第5章 イグルス森の邂逅

『謎の青年エアドリック、極南の雄・フェリアス家を乗っ取る――――』
 その報せは、瞬く間に全イシュメリアに広がり、それまで互いに勢力拡大を目指してしのぎを削ってきた列強諸家を愕然とさせた。
 特に極北の二大勢力であるブランシェ家当主エラン、ライル家当主レッドワルトは、それぞれにイシュメリア新王候補の最優位にあると言われていたが、突然彗星の如く現れた名も知らぬエアドリックという人物に対し焦りを感じ、即座に情報収集のため、密偵を放つことにした。今は遠い極南の事変に過ぎないのだが、強大な力を誇り、一時は王都ロンディウムを陥落させるところまで国王家を追いつめてきたフェリアス家が、無名の若輩者に倒されるなどと、にわかに信じられようはずがなかった。いずれ、自分たちの前に最大の障壁として立ちはだかるであろう、エアドリックという青年の事を、ひとつでも多く知り得たい。列強たちは否応なく、彼に興味を抱いていた。

915年1月 アトレバテス・コーフェン城

スレテート大司教家

 当主ティリアンの表情は冴えない。
 かつてはイシュメリア・ランカシア朝廷の神祇を司る大司教として、国王にさえも直言できるほどの権威を誇っていたスレテート家が、突然ランカシア王家に反旗を翻したのは今から三年前。大陸の中枢部・カンブリア領を拠点としてティリアンは意気旺盛と独立を果たした。
『自分も、新王としてイシュメリアに大号令を発することが出来るかも知れない』
 聡明で煥発な嫡男・サーディックの補佐もあって当初のティリアンは蜘蛛の子を散らす勢いだった。
 しかし、時期尚早というのか、流れに乗り遅れたとでも言うのか。ライル家・ブランシェ家という脅威に真っ向からさらされる羽目になっていたスレテート家は、やがて勢いに翳りが見えはじめ、森の支配者・モーブル家を攻め滅ぼしたのを最後に、栄光も夢も遠ざかって行くばかりになっていた。
 相談役としてずっと仕えてきた道化師アンガスでさえも、得意の饒舌が虚しい失笑を買うまでに才気が錆びつき始めていた。
 ティリアン・サーディック・アンガスと、三人の知恵と決断によって打ち立てた大司教スレテート家は、決起の地カンブリア領を失陥し、モーブル家を倒して得たポウィス領・カーディフ領のうち、ポウィスをライル家に占領され、情勢不安なカーディフを除き、今やアトレバテスと、灼熱領・リンディニスの二領をかろうじて支配する弱小勢力と成り下がっていたのである。
 その上、不幸というものはつづくものである。ポウィス失陥の直後、ティリアンが軽い心筋梗塞を患い、軍事はもちろん、領土執政さえもままならない状態になったのである。今はやや回復したが、それでも長時間にわたる執務は無理が出来ない。嫡男サーディックが父に代わり、諸事を裁断していた。
「フェリアス家領のペンザンス、ドルノワリア、ベルガルムがエアドリックと名乗る者の手に落ち、エアドリックは『テュードリア家』と称して家旗を掲げました。」
 その報せにもサーディックは飄然としている。かたや当主ティリアンはなおも冴えない。無表情のままである。
「イリウスも油断したものですね、父上。」
「そ、そうだな…」
 サーディックの問いかけにもティリアンはどこか茫然とした様子で返事も曖昧である。
「エアドリックとか言う人物、噂によると盗賊団テューダの頭領格にあった青年だとか…。イリウス卿も烏合の衆の賊徒がまさかそのような大胆な行動に出ようとは思いもよらなかったと見受けられます。ですから、フェリアス家がエアドリックという者の手に落ちたのは、偏にイリウスの自滅。敵に警戒し、身内に油断した結果です。」
 サーディックは暗に、エアドリックがフェリアス家を倒せたのは偶然、イリウスの油断がもたらした頓死だから安心だと父に伝えていた。しかし、当のティリアンは息子の言葉にもやや上の空である。
「偶然にしろ奇跡にしても、エアドリックと申す者は並外れた機運を備えているかも知れません。イリウスの油断につけ込んだとはいっても、たった一夜で本拠を乗っ取ることは、容易ではありません。父上、ここはリンディニスの兵士配備を強化し、エアドリックとの戦いに備えねば……」
 サーディックはただ単にエアドリックという新興勢力を気味悪がり、発した言葉ではなかった。確実にその存在が未知数で、或いはスレテート家がフェリアス家の二の舞を演じるかも知れないと言う、計り知れない懼れから来ていた。
「しかし…リンディニスは王冠を擁する国王家が未だ根強く、南はエアドリックのテュードリア家…更に火山の麓にあり、その災禍は絶えることなく…まさに内憂外患を背負った地。信のおける者はもちろん、並外れた文武の才を持つ者でなければならないか……。とは言っても……アニスを家臣として働かせるほどに、人材の不足が悩みの種……。どうしたらよいのか……」
 当主よりも、その後継者の立場である息子の方が行く末を危うんでいる。何とも奇妙なものである。これでは事実上、スレテート家の当主はサーディックのようなものである。
 いや、それよりも何よりもスレテート家自体、貴族勢力と言うよりも、すでにティリアン自身の家族で、二つの領地を庭に例えた屋敷のような感じである。家臣といえるような人材はなく、会議に参加している者は、言いかえれば使用人、庶務係のような者で、交戦はもちろんのこと、領主としての能力は備わっていない。
 サーディックが不安としているのは、もともと普通の少女として人生を送るべきだったはずの妹アニスを、内務官として起用せざるを得なかったことである。自然を愛する、ガラスのような純粋さとはかなさを持つアニスは、当然ながら軍事の才能はない。だが、さすがは王政大司教ティリアンの娘で、知勇兼備の聡明な兄・サーディックの血を受け継いでいる。軍才はなくても、内政の才能は天性のものだった。斜陽のスレテート家を支えうる事が出来ているのは、ひとえにサーディックとアニス兄妹の力といっていい。
「とにかく、最悪の場合はこの私がリンディニスに赴き、エアドリックの出鼻を挫くしかありません。アニスを呼び、相談いたします。よろしいですか、父上」
 しかし、それでもティリアンは最後までぼうっとしたままだった。

その頃――――コーフェン城郊外 イグルスの森

 ティリアンの愛娘、アニスの楽しみは自然と戯れることである。
 十五歳で兄サーディックの薦めで、スレテート家内務官に命じられ、事実上家臣扱いになってからも、いち少女らしい彼女の素顔は色あせることはなかった。
 イグルスの森は隣領カーディフとの境付近に広がる、陽光滴る美しい景観の森である。もともと、冬真っ盛りの一月とはいっても、イシュメリア南部地方は春のような陽気である。ひとえに『四季』とは言っても、南部地方は実質、『春夏秋』で、冬はない。火山帯に近いせいもあるのか、夏は極端に暑くなる日もあるが、それ以外は素晴らしいくらい過ごしやすい日が続く。
 スレテート家が決起当時の領土を追われ、南方に追いやれてからは、アニスは外出を自粛させられていた。だが、周辺勢力との膠着状態が生まれてからは、一時の平和を楽しむかのように、この美しい森にたびたび足を運んでいる。
 戦乱のイシュメリアに、小さな平和の場所。それは例え仮初めの光景であったにしても、今は確実に穏やかなのだ。いずれ、この森も兵隊や雇われモンスター達の蹂躙を受けることになるかも知れない。すべてを承知で、すべてを覚悟しているからこそ、今を楽しめるものなのかも知れない。
 侍臣の監視下の中で、おもむろにアニスは身を隠すほどの芦の茂みに足を踏み入れた。
「…あら?」
 鬱蒼と生い茂る芦が、一部だけ薙ぎ倒されている。アニスはきょとんとした表情でそこに目を配った。
 ティリアンの幼少時から仕え、サーディック・アニスの守り役として信任の厚い侍臣・リゲルは、芦の茂みから響くアニスの叫び声に高齢を忘れて駆け寄った。
「いかがされましたっ、アニス様」
「じい…見て…」
 顔を両手で覆い、震えている少女の目線の先には、ぼろぼろになった法衣を纏っている一人の人間が、うつぶせになって倒れている姿であった。
「人が…人が死んでるの…」
 震えが止まらない少女の声にも、リゲルは冷静に他の侍臣とともに倒れたまま動かない人間のそばに近寄り、生死を確認する。そして今度はリゲルの方が驚愕して声を発した。
「この方は…この方はまさしく…」
「ど、どうしたの?じい…」
 珍しく動揺したリゲルの表情に、アニスは思わずつぶらな瞳を見開いて見つめた。
「大丈夫です。息はありまするが、ひどく衰弱されております。…おい、この方をすぐに城にお運びするのだ。急げっ!」
 リゲルは語気強く侍臣にそう命じると、侍臣は慌てて倒れている人物を担ぎ上げた。
「アニス様、誠におそれいりまするが、本日の散策はここまでにしていただきとう存じます。すぐにお館様とサーディック様に報告せねば…」
 リゲルの狼狽ぶりは尋常ではない。倒れている人間が、沈静で通るこの老臣をそれほどまで慌てさせるほどの人物なのだろうか。
「どうしたの?…その人が、どうかしたの?」
 アニスは混乱していた。心静まる唯一の場所に突然人が倒れていて、その人間を見たリゲルがこうも狼狽する。それは、平和という小さな空間を打ち壊すような場面。覚悟はしているというものの、こんなにも突然にそれが起きようとは、心の準備というものはある程度必要だろうに。
 意識を失っている人間を侍臣たちが担いで去っていった後、リゲルは、荒ぶった息を整えてから、少女を見て言った。
「あの方は……ガルフォード様で、ございますよアニス様…」
「ガル…フォード…?」
 きょとんとした眼差しで、少女はリゲルを見ている。
「お館様のご実弟、今は亡きフュンケル卿のご子息…サーディック様、アニス様の御従兄弟に当たる方でございます…」
「え――――!」
 アニスは愕然となった。そんな話は今まで知らなかった。と言うか、もともと叔父であるフュンケル卿は兄妹の幼い頃に早世しており、叔父に子供がいるという話は全然聞かされていなかった。無論、面識は初めてであると言うことになる。
 侍臣リゲルからしてみれば、思いもよらない出逢い、再会と言うことになる。ガルフォードという人物がまだ幼かった時に一度会ったことがあるからだ。
「ガルフォード様がなぜこのようなところに……おお、それよりもアニス様、申し訳ございませぬが、本日の散策はここまでにしていただきまするぞ。お館様もサーディック様も、きっと驚かれ、喜びまする。さあ、お戻りを」
「え、ええ……」
 結局この日は不意な珍客のお陰で、わずか数十分の散策にとどまってしまった。戸惑いながらも、アニスはリゲルの後をついていった。

コーフェン城――――休息の間

「何事か、騒々しい。」
 一点あわただしくなった城内に、うたた寝していたティリアンはたいそう機嫌が悪くなって叫んだ。
「お館様、お休みになられている場合ではございません。大変ですっ」
 下僕の引っかかる口調に、ティリアンは大きく嘆息する。
「落ち着いて言わぬか。もはや何が起ころうとも恐れはせんっ!」
「は、ははっ…ア、アニス様が…」
 娘の名を聞いた途端、目の色が変わるティリアン。
「アニスがっ!?アニスがどうしたというのだっ!」
「イ、イグルスの森を散策中…」
 息を切らした上、ひどく狼狽している下僕の言葉が詰まる。
「ライル家の密偵に拉致されたのかっ!」
「い、いえ……さ、散策中に、茂みの中で人が倒れているのを見つけられたのこと、今し方ご報告がございまして…」
 ティリアンの思いこみはいい方向に外れた。だが、安心した途端、再び機嫌が悪くなる。また、身体を横たえてぶっきらぼうに言った。
「このご時世、人間のみならず雇われモンスターどもの骸が至るところに散乱している。不思議なことはあるまい。」
「そ、それが…リゲル様のお話では、その人物はフュンケル卿のご子息、ガルフォード様だと…」
「何――――ガルフォードだと?」
 一瞬、ティリアンは怪訝そうに首を傾げたが、記憶の糸を辿り、思い出したかのように慌てて起きあがる。
「甥のガルフォードかっ!」
「は、はい…そのようで…」
「それを先にいわんか馬鹿者っ!」
「も、申し訳ございません」
 ティリアンは下僕を軽く怒鳴りつけてから大慌てで休息の間を飛び出した。

コーフェン城東館 サーディックの部屋

 行き倒れとなっていたガルフォードは、すぐにサーディックの住む東館に担ぎ込まれ、医者を呼ばれた。命に別状はないが、満身創痍の上、極度の疲労と空腹が重なり、昏睡状態は三日は続くだろうと言うことだった。
 一見みすぼらしい乞食のような風体に、ティリアンは一瞬目を細めたが、顔かたちが昔見た弟の息子そのままだったので、ガルフォードと確信して安堵した。
「父上、なぜガルフォードがイグルスの森などに……彼は叔父上の死後、王都ロンディウムで近衛軍士官となっていたと聞き及んでおりますが…」
 サーディックの尋ねに、ティリアンは長嘆する。
「そのようなこと、私の方が知りたいわっ」
 もっともな答えではある。しかし最近のティリアンはかなりナーバスになっている。かたやつとに冷静な息子サーディック。
「しかしアニス。偶然とはいえ、よく彼を見つけてくれた。もしお前がイグルスの森に行かなければ、彼は今頃死んでいたかも知れない。感謝するよ。」
 兄の言葉にアニスは少しはにかんだ。
「しかし、ガルフォードは予断の許さない状態だ。さて…誰に看護を頼むかが問題だが…」
 二領を維持してゆくほどのまともな家臣はもとより、財力さえも不足がちで使用人も満足に雇えないスレテート家。ガルフォードの看護云々以前に、このような状況でよくライル家や国王家などの列強貴族に攻められないものだと不思議である。唯一、この弱体貴族家を救っているのは、宝石魔術師・フレイムの存在であるのだ。火山侯コーラル家がフェリアス家によって滅亡してから、流れ流れてティリアンの元に。周囲からすれば、はっきり言ってスレテート家自身よりも、この宝石が脅威なのだろう。
「まさか、フレイムに頼むわけにもいかないしな…」
 サーディックでさえも本気でそんなことを呟く。人材不足が最大のネック…。
「お兄さま。お願いがあります…」
 アニスが腕組みをしている兄に話しかける。
「私に、ガルフォードの看護をお命じ下さいませんか?」
「何……アニスが?」
「はい…」
 サーディックは妹の様子を見て何か強い意志みたいなものを感じた。数日の間とはいえ、大事な『家臣』でもあるアニスが、看護のために評議の場を欠くことは重大事。
 しかし、アニスはもともといち少女としての人生を送るはずだった。この戦乱の世に身を投じさせたのは父のせいでもあり、自分のせいでもあった。ガルフォードの看護を引き受けることが、せめてもの少女らしさを出せるというのならば、反対など出来ようはずがない。
「……わかった。だがアニス、あまり無理をするな。疲れたら下僕に任せて休め。」
「ありがとうございます、お兄さま」
 兄に拝礼する妹を、サーディックはどこかばつが悪そうに見つめていた。