第6章 希望の綱

 大司教として大都ロンディウムに在していたときから、いわばアニスは温室育ちの深窓のご令嬢であった。ティリアンが離反する以前は、エセルレッド王の庶次子エルフォルド王子との結婚話なども父親同士で言い交わされていたほどである。もちろん、彼女とエルフォルド王子は面識はない。その王子どころか、彼女は今まで身近な男性と言えば、父ティリアンや兄サーディック、近臣リゲル以下数人の従者くらいしかいなかった。
 そんな純粋培養の少女にとって、初めて見る外部の男性に興味を惹かれることはさほど不思議なことではなかった。しかも、自分とそう年が離れていない、言いかえれば自分よりも年下に見える、少年。
 下僕たちによって身体の汚れを洗い落とされたガルフォードは、実に精悍な風貌をしていた。見た目の美醜の位置づけが曖昧であっても、彼が『かっこいい』か悪いかの区別は、本能的にわかる。彼女は直感的に彼をかっこいい人と判断した。
 そんなアニスの献身的な看護の甲斐があってか、彼が意識を取り戻したのは、それから三日後であった。
「…………」
 彼はうっすらと瞼を開く。エメラルドグリーンの瞳がうつろに宙を舞う。しばらくピントが定まらない。しばらくして意識が正常に戻った彼は、視界に映った人影に突然上体を起こして大きな声を放った。
「ゲオルグの手先かッ!――――――――くっ……」
 しかし、激痛が身体中の関節に響き、彼はうめき声を上げながら再び枕に頭を落としてしまった。愕然となるアニス。慌てて彼の上体に手をかける。
「まだ起きあがるのは無理……」
 そう優しく、それでいて悲しげな口調に、彼は不意に毒気を抜かれたように、自分を心配そうに見つめている少女を向く。そして、やや怪訝そうに言葉を発する。
「君は――――ここは……どこだ?」
 彼は自分がふっくらとした寝台に身を横たえいること、そして暖められた部屋にいる状況にようやく気がついたらしい。
「ここはアトレバテスのコーフェン城です――――。あなたがイグルスの森で倒れられていたのを、私が見つけて、ここへ……」
 彼女が言うと、彼は眉をわずかに顰めた。
「アトレバテス?コーフェン?……イグルス?」
 混乱した思考を正常に戻すまでの間、彼は何度も彼女の言葉を反芻した。そして、ようやく思考が元に戻ると、かっと目を見開いて彼女を見た。
「ならばここは伯父上……ティリアン様の……くぉっ!」
 肋骨に激痛が走りながらも、彼はどこか安堵したような表情をした。
「……そうか。私は助かったんだな……。――――私の名はガルフォード。神祇官フュンケルの息子、ガルフォードと言う…。ティリアン様は私の伯父だ……」
 呻きながらも彼は名乗る。彼女は彼の上体を庇いながら、自分も名乗った。
「私はティリアンの娘、アニス……です――――」
「な……、何だってっ!」
 極端とも言えそうな反応に、彼女の方が驚く。つぶらな瞳を見開いてまっすぐに彼を見つめている。
「君はティリアン様の……」
 喋るたびに痛みが肋骨に響く。
「あまり話されない方が…。まだお怪我が全然治っていないのですから…」
 彼女がそう言ってなだめると、彼は小さく唸って体の力をそっと抜く。今はどのようなことにも深く尋ねる気力がない。自分が這々の体でこの地にやってきた目的を訊く。
「伯父上――――ティリアン様は…?」
 その言葉に、彼女はひとつ間を置き、やや不満そうな感じに小さくため息をついてから答える。
「父はお身体の調子が悪くて…今は兄が父に代わって家政を取り仕切っております…」
「なに……伯父上は病を…」
 彼は予想にもしなかったスレテート家の現状を知らされ、力無く肩を落とした。
 スレテート家がカンブリア・エルメットを拠点に独立を成し、ブランシェ・ライルなど極北の雄とも戦いながら西方に進み、モーブル家を倒すなど、ブランシェ・ライルほど有力な新王候補とまで呼ぶには至らないが、群雄の一角として確実に勢力を伸ばしていることは聞き及んでいた。日の出の勢いでイシュメリアを席巻するものだと信じてきた彼にとって、当主病臥で嫡男が家政を代行しているという話は、そんな思惑を翳らすことであった。
「ありがとう……ごめん。少し眠らせてもらうよ…」
 新たな疲れがどっとわき出したのか、彼はそう言うと再び眠りの途についた。彼女は優しく微笑みながら頷いたが、彼が深い眠りにはいると、再び切なそうに彼の寝顔を見守っていた。

三日後――――

 ようやく体力を回復し、寝台から立ち上がれるまでになったガルフォード。アニスの懸命な看護の賜物であることを知るように、二人は他愛のない話題を交わし、柔らかな笑いに包まれていた。彼は驚くほど身長が高かった。ゆうに一九〇センチはあるだろう。アニスにとってはもちろん、こんな大男は見たことがない。イグルスの森で彼を見つけたときはさほどそのようなことは感じなかったが、今こうして立ち並んでみると、アニス自身、首が疲れそうになる。
 そして、何よりも彼が目覚めたときの会話で抱き始めていた"不安"が次第に消えて行き、その時芽生えた、別な感情がかわりに彼女の心を包んでいくような感じがしていた。
 しかし、今は王冠ロイヤルブラッドを巡る争乱の時代。
 善良な領主の下では平民たちもレッドキャップやエルフ、レプラホーンなどの恩恵を受けるが、争乱に明け暮れる領主の下ではブラックアニス、ピクシー、シュリーカーなどの影に怯えなければならない。平民でさえも自らの幸福を得るために私事をかなぐり捨てなければならないのに、彼らの命運を握る貴族たちが自分たちの幸せを望むなんてことは度が過ぎたことであるはずだった。いかにアニスが『普通の少女』であるにせよ、大司教家の令嬢であることに変わりがない。彼女もれっきとした貴族なのである。
 二人の空間も束の間。ドアをノックする音が響き、会話は中断された。
「失礼いたします。サーディック様がお見えになられました。」
 下僕の言葉に、二人の表情が一瞬、緊張する。下僕の脇をさっとかいくぐるように、サーディックが姿を現した。
「気がつかれたようだな。」
 微笑んではいたが、どこか差し迫ったような雰囲気に受け取れるのはいつものことではある。
「久しぶりだな、フォード。」
 サーディックはガルフォードのそばに歩み寄り、ぽんと肩を叩く。
「ご無沙汰いたしておりました、ディック様。」
 王政大司教としてロンディウムに在していた時代から、サーディックとガルフォードは従兄弟同士と言うこともあって仲が良く、気心が知れていたのである。
「久しぶりの再会を祝そうか……と、言いたいところだが、それどころじゃないからな。…ところでお前、驚かせるよな。どうしてまたあんなところに倒れてたんだ?」
 怪訝な眼差しでガルフォードを見る。ガルフォードは一瞬、目を伏せてからサーディックを見て答えた。
「そのことについて、伯父上にお話があり、ロンディウムから出て参りましたが……」
「王都で何かあったのだな?お前のその傷、ただごとではない。宰相か佞臣の刺客にでも襲われたのだろう。」
「ご明察です……。しかし、何とかここまで来られたのは幸いでしたが、伯父上が病とは…」
「父上はここ数年の悲報続きにすっかり精神的に疲れ切っている様子。鬱傾向にあるとの医者の話だ。だから今は私が父に代わって諸事を仕切っている。話なら私が聞く。なあに、良い報せなど期待していないよ。むしろ悪い報せの方が、身が引き締まる思いだ。ははは」
 などと強がりを見せるサーディックではあったが、良い報せの方がいいに越したことはない。だが、ガルフォードの様子からしていい報せの"い"の字もない、今まで悩まされてきた悪い報せの中でも最も過酷なものを秘めている。そう覚悟を決めていた。
「広間で聞こう。アニス、ご苦労だったな。もう、休みなさい。」
 兄にそう命じられ、アニスは渋々とした感じで頷いた。

コーフェン城――――大広間

「なに……本当か、それはっ!」
 サーディックの発した声が、閑散とした大広間に延々と反響する。
「間違いありません……。ケアウリン様は……」
 こみ上げる怒りを必死で抑えながら、ガルフォードは言った。
 ガルフォードがもたらした悪報。それは外相・ケアウリンが、宰相ゲオルグの手によって毒殺されたという、実に衝撃的なものであったのだ。
「何故だ……何故ケアウリン様が殺されなければならないのだっ!」
 悲痛な叫びの後、サーディックは床に崩れ落ちた。慌ててガルフォードが彼を支え起こす。
「国王は…エセルレッド王はそこまでしても、おのが覇権にこだわるかッ!」
 さすがのサーディックも、外相ケアウリン謀殺さるの報には免疫がなかったと見える。
 ケアウリンは、若干二十四歳にしてかつての名君エセルレッドから外相に大抜擢され、数え切れない功績を残してきた。また、ブランカスタ准公として領地施政にも善行著しく、王冠戦争勃発後、威光潰えたランカシア王家にあって、最後の名臣と言われ、味方は元より、反乱貴族たちからも慕われた、温厚篤実・清廉な大尽だったのだ。
 もちろん、スレテート家も王家を離脱し、独立を果たしたが、当主ティリアンがケアウリンと仲が良く、独立後も何かとエセルレッド王との間を取り持ち、鏖殺を強行しようとした王を諫めたほど。もちろん、今こうしてスレテート家が何とか自領を維持し、王家は元より、列強ライル家などからの圧力を受けながらも命脈を保ち続けていられるのは、外相ケアウリンの影ながらの奔走があったからなのだ。
 だが、そんな外相の行動を快く思わない者がいた。
 無能と化した暴君エセルレッドを操り、政府の実権を握り、イシュメリア大陸を掌中に収めようという野望に燃える、宰相・ゲオルグである。
 ゲオルグは野望を秘めているだけではなく、それに見合った知勇に秀で、エセルレッドの王妃ラミアの死後、凶事が続くイシュメリアの人民たちの暴動を軍隊をもってねじ伏せるように勧めた男であり、武官筆頭ブランシェ家、文官筆頭ライル家の家財没収、改易を画策した、稀代の悪臣である。
 ゲオルグとは対照的なケアウリンは、以前からそんなゲオルグのやり方を批判し、何かと王を諫止つづけてきた。
 王は都度、そんな忌々しいケアウリンを殺すことを考えてきたのだが、多くの臣下や人民たちから敬慕されている手前、謀殺を思いとどまってきたのである。彼を殺害すれば、反乱貴族ばかりではなく、味方からも反旗がひるがえかねない。ケアウリンという人物は、それほどの存在であったのだ。
 反乱貴族たちの勢いが増し、ランカシア王家の直轄領は激減した。もはや、昔日の威光はない。事を間違えれば、エセルレッド王も、ゲオルグも命はないはずだった。両者の命の頼みとも言えるケアウリンを、自らの手で謀殺したことは、自らの首を絞める以外の何ものでもない。ここまで争乱が長引いてもなお、和平の道を模索しつづけてきた名臣の死は、反乱貴族たちにとっても、王家自身にとっても、大きな暗い影を落とすことになってしまったのだ。イシュメリア平和統一の夢が、また十年、二十年と先になってしまったと言っても過言ではない。
「愚かな……愚かすぎるぞ国王よ…ゲオルグごとき奸臣に誑かされつづけアヴェール様を幽閉し、魔竜を操り人民をねじ伏せるだけではおさまらず……遂に…遂に皆の拠り所であったケアウリン様まで殺めてしまうとは……」
 サーディックの悲嘆は涙さえ流せないほどであった。涙が流れないまま、彼は嗚咽しつづける。
「私も……私も国王の非道に耐えに耐えながら今まで従ってきましたが……さすがにもう限界です…。国王も、宰相も…もはや常軌を逸したとしか思えません…」
 近衛軍士官であったガルフォードは、ケアウリン急死の報せを受けたが、すぐにそれが謀殺であることを察知し、事実究明のために宰相府に単身乗り込もうとした。しかし、宰相ゲオルグが近衛軍の一士官を引見することなど到底あり得ない。門前払いを受けた彼はその場でゲオルグを激しく罵倒し、出奔した。
 しかし、王家の内情を知る彼が他家に奔ることを危惧したゲオルグは、密かに刺客を放ち彼の後を追わせたのだ。
 かつて、近衛軍の有力将校だったオズワルド、グリフィスらはスレテート家に内通しているなどと疑われて宰相に謀殺された。事実確認などよりも、疑いのある者を全て抹殺する。これが国王や宰相のやり方なのである。
 伯父であるスレテート領を目指していたガルフォードは、十数度、刺客の手に襲われた。持ち前の剣術をもって何とか切り抜けつづけてきたのだが、ついにイグルスの森で力尽きたと言うわけであったのだ。しかし、それが不幸中の幸い、スレテート領内であったということだ。
「……それにつけてもフォード、よく来てくれた。このままここに残り、父上や私に力を貸してくれないか。」
 サーディックがガルフォードの両肩に手を置き、瞳を伏せる。
「それはもう…私の方からお願いしたいくらいです…。這々の体で落ち延びてきたので、何も手持ちはありませんが…私でお役に立つことがありましたらば、何でも言って下さい。」
 ガルフォードはサーディックの両手を握り返し、額を当てる。
「ありがとう…君が味方になってくれれば、スレテート家の明日はきっと明るくなる…」
「身に余るお言葉ですディック様――――」
 恭謙としたガルフォードの態度に、サーディックは思わず苦笑した。
「従兄弟じゃないか。そんな他人行儀な言い方はやめてくれよ。」
「はっ…申し訳ありません…士官時代からの癖がまだ…」
 そう返すと、二人は小さく笑い合った。
「今この時にお前が来てくれたことは、神のお導きというものだろう。」
 サーディックがそう呟く。
「早速だが、お前の力を借りなければならない。」
「何なりと、お申しつけ下さい。」
「……単刀直入に言おう。リンディニスの領主となってもらいたい。」
「何と――――私が領主に――――?」
 それはガルフォードにとって考えも及ばなかった言葉である。
「ペンザンス、ドルノワリア、ベルガルムの三領を支配していたフェリアス家が、エアドリックとか言う者に乗っ取られた話は知っているだろう。」
「はい。そのことで王都もしばらく騒然としておりましたので……」
「イリウスが油断していたからだとはいえ、たった一夜にしてあれほど強大な勢力を揮っていたフェリアス家を滅ぼした男だ。並の者とは思えぬ。」
「しかし……その男、噂ではペンザンス周辺を荒らし回っていた盗賊の頭であるとか。…そのような者たちに私たちが恐々とすることもないでしょう。」
「いや……油断はするな。エアドリックという者がどのような人物なのか、正直まだわからない。フェリアス家を滅ぼしたのは計画を立てての事なのか、それとも偶然のまぐれなのか…全てがわかならい。奴の力は未知数だ。」
「考え過ぎだと思います。」
「――――まあ、そうだったらいいんだけどな。でも、不気味な存在と言えば不気味だ。リンディニスは王都ロンディウム、セルシーの王家領とドルノワリア、ベルガルムに隣接する激戦区。並の者では守り通すことは出来ない。実は…この地を治めるに相応しい人物を捜し求めていたところなのだ。」
「私で、よろしいのですか…?」
「もちろんだ。お前の武才は私もよく知っている。お前ならばリンディニスを治めるに相応しい人間だ。引き受けてくれるか。」
 ガルフォードは一瞬、沈黙した後、毅然とした眼差しをサーディックに向け、言った。
「非才ながらこのガルフォード、伯父上、ディック様のご期待に添うよう、がんばります。」

 サーディックとガルフォード。従兄弟同士が固い握手を交わす。こうして、ガルフォードはスレテート家家臣となった早々に、激戦区であるリンディニス領領主として赴任することになった。
 人材不足のスレテート家にあって、ガルフォードの登場はまさしく干上がった畑に降り出した雨のような存在であった。大司教家の復権に希望の綱となるガルフォードは、果たして強靱な綱となるか。それとも、もろく千切れる綱になるのか。衰退しているとはいえ、未だ魔竜・王冠ドラゴンを擁しているランカシア王家、そして不気味な存在であるテュードリア家に隣接する中、彼らの侵攻をよく抑えきる自信が彼にはあるのか。
 任地に向かってゆくガルフォードを、道の向こうに消えてゆくまで見送っていたアニスの瞳には、彼の自信満々な表情が鮮明に焼きついていた。