第2章 おてんば姫の冒険
「クリフトよ」
「はい」
食後の茶を啜りながら、ブライはなおも食べ続けているクリフトに話しかける。
フォークの肉をほおばりながら、クリフトが顔を上げる。
「姫は一体どうされたのじゃ」
ブライはアリーナがいつもより食事のペースが遅いことを気にしていた。
「それが……カルタスという方の元を後にしてからなにやら思いを巡らしておられる様子でして……」
ポカリッ!
クリフトはブライに額を叩かれた。
「馬鹿者。それを何気に問い質すのがお主の役割じゃろうが」
「は、はぁ……しかし――――」
ちらりとアリーナを見るクリフト。勇ましき闘姫は、食事こそ取っているものの、スプーンを唇に運ぶ動作もおぼつかなく、目が茫然としている。
「のうクリフトよ。もしや姫は恋の病に罹られたのやもしれぬぞ」
にやりとほくそ笑むブライ。その言葉に、クリフトはきっと眉を顰めた。
「冗談はよして下さいブライ様。姫さまに置かれてそのような――――」
その時だった。
かちゃんという音を立ててスプーンを皿に置き、視点の定まったアリーナが、二人を見回す。
「ブライ、クリフトっ」
透る声で二人の名を呼ぶアリーナ。突然の事に思わず身を竦める二人。
「あたしが間違っていた」
唐突な科白に呆気に取られる二人。
「カルタスの話を聞いてから、ずっと考えていたわ。……うん、私、間違っていたのよ」
その言葉を聞いた瞬間、ブライが内心、喜んだのは言うまでもない。
「自分の力がどのくらいのものなのか……なんて、ずっとそればかり考えていた。お城を抜け出して、この村に来るまで、ずっと。ずっとそれだけを考えて、周りのことなんて気にもしていなかったの」
そうじゃそうじゃとブライは心の中で満足げに頷く。
でもね……私、ひとつ気づいたようなの。
……人々の悩みや苦しみの力になってあげられること。
セルランが言っていた、『柔能く剛を制す』ことこそ、武闘家としての本質ってことの意味……。きっと、このことなのかなぁ――――なんて。
まだわからないけど……。強くなりたい……もっと強くなりたい……なんていう意気込みだけじゃ、きっとダメなのかも。
ふふっ、じゃなかったら、あの時だって二人に助けられる羽目にならなかっただろうしね。
村の人たちを助けるために、あたし戦うわ。
カメレオンマンとか言うふざけた名前の魔物をぶちのめして、この村を救うの。
そして、もっともっと、困っている人たちの力となってあげたい――――。
ブライの期待を見事に裏切る、アリーナの小演説だった。
「姫」
さすがに怒気が頂点に到達したのか、ブライは静かにアリーナを凝視し、威圧する。
さしものアリーナも、物心着いた頃からの傅役であるブライのこの怒気には逆らえなかった。
闘姫伝に記す。
【天下無双の武闘姫、一蹴をもって堅牢を砕き、鋼を枉げる
ただ実に可憐たる時は賢文王並びに白老侯の前にありけり】
どんな堅い城壁も、その華奢な脚から繰り出される確実な蹴技で粉砕され、鋼鉄すらも枉げる武闘の申し子も、しおらしく、一介の女の子になってしまうのは、父賢文王か、ブライの前に立つ時である。
そうまで言われたくらいだ。
「姫は、お生命惜しゅうございませぬのか」
静かな口調に、アリーナはかえって驚く。
「敵は数多の男を殺戮し、生贄とされた婦女子を喰らい、なおも血を欲している、姫が知りうる魔物や賊徒どもとは想像を絶する凶魔じゃ。戦いを挑み、勝敗の行方は誰も保証されませぬぞ」
ブライは賊魔の恐怖を訴えた。だが、芯の強い華奢な少女は、一抹の怯えを胸に抱きながらも、滾る闘志をさらに鼓舞しようとしていた。
「負けない……ううん、絶対に勝つわ。そして、この村を呪われた村なんて、二度と言わせない」
「姫は賭けに出られるのか。もしも機を外せば、賊魔の激昂を買い、テンペは完全に滅びるのじゃ。それでも姫は…………」
しかし、何と今度はアリーナが、ブライをきっとにらみ返した。
「……!」
ブライは愕然となって言葉を失った。
「あたしのわがままよ。……もしブライの言う通りになったら、私この命捨てる」
「ひ、姫さまっ!」
クリフトが思わず叫んだ。きっと視線をクリフトに向けるアリーナ。
「あたし、そのくらいの覚悟で戦うわ。……だからブライ、お願いがあるの」
ブライは怒りににじんだ眼差しをアリーナに向けている。
「あたしが死んでも、絶対に魔物たちに死体を取られないで。その時こそ、お城に連れて帰って欲しい…………」
「あ、アリーナさまっ。なんと……なんと縁起でもないことを仰るのです。わ、私の前で斯様な事は――――」
クリフトは顔を赤くして取り乱していた。そんな神官を、アリーナは労るように優しく見つめる。
「クリフト。あなたにもお願いするわ。将来のサントハイム・カーディナルとして、あたしの葬儀、立派に取り仕切ってね」
いちいちと死後の事を話すアリーナ。しばらく憮然とした表情で耳を傾けていたブライが、突然おとがいを外した。真っ白な髭の間から、白いすきっ歯が覗く。
「全く、とんだお嬢様じゃわ。亡くなられた後のことまで斯様に心を砕かれるとは。……よろしかろう。お嬢様の亡骸、このブライしかとお父上の元へお連れ致しまするじゃ」
頑然たる口調でそう言うと、ブライは杖で強く床を叩き、ひとりさっさと部屋へ向かっていった。
「……そりゃ怒りますよアリーナさま」
仲裁の島もなく、クリフトはばつが悪そうな表情でこめかみを掻く。
「だってぇ――――」
ぬるくなったミルクをちびちびと唇に含むアリーナ。苦々しい雰囲気が漂っていた。
「クリフト」
不意に呼ばれ、クリフトはどきりとなった。
「は、はいっ」
「あたしね――――」
「…………」
神妙な顔でクリフトを見つめるアリーナ。妙な期待が神官の心に過ぎる。
「あたし……わかるんだ。ブライの気持ち」
「…………」
多分……これから先、あたしのしようとしていることは、間違っているのかも知れない。
たとえこの村の魔物をやっつけて、このまま旅を続けて、また同じようなことがあって、戦って……。それが結局何のためになるのかわからない。
行く先のわからない危険な旅に反対して、あたしをお城に連れ戻したいって言うブライの方が正しいと思うの。
ふふっ。本当、勝つか負けるか、わからない戦いに行こうとするあたしってバカよね。ブライの呆れる気持ち、わかるな。
「……姫……さま?」
アリーナの大きなルビーの瞳が、きらきらと揺れた。それは燭台の光のせいではなかった。
「うふふっ。やだあたしったら、武者震いなんかしてる」
形のいい唇から小さな舌を覗かせて微笑むアリーナの身体は小刻みに震えていた。
「姫――――――――」
言いたいことは山ほどあるというのに、クリフトは言葉が続かなかった。
もどかしい静けさがしばらく続く。
「さぁって――――」
アリーナが立ち上がった。
「何か疲れちゃった。あたしお風呂入ってから寝るわね。お休み、クリフト」
軽やかに身を翻してアリーナは食堂を後にした。
ため息をつくクリフト。ふと視線をテーブルの上に落とす。アリーナの皿は運ばれてきたときの盛りつけがほとんど失われていなかった。
その夜、クリフトはなかなか寝付けずにいた。
窓を開けると、澄んだ涼しい山風が吹き込んでくる。
空は、光の砂をまき散らしたかと思うほどに明るく、山の稜線を浮かび上がらせる。
「穏やかな夜なのに……」
その光景だけを見れば、魔物の脅威に憑かれて、『呪われし村』などと言う場所とは思えない、美しく、平穏な山村だった。
……くすん……
その声に気づき、クリフトが視線を横に向けると、二つ隣の窓(隣はブライの部屋)から、アリーナが顔を出し、星空を見上げていた。
(姫さま……)
アリーナはクリフトの気配に気づく様子もなく、一心に満天の星空を見上げていた。物思いに耽るように、何かを想う切なさに満ちた瞳で、瞬く星々の声を聴いていた。涙でも流していたのだろうか、時折、鼻を啜る音が聞こえてくる。
「……あいたいな……」
微風に運ばれて、アリーナの呟きが聞こえた。
(…………)
それだけで、クリフトはわかった。
セルラン――――
傷心のアリーナに武の道を示し、そしてその心を掴んで止まない、謎めいた青年。
クリフトは内心、その青年を恨んでいたのかも知れない。不意にアリーナに近づき、誰よりもずっと側にいた自分より、アリーナを救いその心を奪い、忽然と消えた『ライバル』。そして、『身勝手な男』。
神官の身でありながら、人を恨むなどと言語道断だ。クリフトは、自戒の中で、アリーナへの想いと共に苦しんでいた。
星空を見上げながら、きっとセルランの事を想っているのだろうアリーナの切なげな横顔を見つめながら、クリフトは妙に熱がこもるため息をついた。
アリーナに声を掛けることを躊躇うクリフト。アリーナもまた、自分を見つめている若き神官のことに気づく由もない。
(姫さま――――)
見入るように夜空を見上げるアリーナの姿は、きっと抱きしめたくなるほどに可憐な、十六歳の純真な少女だった。
(姫さま……セルラン殿は……もう…………)
いつしかクリフトは、濃紺の空に鏤む白い砂の光芒に照らされし姫の横顔を見つめていた。
そして、心の中にある慕情が、姫の思う人物が二度と現れることがない事を予感させ、またそう願っていた。
神官、失格かな……。
クリフトがそう呟き、自嘲する。
…………
(姫さま――――アリーナ姫さま……)
私は、寝台に横たわるベアトリス妃にすがり、泣き叫ぶ姫を冷静に宥めようとしていた。
しかし、まだ幼い姫は、母君の崩御の現実を受け入れられず、ただ哭泣にくれていた。
私は姫を慰めたかった。悲しみに暮れる姫を見るに耐えなかった。
物心ついたときから、明るくやんちゃであられた姫。私もよくいじめられたものだった。
それでも、姫は屈託のない、無邪気な笑顔を絶やさず、誰からも愛された。私もそんな姫をお慕いしている。
母君の崩御――――。それが、私が初めて見た、姫の悲しみだった。
いつも明るさを絶やさなかった姫の悲慟の表情。
かけてあげたい言葉はたくさんあるのに、言葉に出ないもどかしさだった。
想い慕う王女の悲しみを慰められぬいらだち。クリフトは自分を責めた。一番、支えにならねばならないときに、それが出来ずにいること。
突然、姫は私を突き飛ばして駆け出していった。まだご幼少ながら、突き飛ばされた衝撃は相当なものを感じた。
(姫さま、どちらへ――――)
私はすぐに後を追いかけた。駆けてゆく姫の顔から、透明な宝石の粒が飛散し、きらきらと輝いて消える。
(――――!)
その時だった。何か巨大な影が、駆けてゆく姫の眼前に立ちはだかった。
私は猛然と駆け出し、姫は咄嗟に身構えたが、巨大な影はせせら笑うかのように蠢動し、姫の身体を覆い尽くし、私は指先すら影に触れることは出来なかった。
その瞬間だった。
一瞬にして、影は斬られた。気を失った姫の身体が空に舞う。
(姫さま――――ッ!)
叫べど、駆けれど姫の身体に届かない。
そして、すうっと霧散する影の後に浮かんだ旅人の服姿の青年が、左腕に姫を抱きかかえ、背中に回した右手に長剣を構え、片膝をついていた。
(あなたは――――)
決して美男子と呼べるわけでもなく、とりわけ醜男でもない。見かけ普通の印象に残らない青年。二人を比べれば、クリフトの方がはるかに美男子である。
彼――――セルランだった。
彼は何故か唇を噛み、眉を顰めて一点に地を見つめていた。
(セルラン……殿――――)
呼びかけた私は、彼を渋い表情で見据えていた。
お世辞にも決して逞しいとは言えない、彼の腕に支えられて気を失っている姫の姿に、私は無性にいらだちを感じていた。
(…………)
セルランはその瑠璃色の瞳を見上げて私に向けた。
それは欲望も、野心もなにも感じさせぬ、無の眼差しだった。
彼は一瞬、瞼を下ろすと、右手に構えていた剣を勢いよく地に突き立て、空いた右腕を前に回し、姫の細い脚を支えた。
まるで演劇に見る、勇者が囚われの姫を救い出し、両腕に抱きかかえて凱旋する――――そのような場面を彷彿とさせる場面だった。
だが、彼は気を失っている姫の顔を見ると、寂しげに微笑み、瞳を伏せた。
そして、ゆっくりと姫の身体を地に横たわらせ、立ち上がった。
やや高いが私とさほど身長差がないセルラン。私と目を合わせようとしないかのように、背中を向けている。
(待って下さい、セルラン殿――――!)
そのまま去ってゆく気配を察し、私は彼を呼び止めていた。彼は止まった。
(あなたは、酷いひとだ――――)
私はいきなり、彼にそう告げていた。
(姫さまの想いを知りながら……またしても何も告げずにいなくなろうとしている――――)
酷いひとだ……。
私は心からそう思った。
(……クリフト君――――)
背中を向けたまま、彼はようやく口を開いた。
(きみが、姫を護るんだ――――)
彼は、そう言った。私は愕然となって、彼を凝視する。
(これから先の道、ひたむきで明るく、そして洗練された硝子のようなアリーナ姫を愛し、護れるのは……きみだけだ)
私は彼が何を言っているのか、わからなかった。ただ、哀しげに遠くを見つめながら、姫を硝子の美しさに譬えることが、セルランの気持ちを裏打ちしていると勘繰った。
(僕には……出来ないこと――――いや、その資格すらない)
その言葉に、私は怒っていた。
(ならば……ならば何故姫さまの前に現れたのです。姫さまと出逢い、武道に触れさせ、姫さまの純真な心まで取り、忽然と姿を消す……。そんなことを言うくらいなら、始めから現れなければ良かったのに)
セルランは瞼を閉じて私の叱責を聞いていた。
(出来うることならば……その方が良かった……)
意味深な彼の声は震えていた。彼もまた涙をこらえるように、歯を食いしばっているのだろうか。
(セルラン殿。ひとつだけ聞かせて下さいませんか)
彼はそのまま、無言で私の言葉を待っていた。
いささかな怒りに囚われた私が、今まで問いに出せなかったその言葉を口に出すのは簡単だった。
(あなたは――――ひとりの男として姫さまのこと、何と思われていたのですか。はぐらかさず、お答え下さい……)
それからしばらく、彼も私も息が詰まるかと思うほどに黙っていた。
やがて、彼は大きく息を吸い、短い言葉を辿々しく、言った。
(今、僕が愛する女性は、ただひとりです――――)
その言葉が姫ではないと言うことが容易にわかった。
私の胸はさらに怒りに満ちた。だが、これ以上は訊かないで欲しいとばかりの気が、彼の身体から漂い、私の怒気を呑み込むような威圧感があった。
……あなたがなぜサントハイムを出てゆかれたのか、どのような理由があろうと、私にとってはどうでも良いことです。
しかし、姫さまは普段変わらぬ天真爛漫さを見せつつ、心の裡でずっと、あなたのことを気にとめていらっしゃる。
姫に斯様な一抹の寂しさを抱かせたあなたを、私は許せない。
たとえ神官として失格と言われても、あなたが姫さまの前で男としてのけじめをつけない限り、私はあなたを恨むことになりましょう。
(……すべては僕の天命です。だからこそクリフト君、きみにアリーナ姫のこと託したい)
いつしか私は、彼を軽蔑の眼差しで見ていた。『託される』謂われはない。彼の言葉に答える気はなかった。答えるべき問いではなかったからだった。
(あなたは、酷いひとだ。……そして、卑怯で、無責任なひとだ)
私の侮蔑の言葉に、彼は苦笑していた。
その笑いが、少なくとも私に対する蔑みの笑みではないことだけがわかった。それが自嘲か、的外れかわからない。ただ、セルランという青年に対する不信感が今まで以上に増幅したことだけは確信できた。
(すべて、君の言う通りかも知れない――――)
穏やかに、彼は呟いた。まるで何かを達観しているかのようにその瞳は遠くを見つめているような気がした。
(願わくば、僕にもうしばらく時をくれたまえ――――)
祈るように、彼は天を仰いだ。そして、そのまま私に話しかけた。
(クリフト君、アリーナ姫に伝えて欲しい。武の道は、常に死中に活を求める精神を以て銘す。慢心こそ大いなる敵、苦言よろしく胸に刻み、時に退くことも道――――)
(私は、姫さまにこの身を賭して尽くすのみです)
私はあくまで彼を突き放す態度を貫いた。
(…………)
彼の表情がぼやけ、光芒がその姿を掠めた瞬間、私の意識は再び失われていった。
…………
クリフトは目覚めた。
山蛙の合唱は途絶えない。天頂から西の空に残る、無数の星の砂。
東の稜線が暁にうっすらと浮かぶ頃だった。
「…………」
寝起きとは思えない素早さでクリフトは跳ね起き、窓から顔を出す。ひやりとした朝の空気が、クリフトの顔を撫でてゆく。
顔を横に向けた。当然だったが、そこに満天の星空を見上げるアリーナの姿はなかった。ひととおり、周囲を見回す。
「夢……ですね……」
安堵とも、残念とも取れるため息をつき、クリフトの顔は綻んだ。
「……私は、あなたを許せない……」
夢で言った言葉を、再び口にするクリフト。その言葉の重みに、彼の胸はずしりと重しが乗せられたように痛んだ。
そしてまた、いつもと変わらぬ、呪われし村の朝が始まった――――。