第2章 おてんば姫の冒険


 北の山砦に闘炎盛んに天を衝き
 暗主躬を擲ち汚名を雪ぎ山村漸く遅春を迎うこと

 カラック村長に賊魔の討伐を申し出るアリーナとクリフトだったが、そこに老師の姿はなかった。目覚めたときから、ブライのことは見ていない。
(…………)
 アリーナもクリフトも、無言でその意味を推察していた。
「村長殿。山砦の賊魔、我々が討ち滅ぼしましょう」
 クリフトが切り出すと、カラックは一瞬戸惑った様子を見せた。
カラック「魔物を討つなどと、身の程知らずの方々よ。敵うはずが……」
アリーナ「敵うか敵わないか、一度戦わなければわからないわ。もしも敵わないようなら、私がニーナさんの代わりに生贄となります」
カラック「…………」
 アリーナの決意に、カラックは言いかけた言葉を呑み込んだ。
「そこまで言われるのならば……わかりました」
 カラックは頷くと、おもむろに家の外へ出た。アリーナたちも後に続く。
 そして村人のひとりを呼び止める。
「伝えよ、今宵供物を捧ぐ。駕籠の用意をと」
 村人は愕然とした表情でカラックを見ると、歯を食いしばるように頷き、足早に駆けていった。
「生贄は白の死装束に着替えて輿に乗り、山砦へと運ばれる段取りとなっているのです。夜半、いずくから現れた魔物どもが――――」
 皆まで言わずに、カラックは言葉を詰まらせた。
「承知いたしました。……ならばアリーナさま、我々も――――」
 クリフトの言葉に、アリーナは力強く頷く。
「そうね。今までその姿で死んでいった娘たちのためにも、同じ死装束で魔物たちをぶち殺してやるんだから」
「このクリフト、魔物を討つべくして散って行かれた村の青年に成り代わり、賊魔に神の鉄槌を下し賜う」
 
 白無垢の襦袢。死に装束とは思えないほど、清楚な出で立ちだった。
「うぐ……あ、あ、アリーナさま……」
 クリフトは思わず両手で口元を覆った。いつもは軽装だが、しっかりと防御に長けた服を着て女性の色気と言うよりも、少年のような瑞々しさが溢れていたアリーナが、薄い衣一枚のみの姿で立つと、一転して艶やかな少女となる。
 真っ白な綿衣越しに、絶妙に引き締まった身体の線が見事なまでに映し出された。
「も、もう……恥ずかしいなぁ。あんまりジロジロ見ないでよぅ」
 肌にしっとりと密着する襦袢。わずかにはためく裾を気にするがゆえに顔を赤くして身体をくねらすアリーナ。それが逆に煽情的だった。
「し、しかしアリーナさま。いくら何でも、素肌に襦袢一枚のみとは……」
 何故か興奮気味に息の荒くなるクリフト。これでは気になりすぎて、いざ戦いとならない。
「あ、やっぱり気になるの?」
 何故か嬉しそうだ。
「そ、それはそうですよ。もしも戦いの最中に――――」
「ふーん……あたしも女の子としての魅力があるんだ……」
 そう言って、悪戯っぽく笑う。
「クリフトって、意外にエッチなのね――――」
「!」
 その言葉にクリフトは顔を真っ赤にしてひどく狼狽する。
「クリフトがそうだから、敵もきっと混乱するよね」
 裾をひらひらとさせながら、アリーナの言葉は何故か自信に満ちていた。
「ア、アリーナさま――――!」
「あはははっ」
 本気で狼狽するクリフトを茶化すアリーナ。この時にいたってなお、この闘姫は自分らしさを保ち続けていた。そんな彼女の素顔を見ていると、そこはかとない自信が、クリフトを静かに奮い立たせていた。
「そろそろ、駕籠の準備が調います。お支度は出来ておりますでしょうか――――」
 村人がアリーナたちの様子を伺う。満を持したと言わんばかりに、アリーナはすくと身をただした。
「いいわよ。もたもたなんてしていられない。すぐにでも行ってもらえるかしら」
 用意された駕籠というのは、況や金銀宝石や、世界唯一の宝典を慎ましやかに収めんばかりの、妙に立派な檜匣であった。
「生贄の女性たちの気を紛らわすために……でしょうか」
 クリフトの呟きに、アリーナはきゅっと唇を噛んだ。そんな理由で箱入り扱いなどされる娘たちはどれほど悲しかっただろうかと思った。
「えっと……二人、入るかな?」
 割と大きな檜匣だったが、二人が入るとなるとかなり狭そうではあった。
 一通り見て回ったアリーナは、戸惑う神官に向かって、微笑みを向ける。
「クリフト、入ろ?」
 驚愕するクリフト。
「え……あ、あの……アリーナ、さまとで……しょうか……」
「当たり前でしょ。他に誰がいるっていうのよ」
「し、し、しかし……」
「四の五の言っている場合じゃないでしょ。早くしないと、村が大変なことになっちゃうんだし」
「あ、は、はい……で、で、では――――」
 極度の緊張に身体が硬直するクリフト。そんな彼をよそにアリーナは颯爽と匣に身を投じていた。
「クリフトッ、早くっ」
「は、はいぃ~」
 アリーナに急かされ、クリフトもまた、颯爽と身を投じた。
「……よろしいでしょうか――――」
「お願い」
 水先人の問いかけにアリーナが了承すると、すぐに箱の上蓋が閉じられ、鍵が掛けられた。
 急に真っ暗になる匣の中。姿が見えない分、クリフトは聊か緊張が解れる。まあ、普通ならば“闇に乗じて”と行くことを考えるのが男なのだろうが、相手が無双闘姫アリーナに加えて、絶大な忠誠をもって仕えるクリフトだ。天地が逆転し、今すぐに魔王が自滅する程、あり得ない。
「あ、鍵――――!」
 思わず声を上げるアリーナに、クリフトは言う。
「なるほど――――決して逃れられない、死への片道……という訳ですね」
「…………」
 絶句するアリーナ。
「アリーナさま、……この檜匣、少しばかり惜しく思います」
 クリフトの寓意を理解するほど、アリーナは慎重ではない性格だ。途端に、怒りを露わにする。
「何を言うのよクリフト。こんなもの――――」
「あ、お待ち下さい。……時はまだのようです――――」
 今にも檜匣を破壊せんばかりのアリーナを宥めると、クリフトは駕籠の揺れに意識を集めた。
「こうして……駕籠に揺られながら、赤ん坊は安らかな眠りに就けるのに……それすらも叶わない――――何と言うことでしょう」
「…………」
 アリーナは返事をせず、瞼を閉じ、意識を集中させていた。クリフトはきゅっと唇を結び、アリーナの集中に助勢する。
 やがて駕籠は静止し、水先人の駆け去る足音が遠離ってゆく。

 目が慣れてきた。どのくらいの時間、こうしていたのか、偏に推量は出来ない。
 クリフトは瞑想に造詣がある。アリーナとの狭い密室状況下にあって、気でも集中させておかなければ、あからさまに戦意に差し支えると考えていた。
 さてはこの神官の煩悩を試さんばかりの素肌に襦袢一枚の扇情的な格好をしているアリーナがそこにいるとなれば、はて世界生誕の謎を解く摂理でも考えなければ正直己に自信がない。
「ねえ、クリフト。クリフトったら」
 不意に耳に入るアリーナの声に、そんな瞑想も吹き飛んでしまう。愚かだ。
「は、はいぃ」
「もう、さっきから呼んでるのに。……あのね、クリフト。ブライ……本当に、来ないのかなあ」
「ブライ様――――ですか」
「うん……私、やっぱり間違っているのかな――――」
「アリーナさま……何故、そのような」
「あ、誤解しないでクリフト。この村を苦しめている魔物たちを倒す決意に変わりはない。……けど……けどね、何かスッキリしない部分があって――――」
 アリーナには似つかわしくない逡巡だった。
 クリフトは、ふとセルランの言葉を思い出した。
(きみが、姫を護るんだ)
「……アリーナさまのご決意は、間違ってはいないと思いますよ」
「……本当?」
「しかし、ただ一つだけ、私はアリーナさまに冀望がございます」
「なに?」
「私も、ブライ様も、アリーナさまに身命賭してお仕えする身。生死を共にする覚悟がございます。……ですから、どの様な時も、深くお迷いにならないで下さい」
「……クリフト……」
「どうしても、アリーナさまが堪えられない時は……このクリフトが身を挺して――――」
 言いかけてこの若き神官は続きを呑み込んでしまった。濃紺の空間で、アリーナの真白の襦袢が妙に映える。そして、彼女は純粋な瞳をクリフトに向けている。
「身を…挺して?」
 囁くように、アリーナは訊く。
「み、み、身を……挺して――――」
 クリフトは突然、まっすぐ見つめるアリーナの瞳に意識をしてしまう。
 その時だった。アリーナが急に殺気立ち、クリフトを制止する。突然失した甘い雰囲気に惘々とする暇はなかった。
(来るわ……)
(はい……)
 と、ほぼ同時に檜匣の蓋がガタガタと音を立てる。複数の魔物たちの嗤い声、そして手慣れたような感じで施錠が外れてゆく。この音が若い女性たちの死の宣告だと思うと、無性に腹が立ち、アリーナを不愉快にさせた。

 ……がたっ……

 蓋が開き、アリーナの瞳に橙色の空が映った。しかし、そのような呑気な風流に浸っている間を与えてくれるどころか、眼前には杖を持った小柄で、中途半端な鬼面の魔族がのぞき込むようにむき出しの牙をちらつかせ、にたにたと嗤っている。
「ほ。これはまた初々しい女だなあ。それにその男も……まあまあな」
「はやく くわせろ」
「うまそうな にくか」
 二匹の『暴れ狛犬』という凶悪化した異界の番犬が、その小柄の魔族の両脇からのぞき込む。
「よし、お前たちはその男をな――――」
「なんでも いい」
 アリーナは悠長に品定めをしている様子の魔族に、遂に怒りが達する。
「殺されるのですね」
「ああん?」
 ぼそっと呟いたアリーナにはっと目を剥く魔族。その瞬間だった。

 ボクッ――――グッシャア――――!

 鈍い音と体液が飛び散るような不快な粘着音が閑静な山砦に響き渡った。
「クリフト、行くわよ」
「承知」
 檜匣から飛び出したアリーナが素早い動きで身構える。クリフトも一息遅れて檜匣から出、剣を構えた。
 小柄の魔族は遠い叢にまで吹き飛んでいた。付き従う二匹の暴れ狛犬が、驚いたようにその魔族を振り返っている。
「ふざけた魔物たち。このアリーナがお前たちの悪行、今ここで断ち切ってあげるわ」
 アリーナの怒声に、吹き飛ばされた魔族がむくりと起きあがる。
「……ほ。これはなかなか生きの良い女のようだ。……だが、すこしばかり甘く見られたかなあ」
 小柄の魔物は確かに打撃を受けていた。しかし、アリーナの予想を超えてさほど大きなダメージは受けている様相ではなかった。確実に不意打ちを与えたと思っていたアリーナは愕然となる。
「そんな……手応えは、あったのに」
「なるほど……女、旅の武芸者か。ほ。このカメレオンマン様をただの下等魔族と同じと思うなよ」
 カメレオンマンと名乗った小柄の魔物はそう言って不敵に牙をむき出しにして嗤う。
「カラックめ――――武芸者を雇うとは小賢しい真似をする」
「くうか くうか」
「ぐるるるっ」
 暴れ狛犬たちは空腹に恐ろしい咆哮を上げ、アリーナたちを睨みつけている。
「この礼には、鏖殺(みなごろし)にて報いよう」
「くっ――――させるか」
 アリーナは長い脚をばねに即座に跳躍した。襦袢の裾が天女の衣に擬し、華麗なる肢体が空に舞い、矢となる。
 石壁を破砕する鋭い蹴りが軌跡を作り、カメレオンマンに直撃するかに見えた。
「うっ――――!」
「があああぁぁぁっ」
 しかし、しなやかな闘姫の足技は、カメレオンマンの護衛に趨った片方の暴れ狛犬の体当たりによって寸前、虚しく弾かれてしまった。
「ひ、姫さまッ!」
 思わず叫んだクリフトの声と同時に、もう一匹の暴れ狛犬が、不時着したばかりのアリーナを目掛けて襲いかかった。
「あっ、しまった」
 はっとなった瞬間、受け身に構えるアリーナだったが、意外に俊敏な動きを見せる暴れ狛犬は、アリーナの華奢な喉元に食らいつく寸前、その細い腕に牙を突き立てていた。
「くぅ――――」
 肉が切れ、血が噴き出す。真っ白の襦袢がみるみるうちに朱に染まってゆく。激痛がアリーナの腕伝いに全身を駆け抜けた。
「姫さま――――――――!」
 カメレオンマンの護衛に趨った暴れ狛犬が、迅疾に身を翻してクリフトを襲っていた。
 奇しくもセルランから剣術の意を少々かじっていたクリフトは、手慣れた捌きで暴れ狛犬の攻撃を抑えている。しかし、アリーナの手負いにクリフトは逆上せた。
「おのれ賊魔、赦さん」
 クリフトはどこにその力があるのか、ぐいぐい押しつけてくる暴れ狛犬を渾身の気合いを込めて剣で飛ばした。悲鳴を上げて転がる暴れ狛犬。しかし、致命傷とまでは至らない。
「離れなさい、このッ!」
 アリーナが腕に噛みつく暴れ狛犬の額を思いきり殴打する。激痛に堪えかね開口、余勢で地面に叩きつけられる。
 アリーナの腕から滴る鮮血。その瞬間
「治癒(ホイミ)――――」
 温かな光芒がアリーナの腕を包み込むと、傷は塞がり、血痕も消えた。
「ありがと、クリフト――――」
 如何に素早いアリーナとはいえ、この状況で薬草を囓るほどの間は計れなかった。
「姫さま、来ます!」
「うん―――――!」
 即座に体勢を立て直した二匹の暴れ狛犬が猛然と二人目掛けて突進してくる。
「あ――――まさか」
 アリーナははっとなった。
 二人同時に襲ってくるかと思った読みは外れた。二匹はアリーナではなく、クリフトの方を一斉に襲いかかっていたのだ。フェイントを掛けられたアリーナは唇を噛み、脚をばねに暴れ狛犬を討ちにかかった。
「このっ―――――」
 剣は一匹を弾いたが、さしものクリフトも返す刀でといくにはまだまだ経験が不足すぎた。暴れ狛犬の禍々しい牙が頸動脈を噛み切ろうとばかりに眼前で光った、その時だった。

 ぐきゃ――――

 突然、冷気がクリフトの頬をかすめ、暴れ狛犬の悲鳴がぷっつりと途切れたのだ。そして、どさりと地面に落ちる魔物。
「こ、これは……冰矢(ヒャド)。ブライ様ッ」
 クリフトの叫びに、アリーナも愕然となった。
「……やれやれ、若い者は得てして無茶をするものよ」
 のこのこと老魔道士が現れ、真っ白な口ひげの間からすきっ歯を覗かせる。
「ブライッ、こんな時にどこ行ってたのっ。わたし……わたしもうっ……」
 思わず泣き出しそうになるアリーナに、ブライはかっかっかと笑った。
「この歳でかような狭き匣に押し込められるのは、何とも腰に悪いですからなあ」
「…………」
 戯け口調のブライをきっと恨めしげに睨むアリーナ。クリフトは苦笑した。
「ブライ様、奴らは……」
「わかっておるわい。全く、クリフトよ、お主がついておりながら何たることじゃ。……姫、セルラン殿の諭旨、もっと勉学に励み究めなされ」
「お説教は後でじっくり聞くからっ――――!」
「良い覚悟ですじゃ。では――――」
 アリーナが体勢を立て直し、身構えると同時に、ブライはにぃと笑い、もう一匹の暴れ狛犬に杖の先を向ける。
「大氣の精よ、邪悪なる者よりその護りを解き放て――――破障(ルカニ)ッ!」
 ブライが放った呪文が蒼き光芒となって暴れ狛犬を包み込んだ。暴れ狛犬は光芒を身に纏い、アリーナにも、その邪気が幾ばくか弱まっていることがわかった。
「今ですじゃ、姫ッ」
「てやあぁぁっ!」
 ブライの叫びと同時に、アリーナの喚声が轟き、その鋭い蹴撃が暴れ狛犬を薙ぎ払った。
「ぐぎゃあぁああああああぁぁぁぁっ」
 より一層疳高い、断末魔の悲鳴が山砦に轟く。
 ぷっつりと途絶えた魔獣の叫び。頭を砕かれた暴れ狛犬は、瞬く間に黒き塵となって霧散してしまった。
「見事です、姫さま」
「はぁ……はぁ……」
 荒くなる息。アリーナは思いもかけぬ苦戦に精神が高揚していた。
「お、おのれ小癪な――――!」
 若い娘たちを喰らい続けてきた二匹の魔獣が続けざまに討ち取られたカメレオンマンは聊か気圧されていた。
「くはははっ、だが甘いのう。この俺様にかかれば暴れ狛犬の十匹や二十匹などすぐに引き連れて戻ってきてやるわ」
「……だったら、あんたをこの場で討ち取ってしまえば問題は解決じゃない」
「ほ。妙案だな。しかし生憎、むざむざ殺されるほど俺様もお人好しじゃあないんでねえ」
「それ以上は無用ッ」
 アリーナは跳躍した。高く舞い上がり、身体全体を鋭利な尖針と化す。
「二度同じ手を喰らうと思ったか、愚かな」
 カメレオンマンは逃れなかった。
「……なにっ」
 カメレオンマンは不敵に笑ったかと思うと、手にした杖を驚くべき速さで振り回した。杖の残像が円となり、さもカメレオンマンを取り巻く障壁のように映る。
 がつっ――――!
「きゃあぁぁっ!」
 骨に罅が趨る鈍い音。そして、激痛に悶えるアリーナの叫び。
「姫さまっ!」
 カメレオンマンの足元に落ちるアリーナ。
「ほ。武芸者にしてはまだまだまだ未熟も良いところだな」
 カメレオンマンはにやりと嗤い、アリーナの胸元に杖を突き立てた。杖の先が鋭利な鎗となっていたのである。
「…………っ!」
「拙い――――」
 ブライがヒャドの呪文を呟く。クリフトは地団駄を踏んだ。回復呪文もここからだと上手くアリーナに効果が与えられるかどうか、不安だった。下手をすれば、この賊魔のほうを回復させてしまう虞があったからだ。
「ほ。愚昧な人間共にしては、なかなか楽しませてくれたようだ。さぞかし、今宵の肉料理は美味かろうな――――」

「姫さま――――――――――――ッ!」

 クリフトの激しい叫声が山砦に谺し、山間に吸い込まれてゆく。
 その時だった。

 ひゅん――――――――

「ぐわぁぁ――――――――」
 突然、カメレオンマンの絶叫がアリーナの耳を貫いた。賊魔は杖を放り、両手で顔面を押さえる。
「む――――クロスボウの矢……」
 ブライが愕然となって振り返る。
「カ……カラック村長殿」
 何と、いつの間にかテンペの村長カラックが兢々とした表情、震える手つきでクロスボウを構え、そこにいたのである。
「今だ。大地の精よ、藥の香解き放ち、邪を退け不浄の傷を塞げ、治癒(ホイミ)ッ!」
 クリフトの呪文に、アリーナの脚から急速に痛みが引いてゆく。
「村長どの、何故この様な場所におる。ここは危険じゃ、早う帰られよ」
 ブライの窘めに、カラックは怯え眼で苦笑する。
「凡才ながら、私とて一つの村を預かる身。これ以上、みすみす悪魔に平伏し生気を搾取されるのは忍びがたし。あなた方は旅の身の上、村に縁無きにも関わらず村をお助けいただくこのご恩、ただ見守るにはこの心情、許さず」
アリーナ「なんだ。村長さん、なかなかやるじゃない」
カラック「ええ、これでも若い時は峽西に“名を知られた”弓士でしたゆえ」
ブライ「聞かぬのう」
カラック「自称です。お恥ずかしい」
クリフト「いえいえ、なかなかのお手並みでございます」
 その時だった。悲鳴を上げていたカメレオンマンが顔面を上げ、突き刺さった矢を放り投げる。
「ぐぬぬぬ……小癪なカラック。その身、千切り喰らうだけでは飽きたらぬわ」
 怒りに打ち震えるカメレオンマン。何と、間髪入れずに回復呪文を唱え、受けた重傷を癒してしまったのだ。
「ほ、ほ。戦勝気分とは甚だ笑止。その程度でこの俺様が倒れると思ったか」
 アリーナは半ば失望のため息を漏らす。
「なまじ、賊魔の頭目じゃないってこと? 呆れるほどの体力――――見習いたいわ」
「……しかし、完全に癒したわけではありません。アリーナさま、今を逃せば拙くなります」
「わかっているわ。……クリフト、ブライ。援護をお願い。今度こそ、あいつ仕留めてやる」
「はいっ」
「しかと」
 クリフトはすぐに念を込めた。
「地・水・火・風――――すべての彷徨いし精霊よ、障壁となりて盾とせよ、防御(スカラ)ッ!」
 クリフトの唱えた防御呪文。黄色の光が闘姫を包み込む。
「今です、アリーナさまっ」
「はあああぁぁぁっ!」
 疾風の如く、アリーナが突撃する。身構えるカメレオンマン。その顔は牙を不敵に歪め、嗤っている。
「無駄だよ、何度言わせれば気が済む――――」
 杖を再び回転させる。巻き込まれれば今度こそ、アリーナの細い脚が失われんばかり――――。
 しかし……

 ぼきっ――――

「…………」
「…………」
 一瞬、静寂が包んだ。
「…………な、何だと…………っ!」
 カメレオンマンは血の気がすうと引いた。
 折れた杖の先が地面に転がり落ち、虚しく独楽のように廻っていた。余裕に笑みを浮かべるアリーナ。
「勝負、ありかしらね」
 アリーナはそう言って微笑んだ瞬間、渾身の鉄拳をカメレオンマンの腹部に見舞った。
「げへぇ――――ぐはあぁぁぁぁっっ――――!」
 アリーナの拳がカメレオンマンの背中を貫通した。どす黒い血と内臓が散乱する。
「くっ……そ、そ、そんな……ばか…………な――――」
 アリーナが腕を引き抜くと同時に、賊魔は吐血し、倒れ込んだ。
「ブライッ、止めをお願い」
「承知ですじゃ。……冰矢(ヒャド)」
 ブライの放った冷気の矢が断末魔の賊を貫く。
「ぐほぁっ……く……お、のれ…………た、ただでは……死なぬ……」
 カメレオンマンは最期の力で杖の破片を放り投げた。
「……っ!」
 予測を超える速度で、杖の破片は矢となり、ブライを抜けてカラックを襲った。
「あっ――――ッ」
「村長ッ!」
 杖の破片はカラックの肩を射抜き、カラックはどっと倒れ込む。
「賊魔、地獄で裁きを受けよ」
 クリフトがカメレオンマンの首を落とすのを見届けずに、アリーナはカラックに駆け寄り、抱き上げる。
「……大丈夫ですじゃ。幸い急所は外れておりまする」
 破片を抜き投げ捨てるブライ。苦笑するカラック。しかし、身体は小刻みに震えて止まない。
「村長さん、無茶しすぎ。大体、生贄を望んだのは、私なのよ」
 クリフトの回復呪文で応急処置を受けたカラックが、アリーナの言葉にはにかむように言った。

 ……全ては、この私の怯懦な性質が招いた失態。
 本来ならば、私がもっと早く……もっと早く勇気を出して魔物を討ちに動いておればと……。
 しかし……人というのはなんと身勝手で、愚かなことでしょうか。
 村の娘たちが次々に命奪われてしまっても、私はこの身惜しさで本気で動こうとはせなんだ。
 我が娘、ニーナを生贄とされ、初めてこの身擲ちても賊と相討たんと思った。……村長として失格でございます。

「致し方あるまいて。村長と雖も、国王陛下と雖も、一介の人間に過ぎぬのじゃ。我が身惜しむのは寧ろ当然のこと」
 ブライがカラックの心情を理解する。
「あなたがいなければ、私たちは賊魔の手に罹っておりました。心から、御礼申し上げます」
 クリフトが跪いて拝礼した。慌てるカラック。
「御礼など……とんでもございません。まずはお手を上げて、村へ……」
「……くぅ……」
 突然、アリーナが膝をついた。
「ア、アリーナさまっ!」
 咄嗟に駆け寄るクリフト。アリーナは鈍い痛みに脚を押さえていた。
「ご、ごめんねクリフト……やっぱり、脚が――――」
 カメレオンマンから強打された脚は、クリフトの回復呪文だけでは完全には癒されなかったようだった。

(この傷であの魔物を討ち取ったのは……奇跡だったというの――――)

 アリーナは心の奥で臍を噛んだ。
「さあ、アリーナさま。取りあえず、村へ戻りましょう」
 クリフトがアリーナの前にしゃがむ。
「私の背中に――――どうぞ」
 言いながら、ぽっと頬を染めるクリフト。きょとんとするアリーナ。
「下りの坂は、おみ足に負担を掛けます。完治していただかなければ、旅に支障を来しますゆえ」
「あ……う、うん……。ありがと、クリフト」
 アリーナはそっとクリフトの背に身体を預けた。
「…………」
 アリーナの体重と温かみを背中に、かあっと赤くなるクリフト。思えば、襦袢一枚越しに、彼女の素肌を感じる。程良く膨らんだ胸の弾力が、若い神官の脳幹を刺激するに十分だった。そして、腕に密着する、細く滑らかな脚。
「し、しっかりとつかまっていてください……ね」
「う、うん……」
「では、戻りましょうぞ」
 ブライが意味深に笑うと、カラックの先導で忌まわしき山砦を後にした。