第1章 王宮の戦士たち

 啓蟄の景観イムルに小児の歓声途絶え親御まさに師走の事
  武公悠然と城下を起ち、名士の消息を知府に訊ねること

 バトランドの春は常に薄靄が覆うような景色をたたえ、どこか幻想的な装いを呈している。ガーデンブルグ山国と共に北の辺境国と称される割には、特に寒さの厳しい冬を除いて、穏やかな気候が続く。
 王宮近衛隊、いわゆる王宮戦士たちはそれぞれの騎乗を伴い、宝刀を提げ、靄をうち払うが如く意気揚々と出撃していったが、ライアンだけは得手の銅剣一本のみの軽装備で宮廷を退出した。
 大命を受けたばかりの武人にしては、靄の景色を愉しみ、新芽の香りを胸に満喫するなどの余裕を見せるライアン。
 丁度、城下は人も姿を見せ始め、一日の始まりを感じさせていた。
「あ、ライアン様」
 不意に若い女性の声に呼び止められ、ライアンはゆっくりと振り向く。
「これはフレア殿。おはようございます」
 とかく城下では『バトランド随一の美人才女』と謳われたフレア。
 三十路とは名乗ればしかりととばかりに若々しさを保ち続けており、才女の名に違わぬ気立ての良さと優しさ、繊細さを備え、平民は元より、近衛兵から宮廷の重臣までもが彼女のファンである。
 隊商を取り仕切る富豪の家に生まれ、何不自由なく暮らしてきたはずの彼女が、十年前に当時まだ無頼の徒に等しかったアレクスと駆け落ち同然に結婚したときは天地がひっくり返るほどの大騒ぎとなった。
 数多の貴公子たちが金銀財宝やら、高価な花束などを贈り求婚しても見向きもせず、彼女自身選んだ相手が名もない無頼漢だったから、そりゃあ周囲は黙ってはいないだろう。
 ついには逆恨みでアレクスの命を狙う者まで現れたほどだから、一時山越えでボンモール王国に退避していたこともあった。国王陛下も異例の声明を発し、二人は帰国。城下の一角に家を構えて今日まで至っている。
 彼女の夫アレクスも、さすがに自分の置かれている立場が理解できたのか、無頼の道を捨て、何を思ったか国文学の道に没頭。七年の努力の末、宮廷祐筆官(国事記録係)に登用され、その素朴で簡潔な文章、無頼の頃の面影を残すような飾らない人柄から人々の人気を博すようになり、名士と称されている。
「……そう言えば今朝、馬の嘶きで目が覚めて、外を眺めていましたら、近衛の兵士様が大勢城下を発たれて行かれましたが、何事かございましたの?」
 多分、フレアならずともあれほどの近衛隊士が馬蹄を轟かせて城下を颯爽と飛び出したならば、誰だって目が覚めるだろう。
「まさか、戦争でも……」
 不安そうに呟くフレア。まあ、似ているようでそうではないのだが…
「賊の残党が色々と騒ぎを起こしていましてね。ちょっと鎮圧するために出征するのですよ」
 幼児拉致事件などと言って無用な混乱を来すよりはこう言った方が無難だろう。それに別段、嘘でもないからだ。
「まあ…それは大変なことでしょうに……」
 小首を傾げる彼女の仕種はこれもまた美しい。
「ライアン様も、もしかして…」
「そうです。不肖、この身にも陛下の大命を拝しこれから出征を」
 しかし、フレアはどことなく微笑みを浮かべながらライアンを見つめている。
「そうでしたの……ふふ、ごめんなさい。何か、全然そうは見えなかったから」
 確かに、ここにいるライアンは一見、平時の“昼行灯”である。まさかこれから大事を果たすために出征する王宮戦士には見えない。
「はははは。私はいつものらりくらりとしているゆえ、そう見えて当たり前のこと。躍起になるのは性に合いませんからな」
「いいえ。かえって冷静さを失わずにマイペースで物事に当たれますから、すごく頼りになりますわ」
「さほどでもありませんよ」
「ところでライアン様…。ひとつお願いしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「フレア殿が? それはまたお珍しい。この私で出来ることであれば、何なりと」
「はい……」
 突然、寂しそうに瞳を伏せるフレア。美人はどんな仕種をしてもよいものである。
「夫のことなのですが……」
「アレクスが……どうかしたのですか?」
「はい……実は、宮廷の所用でイムルへ下向して二ヶ月が経つのですが、何の連絡もなくて…」
「何と。あのアレクスが――――ですか?」
「ええ……。今までどこに行くときも毎日のように便りを絶やさなかったあの人が……」
「それはずいぶんとらしくない。アレクスは無頼の頃から知ってはいるが、律儀さだけは私も認めている。ましてやあなたのような人にふた月はもとより三日とて便りを絶やさぬような男。……これは何かがありましたな」
 ライアンも少しは気を遣えばいいものを、かえってフレアの不安を煽るようなことを言う。案の定、フレアの美貌が翳る。
「何か――――あったのですね……やはり……もしかすると……夫の命はもう……」
 この賢妻も、時々極端な考えにひとりで落ち込むことがある。
「フレア殿、それは少し考え過ぎなのでは……」
「そうでしょうか……でも……」
 ひとりで状況を考え込み、ますます表情を暗くするフレア。このはげしいマイナス思考さえ直れば、申し分がないとかつて誰かが言っていた。ライアンはようやく自分の発した言葉を悔い、言い直した。
「イムルでの公務が予定よりも長引いているのかも知れませんな。……わかりました。このライアンが事情を確かめてみましょう」
「本当でございますか! ああ、良かった……」
 フレアは本当に安堵したように、何度もため息をつき、ライアンに頭を下げていた。
 アレクスのことであるからまずは心配ないとは思うのだが、無頼の徒の癖が再燃し、よからぬ事態を招いていないとも限らない。ライアンはため息をひとつつくと、おもむろに城下を発った。

 北バトランド・イムル平野へは、ガーデンブルグ河の地下隧道を通る。一五〇〇年の古である世戦時代までは、勇壮な陸橋が架けられていたらしいが、今はその面影はない。
 南北を行き交うための唯一の通行路は、案の定厳重な警備体制が敷かれていた。
「ライアン殿ではありませんか」
「おお、アウル大佐、久しいな」
 ライアンを呼び止めた青年士官・アウル。ライアンの後輩だが、今は昇進して右近衛府大佐・隧道警備隊長。つまり地位的にはライアンの上司になる。
「状況はどうかな?」
 しかしそれを気にする風もなく悠長気味に、ライアンは尋ねる。その様子に、アウルはいささか驚いた表情を見せた。
「今朝早くに宮廷の諸隊が続々と北へ抜けられ、リーリス少将の隊はアルタイ山を南道から行くと仰せられ、そのまま西に進んでゆかれましたが」
「左様か――――」
 なぜそんなに余裕とも取れる表情をしていられるのだろうか、と言った風に、アウルはライアンを見ていた。
「ライアン殿。ライアン殿は主命のことを――――」
「そなた、祐筆官アレクスの所在について何か聞いておらぬか?」
「はっ――――?」
 言葉を遮って発したライアンの言葉に、アウルは絶句した。
「アレクスの所在について――――ああ、存ぜぬならばよい。すまぬな」
 ライアンは呵々と笑い、歩を進める。
「ライアン殿っ」
「ん?」
 あわてて呼び止めたアウルが、戸惑い気味に答える。
「もれ聞くところによると、名士殿は何でもイムルにて囚われているとか。理由は存じませぬが」
「ほう――――それは面妖な。あの男、ついに無頼の血でも騒ぎ出したのかな? ははははっ」
 自分で言った冗談を嘲弄しながら、背後のアウルに手を振ったくらいにして隧道を北へと向かう。
「……はぁ」
 アウルがついたため息は、王宮戦士の多くが等しく経験していたという。

 イムルの村は大陸極北端にある小村だが、気候は比較的温暖で、のどかな佇まいを見せる。
 ライアンは村に入ると、まっすぐにイムル知府館へ向かった。
「お願いいたしますっ」
「お頼み申し上げますっ」
「知府様っ」
「どうかっ、どうか子供のことを――――」
 しかし、当の知府館前は壮年の男女、見るに夫婦らしき人々に埋め尽くされていた。固く閉ざされた知府館の門の鉄格子が、押し寄せる人波に歪み壊されそうばかりである。
(これは…………相当なものであるな)
 ライアンは苦笑いを浮かべながら宿へと向かう。ワルツ知府に面会するのは夜になってからでも良いと判断したからだった。