凱旋したのかと思ったライアンが、女性を抱きかかえながら再び現れたことに、さすがのアウルもあからさまに失望の念を断ち切れなかった。
ライアンは平静な面持ちのままに隧道を抜け、イムルへと向かったのだった。さすがに四六時中、婦女子を抱えながらの旅は無理をきたすので、途中途中で休息を入れた。一日の行程を一日半に延ばす。一刻も早くイムルへ駆けつけたいだろうフレアも、それは当然とライアンに全てを任せた。
一介の王宮戦士と、一向に帰らぬ夫を待つ妻の二人旅。傍目からすれば何とも怪しく官能的なシチュエーションなのだろうが、それは朴念仁と評された所以か、あるいはライアン自身にその気がなかったのか、襲いかかる魔物たち以外に何事も無く、ライアンとフレアはイムルへとたどり着いたのだった。
「祐筆官アレクスの御妻女フレア殿であります」
フレアを紹介された知府事は承諾し、配下に命じてアレクスを召した。さすが一度は名の知れた女性である。「…………」
アレクスは呆けた表情で愛妻を見る。
「あなたっ、私よ。あなたの妻のフレアですっ!」
わき目もふらずに、フレアは夫に抱きつく。そしてわずかの時が流れた。
後に、詩人・文学者ホイミンが遺した、八勇士ライアン伝の史書『英武公真記』に、この時の様子が一節として描かれている。わかりやすく注釈する。
アレクスが恐怖に遭遇して心が子供に返ってしまったことはひとえに世の中の不安の一端だった
だが、賢い妻であるフレアは危険を顧みずに英武公(ライアン)と共に駆けつけるまさに鑑
子供連続誘拐事件の探索という公務を念頭に置きながら、私用をこなす武公への非難は高くあり
武公の心中は察するにあまりあるが、武公自身はいかがであっただろうか
さて、そのフレアは童心のアレクスを胸に抱き、いつも行っている習慣を施したと
するとアレクスはやがて名士の面持ちを取り戻し、妻と武公に対して深く謝意を述べた
しかし、その習慣について武公はあえて言及せず
「おお、フレア――――それにそちらは、ライアン殿」
アレクスはその状況がいまいち理解できず、ただ眼前の妻とライアンの存在に驚きを表していた。
「気がついたようだなアレクス」
「私はいったい……それにここは――――」
アレクスはいささか混乱していた。どのくらいの時間を子供口調で話していたのか、しゃべり方が若干おかしい。
「全く……イムルに来てそなたは何をしていたのだ」
呆れ気味にアレクスを見るライアン。それでも茫然としているアレクスに、ライアンは大雑把に事情を語る。
「おお、そうでした。確かに、私は子供達からそのことを聞き村外れの井戸へと……そこで……」
「村外れの井戸だと?」
「はい。何でも、消息を絶った子供達のほとんどが、西の森にある古井戸から姿を消したとの噂を聞き、赴きました。そこで不意に魔物に襲われて……」
思い出したかのように身震いするアレクス。気遣うフレア。
「そうか。……すると敵はアルタイの山賊とは限らぬと、そう言うことだな」
「アルタイ山賊? そんな。アルタイ山賊は確か三月ほど前にリウラル将軍の部隊によって壊滅させられたはずですが」
「そなたの記憶より、時代は二月ほど流れているぞ。ははははっ」
高笑するライアン。つられてフレアも笑う。ひとり唖然とするアレクス。
「とにもかくにも二人とも何より。帰路はワルツ知府事から護衛が付くであろうから、アレクス、二度とフレア殿を悲しませることはするな」
柔らかく、ライアンは言う。アレクス、顔を赤くして頭を垂れた。
「ライアン殿」
立ち去ろうとするライアンを呼び止めるアレクス。
「このアレクス思ったことなのですが……こたびの事件――――、単なる失踪事件と片づけてはならないような気がするのです――――」
「その言葉、胸にとどめおこう」
「ライアン様っ」
再び踵を返したライアンを、今度はフレアが呼び止めた。わずかに頬を染めて、恥ずかしそうに見つめる。
「ライアン様…………その…………本当に……ありがとうございました」
様々な想いを込めて、フレアはそう言った。だが、ライアンにはその言葉が秘める風雅を知る術もない。
「アレクスと共に、幸福ありきことを祈ります」
ライアンは村外れの井戸に向かった。
陽も西に傾きかけた頃合い。その古井戸はさほど奥まったところではなかったが、子供にとっては十分な探検場所に相違なかった。遠くからさんざめく魔物たちの奇声は決して命を奪うほどの凶暴な魔物たちではないが、それでも子供達にしてみれば脅威であり、そして好奇心を満たすものだった。
井戸の中をうかがうライアン。中は薄暗い。子供達が設置したのだろうか、梯子伝いに底へ降りると、狭い入口の割に、ちょっとした洞窟のように開けた場所に降りた。
「なるほど。底は洞窟となっていたのか」
ライアンの声が響く。そこは枯渇したから放棄したと言ってもいいだろう。掘り当てた当初から、さほどの水量がなかった。あまり手つかずのまま棄てられた井戸を、子供達が占領する。洞窟となっている井戸の底を、彼らの秘密基地に改造することは簡単なことだったのである。
しかも驚くことに光りゴケが岩盤に繁殖し灯りの代わりになっている。たかが子供の秘密基地と侮るべからずとは後の英武公真記にある。
洞窟はつとに小さな水音ですらよく反響させる。足音、鎧のすり合う音、呼吸。
「?」
それに交じり、奇妙な音がライアンの耳を捉えた。足を止め、耳を澄ます。
(…………っちだよ………………こっち……だよ………………こっちだよ……)
ライアンは剣の柄を握りしめながら、声のする方角へ、ゆっくりと歩いていった。
分かれ道。ライアンが誤った道を歩き出そうとすれば、そっちじゃないよと声はまるで道標のようにライアンを導いた。
「こっちだよ……」
声は徐々にはっきりと聞こえてきた。子供のような声。この井戸に逃れ、出られなくなってしまった子供が救いを求めているのだろうかと考えた。しかし、子供の秘密基地ならば、出られなくなってしまったと言う方がおかしい。
(魔物か……)
神経を研ぎ澄まして声のする方へ向かう。やがて開けた場所に出たかと思った瞬間だった。
「キエエェェェェェッッ!」
不意を突く見習い悪魔の攻撃。だが、あらかじめそれを予測していた事態に、ライアンは冷静だった。一刀の下に斬り捨ててしまった。ぐうの音も出ないとはまさにこのこと。
しかし、ライアンは剣を納めなかった。
「そこな魔物、姿を見せよ」
息を潜める魔物の気配。
「そちらが行かぬならば私が参ろう」
切っ先を突き出しながらライアンは気配に向かって歩を進める。
「てやっ!」
「きゃ――――!」
脅しに気合いをかけた瞬間、小さな悲鳴が響く。
「ゆ、許してくださいっ!」
岩盤に身を潜めている声の主は怯え気味に許しを請う。
「ぼ、僕は悪い魔物じゃないですから……」
「…………?」
ライアンが剣を引くと、声の主は岩盤からひょっと姿を見せた。
「ホイミスライムか――――」
真っ青な頭に大きな瞳が二つ、小ぶりな口。触手のような足が7,8本。それは過去に何度も戦ったことのある、ホイミの呪文を使うスライムの変種、ホイミスライムだった。
「に、人間の戦士さま――――僕は……僕は……」
怯えて言葉が出ない様子。
今まで遭遇した魔物たちとは様子が違うと思ったライアンは警戒を解き、剣を鞘に収める。
「ありがとう、戦士さま。……僕はホイミンと言います。僕には夢があって、仲間たちから離れて来たんです」
「夢だと……? 魔物のお前に、夢だと?」
するとホイミンは嬉々とした表情で大きく頷いた。
「はいっ。僕は――――」
だが、一瞬言葉を詰まらせるホイミン。
「かまわぬから言ってみよ」
「はい――――。実は僕……に、人間に……なりたいんです」
消え入りそうな声だったかもしれない。だが、洞窟の音響の良さが、その言葉を反芻させる。
「人間になりたいだと?」
ライアンは真顔でホイミンを見る。ホイミンは大きな瞳にわずかに照れの色を浮かべ、真っ直ぐにライアンを見つめる。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
一人と一匹はしばらくの間お互いを見つめ合った。やがて、突然ライアンがおとがいを外したのだ。
「せ、戦士さま……?」
ホイミンの頭に不安と怯えが再び芽生える。ライアンはしばらく笑った後、右手をホイミンのつるつるとした頭に乗せ、撫でた。
「??」
唖然とするホイミン。
「そなた、ホイミンと言ったな。気に入ったぞ」
その言葉に、ホイミンの表情がぱっと明るくなる。
「そなたの夢、叶うかどうか、すべては神のみぞ知ることなれど、ここで私がそなたと出会ったことを神のお導きと見るか」
「はいっ!」
ホイミンはただでさえ愛嬌に満ちた表情をさらに笑顔で飾った。生を受けてからこれ以上にない幸運に巡り会えたような、そんな表情だったと、英武公真記の自伝に記されている。
「ならば私と共に行くかホイミン。そなたの夢、叶えるための手助けになろう」
「せ、戦士さまっ、あ、ありがとうございます――――!」
思わずホイミンはライアンの身体に抱きついた。触手をからみつけたと言うべきか。
「私の名はライアンだ。バトランド王宮戦士を務めている。よろしく頼むぞ」
自己紹介をするライアン。ホイミンもまた改めて自己紹介をした。特技は言わずもがなホイミの呪文。ライアンにとってはこの上ない朋友を得たのだった。
「あっ、そうだライアンさま」
そして、ホイミンは仲間の印として、一個の宝箱を引き出してきた。
「これは……?」
「この井戸で遊んでいた人間の子供達がよく使っていた物です」
ライアンが蓋を開けると、そこには不思議な淡い青色の光を放つ、一足の靴が納められていたのだった。