第1章 王宮の戦士たち

名士も狂気の魔物を説き伏せること能わず童心に帰し
フレア 危うきを顧みず武公に随従し女心大いに揺るぐ事

「何と、それではアレクスは――――」
 幼児たちの親たちがひっきりなしに門扉を叩く音鳴りやまぬ中、知府事のワルツは地下牢に繋がれている囚人こそアレクスではないかと言った。状況が状況のために、腰を据えて虜囚の詮議を行う暇がないまま、二月余りが過ぎていたのだと。
「会わせていただけますかな」
 随意にと知府は返す。執務室に戻れば、今日もまた民の訴状を聞き続ける一日が始まる。並の者であればノイローゼになるだろうよと、苦笑を浮かべて知府は執務室へと消えた。
「ライアンです。虜囚に面会を求めたいのだが」
「ご苦労様です。お話は知府事より承っております。“アレクス”と名乗る囚人の元へご案内いたします。こちらへ――――」
 看守に案内され、連なる独房の一番奥の前に来る。
「アレクス、面会だ」
「…………」
 看守はライアンに軽く会釈をすると下がっていった。呼ばれた囚人は無言のままゆっくりと振り返る。
「おお……」
 ライアンが目にした無精ひげ面の男は、誰なん“名士”アレクスその人であった。ごろつきの頃よりは少し痩せたが、それでも一本気な雰囲気が抜けない容貌は忘れうるはずがない。
「アレクス、そなた心配させたな。フレア殿がどれほど案じておられたか……」
 ところが、アレクスの口から出た言葉は、ライアンを愕然とさせた。
「……おじちゃん、誰?」
 ふざけているのかと思うような声を発するアレクス。
「いかがしたのだ、アレクス」
「?」
 ライアンは訝しげに訊ねるが、アレクスの様子は変わらない。問い詰めるような言葉を発すれば怯えたように身を縮こませるほどだった。
「これは、ただ事ではないな」
 このままではらちがあかず、ライアンは牢を離れ、再びワルツ知府事に面会を求めた。
「知府事は民の訴状処理にて多忙でございます。どうか今日のところは……」
 知府秘書官の女性がたどたどしく断る。だが、ライアンは柔らかく、それでも強い口調で返した。
「地下に囚われている男は間違いなく宮廷祐筆官アレクスである。この私が確認いたした。そもそもアレクスが陛下より受けし命は此度の騒動に深い関わりを持っている。このまま放置しておけば重要な手がかりを失することになりかねません」
 合間を見て接見したワルツ知府事はライアンの申し出を了承した。パンを盗ったという理由で拘束されてきたときはすでに童心に帰したような様子であったという。
「私はこれよりバトランドへ戻り、アレクスの御妻女に伝えねばならないゆえ、アレクスのことはしかと頼みます」
 アルタイの山賊討伐の気運が高まりつつある中で、ライアンの行動はやはり他の王宮戦士たちとは違っていたらしい。いかに知府事とはいえ、王命を承けた王宮戦士の意向を無下にすることは憚れた。ワルツの表情は苦々しくさえ感じ取れたという。

 踵を返してバトランドへ向かうライアン。
「ご帰還ですか、ライアン殿」
 アウルが面もち晴れやかに訊ねるとライアンはのほほんとも取れる笑顔を浮かべて答える。
「まぁ、煩雑な所用が片づいたとでも言うのかな」
「左様ですか、それはようございました」
 朴念仁・昼行灯などと陰口をたたかれているライアンが功を成したこと。後輩としてアウルは鼻が高い。そう思ったのだった。
 バトランド城下のアレクス宅にフレアの姿はなかった。
 周囲の住人たちに話を聞くと、彼女は近頃ルスィーダに顔を見せては酩酊状態で帰ってくるのだという。
 王国随一の美人が酒場で一人あからさまに自棄酒を呷り、前後の見境つかなくなれば、性根の悪い男どもが群がるのが道理。
「すまなかったな、マチルダ」
 すでに意識の極限状態まで酔ったフレアの姿に唖然としながらも、ライアンはマチルダに簡潔に事情を話し、礼を述べた。
「同じ女として当然のことをしたまでよ」
 ジントニックのグラスを差し出しながら、マチルダはさらりと言う。
「さすが、そなたはわかってくれているようだ」
「だてに子供の頃からあなたのこと見てませんからね」
 ライアンはそれをひと飲みに飲み干すとフレアの肩を支えるように腕を回して立ち上がる。
「これからどうするの?」
「アレクスの家に連れてゆくのは良いのだが、何かと誤解が生じてもまずい。今日は宿にフレア殿をお泊めする。マチルダ、そなたも時間が空いたら顔を覗かせてくれないか」
「そうね。あたしもその方がいいと思う。……それだったら、あたしもいったん宿までつきあうわ」
「それはありがたい」
 ライアンとマチルダはフレアを支えるようにして宿へ入った。マチルダがいてくれたお陰で、ライアンは泥酔の人妻をものにしようなどと言う不逞の輩とは見られずにすんだようである。
「じゃあ、また後で顔見せるから」
 と、ベッドに寝かされて寝息を立てているフレアを見てから、マチルダは去っていった。
「ん……んん……」
 寝返りを打つフレアの様子を眺めながら、ライアンはため息をつく。
(あのフレア殿がここまで荒れる気持ち、わからぬでもないが……何があったかは知らぬが、アレクスも罪な男だ――――)
 時は静かに過ぎてゆく。廊下の壁際のベットにフレア。ライアンは窓際の木椅子にもたれ、いつしか微睡んでいたらしかった。
「…………!」
 気がつくと、目の前の人影がちょうどライアンに毛布を掛けようとしていた所だった。身じろぎしたライアンに驚き、縮込む。
 ライアン「フレア殿か、気がつかれたようですな」
 フレア「ライアン様……申し訳ありません……」
  フレアは兢々と頭を下げる。
 ライアン「何も謝られることはない。……それよりも、マチルダは来ませんでしたか」
 フレア「ええ、つい先ほど来て、ライアン様が眠っているから帰ると……」
 ライアン「何と……マチルダ。余計な気遣いを……。と、それはよい。フレア殿、アレクスの所在がわかりました」
 フレア「えっ…………!」
  フレアの顔色が月光に一瞬映える。
 ライアン「イムル知府に微罪にて拘束されているようです」
 フレア「!」
  その言葉を聞いた瞬間、フレアの表情がこわばる。脳裏に過ぎるは、アレクスのそれまでの半生。
 ライアン「ただ……いささか様子がおかしく」
 フレア「……様子……とは?」
 ライアン「まるで幼い子供に還ったかのように私を見ては怯え、発する言葉も幼子そのもの……」
 フレア「童心に……還ってしまった様だと…………」
 ライアン「よもやアレクスの狂言だとは思えずに」
 フレア「…………」
 ライアン「ワルツ知府事は、近日アレクスを赦免する意向です。フレア殿は――――」
  心安らかにアレクスの帰還を待たれよと言おうとした。だが、フレアは語気を強くして言った。
「私をイムルへお連れ下さりませ、ライアン様っ!」
「なんと、ご自分が何を仰せであるかお分かりかフレア殿」
「わかっております。……わかっておりますが……私は――――」
 涙声で訴えるフレア。それがいかなる思いで発しているのか、ライアンには解っていた。
「外界は凶悪化している魔物が徘徊し、途轍もなく危険です。ましてやあなたのような女性は連中の格好の餌食となりうる。それでも行かれると申すのか」
「あの人の……アレクスのためなら…………」
 ライアンはまっすぐにフレアを見た。彼女もまた、強い意志を秘めた眼差しをライアンに向ける。
「……わかりました。フレア殿をイムルまで送るお役目、引き承けました。ただし、いかなる場合においても、私のそばを離れることはまかりなりません」
「はい……」
 フレアのことである。ここで断っても、密かにライアンの後を追ってくることは必定である。

「大事ありませんか、フレア殿」
 城下を出、遙かに広がる草原を見回すと、一見平和な装いをしているのだが、近年凶悪化してきた魔物たちの彷徨う危険な外界でもあった。
 実際、大人であれば、安価の銅の剣で容易に倒せるスライムや耳飛びネズミなどの魔物たちにさえ女性にとっては命に関わる。
 スライムに飛び掛かられたフレアだったが、すんでの所でスライムはライアンの剣に一刀両断され、助かった。
「も……もうしわけ、ございません……」
 魔物に飛び掛かられたときに足をくじいたフレア。わかっていたことだったが、この様子ではまともにイムルへたどり着くのは困難である。
「致し方なし。少々手荒ですがお許しあれ」
 と、ライアンは不意にかがみ込むと、両腕で彼女を抱き上げた。
「きゃっ」
 小さく悲鳴を上げ、フレアは顔を赤く染めた。俗に言う『お姫様だっこ』というものだ。ライアンにとって両手はふさがり、剣や盾が使用不能となるが、怪我をしている彼女を伴うならばこちらの方が手っ取り早い。
「さあ、気を取り直して参りますか。しっかりと私に掴まっていてください」
「…………」
 言われる通りに、フレアはライアンの服に手を添える。自分でもわかるくらいに鼓動が高鳴ってゆくのを感じた。伏せ目がちに瞳を上げると、ライアンの毅然とした眼差しが、真っ直ぐ前方を向いている。
 キャ――――ス!
 ピキ―――――!
 遭遇するスライムや耳飛びネズミ、はさみクワガタなどの魔物たちも、さすがに両手が塞がっていては強敵である。だが、体得した武術が功を奏す。時折不可抗力で強く抱きしめられるたびに、フレアは命の危険にさらされているにもかかわらずドキドキとしていた。それはまるで、かつてアレクスと出逢った頃のような衝動に似ていたと言う。