ないと思うなら無理しなくてもいいでしょ。さあ、帰ってよ」
 フェリアは力を込めて強引に扉を閉めようとした。
「おめえがそうでも、俺が後で親父殿にいろいろ言われるのが嫌なんだよ。」
「あんたが頭に怒られようと、そんなこと私には関係ないことね。」
「いっとくが、おめえもただじゃすまなくなんだぜ」
「別にいいわよ。あんたに心配されるほど、間抜けじゃないから。」
 相変わらずというか、今まで以上に喧嘩腰になっている二人。痴話喧嘩などと、陰で揶揄される二人は、実は仲が良いなどというものではない。正真正銘、二人は相反していた。何だかんだと、すったもんだの挙げ句、フェリアが折れた。エアドリックはフェリアの居城を占拠。
「あんた、フェリアス家を倒す決心がついたって?」
 どかりと床に座り込み、長い脚を組んで胡座をかくフェリア。エアドリックは室内中に視線を回しながらぶっきらぼうにああと言う。
「ずいぶん頭やみんなの気をもませたみたいね。あんた、かなりの優柔不断だわ。」
「なんだと・・・」
 ムッとしてフェリアをにらみつけるエアドリック。彼女は嘲笑うかのように上目遣いでエアドリックを見上げている。
「頭から言われたときに素直に引き受けてりゃあ良かったのよ。大体、決断つけるのに三ヶ月もかかるなんて、情けなさ過ぎると思わないの、普通」
「おめえなんかに何がわかる。これはお遊びなんかじゃねえんだよ。俺にとっても、テューダにとっても一生が決まる博打なんだよ。てめえのママゴトと一緒にすんな」
 その暴言にあきらかに激怒の表情を浮かべるフェリア。
「そういう言い方って、いくら何でもひどすぎんじゃないの?いくらあんたでも、多少は心配してあげてんのに。」
「あいにくだったな。お前に心配されるほどバカじゃねえよ。」
「あっ、そう。だったらもう話すことなんか何にもないんじゃない?帰ったら?」
「ああ、そうさせてもらうよ」
 ここまで来ると二人とも完全に意地の張り合いである。エアドリックもいい大人である。一六歳の少女相手にムキになるのはどうもらしくない。それに、強大なフェリアス家を襲撃するという危険な賭けに出ると決心したのである。負ければ到底、命はない。勝ったとしても、今までのように悠然とした生活も、フェリアと喧嘩することも出来なくなる。今日はどっちにしてもフェリアとの別れになるのだ。そう思うと、一時的な興奮など、すぐにおさまってしまう。
 エアドリックは扉の前で振り返り、そっぽを向いて憮然とするフェリアを見た。
「悪かったな」
 思いもよらない言葉に、フェリアは驚いてエアドリックを見た。かすかに青年の顔は微笑んでいる。そして、やや照れくさそうに言った。
「まあ、今度の勝負は勝つにしろ負けるにしろ、もうテューダには戻ってこれねえだろ。おめえとも今日でお別れってやつさ。だから、取りあえず今までのことを謝っておく。」
「・・・・・・」
 怪訝そうな眼差しで真っ直ぐに青年を見つめているフェリア。
「それだけだ・・・じゃあな」
 エアドリックはふっと目をそらしてノブに手をかけた。
「待ってよ」
 フェリアの怒り声がエアドリックの背中を打ちつける。
「せっかくだから、一つだけ聞いておきたいことがあるわ。」
 エアドリックが横顔をフェリアに向ける。
「あんた、もしもフェリアス家に成り代わって領主になったら、私たちのこと、どうするつもり?」
「どうするつもりって、どう言うことだ?」
「お偉いさんになるんだから、きっと盗賊集団なんて、邪魔になるでしょうね。そのうち、兵隊連れて山狩りでもしそう。」
 その言葉に、エアドリックは明らかに激怒した。
「おめえ、本気でそんなこと言ってんのか。」
「別に・・・でも、人間って権力握ると変わるものよ。今まで恩を受けた人でも平気で裏切るからね。」
 エアドリックの剣幕にも、フェリアは冷静に答える。
「俺はそんなことはしねえよ。それに、権力なんて俺にとっちゃ何の意味もねえものだ。」
 それは今のエアドリックの本心だった。
「誓えるの?」
「はあ?」
「絶対にテューダを守れるって、誓えるかって訊いてんのよ。」
 フェリアの目は真剣だった。
「当たり前だろ。テューダは俺にとって自分の家みたいなものだ。どんなことがあっても守ってやる。」
 エアドリックにとってテューダは故郷である。フェリアにいちいち念を押されなくても、そんなことは当たり前である。仲が悪くてもフェリアはエアドリックの瞳の美しさだけはよくわかっている。迷いがあるときは濁る。今まで以上にこの喧嘩相手の瞳は憎らしいほど美しく輝いていた。
「・・・わかったわよ。野暮なこと訊いてごめん。」
 素直にフェリアは謝った。エアドリックは意外なほどしおらしさを見せたフェリアに一瞬唖然とさせられたが、怒りが急速にしぼみ、肩の力が抜けた。
「ふっ――――どうせ最後になるんだ。今からは喧嘩なしで話してみねえか。」
 照れ隠しにエアドリックがそう言うと、フェリアもどこか照れくさそうな仕草を見せて返した。
「それって、私と仲直りするって事?」
「かもなあ」
「いっとくけど、身体は許さないからね。」
「誰がそんなことすっかっ!」
「ほらぁ、喧嘩はなしでしょ?」
「・・・・・・」
 エアドリックはフェリアと1メートルほど離れて向き合うように座った。変なこと言うから妙に意識してしまう。だが、こうしてよく見るとフェリアは褐色肌でスタイルがかなりいい。健康的な色気を放つ美少女という言葉にまさにぴったりである。今までほとんど相手にしていなかったから、こうして正面向かってフェリアを見たのは奇しくも初めてなのである。
「何か飲む?」
「酒はいらねえぞ」
「あら、どうして?」
「酔っぱらえば何するかわかんねえからな」
「それってやっぱあたしを襲うって事?」
「いいや。家をぶっ壊すかもしんねえ」
「本気でやりそうね。でも今日が最後なんだから一杯くらいいいんじゃない?」
「そうだな。どうせ最後だしな。」
 先ほどから最後、最後とまるで暗示のように飛び交う。完璧に意識をしているのではないか。フェリアはグラスを二つ取りだし、ペンザンス特製の葡萄酒を注ぐ。
「最後の別れに、乾杯」
「エアドリックの前途を祝して―――――ってことにしとく。乾杯」
 グラスを触れ合わせ、二人は同時に紫の液体を呷る。

 ほろ酔い気分になったところで、エアドリックは身体を横に伸ばし、右手で頭を支える体勢を取る。
「そう言えばお前、明日フェリアス家の偵察に行くんだって?」
 その問いかけにフェリアは驚いたようにエアドリックを見る。
「何それ?知らないわよ、そんな話。」
「はあ?」
「誰がそんなこと言ったのよ。」
「誰がって・・・お前、親父殿から言われてねえのかよ。」
「知らない。」
 真顔で首を横に振るフェリア。その瞬間、エアドリックは見事にシルフロマンにはめられたと感じた。明日偵察に行かせるどころか、はなからそんな話など、フェリアにはしていなかったのだ。
「親父め・・・いらねえ気遣いさせやがる・・・」
「え?」
 エアドリックの呟きにフェリアが怪訝な表情をする。だが、以前のように激昂する気にはならなかった。
「まあ、いいさ。」
「?」
「フェリア、冗談抜きでまじめに聞いておきてえ事がある。」
「なによ、改まって。」
 エアドリックは床についていた肘をバネにして上体を起こすと、真っ直ぐにフェリアを見た。その真剣な眼差しに、フェリアも思わず上体を正してエアドリックを見る。
「俺がフェリアス家を乗っ取った時には、俺につき従ってきたテューダの野郎たちは、そのまま俺の下にいることになる。そこで、お前の考えを聞かせてくれねええか。」
「あたしの考え?」
「ああ。つまり、このままテューダに残るか、それとも俺らと一緒に領地の運営って奴に携わるか。」
 一番聞いておきたいことであった。フェリアはシルフロマンの一人娘だ。次期頭領と言われてきたエアドリックが抜けるとなると、否が応でもフェリアにとってはエアドリックの言う選択肢を突きつけられることになる。フェリアがテューダに残れば、シルフロマンの後継として確実にテューダの流れを守り通すことが出来る。また、エアドリックに従えば、あわよくばイシュメリア大陸を支配し、今以上の幸福と恩恵を受けることが出来る。フェリアの父シルフロマンは、言わずもがな、後者を望んでいる。
 だが、フェリアは以前から決めていたのだろうか。深く考える間もなく、あっさりと答えた。
「決まってるでしょ?ここに残るわ――――」
「そうか。」
 エアドリックは深く理由を訊ねようとはしなかった。フェリアの性格からすれば、その答えが返ってくることは、1足す1は2になることよりも簡単だったからだ。
「お前がここに残れば、野郎たちもうまくまとめられるだろうからな。俺としても安心して出征できるぜ。」
 だが、エアドリックがそう行った瞬間、わずかにフェリアの表情が哀しくなった。
(それだけなの?)
「あ?」
 フェリアの呟きを聞き取れなかったエアドリック。何と言ったのか聞き返したが、フェリアは笑いながら「何でもない。」と答えただけだった。
「私がいなくて、あんたも他の男たちも淋しいでしょうけどね――――」
 そう揶揄してちろりと舌を覗かせるフェリア。
「他の野郎はどうだかしんねえが、俺まで一緒にすんなって。」
「無理しない、無理しない。」
 笑い合う。考えてみれば、二人こうして面と向き合って、笑い合ったことなどあっただろうか。いや、一度たりとてなかった気がする。最初で最後の互いの笑顔に、気づいた二人は途端に笑いを止めて顔を赤くする。照れくさいのだろう。
 エアドリックは穏やかな表情でフェリアを見て言った。
「エイセスと力合わせて、テューダを盛り上げなよ。」
「わかってる。」
 フェリアもエアドリックを見つめた後、そっと視線を下に落として頷く。そして、エアドリックはこの十六歳の少女に、大恩あるテューダを託すことを心に決したのである。それと同時に、二人はそれぞれの道を歩き出すと言うことが、今明らかになったのだった。
「ねえ・・・」
 突然、沈黙を破ってフェリアが声を発した。
「確か、国王のお姫様が捕まっているって、聞いたけど。」
「ああ。確かそうだったなあ」
「やっぱり・・・・・・助けたいって思う?」
「そりゃあな。出来ることなら助けてえって思うのが普通だろ。」
「・・・そうよね。ごめん、当たり前なこと聞いてしまったみたいだわ。」
「?」
 変な奴と思いながらも、エアドリックはあまり深く考えずに、話題を切り替えたフェリアとしばらくの間、他愛のない話をつづけていた。