第2章 おてんば姫の冒険
北方の宿星、天業に順いて西地に下りて数余年
西方に登高たる三星ありき
天真爛漫たりし光輝、皎き将星アリーナと曰う
権謀術数たりし光輝、蒼き護星クリフトと曰う
泰然自若たりし光輝、赤き護星ブライと曰う
慎ましき宮廷の礼法、将星大いに窮屈を隠し得ず
時の王賢文、大いに胸中痛憤するも剛志殊に枉げ難し
蛟竜水を得て四海に跨ぎて竜虎の武名天を衝く
天命よろしく明星東海へと誘いて光子と邂さらん
「えいっ、やぁっ!」
少女の掛け声が響く。
バシッ・・・バシッ・・・
掛け声と同時に、物を撲つ乾いた音が響き渡った。
「たぁ――――――――つ」
少女の細くしなやかな長い脚が、青年の上体をめがけた。素早い動きだ。その蹴りをまともに受ければ、しばらく立ち上がることすら出来ないだろう。
だが――――
「ふんっ―――――」
「きゃぁっ!」
青年は悠然と少女の足首を捉え、引き寄せた。体勢を崩した少女がどうと地に倒れ臥す。
「っつう――――」
少女は打ちつけた腰をさすりながら悔しさを滲ませて立ち上がる。
「たぁっ――――!」
間を置かず、少女は美しき蝶のように舞い上がり、青年目掛けて利き足を突き出す。
「はっ――――」
しかし青年は冷静に、悠々とそれをかわし、逆に少女の上体を背後から抱きすくめるようにして、地に倒した。
四肢の自由を奪われた少女が、無念そうにうめく。
「うぅ……どうして敵わないの? セルラン、隙だらけに見えるのに――――」
抵抗は見苦しいとばかりに、せめてもと強がりを言う少女。青年は、ひとつくすと笑うと、手足の枷を外した。
「お怪我はありませんか。レディたるもの、無闇に跳ね上がってはいけません」
からかうように青年が言うと、少女は拗ねたように頬をふくらませながら、セルランと呼ばれた青年に歩み寄る。
「ホント、悔しいったら……もう」
少女は目の前にあるセルランの胸板を軽く拳で叩いた。
とん・・・
細身の青年の胸板から心地よい音が響く。
少女の亜麻色のわずかにカールがかった髪の毛から、良い香りが風に乗ってセルランの鼻をかすめた。
「…………」
思わずセルランは身をよじって少女に背を向ける。
「アリーナ姫、武は心です。闘う前に、優しさを見出すのです。争いのみに曇らせた眼では、相手を倒すどころか、掠めることすら出来ません」
「優しさ?」
アリーナはきょとんとした眼差しをセルランに向ける。
「そうです。それはすなわち、姫のここに秘めたる思いを大切にすること」
セルランはそう言って、アリーナの胸元を指差した。
「秘めたる思い……?」
アリーナは自分の胸元に視線を落とす。
「今は解らなくても、いつか必ず気づかれる。その時こそ、姫の力、目覚めます」
セルランは微笑みを浮かべて手を引く。
「姫には素質がある。そして、その力は姫にとっても、世界にとっても……大切な――――」
「え――――?」
「あっ、いいえ。すみません」
セルランは恥ずかしそうに顔を伏せた。
「あのねセルラン。あたし……大きな夢が出来たわ」
アリーナは嬉然と身を躍らす。
「いつか、セルランに勝てるほど強くなって、世界一の武闘家になること」
アリーナはそう言いながら、華奢な腕に可愛らしい力こぶを浮かべてみせる。
「何と……それはまた」
セルランは笑った。アリーナは勘繰ったが、やがて照れたように顔を赤く染め、目を逸らす。
「そして……いつか――――」
と、不意に差し込む淡い光芒に、アリーナは不安を覚えて視線を戻した。
セルランはアリーナに背を向け、光芒の中心を見据えていた。
「あっ――――セルラン、どこに行くの?」
アリーナは思わずセルランの上着を掴んでいた。
いつ現れたか知れない、白い二つの影が、セルランの両腕の裾を捉えていた。
「アリーナ姫――――どうか、どうか素晴らしき武闘家に成られること、願います……」
不思議なことにアリーナの手からすうっと、まるで空気のようにセルランは離れてゆく。勇気に満ちて、それでいてどこか寂しそうに、セルランはアリーナを見つめていた。そしてアリーナも
「いや――――行かないで。行っちゃいやッ! あたし……あたしもっと知りたいのっ! もっと……もっと武道の素晴らしさを――――セルランから教わりたいっ!!」
それは強く、直向きな想いを込めた叫びだった。
(さようなら……アリーナ姫……)
白い影に連れて行かれるように、セルランの身体が、光の中に溶けてゆく。
(い……いやぁ――――――――――――)
がばっ――――っ
「はぁ……はぁ……」
夜着を汗まみれにして、アリーナは目覚めた。
サントハイム城にあるアリーナの部屋。王族らしい高貴な装いをした一室にあって、何故か壁の一部が板張りとなっている。ちょうど人間ひとりが通り抜けられるほどの穴が、開いていたらしい。
「あの夢…………また…………」
アリーナは板張りの壁をじっと見つめながら、わずかに眉を顰めて、枕を抱えていた腕にそっと力を入れる。「姫さま、姫さま。お目覚めでございますか。陛下がお呼びですから、お召し替えをお早めに――――」
侍女の声が響く。
「わかったわ。あ、その前にお風呂沸いてるかしら。寝汗かいちゃったから、入りたいの」
「ご安心下さい姫さま。すでに用意は調えてありますから、すぐにお浸かりになれます――――」
その機転の早さは、さすが姫付きの侍女というものだった。
「……セルラン……今……どこに…………」
湯を掬い、顔に掛ける。心地よい熱さに眠気が一気に吹き飛ぶような気がした。
風呂から上がり、王女の正装に着替えたアリーナは、父・レシェク賢文王の待つ玉座の間に足取り重く向かった。
「おはようございます、お父様」
アリーナの声が響く。衛兵たちが畏まるのをよそに、玉座の賢文王、そして御前に控える老人と若い神官が、なぜか力無く、かつ憔悴気味にアリーナを見ていた。
「あら、ブライにクリフト、おはよう。珍しいわね、二人揃ってなんて」
笑顔を浮かべながら、アリーナが歩み寄る。
「おはようございます姫。……それよりも姫、今日こそはこのじいの話、聞いて頂きますぞ」
ブライは温厚な口調に怒気をたたえている。
「うう、姫さま……姫さまの御為ならばこのクリフト、たとえ陛下の鉄槌で頭を割られようとも、鐘楼から身を投ぜよと言われても…………」
クリフトの口癖は朝から快調だ。
「んんっ、ゴホンッ!」
賢文王が目を細めてアリーナを見、強く咳払いをする。
「アリーナ、まずはそこに直りなさい」
言われるままに、アリーナはブライとクリフトの間に入り、直立する。
「毎度のことながら、呼ばれた理由は解っておるな」
賢文王の口調は穏やかである。と、言うよりもどこか諦めのような感じにも取れるような、ため息まじりで話した。
「そなた、いかに武道に傾倒しているとは申せ、部屋の石壁を蹴破るとは何としたことだ」
それは、先日のこと。何とアリーナは王城からの脱走を計り、事もあろうに自室の石壁を蹴り壊してしまったのだった。
「はぁ――――そなたの母は、美しさもさることながら、慎み深く淑やかで、『尊母』と呼ばれるほどに民からも愛されたと言うに、娘たるそなたは、ひとつも似ておらぬ……。誰に似たのか」
(畏れながら、それは陛下かと――――)
ブライが口籠もる。
「ふぅ――――何がそなたを、ここまでお転婆にさせてしもうたのかのう……」
賢文王のお嘆きはいつになく深いご様子である。
「…………」
いつも聞き慣れた父の怒号も今日はなりを潜めていた。アリーナは半ば拍子抜けした感じでじっと父を見つめている。
「近頃、あまり良い夢を見ておらぬのじゃ。これ以上、余の気をもませんでくれ」
「お父様、身体の調子でも悪いの?」
心配そうに父の顔をのぞき込むアリーナ。
「余のことはまあ良い。とにかくアリーナ、これ以上臣民の気を揉ますような行動は許さぬぞ。いいかね、分かったね」
「…………」
不満そうなアリーナ。
「余はいささか疲れておる。後はブライから話してもらいなさい」
賢文王はブライに目配せすると、額を抱えて俯き、玉座に凭れながら眠気に任せた。