第2章 おてんば姫の冒険
カメレオンマンら山砦の賊魔と戦ったアリーナだったが、想いもよらぬ苦戦を強いられ、戦傷必ずしも浅からざる状態で凱旋した。
戦いには勝ったとはいえ、自らの未熟さを身体で痛感したアリーナのショックは大きく、テンペの村に帰還し、村長カラック邸に逗留することになった途端、寝台に泥のように眠りに落ちた。
背に負う闘姫は普段知る溌溂でかつ転婆の色はすっかりと消失し、悩みに陥る十六歳の一介の少女となっていた。クリフトはそれから眠りに陥るアリーナの傍らにずっと控えていた。
「………すんっ……」
夢見のためか或いは鈍い痛みのためか、微かにアリーナは啜り泣きのように息を吸う。
「…………ル……ラン……」
「姫さま……」
アリーナの愛らしい寝顔を見つめるしかできないクリフトのもどかしさ。
「あなたは……お強いですよ――――」
いつか、アリーナのことをせめて『あなた』と呼べる関係を夢見ながら、クリフトは小さく、そう呟いた。
そして、しばらくの間、飽くことのないアリーナの寝顔を見つめていたクリフトの肩を、ぽんと叩く人物。
「ブライ様――――」
ブライは数多の年輪の刻んだ貌に穏やかな微笑みを湛えて、年若い神官に言った。
「セルラン殿が去りて、やはり姫の心には一抹の寂しさがあるのかのう。こたびの旅立ちも、その寂しさを少しでも埋めるための、姫なりの方法なのかも知れぬ」
クリフトは先夜、星を見上げてセルランを想っていたアリーナの姿を思い出す。その度にクリフトの表情は翳る。
ブライの言葉通りだとすると、アリーナの旅立ちはセルランへの想いを遂げるため、行方知れずのあの“見た目冴えない青年”を捜すためでもあるのだろうか。
「……じゃがなクリフトよ。セルラン殿は、もうおらんのじゃ。如何に姫がかの御仁を想おうが、世界に冠たる無双の力を得ようが、セルラン殿はおらぬ。姫の元を、そして我がサントハイムの国を去ってしもうたのじゃ」
「そう……です。ですから、ブライ様。私はあの方が――――。姫さまの心を縛り、少なからずとも姫さまをこう苦しめているあの方が……憎うございます」
「……ん……う……うん……」
微かに寝返りを打つアリーナ。武闘家らしからぬ細い指が毛布からはみ出す。
「…………」
ブライは突然、ぎゅっとクリフトの手首を掴むと、強引にアリーナの手に重ねた。
「ブ、ブライ様っ」
ひやりとした滑らかな感触がクリフトの掌に伝わる。真っ赤に染まるクリフトの貌。
「主が、姫の傍におることじゃよ。どの様なことがあってもな」
「…………しかし…………」
「セルラン殿無き今、姫が頼れるのは儂ら……いや、クリフトよ、主の他にはおるまいよ。故にじゃ、主はセルラン殿に勝っておるのじゃて」
「私が――――? 私がセルラン殿に勝っていると……」
「そなたはこれからも、ずっと姫の傍を離れまい。それで良いのじゃよ」
ふと、アリーナは無意識にクリフトの手を握ってきた。その寝顔を見つめるクリフト。心なしか、安らかな色に戻ってきた気がした。
「……まあ、その程度で顔を朱くするようでは、まだまだかのう、ほっほっほ」
ブライは若い二人を軽く揶揄すると自らお邪魔だとばかりに部屋を後にした。
階下から怒声が響き、ブライが様子を窺うと、カルタスが再びカラックに凄んでいた。そして、その青年の傍らにはニーナ。彼女も共に、“父”にすがるようにしている。
「あんた、いったいどう言うつもりだっ!」
「…………」
沈鬱な表情のカラック。ニーナもまた、言葉を失している。
「山砦の賊魔は、旅のお方によって滅んだ。もう、この村を脅かす脅威はない。カルタス、ニーナ。お前たちは、贄にされた娘たちや、賊魔に殺された若者たちの分も、幸福になりなさい」
カラックの言葉にも、カルタスは昂ぶりが収まらない。
「そんなこと言ってんじゃねえ。……村長、あんた……何故今まで隠してた」
「隠してた?」
「あんた、兇賊を討ち果たせる程の弓士でありながら、何で今まで何もしなかった! その気があれば、俺たちはあんたと力を合わせて、あの賊どもと戦っていた」
「親心じゃよ、カルタスどの」
ブライの声にはっと振り返るカルタス。愕然となるニーナ。
「親心……?」
「……のう、ニーナさん。カラック村長とて、一介の弱き人間じゃ。……それでも、愛しい娘のためならば、身を捨つることなぞ容易きこと」
「娘……? おい……どういうことだ」
唖然となるカルタス。ニーナは哀しげに俯いた。何かを訴えるように、恋人の袖をきゅっと握りしめる。
「……ニーナ、君も知っていて――――」
こくんと、一つだけ頷く。
「カルタスどのよ、お前さんも男ならば、カラック殿やニーナ殿の心情、察してやる事じゃ。……お前さんたちには、もはや有り余るほどの時間があろう。積もる試練は時が解決し、隔てられた絆はいつか一つに帰すものじゃよ。それが……人という生き物じゃ」
ブライの言葉に、カルタスの昂奮はゆっくりと冷めてゆく。そして、すうと肩の力が抜けた青年は、ブライに深く頭を下げると、カラックに向き直った。
「村長。もう、あんたに隠れる場所はねえ。俺たちの首長として、今後もこの村、守っていこうじゃねえか」
「……カルタス。良いのか?」
カラックが怖ず怖ずと訊ねる。するとカルタス、そんな気弱な村長に一喝すると、ぐっと手を差し延べた。
「その代わり、改めてニーナをもらい受けるぜ、“親父殿”」
「……カルタス……」
ぽっと赤くなるニーナ。それを聞いたカラックは胸のつかえが一つ落ちたような気がした。そして、差し延べられた手を握ると、途端に涙が溢れてきたのだ。
(峡東押領使……ニールセンは間違いなく職務についておったはずじゃがのう――――)
ブライはカルタスが言っていた、押領使不在の話がどうも気になって仕方がなかった。
それから丸一日、アリーナは眠っていた。余程疲労が嵩んでいたのだろう。死んでしまってはいないかと一瞬考えてしまうほど、アリーナは寝返りも打たずに熟睡の極致にあったのだ。
アリーナの意識がゆっくりとフェードインしてゆく。色を取り戻してゆく世界に映ったのは、大地の恵みの碧色と白の神官服、翡翠の髪。それは、アリーナにとって、一番安堵する色だった。そして、掌に感じる、温かさ。
「クリフト……」
「…………はっ、ああ、気がつかれましたか、ひ……アリーナさまっ」
握りしめていた手をぱっと離す。
「……離さないでよ、クリフト」
「ほへっ?」
突然の大胆なアリーナの言葉に狼狽えるクリフト。
「お願い……手……」
寝起き直後のかすれ声が、アリーナのはにかみをぼかしてくれた。クリフトは再び、そっとアリーナの掌を両手で優しく包み込む。
アリーナは一度、惜しむように瞼を閉じると、再び開け、クリフトを見つめた。
「……私、どのくらい眠ってたの?」
「大体、一日くらいではないかと」
「そんなに眠ってたのね。……クリフト、もしかして、ずっとここに?」
「…………」
答えない。
「瞼の下、クマが出来てるよ」
小さく微笑むアリーナ。慌てて瞬きをするクリフト。
「ごめんね、クリフト。……うん、もう良いよ。私なら大丈夫だから。クリフト、ゆっくり休んで……ね?」
しおらしくそんなことを言うアリーナ。らしくないとばかりに、クリフトはきっと眉をつり上げ、アリーナの手をきゅっと握りしめる。
「何のこれしき。アリーナさまがこれから辿られる道、待ち受けるであろう苦難に較べたら、徹夜の十日や二十日――――」
「あははっ。そんなに起きてたら、寝不足で死んじゃうわよ。もう、クリフトらしいなあ」
笑った。やはり、アリーナには眩いばかりの笑顔が似合う。この笑顔を守るために、アリーナの傍にいる。クリフトはそんな使命感を新たにしていた。
「……ありがと。それじゃ――――もうしばらく、こうしていてくれる?」
「は、はいっ。喜ん……で」
「ふふっ」
しばらく静寂が包む。山間独特の静けさは大自然の優しさ。絶妙に心を安んじる。
「クリフトの手のひらって、あったかいんだね――――」
クリフトを見つめていたアリーナが、ふとそう呟くと、クリフトの貌がかあっと赤くなる。とことん、アリーナの褒め言葉に弱い。
「クリフトは……ずっと一緒にいてくれるのかなあ」
「……!?」
「私のわがままに……つき合ってくれるのかな」
きゅっと、アリーナの指に力が入る。
「アリーナ……さま」
その言葉の真意を思えば、クリフトはやはり素直に喜べない。
少しの間、静寂が包んだ。そして、アリーナは突然、わざとらしく戯けて笑った。
「あはっ。私って、やっぱりまだまだね――――。独りじゃ、なあんにも出来ないよ。ブライの言うとおり――――」
「…………」
良い時機だと思った。クリフトは真剣な瞳でアリーナを見つめた。彼の深い瞳に見つめられ、アリーナは半ば戸惑う。
「――――アリーナさま。アリーナさまは、セルラン殿のこと、今でも……」
「……クリフト?」
アリーナはどきりとなった。
「あの方のこと――――今でも……お忘れに、なれませんか」
「ど……どうしたのクリフト……と、突然」
「アリーナさま。私はこの身賭して、アリーナさまをお護りいたします。……しかし……しかし、アリーナさまの御心を苦しめるあの方からお護りする術が……私には解りません」
「…………」
アリーナは絶句した。そして、クリフトも思わず勢い任せに口走ってしまった言葉に後悔する。
「あ――――その…………も、申し訳ございませんっ!」
「…………」
「…………」
いやな空気が包み込む。そんな気がしていた。
「……そっか。……ごめんね、クリフト」
伏せ気味の瞳が、そこはかとないセンチメンタルな雰囲気を醸し出している。
「姫……アリーナ……さま?」
アリーナはクリフトの胸元まで視線を上げ、小さく微笑んだ。
「会いたくないなんて言ったら、ウソになるわ。……ううん、きっと会いたいの。いつになるかわからないけど、出来ることなら……願いが一つ叶うとするならば……セルランに一度だけでいい。会いたいと思うわ。……それが、正直な気持ち」
「…………」
クリフトはきつく瞼を閉じ、それをアリーナに見られまいと貌を斜に伏す。
「でも……でもねクリフト。私がセルランのために苦しい想いを、感じたことなんかないよ。
感じるはず……ないよ…………」
クリフトの手のひらに滲む汗の冷たさも構わず、アリーナはクリフトの手を握る手に力を込める。クリフトがアリーナを見ると、アリーナは何かをこらえるかのようにきゅっと唇を結んでいた。
「今は……自分の力がどこまで通用するのか、知りたい。それだけ……。この村のこと、あの魔物たちと戦って判ったこと。セルランのことよりも……今は――――」
それはある意味、判りきっていた答えだったのかも知れない。
(セルランのために、苦しい想いを感じたことなんかないよ…)
クリフトにとって、その言葉がせめてもの救いのような気がした。
「今は……クリフトや、ブライが傍にいてくれないことを考える方が、よっぽど苦しいよ」
「…………」
何とも、ほろ苦い言葉だった。
魔族の交歓は永い。鰐や蟒蛇すらも及ばぬ、互いの身を喰らい尽くすかのように、妖艶に蠢き、絡み合い、牙を折り、舌を咬み砕き、互いの氣を貪り合う。
それは人間や哺乳類の想像を絶する、魔族の妖しき悦楽の一つ。
漆黒の髪が生物のようにそよぎ立ち、やっと躯を離したばかりの男の全身を、未練がましく包み込む。引き離された躯の一部から溢れる滑りと臭いは、人間らの屍臭に慣れた下等魔族ですらも理性を失し、鼻を覆うほどだ。
男は絡みつく髪を薙ぎ払う。ぶちぶちとサディスティックな音が、昏い空間に響く。
「……伝説の勇者――――」
切れ長の赫い瞳。暗褐色の髪。透明にほど近い青の肌。すっと伸びた唇から覗く牙が、にやりと嗤った。不気味なほど冷たく美しい容貌に不似合いな、少年のような声。
「思うように行かないみたいね、あの男――――」
振り払われた『女』は、乱暴に切り落とされた漆黒の髪に眼を細める。すると瞬く間にそれは伸び始め、元の形に戻った。
「面白い話ですね……『エルスミア』様、貴女からではないと、そのような逸聞、耳にすることはありませんので――――」
「態とらしい――――アリューシャン、妾のこと……それほど嫌か」
絡みつくエルスミア。その妖艶な瞳は、見る者を永世地獄に堕さんばかり。
「滅相もありません……ただ……、私と貴女は憚る間――――」
「今は……言わないで――――」
求むる情慾。男の指は女の性感を刺激し、赫い瞳は冷たく別を思い揺れる。
(黒衣公子、内にも眼を開かれませ――――。人間どもは、貴方が思う程、愚劣ではありませんよ――――)
「太魔卿、エルタドス陛下の御召喚でございます」
門屏ライノソルジャーの注進。
「黒衣公は孰れに」
「畏れながら、皇嗣はバトランド地方の方略破れた後、エルタドス陛下の召喚に応ぜずとのこと。エルタドス陛下に在らせられましては、皇嗣に対し、強く御遺憾の念――――」
「心中察すると、陛下に伝えよ。アリューシャン、直ちに私謁奉る……ともな」
「はっ――――」
「因果なものね――――人間族殲滅なんて大計も、初期から躓いて咫尺を怠るなんて、本末転倒も良いところ……」
エルスミアが嘲笑を浮かべる。
「“あの時”から、我々魔族による四界統一が宿願。黒衣公は至嘱の皇子。良く忠誠を尽くし、身を捨ててこそ、私たちの存在意義でございます」
「……そんなに、信用できなくて?」
「伝説の勇者…………なるほど。当にこれは面白いです。本当に、面白い話です。退屈な魔宮を出で立つ好都合ではありませんか」
エルスミアの流し目をよそに、アリューシャンはくくくと嗤う。そしてすかさず、拗ねる女を強引に抱き寄せる。
「貴女と精を交わし合う姿で、万族が織り成す回廊を歩く事が叶う日も、そう遠くはありませんね」
「…………」
「それほど恨むこともありませんよ、所詮は名目だけの『許婚』――――憎愛の念など、始めからありませんでしょう」
「それでも――――この妾を蔑ろにすることなど、赦せぬのです」
「嫂を寝取られた黒衣公――――。しばらくは現の栄花にお付き合いいたしましょうか」
再び、絡まる魔の快楽。
「サントハイムに……宿星ですか――――フフフフ……」
それから二十日が過ぎた。クリフトの治癒呪文がなければ、アリーナの脚が完璧に治るまでにはあと数十日はかかっていただろう。
「もう……平気ですか」
「うん。もう大丈夫。ありがと、クリフト。ついでに、稽古までつき合ってくれて」
アリーナの笑顔にはにかむクリフト。
「じいはこのままお戻りになられる決意をすることに期待をしておりましたのじゃ」
「……もう、意地悪言わないでよ、ブライ」
すきっ歯を覗かせて笑う老魔道士。
「お発ちに、なられますか皆様」
「ええ。お世話になりっぱなしで、ごめんなさい。カラックさん」
ぺこりと頭を下げるアリーナ。
「お世話になど……我々村の者が受けたご恩に較べると、この程度など……恐縮でございます」
額を掻きながら苦笑するカラック。
「……しかし、貴方達は何者なんだ。並の武芸者だとは思えない」
カルタスの疑問に、アリーナたちは苦笑する。
「他愛もない。戦い好きの“おてんば娘”主従とでも思うてて下され」
「もう、ブライッ!」
笑いが山間に響く。
「……それでは、私たちはこれにて――――」
クリフトがアリーナとブライに目配せをしてから、カラックたちに別れの挨拶をする。
「――――旅のご無事をお祈り申し上げております……」
「近くに訪ねることあれば、是非お立ち寄りを――――」
「ありがとう、皆さん……」
アリーナたちは両腕を大きく振りながら東への山道を下ってゆく。
不思議な三人組の姿が見えなくなると、ニーナが、ふと呟いた。
「……そう言えば、先日訪れた旅商の人が言っていた話――――」
「――――何、まさか……」
カルタスが愕然となる。かたやカラックは穏やかに、三人の往った山道を見つめながら、大きく頭を下げた。
「あの方たちならば、必ずやこの世界を――――」
峡東・フレノール街道。
サントハイムからテンペへ続く嶮岨な桟道とは裏腹に、実になだらかな斜面、遠望する北サントハイム海。なるほど、カルタスが語っていた、避暑の風景は満更でもなく、吹きつける潮風と草の薫りは、人食い草などの魔物の脅威も和らげてしまいそうなほど長閑な色合いを見せているようだった。
「アリーナさま、大丈夫ですか」
一々と気遣ってくるクリフト。
「あぁ、もううるっさいっ! へーきだから、戦いの度に構うのやめて」
ただうざいのか、照れくさいのか、アリーナは、意気消沈していたテンペでの療養期間とはまるで別人のように、クリフトを煙たがる。ブライの苦笑は絶える暇もなく、笑い皺がまた一本、増えるのを懸念しているようだった。