第2章 おてんば姫の冒険
いつになく平穏な朝を、アリーナは迎えた。小うるさい侍女の呼び声もなく、鬱陶しい朝の礼拝もなく、何よりも傅役ブライ爺の顔を見ずにすんだと言うことが、アリーナにとっては全てに勝る事であったに違いない。
「よぉし、今日から張り切って行くわよ!」
旅装に着替えた後、拳を突き出して気合いを掛ける。宿の女将曰く、昨夜も今朝も、特段尋ね人や騒動もなく、実に平穏な一夜であった。
(ふーん……なんか面白くないって感じ)
なぜかアリーナは憮然となった。
宿を出てそのまま町の外へ出る。ふと、爽やかな海風がアリーナをくすぐって行く。空は快晴、雲ひとつなく見晴らし最高。その人物がいるだけで、天候が左右されるという話がまことならば、さながらアリーナは晴女と言わんばかりに、ひとりの溌剌とした少女の旅立ちを祝しているような感じである。
「♪ゆめをおい~ しあわせ~へと~ 果てしない~道を~ 駆け抜けよう~ ふんふ~ん」
軽快な歌を鼻歌交じりに口ずさみながら、アリーナはスキップよろしく歩き出す。
サントハイム大陸は、テンペ山村を境に西側を峡西地方、フレノールやサントハイム南部砂漠のある東側を峡東地方と呼ばれている。世戦時代には現・エンドール王国の前身と言われる、聖エンテルフ王朝の盟友国として、サントハイム城からテンペ、フレノールを通じて関所の祠まで、立派な街道が敷かれていたと伝えられている。
全世界を震撼させた世戦時代の終息から約二五〇〇年が過ぎ、当時の面影は遺跡や自然の営みに風化されたものが多い。
サントハイム城とサランの町がある、峡西半島の海沿い・サラン平地からテンペ山村に通じる峡西山地の道には、切り立った崖を崩した桟道と呼ばれる人工らしき狭い道が続く。
王家の史書・『尊卑正譜』に記す、王家の開祖、タダヒーサ・シマヅ王が、遠い異境の地・サツマの国からこの地を訪れ、開拓したというサントハイム。王家の紋章『丸に十文字』を始め、タダヒーサ・シマヅ王が伝えた文化は多々あるが、この桟道も、異境文化の色合いが強いと言われている。
「うわ、かなりアブないかも……」
なだらかな丘陵地帯までとは打って変わって、苦笑いを浮かべながら、岩壁に這い蹲るようにアリーナは桟道を伝う。
魔物たちが活発化するようになって、しばらくの間、桟道は整備されていない状態が続いた。時々、もろくなった岩盤がはげ落ち、谷底に落ちてゆく。
「…………」
その谷はまるで奈落まで続く――――訳ではなく、谷川は視界に捉えて見えるが、いくらそれでも落ちればただではすむまい。
ドボン・・・・・・。岩盤や石が川に落ちた水音が、周囲に反響してこだまする。
「万が一でも、だいじょうぶ……かな? あははっ」
なぜか妙にそう納得してアリーナはひとり頷いた。だが、すでにサランを出た時の、ピクニック気分はすっかりとなりを潜め、今はただ先の見えない危険な桟道を見通しながら、ため息すら震えている。
どのくらいの時間を進んだだろうか。頻繁に修復されていたとはいえ、さすがは二五〇〇年の歴史を持つ桟道だ。なかなか平坦な場所へとアリーナを招いてはくれない。行けど続けど危なっかしい崖を切り崩した道。
その上、今まで抜けるほど天気の良かった空に、灰色の雲が覆い始める。太陽も西に傾きかけ、いつしか夕方に向けて時は過ぎようとしていた。
「うぅ…………」
しんと静まりかえる渓谷。遠い野鳥の嘶きだけが、いわば不気味に響く。
さしものサントハイムのおてんば姫も、表情が強張ってゆく。ここまで魔物に遭遇しなかったことが、不思議であるとばかりに、さぁっと顔色が冷めてゆくのがアリーナ自身感じていた。そして
……がじ……がじ…………
「!!」
その嫌な音に気がつき視線を足下に落とすと、なんと両足のブーツに、キリキリバッタが計6匹、かじりついているではないか。驚愕するアリーナ。思わず足を振り上げる。
バタバタバタバタ……
本当ならば谷底へ落とされるはずのキリキリバッタ。だが、羽を持つ彼らは咄嗟に跳躍し、ここぞとばかりにアリーナ目掛けて一斉に襲いかかる。
「きゃあああぁぁっ!」
それは武術に通じた少女らしからぬ、恐怖に囚われた叫びだった。
それでも思いに反して体得していた武術は、アリーナの四肢をコントロールする。両腕、両脚。しなやかに伸縮するその細く、美しい武器は、キリキリバッタごとき下等魔物を仕留めるには十分だった。
アリーナの打撃を受け、キリキリバッタたちは言葉にならない奇声を上げながら、谷底に死骸を散らかしていった。
「…………」
しかし、アリーナに息をつく島はなかった。続けざまに現れたのは、土童子(つちわらし)という邪悪化した妖精族の一種だった。彼らはなんと崖の縁から這い上がるように現れ、3匹、4匹と立て続けに出現し、アリーナを取り囲んでしまったのだ。
「うぅ……な、何でこんな時に魔物なんか出てくるのよぉ、まったく!」
などと天に唾するがごとき不満を漏らす。
「ケケケケケケッ」
土童子たちはまるでアリーナを谷底の奥深くまで誘うかのように、異様に長い舌をしならせながら嗤っていた。
「き……気持ちわるい……な、何なのよコイツらわぁ……」
井の中の蛙大海を知らずとは語弊があるか、自称・武闘家アリーナ、すでに鍛錬の時に見せていた闘気と冷静さを欠き、これぞ生まれて初めて遭遇した魔物におののく深窓の令嬢となっていた。
びしっ――――!
「きゃぁっ!」
アリーナを囲んでいた土童子の一匹が、舌を鞭にしてアリーナを掠めた。不意に肩を打たれ、アリーナは苦痛に顔を歪める。がくりと一瞬、体勢を崩しかけた。
(アリーナ姫、強き敵は心の裡の極微な動揺ですら見過ごすことはありません。身体はもとより、心に隙を与えてはならないのです)
ふと、セルランの言葉が過ぎった。
「ん――――はあぁぁぁっ!」
隘路、跳躍もままならず、得意とする足技もかえって危うい。そしてアリーナは拳を薙いだ。
「グ、グヘェェェェッッ!!」
土童子はアリーナの拳で急所を打たれ、2,3匹を道連れに谷底に落ちていった。
「クキャァァァァァ!!!」
同類を討たれ、残った土童子たちは怒りの雄叫びを挙げる。
「えっ――――な、なに!?」
怯むアリーナ。土童子が放った雄叫びと共に、アリーナの眼前に、絶望が広がった。
彼らは仲間を呼んだのだ。アリーナの視界には、埋めつくされんばかりの土童子たち。わずか1匹を討ち、道連れを作ったところで、所詮、焼け石に水だった。
次々に舌の鞭がアリーナの身体を打ちすえてゆく。なすがままに、アリーナは膾のようにされていった。
「あはっ……ダメねあたし……セルラン……あたし……」
それは死地に導かれるという絶望と恐怖感よりも、小さな失敗をしてしまったという楽観的な感情が先行し、アリーナの表情に微笑みすら浮かべさせていた。
「ごめんなさい――――みんな――――」
瞳を閉じたその時だった。
ヒャド――――!!
ホイミ――――!!
二つの呪文が交錯する。
「グキャ――――」
土童子の一匹が突然、透明の氷に包まれ、谷に落ちてゆく。そしてアリーナの身体から急速に痛みが消え、闘気が蘇ってきたのである。
「姫さま、今ですっ」
その声と同時に、アリーナは再び拳を薙ぎ、突き、払った。
つい今まで苦戦していた土童子の軍団が次々と谷へと消えてゆく。
「てぇぇぇぇぇいっっ!」
残った最後の一匹を、アリーナは渾身の一撃で打ちつけた。その攻撃に土童子はまさしく土で固められた玉を砕くように、粉々となって四散してしまった。
「…………」
静寂と化した桟道に風が吹き抜ける。アリーナは力が抜けたようにその場に座り込んでしまった。
「ふぉほほほほほ」
「ははっ……あはははっ……」
聞き慣れた二つの笑い声が、アリーナの胸を衝く。反動的に振り返ると、そこには不敵ににやりとするブライと、安堵と疲れに満ちながら微笑んでいるクリフトがいたのである。
「懲りられましたかな、姫」
「ああ、姫さま――――ご無事で何より……」
アリーナの目頭がじわりと熱くなる。そして気の強さを象徴するかのような澄んだ瞳からぽろぽろと雫を落とし始めた。
「うっ……ううっ……」
そして、恥も外聞もなく、アリーナはクリフトの胸に勢いよく飛びかかったのだ。
「!! ひぇ……ひぇ、ひぇめぇさま!?」
いきなりの事態にクリフトは顔を真っ赤にして狼狽する。やり場のない両手が壊れたカラクリ人形のように宙をさまよう。
「わああぁぁぁん!! こわかったぁぁ……こわかったよおおぉぉぉぅ!!」
城の兵士たちの面目をつぶし、果てに堅牢な石壁を蹴り壊したお転婆少女とは言い難いほどに、アリーナはクリフトの胸にしがみついて泣きわめいた。
「…………」
石化するクリフト。かたやブライは、にやにやと笑いながら、クリフトの背中を杖で叩く。
「?」
振り向きブライを見るクリフト。ブライは意味深に二、三度頷く。するとクリフトは意味を察知したのか、がくがくと震える両手で、アリーナの肩をそっと包んだのだった。
しばらく後、ようやくアリーナは落ち着きを取り戻す。
「いかがですかな姫。城に戻る決心はつかれましたかな?」
しゅんとしているアリーナに、ブライが言う。
「…………」
「いかに姫が武闘に秀でていると自負されようが、此度のことでいささかなりとて気づかれたはずじゃ」
さすがのアリーナも返す言葉がない。
「さて、ならば今すぐに城へ戻られますな――――」
ここぞとばかりにブライの説教に拍車がかかる。やがてアリーナは今度はじわりと涙をにじませて、声を殺して泣き出す。
「ブ、ブライ様。もうその辺でよろしいではありませんか。姫さまも深省されてますし」
苦笑いを浮かべながらクリフトが言う。
「ゴッ……ゴホン。うむ……どうやらその様じゃな。ならばクリフトよ、お主から申し上げよ。儂は不本意なれば――――」
「わかりました、お任せ下さい。……姫さま、朗報です」
「…………?」
クリフトがにこりと微笑みながら、アリーナを見る。目蓋を腫らしながら、アリーナは顔を上げた。
「私とブライ様は、陛下からのお言葉を承って参りました――――」
レシェク賢文王綸旨――――
天象、聊(いささ)かな凶兆ありて憂患夙に収まらず
特に国土安寧を願い一女アリーナをして追領使と成す
国蠧(こくと)往々にしてこれを伐つことを天意とす
「追領使のお役目は名目的なもの。陛下におかれましては、姫さまの旅立ちをお許し頂いたのでございます」
「……ホント……? ホントなのクリフト……」
唖然としていたアリーナの表情に徐々に戻ってゆく笑顔。
「ただし、我らも姫と同行することを条件ですじゃ。また追領使は我が国のみの特命職。他国に行くことはまかりなりませぬぞ」
賢文王から正式に旅立ちの許しを得られたこと。それがアリーナにとっては何よりの価値だ。だからブライの言葉も、今のアリーナにとっては大いに喜ばしいことであった。若干の制約があるとはいうものの、自由に旅を出来ることの喜びを、今アリーナは身にしみて感じていた。
「お父様……ありがとう……」
瞳を閉じて、アリーナは父に深謝の意を表した。
「うぉっほん! ……ところで姫」
わざとらしいブライの咳払い。
「え――――何、ブライ」
「クリフトよ――――」
ブライはクリフトに目配せする。苦笑するクリフト、背負っていた袋をゆっくりと下ろして開いた。
「姫さま、旅の支度は十分でしたか? 長い旅となるからには、それなりの準備を持ってしかるべきです」
その袋には薬草、毒消し草を始め、着替えや調理器具など、主立った旅具一式が、十二分に揃えられていた。
「わぁ、すごーい。これだけあれば、いつどこでも野宿が出来るという訳ね」
袋の中身を見て、旅人気分を目の当たりにするアリーナ。
「せっかく修復した壁を蹴破り脱せられた姫のことじゃ。十分な支度など出来るはずがなかろうと思うてな」
皮肉たっぷりにブライは笑う。アリーナは膨れるがその言葉に間違いはない。仮にここで魔物を一蹴していたとしても、不十分なままの支度ではテンペの村にたどり着く前にいずれ力尽きていただろう。それを思えば、ブライとクリフトが駆けつけてくれたことはまさに天の助けと言えた。
二人が合流してからは、桟道も難なく進むことが出来た。死に目に遭わされそうになった土童子も、木々の枝から不意打ちを仕掛けてくるミノーンも、クリフトの援護魔法と剣技、ブライのヒャドによる援護射撃によって難なく討ち取っていった。
桟道伝いに歩を進め、人為的に掘られた岩窟などで休息を取りながら四日が過ぎた。
急に開けた見晴らしの良い小高い丘から緩やかな斜面を見下ろすその先に、建物が密集している村を見つけた。
「姫さま、あそこがテンペの村です」
クリフトが指差す。
「そうなんだ。あたし……サラン以外の町、初めて見たの」
アリーナの感激はひとしおらしい。
「何を言われるか姫。幼き頃、このじいが姫をお連れ申し上げ、国土を巡りに巡ったことがありまするじゃ。テンペなぞもう何度も――――」
「もう、ブライ。そんな小さい頃の事なんて憶えているわけがないじゃない。素直に感動しているんだから水差さないで!」
さすがのブライもアリーナの生後間もない頃の話を持ち出したのは失敗。
「ブライ様の負けですね」
クリフトが苦笑した。
元々は街道を守衛する山砦の兵士たちの休息地として機能していたテンペの村。世戦時代の終焉と同時に山砦も機能を終えたが、峡東へ抜けるためには山砦跡を越えなければならないため、旅をする者は否が応でも必ず立ち寄る、峡西・峡東地方を繋ぐ宿場町として独自に発展していった。
上古の面影色強く残り、激務に疲れた山砦兵の癒しとなった山村。人情味あふれ、気さくで笑顔絶えない人々が暮らしている。ブライの話に心躍らせるアリーナ。
しかし……。
「あれ? ……ずいぶんと静かですね」
クリフトが静まり返った様子にきょとんとなる。
「そうなの? もしかして今日はたまたまお休みの日なんじゃないかしら」
街道沿いに並ぶ店や宿屋、民家。一貫して軒先を閉じ、家によっては晴れているのに雨戸すら閉ざしている。
「うーむ……これはちと様子がおかしいかのう」
ブライが真っ白なあごひげを撫でながら周囲を見回す。人の気配はするが、なぜかひどく寂寞とした空気が流れている。
しばらく歩いていると、道ばたの奥まった植え込みのほうから女性のすすり泣きが聞こえてきた。
「何でしょうか……」
クリフトが気になって泣き声のする方へ向かう。するとそこには、真新しい墓標が数体並び、中年の婦人がその一つに花を添えながらしくしくと哀哭していたのである。
「もしもし、申し訳ありませんが……」
神官らしく手を組みながらクリフトが婦人に声を掛ける。
「!!」
すると婦人はひどく驚き、クリフトの顔を一目見るや、一目散に逃げ出してしまったのである。
「あっ、あのっ!」
取り残されたクリフトは茫然とその後ろ姿を見送ることしかできなかった。