第2章 おてんば姫の冒険
「姫、陛下は姫のことを思うがゆえ、あのように仰せられるのですぞ。なにとぞ陛下のご深意を慮り、無謀なことはお考えにならぬように。さもないとこのじい、先代王より仕えて五十余年、ひいてはサントハイム王国皇祖皇宗に対し――――」
ブライの説教がアリーナの部屋に響き渡る。当のアリーナは聞いているのかいないのか、椅子に寄りかかりながら、足をぱたぱたとさせている。ブライの隣では、なぜかクリフトが直立不動で聞いていた。
「――――なのです。お分かりかな姫!」
いつしかブライの顔は怒りに満ちていた。
「はーい。ごめんなさーい、気をつけまーす」
アリーナは神妙に反省の弁を述べる。だが、ブライの顔色は変わらない。
「それよりも……」
言いかけるアリーナの声を、ブライの大声がかき消す。
「姫っ! 言葉だけで反省することは誰にでも出来ますぞ。陛下も、このじいも――――」
「まあまあ、ブライ様。何も姫さまは悪気があってしたわけではありませんでしょう」
クリフトがブライを宥める。
「当たり前じゃ馬鹿者ッ! 悪気があってされてたまるものか」
逆にクリフトがどやされる。アリーナの起こした出来事の後始末は大方クリフトがすることになっている。これがいつしか暗黙のルールとなっているらしい。
「ははは……それはともかく姫さま、何かお話が?」
ブライの怒気をかわすようにクリフトがアリーナに話を戻した。
「うん……あのね……」
アリーナはわずかに眉を寄せ、哀しげな表情を浮かべる。
「セルラン――――どうしているのかなぁ……なんて思って」
その名を聞いた瞬間、ブライとクリフトは唖然とした。
「セ……セルラン……どの……ですか」
苦虫を噛みつぶした顔になるクリフト。
「おお、何と懐かしき名ですな。ええと確か、遙か東の国ブランカで、宮廷弓術師範を務めていた方じゃったかの、クリフト」
「は、はい。……あれは確か七年前。姫さまが御年九歳で、私が――――」
なぜかクリフトはたどたどしい口調になる。割り込むようにブライが口を挟んだ。
「そうじゃ、そうじゃ。七年前、セルラン殿は我が国を訪れられて、陛下と姫に拝謁された。時にかの御仁、十九・二十歳くらいだったかのう。あまりに若いのでよく憶えていた」
アリーナはわずかに唇をかみ、小さく頷く。
「あの日以来、姫はセルラン殿をお気に召されてな。陛下や亡き王妃様に泣いて頼まれて、我が国に留まっていただいたのじゃった……。思えば、余計なことじゃったかも知れぬわい」
「…………」
キッとブライを睨むアリーナ。複雑な表情のクリフト。
「い、いえブライさま。セルラン殿はす、素晴らしき方でございましたですます、はい。な、な、何と言っても……えーと……そのー……」
なぜか額に汗ばむクリフト。
「姫に武道を授けた、いわば恩師ですからな――――」
ブライが横目使いにクリフトを見ながら言う。
「そうです、その通りです。今の姫さまがあられるのは、偏にセルラン殿あってからこそ……」
苦笑に絶えないクリフト。傍目から見れば何かに無理をしているのが見え見えらしい。ブライがあからさまにため息をつき、若き神官の背中を杖で強く叩く。
「あたたたっ!」
どこか情けないクリフトの叫び。そんな様子にアリーナは表情も変えず、俯き加減で何か物思いに浸っている風に見えた。
「姫、セルラン殿は二年ほど前に我が国を出て行かれた。誰も行方は存知奉らず。姫もようご存知の筈じゃが」
ブライが突き放すように言う。
「わかってる……わかってるけど……ただ……」
「ただ……何ですかな? まさか、セルラン殿が姫にあの様なことをさせた……とでも仰せあるのか」
ブライのきつい言い回しに、アリーナも半ば自棄になる。
「違う、違うのっ! ただ最近……良く見るのよ、夢を」
ぴくりと眉を動かすブライ。
「夢……ですと。はて、どのような夢ですかな」
アリーナは辿々しくセルランの夢を話す。彫りの深い皺顔をひそませて耳を傾けるブライ。かたや今にも両耳を塞ぎ、部屋を飛び出してしまわんばかりに肩を震わせ、唇を噛みながら聞いているクリフト。
「なるほど……それは追憶……古人を懐かしむ――――と言う感情ですかな。時々このじいにもありまするぞ。若かりし日に出会い、別れた女性に寄せた思いが強くなることが。忘れていたと思っていても、ある日ふとその頃を思い出し、気持ちが還る。過ぎ去った事を悔やみ、まさに古傷が痛むという言葉通りに――――」
ブライの蘊蓄は割愛さる。
「あたしね……やっぱり旅に出たいの」
突然の告白に、ブライとクリフトは目を見開いて愕然となった。
「な――――ひ、姫ッ。なりませぬ、なりませぬぞ!」
さも血管がはち切れんばかりに顔面を紅潮させるブライ。
「姫さま、そればかりはこのクリフト、ブライ様と同じ意見です。どうか、そのような無茶なことは……」
普段は弱腰気味のクリフトですら、語気を強くして諫言した。それから二人の説得は十数分に及ぶ。
アリーナは二人が自分のためを思って思いとどまらせようとしていることくらい判っていた。
「うん……わかってる。わかってるけど……でも……でもね――――セルラン……ううん、あたし自身、やっぱりどこまで自分の力、通用するのか、肌で感じてみたい。この国だけじゃなくて、世界にはセルランのような……セルランよりもっと強い人たちがいるかも知れない。あたし……そんな人たちと出会ってみたい。夢を捨ててまで、窮屈な宮廷生活で終わりたくない!」
声を震わせて、アリーナは叫んでいた。その様子にただならぬ決意を感じ得たのは、他ならぬアリーナの傅役として仕えているブライだったのかも知れない。
「姫、ともかく陛下のご心痛をお察し頂き、思い留まってくだされ。このじい、伏してお願い申し上げますじゃ」
言葉通り、伏して拝するブライ。
「ちょっ、や、やめてよブライ」
人に頭を下げられることが苦手なアリーナ。強引にブライを起こす。だが……
「いいや姫。姫が思い留まってくださるまで、じいは伏してお願いし続けますじゃ」
さすがのアリーナも気圧された。
「わかった。わかったわよ。諦める。諦めるから顔を上げてよブライ」
真っ赤な顔のアリーナ。取りあえず、ブライの押し勝ちと言うところだった。
渋々としたままのアリーナ。気が抜けたのか、その日の日課は暗黙の了解でキャンセルされた。学問・礼法・有職故実・舞踏などの師範などは一様に唖然とした。クリフトは汗を拭く布を片手に事情説明。当然というか、そうするべきと言うか、アリーナ自身、いつにも増してやる気を失せるのも当然であった。
日がな一日、取り分け好きな武術の鍛錬に勤しむでもなく、アリーナはぼうっとしていた。ふと部屋の隅に視線を送ると、今は亡きアリーナの御生母ベアトリス賢文王妃の肖像画が、静かに微笑みを浮かべている。
「お母様……」
十六歳。正直まだ母親の存在が大きいはずの年頃だ。六年前に、ベアトリス妃は崩御された。急な病だったと言うが、アリーナ自身、余りよく憶えていない。賢文王もブライたちも、極力妃の話題には触れずに来た。
何かを埋めるように、セルランに触発された武術の道に、より一層傾倒していったのもこの頃からだったのかも知れない。
「許して……くれますか――――」
アリーナは無意識に、母の肖像画にそう話しかけていた。そして、夕陽に照らされた母は、優しく頷いてくれたような気がした。
「御馳走様でした――――お父様、お休みなさいませ」
食後の挨拶を交わすと、アリーナは足早に自室へと戻ってゆく。そのひどく消沈した様子に、さすがの賢文王も、年頃の娘を持つ、一介の父親となっていた。
「アリーナめ、元気がないのう」
控えていたブライとクリフトに向かい、賢文王は呟く。
「ご心配には及びませぬぞ、陛下。姫におかれては良い機会でございます。これを境に奔放なるご気性、改まって頂かねば、皇嗣として相応しからず。このブライ、安心して安土へ参れませぬじゃ」
傍らでクリフトは何を思っているのか、胸で手を組みながら苦しそうな表情をしている。一方、賢文王はブライの言葉に苦笑していた。
「らちでもない事を申すのブライ。……ところでのう……」
「はっ」
賢文王はひとつ間を置くと、何度もつばを飲むように話した。
「余は、あれ(アリーナ)のこと、ちと縛りつけ過ぎたのやもしれぬな」
「な、何と――――」
愕然とするブライ。賢文王は小さく笑ってブライを窘める。
「思えば、セルランという者が、あれを支えてきてくれたのだと思うとな…………無下に責めることも出来ぬし、本来ならば手足を縛りつけてでも武術の道を思い留まらせることも出来たはずじゃ」
「…………」
「…………」
ブライもクリフトも、賢文王が何を言いたいのか理解していた。
「しかし陛下、それとこれは話が別でございまするぞ」
「ああブライ。そう目くじらを立てるな。勿論、あれにはそれなりに理解してもらわねばならぬこともあろうが――――」
その時だった。アリーナ付きの侍女が大慌てで食堂に駆け込んできたのだ。
「何事じゃ、騒々しい」
「へ、陛下っ。ひ、姫様が――――!」
「…………!!」
賢文王、そしてブライとクリフトは互いに目を合わせ、ほぼ同時に何が起きたのかを察知した。そして、狼狽状態でアリーナの部屋に駆けつけたとき、すでに底はもぬけの殻。壁からはサントハイムの美しき星空が見え、そして近い夏を匂わせる潮風が吹き込んでいたのである。
「ごめんなさいお父様――――」
見慣れた白亜の王城を後ろに振り向きながら、アリーナは小さくそう呟いた。
青色の独楽帽、絹のローブ、マント、防護用の黒タイツ、革の手袋・ブーツ。一見、何でもない軽装。だが、アリーナは本気だった。肩に提げた革袋の中にある薬草・毒消し草などの諸道具が、彼女の決意を示していた。
「今夜はサランの町ね。ふぅ……見つかるかなぁ」
サントハイム王家の家紋・『丸に十文字』が刻まれた腰のベルトを気にしながら、アリーナは思った。
サランの町は世戦時代、出城としての機能を果たしていた、旧制城下町である。本城からは歩いて数時もかからない。
故にもしも(と言うか、そろそろとっくに気づいているだろう)、アリーナが城を抜け出したことを知られ、父・賢文王が追っ手を差し向けるならば、サランは庭に出るまでもない、玄関口のようなものである。さしものアリーナも、プチ家出程度に終わってしまうだろう。
「さすがに今からテンペまで行くほど無謀じゃないし……ううん、来るなら来いよっ。お城の兵士の十人や二十人くらい――――」
無意に腕まくりをしてみた。外見は十六歳の少女らしい、スマートな身体つきをしている。力を入れても、上膊に目立つような力こぶなど浮かびもしない。
「こんばんは、お嬢さん。ひとり旅ですかい?」
宿屋と書かれた建物のドアをくぐると、カウンターにいた初老の女性がアリーナを見て話しかけてきた。
「えっ……あっ、そ、そう。あはははっ」
驚くアリーナ、なぜか愛想笑い。
「こんな遅くまで……女ひとりだと危ないよ。誰か連れとかはいないのかね?」
「えっ? あ、あの……その……う、うん、いない。いないの。あたしひとり旅だから」
「そうですかい。……余計なお世話かもしれんけど、長い旅になりそうなら、剣や魔法の使える連れを探した方がいい。最近は魔物も滅法強うなってきているという話。テンペの村なんぞは……」
「おーい、女将まだかー」
話を遮断するかのように、奥から宿泊客の叫び声が響く。
「おお、ついつい余計なことを話してしまったようです。お嬢さん、部屋は二階の――――です。それでは、ごゆっくり……」
アリーナに鍵を渡すと、女将は呼ばれた部屋へと小走りに駆けていった。
「剣や魔法の使える連れ……か」
ふとアリーナの脳裏に、見慣れた老人と若者の顔が過ぎる。
「いなくても十分よ……ううん、いない方がきっといい」
荷物とは言い難い革袋を椅子に放り投げ、真新しい独楽帽を脱ぎ捨てると、アリーナはベットに身を投げた。城の豪華さとはほど遠い、蒼氓の色合いたたえた一室。だが、なぜかアリーナはそこがとても心地良く感じていた。
「頑張る……頑張るわよ……あたし……見てて…………」
そのまま、アリーナは眠りの淵に落ちていった。